5月25日アフリカ・デー~豊かさの物差しを少し持ち替えてみる日~

[ 季節と行事 ]

はじめに…遠い大陸の記念日がいつもの暮らしを映す鏡になる

5月25日は「アフリカ・デー」。日本で暮らしていると、カレンダーを見ても「今日はそういう日なんだ」と通り過ぎてしまいそうな記念日です。けれど、少し目を向けてみると、その先には子どもも若者も高齢者もいて、ご飯を作り、働き、語り、歌い、笑う日々があります。遠い場所の話なのに、そこにあるのは意外なほど私たちと近い暮らしです。

もちろん、広いアフリカを1つの暮らし方で語ることは出来ません。土地が変われば食べ物も文化も価値観も変わる、正に十人十色。それでも、人と人が力を持ち寄る姿や、年長者から若い世代へ知恵が渡っていく風景、食卓や音楽を囲んで時間を分かち合う姿には、私たちの毎日をちょっと違う角度から眺めるヒントがあります。暮らしの知恵が世代を越えて手渡されていく姿も、その大切な1つです。

冷蔵庫、スマートフォン、エアコン、便利なサービス。身の回りを見渡せば「あるもの」は山ほどあります。それなのに、「あれが足りない」「もっと欲しい」と感じる日もある。人間というのは、なかなか欲張りです。私も冷蔵庫を開けて「何もないなぁ」と言った直後、奥から食材が次々出てきたら少し反省します。いや、何もなくはなかったですね、と。

豊かさは、持っている物の数だけではなく、今あるものを誰かとどう生かすかでも姿を変えます。

5月25日は、遠い大陸を眺めるだけの日ではなく、自分の足元にある「人」「時間」「知恵」「笑顔」を見つけるキッカケにもなりそうです。灯台下暗しと言いますが、探していた豊かさが案外すぐ隣でお茶を飲んでいる――そんな発見があっても悪くありません。

[広告]

第1章…「足りない」を数える前に今ある力を持ち寄ってみる

広い場所も立派な設備もなく、それでも地面を舞台にして踊る子どもたちがいます。衣装を工夫し、仲間と声を掛け合い、体いっぱいでリズムを刻む。その姿を見ていると、「環境が整ってから始めよう」という考えが、少しだけ頼りなく見えてきます。足りないものがあっても、手元にあるものから始める。その積み重ねが、いつしか大勢の心を動かす力になっていきます。

暮らしでも似たことがあります。「時間がない」「お金が足りない」「人手がない」と考え始めると、無いもの探しはなかなか終わりません。気づけば頭の中で不足品の棚卸しが始まり、「本日は在庫切れです」と自分で自分に札を貼りたくなる日さえあります。いやいや、閉店するにはまだ早い。話を聞ける人がいる、料理ができる人がいる、子どもを笑わせるのが得意な人がいる。それぞれの小さな得意を持ち寄れば、足りないものを埋めるだけでなく、今あるものから新しい暮らし方を作ることも出来ます。

誰かが食べ物を分ければ、別の誰かが時間を差し出す。若い人が体を動かし、高齢の人が経験からひと言を添える。そんな相互扶助(お互いに助け合うこと)は、特別な制度が始まって初めて生まれるものではありません。人が集まれば自然に育つこともあります。年齢や立場を越えて役割を持ち寄る姿には、臨機応変に暮らしを回す知恵があります。

何でも1人で揃えようとすると、暮らしは重たくなります。けれど「私はこれが出来る」「じゃあ私はこっち」と分けてみると、同じ1日でも景色が変わるものです。自分には小さく見える力でも、別の誰かには待っていた助けかもしれません。無いものを数えて立ち止まるより、あるものを持ち寄って動いてみる。そこには、一致団結とまで肩に力を入れなくても始められる、軽やかな支え合いがあります。


第2章…年を重ねるほど役割が増える~世代を繋ぐ暮らしの知恵~

草原の傍で牛を見守りながら、年長者の話に若者や子どもが耳を傾ける。アフリカの一部の地域には、そんなふうに暮らしの中で知恵が受け渡されてきた文化があります。マサイの暮らしにも、牛の守り方、自然との付き合い方、仲間と協力する姿勢などを、年長者から次の世代へ伝えていく場面があります。教科書を開いて「今日は第3ページです」ではなく、日々の仕事そのものが学びの場になるわけです。

