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日本ではあまり知られていない5月25日のアフリカ・デー。
この日をきっかけに、アフリカの高齢者の暮らしぶりから、私たちが見落としてきた“本当の豊かさ🍀”を学び見つめ直してみたいと思います。
それはお金や制度では測れない“人のつながり”を大切にする心から生まれる多くの力のことです。
きっとこの学びは将来の豊かさにつながります。
ウガンダという国にあるダンスグループがいる。
小さな子どもたちが、リズムに合わせて体をくねらせたり、キメ顔でカメラを見つめたり。
衣装は手作り、練習場は地面に書いた線。
それでも彼らの踊りは世界中を笑顔にした。
彼らの名前は「Ghetto Kids(ゲットー・キッズ)」。
ウガンダの貧しい地域で暮らす子どもたちによるダンスチームだ。
その日常は、決して恵まれているとは言えない。
靴がなくても裸足で飛び跳ねる。
照明がなくても日差しの中で踊る。
けれど、そこには不思議と悲壮感がない。
むしろ、あふれるような笑顔と、踊ることへの情熱が、画面越しにも伝わってくる。
この子たちが有名になったきっかけは、海外のオーディション番組だった。
大人顔負けのキレと、観客を惹きつけるパフォーマンス、そして何より、楽しさが全身からにじみ出ている。
結果、彼らは大喝采を浴び、審査員のゴールデンブザーを獲得した。
ウガンダという国に、なにがあるのか。
高層ビルでもなければ、整備された道路や豊富な資金もない。
でもこの子たちには、“支えてくれる大人”がいた。
自分の時間もお金も惜しまず、彼らの可能性に寄り添い、共に暮らして背中を押してくれるトレーナー。
そして仲間同士で励まし合い、生活を分け合い、夢をつなぐ日常があった。
ああ、「ない」から始まるって、こういうことなんだ――
と、心を動かされたのは私だけではないはずだ。
ないものを数えるのではなく、あるものを持ち寄る。
それは、豊かさの尺度がひっくり返るような感覚だ。
「何が足りないか」ではなく、「いま自分にできることは何か」。
そんな問いを持って生きる人たちの姿が、画面越しにまぶしく映った。
この子たちの周囲には、高齢者も、若者も、子どもも一緒に暮らす。
誰かが食べ物を分けてくれたら、次は自分が歌を歌う。
ダンスの練習に参加しないおばあちゃんだって、見守る目線がチームの力🩷になる。
社会は“輪”なんだと、そんな当たり前を、遠く離れたウガンダの小さなステージから教えてもらった。
それは、きっと制度でも政策でも測れない、人と人の間にある“あたたかさ”だ。
草原に風が吹いて、遠くの方で牛の鳴き声が響いている。
焚き火🔥の煙がゆっくりと空にのぼり、そのそばに腰かけるのは、深く刻まれた皺と穏やかな目をしたマサイの長老だ。
腰には槍、背中には長い年月を背負った重みがあるようで、それでいて肩は軽やか。
彼の隣にちょこんと座るのは、背丈もまだ半分ほどの少年。
焚き火の光に照らされて、二人の間に言葉は少ないけれど、何か大切なものがしっかりと渡されていく。
マサイ族には、代々受け継がれてきた教えがある。
どうやって牛を守るか、どうやって仲間と協調して生きるか、自然と共にどう暮らすか。
長老たちはそれを「教える」というより、「見せて」伝える。
言葉よりも、背中で語る。
少年たちは、うなずき、真似をし、やがてそれを自分のやり方で身につけていく。
興味深いのは、彼らが“ただの知識”を覚えるのではなく、“生きる術”を学んでいるということだ。
草の色で雨を予測する方法や、牛の鳴き方から体調を読む技術、仲間との距離を保ちながら尊重し合う態度。
そうしたものすべてが、マサイの大地の上で何世代にも渡って磨かれ、育まれてきた。
もちろん、若者たちは時に反発もするし、自分の道を模索することもある。
でも不思議なことに、時間が経つとまた戻ってくるのだという。
大人になり、家庭を持ち、自分の子どもを育てるようになった時、ふとあの焚き火のそばで聞いた話や、長老の目線を思い出すのだそうだ。
このつながりの中には、「誰が偉い」とか「誰が教える側」とかいう境界線がない。
ただ、年齢を重ねた人は知っていることが多く、若い人はそれを自然と敬い、学びたいと思う。
だから教える側も、偉ぶらない。
