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目が語る未来予想図〜緑内障と私のロングラン劇場〜

はじめに…目ってこんなに静かに黙ってるもんなんですね

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👀目って、こんなに黙りこくる存在だったんですね。

胃が痛いときはキリキリ言うし、腰が悪ければ「ピキッ」と自己主張してくる。

ところがこの子、視神経さんはどうでしょう。

目の奥でひっそり、黙って、黙って、黙って…そのままサイレントフェードアウトですよ。

そんなのアリ?いや、怖いでしょ。

毎日見えているこの景色、いつまで見えるんだろう。

そんな当たり前を支えているのが、視神経という超がつく働き者。

だけどこの視神経さん、眼圧っていう目の中の水圧みたいなやつにじわじわ押されて、ある日ついに「もう無理…」ってなる

そう、それが緑内障。

日本人の失明原因ナンバーワン。

まさかの人気ナンバー1に選ばれてしまった、悲しい病気。

しかも厄介なのが、気づかないうちに進行するってこと。

端っこの視野からスーッと消えていく。

気づいたときには「あれ…ぶつかること増えたな?」なんて言ってる頃にはもう結構な進行度。

目は、急に見えなくなるんじゃない。

ちょっとずつ、でも確実に、視界を手放していく。

まるでフェードアウトの上手い役者みたいに。

だからこそ、6月7日は「緑内障を考える日」

自分の目、家族の目、そしてケアする現場の仲間たちの目。

みんなの“見える世界”を守るために、今日はちょっとだけ立ち止まって考えてみませんか?

「怖い話」じゃなくて、「楽しい実践」と「笑える知識」で、視神経を守るヒントがぎゅっと詰まった一日を。

難しくなんてしません。

むしろユーモアをたっぷり添えて、緑内障との長いお付き合いにエールを送る、そんな記事にしたいのです。

だって、大切なのは「見えているうちに、できることをやる」こと。

しかもそれが、ぜんぶ“今日からできる”内容だったら最高でしょ?

さぁ、あなたの目と、あなたの大切な誰かの目のために。

今ここから、ちょっと真面目に、でもとびきり楽しく、「緑内障と未来の話」を始めましょうか。

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第1章…視野が減っても世界は回るのか問題


「ちょっと見えにくいんだよね」なんて言葉を聞いたとき、私たちはたいてい「年のせいかな」とか「白内障かな」とか、当たり障りのないところに着地しようとする。

だって、視野が狭くなる病気って、なんとなくピンとこない。

正面は見えてるし、テレビも見られるし、新聞だって読める。

それなのに、いつのまにか物にぶつかる。

つまずく。

誰かに手を振られても気づかない。

あれ?これって…もしかして…いや、まさかね?と自分をごまかし始めた頃、もう視界の四隅は、しっかり欠けていたりする。

緑内障はそんな風に、静かに、確実に、でも本当に静かにやってくる

まるで泥棒。

しかも、泥棒ならまだ足音が聞こえるけど、緑内障は無音。

カーペットの上をスリッパで歩くかのような音のなさ。

しかも何が消えるかって、「視野」ですよ。

見えていた景色が、いつの間にかフェードアウト。

光も色も動きもない、ただの“見えないゾーン”が生まれていく。

それに気づくのは、ずいぶん後になってから。

「あれ?左の端がちょっと暗い?」そう思ったら、もうその暗いところは帰ってこない。

視神経が、「ここ、もう退職しました」って言ってるようなもの。

でも面白いのが、人間の脳ってけっこう補正上手なんです。

片目で見えないところも、もう片方の目でうまく補って、「見えてる気」にさせてくれる。

だから、本人も家族も、意外と長い間気づかない。

片目ずつふさがない限り、「欠けてる」なんて気づけない。

なんなら、まわりが気づくのが先だったりする。

「最近よく壁にぶつかるね?」とか、「カートまっすぐ押せてないよ?」とか。

そう言われてようやく、あれ?って思うわけです。

じゃあ、視野が減っても生活はできるのか?答えは、できる。

だけど、そのぶん“気づき”と“工夫”が必要になる。

たとえば食事のとき。

おかずが右側に置いてあったら、左目の視野が欠けてる人はずっと気づかないかもしれない。

声かけてあげよう、「こちらにも美味しいおかずがありますよ🩷」って。

廊下を歩くときも同じ。視野の左が見えてなければ、左の壁や手すりにガツン。

だから声かけは常に“その人の正面”から。

つい後ろから話しかけたくなるけど、それ、たぶん気づかれてない。

視野が減ることは、見えていた世界が狭くなるということ。

でも、それを“気づける人”がそばにいれば、世界はまた広がるんです。

補える目がなくても、補える人がいれば、それで十分。

見える世界を保つのは、目だけの仕事じゃない。

ケアの視点も含めて、全部が“視界”を守るピースになるんだと思います。

第2章…眼圧ってなんなのさ?目の中の気圧配置


「眼圧が高いですね」と言われたときの戸惑いったらない。

何それ、台風?気圧の谷?