面白いのは、知識だけを渡して終わらないところです。草や空の様子を見ること、牛の変化に気づくこと、人との距離を考えること。何年も暮らす中で身についた感覚は、紙に全部書こうとしてもなかなか収まりません。若い人は年長者の動きを見て、真似をし、失敗もしながら自分のものにしていく。そこには以心伝心とは少し違う、同じ時間を過ごすからこそ伝わるものがあります。

日本の暮らしにも、似た光景はあります。煮物の味を見ながら「醤油はこれくらい」と母や祖母が鍋に直接入れる姿を見て、横から「これくらいって何ミリリットル?」と聞くと、「これくらいは、これくらい」。はい、出ました。家庭料理界でも難易度の高い回答です。でも何度も隣で見ているうちに、湯気や香りや色まで含めて分かるようになることがあります。数字だけでは渡せない経験というものは、確かにあるのでしょう。

年を重ねることを「出来ないことが増える」とだけ考えると、歳月は少し寂しいものになります。けれど、長く生きたから知っていること、何度も失敗したから笑って教えられること、若い頃には気づかなかった人の気持ちもあります。体力の役割が少しずつ減っても、経験を手渡す役割まで小さくなるわけではありません。若い世代には新しい技術や発想があり、年長者には蓄えてきた経験がある。その両方が行き来すれば、世代交代は「古いものが退くこと」ではなく、知恵に新しい続きを加える時間になります。

マサイの暮らしでは、年齢によって役割が移り変わりながら、それぞれが共同体の中に居場所を持つ姿が描かれています。若い頃は動く側だった人が、やがて見守り、伝える側になる。その先にはまた次の世代がいる。年を取ったら席を譲るだけでは少しもったいない。席に座ったからこそ、隣の人へ話せることもあるのです。

[広告]

第3章…鍋と物語と音楽が人を繋ぐ~日常に宿る豊かさ~

台所から野菜を刻む音が聞こえ、鍋から湯気が立ちのぼる。家族や近所の人が集まれば、そこには料理の香りと一緒に会話も生まれます。セネガルには、魚や野菜、お米をトマトを使った味付けで炊き込む「チェブジェン」があり、家庭によって味わいも違います。料理の作り方が世代を越えて受け継がれていくと、一皿の中に家族の記憶まで残っていきます。

日本でも、おばあちゃんの煮物、お父さんのカレー、何故か本人にしか再現できないお母さんの卵焼きなど、「レシピは同じはずなのに味が違う」ということがあります。分量を聞いても「醤油を少し」「煮えたら分かる」と返ってきて、こちらは心の中で「その“少し”を聞いております」とツッコミたくなる。それでも、同じ台所に立ち、味見をして、食卓を囲んだ記憶ごと受け継ぐからこそ、家庭の味になるのでしょう。

食べ終えれば、それで人の集まりが終わるとは限りません。物語を語る人がいて、耳を傾ける人がいる。誰かがリズムを刻めば、歌ったり体を揺らしたりする人が現れる。そんな時間が暮らしの中に溶け込んでいる地域もあります。物語には笑える結末や教訓が込められ、音楽には世代を問わず人を輪に招き入れる力があります。 和気藹々とした時間は、立派な催しを用意しなくても、小さなキッカケから育っていくものです。

そして忘れたくないのが「何もしない時間」です。働いた後に木陰で休み、お茶を飲みながら話したり、風を感じながらゆっくり過ごしたりする。 日本では、予定のない時間を見ると「何かしなければ」と埋めたくなることがありますが、休むことも暮らしを整える大切な一部です。

食べること、語ること、歌うこと、休むこと。その何気ない時間を誰かと分け合えることも、立派な豊かさです。

特別な道具がなくても、1つの鍋を囲めば話が始まり、一つの歌を知っていれば誰かと声を合わせられる。暮らしを華やかにするものは、高価な品ばかりではありません。夕飯の湯気の向こうで誰かが笑っているなら、その食卓にはもう、十分に味わう価値のある時間が流れています。


第4章…笑える余白は生きる力~困った日ほど人と繋がる~

朝の道で顔を合わせれば挨拶を交わし、ちょっとした出来事に笑い声が起こる。アフリカの各地で暮らし方は大きく異なりますが、歌や踊り、冗談などを人と分かち合う文化が日常の中に根づいている地域もあります。苦しい現実が消えるわけではなくても、誰かと声を交わすことで、その日の重さが少し軽くなることがあります。