ただ淡々と、でも丁寧に、次の世代に自分の知っていることを手渡していく。
輪になって暮らすということは、そういうことかもしれない。
ひとりが全部を背負うのではなく、みんなが少しずつ、力や知恵や優しさを分け合っていくこと。
マサイの暮らしの中では、長老も若者も子どもも、それぞれがきちんと役割を持って存在している。
そして、それぞれが自分の時間の中で、ゆっくりと“次の役割”に移っていくのだ。
そう考えると、歳をとるということも、なんだか楽しみに思えてくる。
若い頃は見えなかったものが、見えるようになる。
体力は少し落ちても、視野はきっと広くなる。
そうしてまた、焚き火のそばに座って、次の誰かにそっと語りかける。
その繰り返しが、文化になり、社会になっていく。
マサイの人たちは、何か特別なことをしているわけではない。
ただ、あたりまえのことを、あたりまえに、丁寧に繰り返しているだけ。
それなのに、どうしてこんなに素敵なんだろう。
見ているだけで、心がポカポカするような、そんな関係がそこにはある。
アフリカの台所は、にぎやかだ。
朝から野菜を刻む音、炊き込みご飯の湯気、隣の家から飛んでくるスパイスの香り。
大きな鍋で煮込まれているのは、見たこともないような食材だったり、手間を惜しまない家庭の味だったりする。
たとえばセネガルでは「チェブジェン」という料理がある。
魚と野菜、そしてお米を、スパイスたっぷりのトマトソースで炊き込んだ一品。
これがね、もう、家によってまったく味が違う。
同じ名前なのに、それぞれの家に“おばあちゃんの味”がある。
しかも作り方を聞くと、どの人も目を細めて「これはおばあちゃんに教わったの」とうれしそうに話してくれる。
こうして伝えられていく料理の味は、ただのレシピじゃない。
家族の記憶であり、暮らしの風景であり、小さな誇りでもあるのだ。
そしてこの誇りを、孫や近所の若者たちがちゃんと受け継いでいく。
ああ、味って人をつなぐんだなぁ、と実感する。
夜になれば、今度は語りの時間。焚き火のそばに座って、長い話がはじまる。
登場人物は動物だったり、神様だったり、昔の村人だったり。
ときには思わず笑ってしまうようなオチがあったり、深い教訓が込められていたりする。
聞いているのは子どもだけじゃない。若者も大人も、誰もがその話の続きを知りたくて、耳を傾ける。
物語が終わると、誰かが太鼓を叩き出す。
すると、誰かがリズムに乗って体を揺らす。
自然と輪になって、歌が生まれ、笑い声が響く。
これが、特別な日じゃなくて、いつもの夜の光景だというから驚きだ。
音楽は、学ぶものじゃなく、暮らしの中に染み込んでいるのだ。
そして面白いことに、彼らは「休む」こともうまい。
たとえば、朝に畑で働いたあとは、木陰でお茶を飲みながらおしゃべり。
ハンモックに揺られながら、風を感じてぼんやりする時間も大切にしている。
効率や成果では測れない、心と身体を整える術が、日々の中にちゃんとある。
こういう暮らしを見ていると、何もないどころか、あるものだらけじゃないかと思えてくる。
食べ物がある。
話す人がいる。
歌がある。
休む場所がある。
そこに笑顔🙂が添えられていたら、それだけで充分すぎるほどに豊かなんじゃないか。
アフリカの人たちが暮らす場所は、日本から見れば“足りない”とされるものも多いかもしれない。
でも彼らは、それを理由に不満を口にするよりも、あるものをうまく使って、みんなで分け合って、心豊かな日常を育てている。
そう考えると、日常のあちこちにある“あるもの”って、もっと見直す価値があるのかもしれない。
どこの国にも、朝がくる。
けれどアフリカの朝には、ちょっとした元気の魔法がかかっている気がする。
ニワトリ🐔の鳴き声に続いて、外から誰かの笑い声が聞こえてくる。
水くみに向かう道すがら、挨拶ひとつでふわっと笑いが生まれ、それが次の人へと伝わっていく。
おはよう、と言い合うたびに空気が少し軽くなるような、そんな心地よさがそこにはある。
アフリカの人たちは、とにかくよく笑う。
困っている時も笑うし、ちょっとした失敗でも笑って流す。
もちろん、苦しい現実がないわけじゃない。
でも彼らは、それを「悲しいこと」としてただ抱えるよりも、ちょっとした工夫で明るいものに変えてしまう。
たとえば、靴がなければ裸足で走るし、ボールがなければビニール袋を丸めて蹴り合う。
