男子から見れば女子は心身すべてが凶器!?~恋と距離の現代作法~

[ 家族の四季と作法 ]

はじめに…その笑顔って本当に無防備ですか?~男子が知らない女子の舞台裏~

電車で向かいに座った女性が髪を耳に掛ける。職場では、いつもより少し柔らかな声で名前を呼ばれる。帰り際には「じゃあ、またね」と笑われる。男子の側は、そんな何気ない一瞬だけで妙に心拍数が上がったりする。「いやいや、普通の挨拶だろ」と自分に言い聞かせながら、帰宅後にはしっかり思い出している。もう一喜一憂が始まっているではないか。

ところが、男子が「偶然」と思っている出来事の全てが、本当に何の準備もなく起きているとは限らない。髪型を決め、服を選び、今日は少し近くで話そうか、それとも一歩引こうかと考える。昨日の会話で好きだと言っていたものを覚えていて、次の話題へそっと置いてみる。もちろん誰もがそんな恋愛作戦を立てているわけではない。それでも、人を好きになれば男女を問わず「どう見られているかな」と考えるのは、ごく自然なことである。

男子からすれば、これはちょっと怖い。笑顔、声、香り、服装、仕草だけでも十分なのに、そこへ観察力や記憶力や距離感まで加わったら、「装備品、多くない?」とツッコミたくもなる。しかも本人は武器を振り回しているつもりなどなく、普通にコーヒーを飲んでいるだけだったりする。こちらだけ勝手に被弾しているのだから、恋とはなかなか理不尽である。

けれど現代では、男子もただ撃たれているだけではない。肌を整え、髪を作り、服を選び、体を鍛え、時には脱毛やメイクまで取り入れる。「男は中身で勝負だ」と言いながら鏡の前で前髪を直していたら、もう十分に見られる側へ参加している。女性だけが自分を演出する時代ではなく、男女がお互いの技を見て、学び、取り込み始めた。

恋の駆け引きを覚えるほど、人は相手の攻略法より「自分はどんな人間でいたいのか」を考えるようになる。

そこから先には、追う人、待つ人だけではない道も見えてくる。誰かに選ばれることを人生の中心に置かず、合う人とは近づき、合わない人とは無理に戦わず、自分の暮らしを自分で成立させる。恋する女子のクモの巣を怖がっていたはずなのに、気づけば男子も女子も、それぞれ自分の居心地の良い場所を探し始めているのである。

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第1章…偶然に見えて実は準備万端?~恋する女子は静かにクモの巣を張る~

朝、鏡の前で髪を結んで、ほどいて、もう一度結ぶ。昨日なら気にしなかった服を今日は二着並べ、「こっちだと気合い入り過ぎかな」と数秒悩む。スマートフォンを手に取れば、送りたい文章を書いては消し、「お疲れ様」だけでは素っ気ないし、絵文字を増やせば妙に意味深だと、送信ボタンの手前で小さな作戦会議が始まる。

恋する女子がいつもここまで準備万端とは限らない。それでも、気になる人が出来れば自分の見せ方に意識が向くのは自然なことだ。何を着るかだけではない。いつ話すか、何を話すか、どのくらい近づくか、昨日聞いた話を覚えていることを出すか出さないか。外から見れば何気ない数分でも、本人の中では試行錯誤が重なっていることがある。

ところが男子側から見えるのは完成後だけだ。「今日は髪型が違うな」「偶然よく会うな」「俺の好きなもの、覚えてくれていたんだ」。そこで運命という便利な言葉まで登場すると、脳内では勝手に恋愛ドラマの主題歌が流れ始める。ちょっと待て、その偶然、制作スタッフがいるかもしれないぞ、と自分にツッコミを入れたくなる場面である。

女子側の面白さは、1つの大技で勝負するとは限らないところにある。笑顔だけ、服だけ、会話だけではなく、小さな出来事を少しずつ重ねる。相手の好きな食べ物を覚えておき、共通の話題が出れば一歩近づき、今日は話し過ぎたと思えば次の日は少し控える。臨機応変に距離を変えながら、相手の反応も静かに見る。クモの巣という表現が似合うのは、一発で捕まえるからではなく、細い糸を何本も張って空間そのものを作っていくからだ。

もちろん、恋愛を策略だけで説明してしまえば味気ない。好きな人の前だから少し綺麗でいたい、自分を覚えてほしい、出来れば向こうから話しかけてほしい。そんな気持ちが積み重なった結果として、仕草や言葉の選び方が丁寧になる。用意周到に見える行動の奥にも、「嫌われたらどうしよう」という心細さが隠れている。