低気圧だと古傷が痛むっていうけど、じゃあ高眼圧だと目がうずくの?と真顔で医者に聞きそうになる。

いや、うずかないんです。

実際、眼圧が高くても自覚症状ゼロな人がほとんど。

そこがまた厄介で、「痛くない=大丈夫」と思ってるうちに、ちゃくちゃくと視神経が削られていく。

音もなく。悲鳴もなく。

もう、視神経さんもそろそろSOSの笛でも吹いてほしいレベル

さてこの眼圧、イメージとしては目の中の空気圧ならぬ“水圧”。

目の中には房水という透明な水分が流れていて、これが適度に循環しているときは、ちょうどいい丸さとピントで快適生活。

でも、出口が詰まったり流れが悪くなると、たちまち水がたまって内圧が上昇。

もう風船パンパン。

しかも押されているのは目の後ろの視神経。

ああ、ここにプレッシャーをかけるのやめてもらっていいですか?と視神経が泣いている。

ちなみに、目をぐっと押すとその場で眼圧が一時的に上がります。

だから強くこするのは厳禁。

にもかかわらず、目がかゆくてグリグリとこするおじいちゃん、点眼のあとに目をぎゅうっと押さえるおばあちゃん、わりといらっしゃる。

そこに「眼圧が…眼圧が…」と心の中で念仏を唱えるケアスタッフの姿。

まるでコント。

でも、笑ってる場合じゃない。

本当にこれで視神経が削れる可能性があるのです。

だから、今日からできる即実践ケア。

それは、「目をいたわる暮らし方」。

目を押さえない。

こすらない。

寝るときはうつ伏せを避ける。

前屈みで長時間スマホや読書しない。

家族がそんな姿勢をしてたら、優しく「眼圧上がってまうで」と声をかける。

ついでに眼圧が心配な人は、診察時に「寝てる間の眼圧ってどうなってますか?」と聞いてみるといい。

夜間に眼圧が高くなるタイプの人もいるから、医師の対応が変わることもある。

なんでも相談、まずはそこから。

眼圧って目の中の圧力の話だけど、きっとケアする側も、プレッシャーを感じている。

目薬のタイミング、姿勢の工夫、言葉がけ、全部気を使う。

でも、それができることのありがたさ。

今見えている世界を、ずっとそのままにするために、自分にできる圧をかけていく。

それはきっと、優しい圧。

眼圧とは逆方向の、希望の力。

今日も眼圧に負けない、目の中の気圧配置を整える一日を🩷。

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第3章…目薬という名の永遠の愛人関係


緑内障と診断されたその日から、あなたの人生には新たなパートナーが加わる。

そう、それが“目薬”。

もはや恋人でもなければ、家族でもない。

立ち位置としては…そう、愛人。

しかも毎日会うやつ。

朝晩欠かさず、ひそかに存在を主張してくる存在感。

忘れると罪悪感が湧く。

ちょっとお高いし、地味だけど手放せない。

気がつけば、バッグにもポケットにも、あちこちにあの小瓶が潜んでいる。

これはもう愛人契約だ。

点眼薬の役割は明確だ。

眼圧を下げる。

ただそれだけ。

でもその「ただ」が、この目には絶大な価値を持っている。

一滴のしずくで視神経の未来が決まると思えば、もう神水レベル。

ただし、使い方を間違えると効果半減。

ポトンと入ったと思ったら、鼻に抜けてクシャミ連発。

目に入ったけど、半分はまつ毛の上。

そんな悲劇が毎日起きている。

だから点眼は「確実に、優しく、しかも落ち着いて」行うのが鉄則。

そして、目薬のあとには副作用というスパイスが付いてくる。

目が赤くなる。

しみる。

目ヤニが出る。

そんなときに限って「また点眼?」と嫌な顔をされる。

分かる、気持ちは分かる。

でもここで怯んではいけない。

「進行を止めるための一滴ですよ〜」「明日も見える世界のためのケアです」とにこやかに伝える勇気

それがケアスタッフの、いや、人生のサポーターとしての真骨頂だ。

目ヤニ問題も地味に深刻だ。

点眼薬の防腐剤で涙が刺激され、目のまわりがべたつく。

拭かないとどんどん固まる。