失敗した人を指さして笑うのではなく、「まあ、そんな日もある」と一緒に笑える空気は、なかなか頼もしいものです。踊りの動きが少しズレても、それをキッカケに場が盛り上がる。完璧に揃えることより、そこにいる人が楽しめることを大切にする姿には、臨機応変な暮らし方が見えてきます。

日本の毎日だって、笑いに助けられる場面は少なくありません。朝からコーヒーをこぼし、出かけようとしたら鍵がない。ようやく見つけて玄関を出たところで、「あ、スマホ」。もう一度戻って、今度こそ出発……と思ったら、手に持っていた。誰だ、鍵を探していた私の時間を返してくれ。もちろん犯人は自分です。こんな小さな失敗でも、眉間にシワを寄せ続けるより「今日はこういう日か」と笑えれば、気持ちは少し切り替わります。

笑うことは、困り事をなかったことにするためではありません。つらい時に無理に明るく振る舞う必要もありません。それでも、話せる人がいて、目が合って、ちょっとした冗談を交わせるなら、「1人で抱えている」という感覚は和らぎます。人が集まり、言葉を交わし、歌ったり踊ったりする時間が安心感に繋がる姿も描かれています。

笑いは問題を消してくれなくても、問題を抱えたまま次の一歩を出す余白を作ってくれます。

笑顔が生まれれば人が近づき、人が近づけば助けを求める声も届きやすくなる。そこに一日一善ほど立派な目標を掲げなくても構いません。挨拶を返す、失敗を責め過ぎない、食卓でくだらない話をする。そんな小さな和気藹々が積み重なるだけでも、暮らしには明日へ向かう力が残ります。

[広告]


まとめ…豊かさは持ち物よりも分け合えるものの中にある

5月25日のアフリカ・デーから見えてくるのは、遠い土地の珍しい暮らしだけではありません。食事を囲むこと、経験を次の世代へ渡すこと、歌ったり笑ったりすること、困った時には持っている力を少しずつ出し合うこと。国や地域によって文化も生活環境も大きく違いますが、人と人との間に生まれる温かさには、私たちの暮らしにも通じるものがあります。

便利な物が増えれば、暮らしは確かに楽になります。それは素晴らしい進歩です。ただ、便利さだけでは埋まらない場所もあります。家族の料理を「美味しい」と食べる人、昔の話を面白がって聞く人、失敗した日に笑わせてくれる人。そんな存在は家電量販店にも通販にも並んでいません。もし売っていたら少し怖いです。「本日の特売、話を聞いてくれるおじいちゃん」と書かれていたら、まず店員さんを呼びます。

アフリカ各地の暮らしに目を向けると、足りないものだけではなく、既に持っている知恵や人間関係を生かしながら日々を営む姿があります。そこから受け取れるのは、「物を持つことが悪い」という話ではありません。便利な物も大切にしながら、人との時間まで置き去りにしない。その両方を楽しめたら、私たちの暮らしはもっと豊かになれるのでしょう。元気な人が動き、経験のある人が知恵を渡し、疲れた人は休み、余裕のある人が少し手を差し伸べる。そんな適材適所も、人が一緒に暮らす面白さです。

豊かさは「どれだけ持っているか」だけでなく、「持っているものを誰と分かち合えるか」にも宿ります。

夕飯を一緒に食べる。昔話を1つ聞く。くだらないことで笑う。誰かが困っていたら、自分に出来ることを少しだけ出す。そんな小さな一期一会が重なれば、特別なことをしなくても毎日は少し明るくなります。

5月25日、アフリカ・デー。世界のどこかへ思いを向けた後、自分の家の中を見渡してみるのも良さそうです。冷蔵庫の中身でも、財布の厚さでもなく、「今日、一緒に笑える人や分けられる時間はあるかな」と。そこに1つでも見つかれば、私たちは思っているより、なかなか豊かな1日を生きているのかもしれません。

[ 広告 ]

今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


[ 応援リンク ]

ブログランキング2つに参加しています。応援クリックをお待ちしております。

[ ゲーム ] 作者のitch.io(作品一覧)


  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。