それが何だかとっても楽しそうで、見ているこちらまで心が和んでくる。
ダンスにしてもそうだ。
きっちり揃っていなくても気にしない。
ズレても、それがまたリズムになって、さらに盛り上がる。
ユーモアがあって、誰もが主役になれる空気がある。
ウガンダのダンスチームに感動したのも、その前向きさと笑顔の力が、言葉が通じなくても画面越しに伝わってきたからかもしれない。
それは決して、強がりでも自己満足でもなく、文化として育ってきた「生きる力」なのだと思う。
笑ってごまかすんじゃなくて、笑って受け入れる。
ないものはない。
でも、今あるものを最大限に使えば、案外なんとかなる。
そうやって暮らしてきたからこそ、みんなで支え合って、助け合って、日々を前向きに積み重ねてこられたのだろう。
実際、笑顔があるところには、人が集まる。
そして人が集まれば、安心感が生まれる。
困ったときも一人じゃないと感じられるから、心がふっと軽くなる。
言葉を交わし、目を合わせ、踊ったり、歌ったり、冗談を言ったり。
そうやって「今日」を乗り越えるうちに、いつの間にか「明日」が楽しみになる。
そんな暮らし方が、アフリカのあちこちでごく自然に続いている。
私たちが日々の生活でつい忘れてしまう“笑うこと”の大切さ。
それを、何もないように見える土地の人々が、誰よりも持っているということ。
これって、ものすごく豊かなことじゃないだろうか。
どんなに時代が進んでも、どんなに便利なものが増えても、笑顔がなければ心は乾いてしまう。
だからこそ、ユーモアと前向きさが根っこにある文化には、ただ感心するだけでなく、学びたくなるのだ。
アフリカの人々が見せてくれる明るさは、ただの明るさじゃない。
それは、受け入れ、工夫し、分け合い、そして笑いながら歩き続ける力だ。
どんな状況でも「今日を楽しむ」というその姿勢が、未来を照らしているように思う。
5月25日、アフリカ・デー。
遠い異国の記念日だと思っていたのに、こうして少しだけその文化や暮らしに触れてみると、不思議と身近に感じられてくる。
気づけば、笑ったり、うなずいたり、じんわり胸があたたかくなったり。
そんな気持ちで今日を終えられるなら、それだけでもアフリカの人々に「ありがとう」と言いたくなる。
今回紹介したのは、どこかの国の特別な成功物語ではない。
小さな村の焚き火のそば、家族で囲むごはん、裸足で踊る子どもたち、木陰でくつろぐおじいちゃんおばあちゃん。
どれも何気ない日常のひとコマだけど、そこには確かに“豊かさ🍀”があった。
それはモノでは測れない、制度では配れない、人と人とのつながりの中で生まれる温かさだった。
若者と高齢者が当たり前のように支え合う風景。
ないものを嘆かず、あるものを持ち寄って日々を楽しむ知恵。
語り合い、笑い合い、ときには踊って、今日を丸ごと受け入れる明るさ。
そんな暮らしの中に、「ああ、こういう生き方もあるんだな」と思わせてくれる種がたくさん散りばめられていた。
日本でも、かつてはそういう風景があったはず。
戦後の復興期、家族で支え合い、近所のおばちゃんが勝手におせっかいを焼いてくれるような時代。
忙しさや効率を優先するあまり、気づけば少しずつ手放してきた“あたりまえ”の豊かさ。
でもそれは、もう戻らないものではなくて、思い出せばまた育てていけるものだと思う。
アフリカの人々は、私たちに教えてくれる。
「豊かさって何だろう?」という問いに、決して説教くさくなく、むしろ陽気に、優しく、笑顔でヒントをくれる。
それが何より素敵で、心に残る。
だからこの5月25日、アフリカ・デーを機に、ほんの少しだけ暮らしの中で“あるもの”を見つめてみてほしい。
足りないと感じていたものが、実はもう目の前にあったりするかもしれないから。
そしてその気づきが、誰かとの笑顔や、あたたかな会話につながっていくなら、今日という日はきっとすばらしい記念日になる。
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読み込み中…読み込み中…読み込み中…読み込み中…😌来場された皆様、今日という日の来訪、誠にありがとうございます
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