でも、「拭いたら眼圧上がるんじゃ…」と遠慮するのは今日で終わり。

そうじゃない。

大事なのは力加減とタイミング。

温かいガーゼで、目頭から目尻に向けてそっと拭く。

ついでに「目元がスッキリしましたね〜♪」と明るく声をかければ、本人も少し照れながら笑ってくれる。

そう、目薬タイムは“心の整容”タイムでもあるのだ。

そして忘れちゃいけないのが、「目薬の後は5分休憩」。

複数の薬があるときは、次の薬までしばし待つ。

焦って重ねると、涙に押し流されて意味がなくなる。

せっかくの愛人との密会、丁寧に、時間をかけて向き合いたい。

愛は一滴、タイミングは5分。

これが目薬愛人道である。

点眼薬との付き合いは、長い。

そう簡単には別れられない。

でも、それは悲しいことじゃない。

この関係があるからこそ、見えている。

だからこそ、毎日の一滴に込められた「未来を守る力」に気づいてほしい。

今日もひとしずく、あなたの目に、愛🩷をそっと。

第4章…うつむき禁止にタバコNGに目こすり反対運動


緑内障ケアに大切なのは「やること」だけじゃない。

「やらないこと」も、めちゃくちゃ大事だったりする。

たとえばうつむき。

ちょっと考えてみてほしい。

洗濯物をたたむとき、床の掃除をするとき、花に水をあげるとき…私たちの頭はしょっちゅう下を向いている。

これがなんと、眼圧を上げる原因になるなんて、誰が思うでしょう。

実際、うつむいたまま20分も新聞読んでいたら、目の中で圧がジワジワと上がっていく。

視神経さん、再びピンチ。

でもご安心を。

この世には「ちょっとした姿勢改革」という素敵な裏技がある。

たとえば台所の調理台が低くて前屈みになっちゃうなら、まな板の下に雑誌を重ねて高さ調整。

掃除のときは、立ったままできる道具にシフト。

植物に水をあげるときは、鉢ごと近くに寄せてもらう。

うつむきはだめ、って言われると不便そうだけど、案外工夫すればスタイリッシュな立ち姿で全部こなせるのだ。

そう、緑内障ケアは“姿勢美人”への第一歩でもある。

さて、お次はタバコ。

もうこれは言わずもがな、だけど言わせてください。

禁煙です。

タバコに含まれるニコチンは血管をギュッと細めてしまうので、視神経への血流がガッツリ減る。

視神経って、酸素と栄養がないと、ささやかに不調を訴えるタイプ。

タバコの煙を浴びただけで「ごめん、今日ちょっと働けないかも…」ってなる。

やさしくないですね、タバコ。

まさに目に煙たがられる存在。

とはいえ、長年の愛煙家にいきなり「明日から吸うな」と言っても難しい。

だから、まずは本数を減らすだけでもいいし、「目の前では吸わない」ルールから始めるのもアリ。

禁煙のきっかけが「目のため」なんて、ちょっとかっこいいじゃないですか。

家族の目、利用者さんの目、そして自分の目。

守る理由が多いほど、人は本気になれるってもんです。

そして最後の大ボスが、目こすり。

これ、本当に多い。

乾燥するから、花粉がかゆいから、目薬がしみたから、理由はそれぞれ。

でも、目をグリグリこすると、その圧で視神経が「またかよ…」と悲鳴を上げている。

だから、どうしても目を触りたくなったら、まずは深呼吸。

冷たいタオルでそっと冷やすのもおすすめ。

目をいたわるって、こういうことの積み重ねなんですよね。

緑内障の進行を防ぐには、目の敵はまず己の生活の中にある

でもそこに「気づき」が加われば、もう大丈夫。

今日から始める、うつむきストップ、禁煙アクション、目こすり我慢チャレンジ。

誰も見てないと思っていても、目はいつもあなたの暮らしを見ています。

そう、黙って、でも全部見ているのです。

だからこそ、やさしくしてあげてください。

あなたの目に🩷。

第5章…尊厳は目元に宿る!目ヤニと福祉の関係


目の周りにうっすらと溜まった目ヤニ。

それは高齢者の生活の“今”をそっと映し出す小さなシグナル。

拭いてもらえなかった朝。

見過ごされた昼。

そして、誰も気づかなかった夜。

鏡のない暮らしの中で、自分の顔の様子なんて案外気づかないものだけれど、それをちゃんと見てくれる誰かがいるかどうかで、その人の尊厳は決まるのだと思う。

目ヤニを放置していても命には関わらない。

だから後回しにされがち。

でも、考えてみてほしい。

もし自分が、寝起きのまま目がパリパリで過ごす一日を想像したら…けっこうテンション下がる。

目が開きにくい。

まぶたが重い。

ものが見えづらい。

そしてちょっと恥ずかしい。

それを誰にも気づかれずに過ごすのって、想像以上に“孤独”だ。

緑内障の人は、視神経がデリケートだからといって、目のまわりに触れないほうがいいなんて誤解もされやすい。

でも違う。

むしろ積極的に、やさしく、ていねいに、目元ケアをしてあげてほしい。

そのときの手の温かさや、声かけの柔らかさ。

それがそのまま、信頼や安心、そして“ちゃんと見てもらっている”という大切な感覚になる。

大切なのは、やり方じゃない。

心持ちだ。

冷たすぎないガーゼ。

軽く湿らせた綿。

目頭から目尻へ、そっとなぞるように拭うその一手間。

そのとき、何も言わなくてもいい。

ただ、「目元、きれいになりましたよ」と一言添えるだけでいい。

もし照れ笑いが返ってきたなら、それがもう、ケアの成功の証だと思っていい。

整容って、あなどられがちだけど、実はその人の「私でありたい」という願いの延長線上にあるもの。

だから、目の周りを拭くという行為は、単に汚れを取る作業ではなくて、その人らしさを尊重する立派な福祉なのだ。

視界が曇っていても、心まで曇らせてはいけない。

だからこそ、毎日の目元ケアは“尊厳の水拭き”でもある。

そして何より、視野が狭くなっていく緑内障の方にとって、顔の周りをやさしくケアしてもらう時間は、自分の輪郭を感じる貴重なひとときでもある。

「あ、まだここに私がいる」って思える、そういう瞬間。

触れるという行為が、言葉よりも多くを伝える世界🩷。

それが介護であり、福祉であり、私たちの手の仕事なんじゃないかなって思うのです。


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まとめ…目は黙っていてもあなたは守れる人に!


緑内障は、目の中でこっそり静かに進行する。

誰にも気づかれずに、視界の端っこをひとつずつ持っていく、まるで影の忍者のような病気だ。

でもその一方で、対策もまた静かに、確かに、毎日の中にある。

目薬をさす手。

目元をぬぐうガーゼ。

そっと差し出される優しい声かけ。

それはどれも、派手じゃない。

でも、目には、いや視神経にはちゃんと届いている

うつむかないように意識するその姿勢。

タバコを1本減らそうかなという小さな決心。

目をこするのを「ちょっと待って」と思いとどまる一秒間。

それら全部が、未来の視界を守っている。

緑内障は治らない。

でも、進ませないことはできる。

私たちは、今日から、いやこの瞬間からでも、未来の見え方を変えることができるのだ。

そして、忘れちゃいけないのが、“目の前の目”だけじゃなく、その目を持つ人の気持ち。

その人がその人であり続けるための、ほんの一滴のやさしさ。

目元のケアひとつで、尊厳が守られることもある。

照れながら目をそらすあの人の心に、「ちゃんと見てもらってるんだ」という安心感を届けられるかどうか。

福祉って、たぶんそういうことなんじゃないかなと思う。

6月7日、緑内障を考える日。

今日一日が、目のことをちょっとだけ気にかける日になるのなら、それはきっと、誰かの視界の未来に光を差す日になる

見えなくなることを恐れるんじゃなくて、今見えている世界に感謝して、できることをそっと積み重ねていく。

その積み重ねが、希望になる🩷。

あなたの目も、大切なあの人の目も、今日からまた、少しやさしくなれる。

目に映るすべてのものが、明日も変わらず見えるように。

さあ、視神経にご挨拶。

今日もおつかれさま。

明日もよろしくね。

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niiro makoto