男子が「偶然だった」と喜んだ一瞬は、女子が勇気を出して作った小さな入口だったのかもしれない。

さらに厄介なのは、女子が必ず最後まで引っ張ってくれるわけではないことだ。何度か話しかけていた人が急に普通の距離へ戻ると、それまで受け身だった男子の方が「今日は来ないな」と気にし始める。昨日まで空気のように受け取っていた笑顔がなくなった途端、その存在の大きさに気づく。女子からすれば一進一退、男子からすれば「罠が消えたら、こっちから探していた」という少々情けない展開である。

ただ、そのクモの巣には決定的な弱点もある。どれほど考えて髪を整え、会話の種を用意し、絶妙な距離へ座ったとしても、相手の心そのものを命令することは出来ない。恋は設計図通りには進まないからこそ、仕掛ける側も本当は怖い。

笑顔という糸を1本。会話という糸をもう1本。後は相手が近づいてくれるかを待つ。男子から見ると「女子、怖っ」となる世界だが、網の向こうでは女子も平然としているフリをしながら、心の中で「気づいてよ」と願っていたりする。そう考えると、恋のクモの巣は捕獲装置というより、2人の距離を少しだけ近づける不器用な橋なのかもしれない。


第2章…男子も黙ってはいられない!~美容・体・装いで始まった男の自己演出~

洗面台の前に立つ男子が、寝癖を水で押さえて終わり。そんな朝ばかりではなくなった。髪を整え、眉を確認し、肌の調子を見て、服の組み合わせにも少し時間を使う。人によっては脱毛を選び、肌を綺麗に見せるためのメイク用品まで使う。「そこまでやるの?」と驚く世代がいても不思議ではないが、当の本人にしてみれば女性になりたいわけではなく、鏡に映った自分を少し気持ちよく整えているだけだったりする。

少し前の男性像なら、日焼けも無精髭も多少の荒っぽさも「男なんだから」で通りやすかった。美容に時間をかける男性を見て、「そこまでしたらオカマか?男らしさはどこへ行った?」と戸惑う人もいるだろう。けれど見方を半歩ズラすと、起きていることは男性の女性化だけではない。男性もまた、女性と同じように「人から見られる自分」を意識するようになったのである。

女性が服や髪型を選ぶ姿は長く当たり前として受け止められてきたのに、男性が同じことを始めると急に珍しく見える。そこで鏡を取り上げる必要はない。清潔感を大切にする人もいれば、筋肉を鍛えて輪郭を作る人もいる。肌をなめらかにしたい人もいれば、髭を自分らしさとして残したい人もいる。美しさの方向は千差万別で、男性らしさまで一着の制服にする必要はないのである。

そして男子側にも、女子と同じ小さな作戦会議が始まる。気になる人に会う日は、普段より少し服を選ぶ。美容院へ行った直後なら、偶然を装いながら誰かに会いたくなる。香りをつけ過ぎて玄関を出た後、「待て、俺はこれからデートなのか芳香剤なのか?」と不安になることだってある。女子の準備を「凄いな…」と眺めていた男子が、気づけば同じ鏡の前で試行錯誤しているわけだ。

テレビや動画を開けば、男性が美しく装い、女性が豪快に踊り、性別だけでは説明し切れない格好良さが次々と目に入ってくる。そこから持ち帰れるのは、誰かの姿を丸ごと真似する方法だけではない。柔らかな見せ方は自分にも使えるかもしれない。力のある動きは女性にも似合うかもしれない。反対側にある魅力を少し借りれば、自分の表現はもっと広がる。その発想が日常の服や髪や立ち居振る舞いにも静かに入り込んでいく。

男性が美容を始めたのではなく、男性も「どう見られたいか?」を自分で選ぶようになった、と考える方が今の景色にはよく似合う。

そうなると、恋愛の構図まで少し変わる。かつて男子が女子を見つめ、女子が「どう見られるか?」を考えていた場面でも、今は男子も同じ舞台へ上がる。「俺はありのままで勝負する」と言いながら、出掛ける5分前に3回、鏡を見るなら、もう立派な出演者である。ありのままさん、随分と念入りに前髪を調整しますね、と鏡だけは全部知っている。

ただ、自分を整える目的を異性からの採点だけにしてしまうと疲れてしまう。誰かに好かれるために始めた筋トレが、自分の体調を整える楽しさへ変わっても良い。人に褒められたくて選んだ服が、着ている自分自身を上機嫌にしても良い。恋のために覚えた美容が、やがて自分を大切に扱う習慣へ育つこともある。

女子が持っていたと思われた「見せ方」という道具を男子も手に取り始めた時、男と女の境目が消えるのではない。むしろ、それぞれが使える表現の幅が広がっていく。男子が防具を増やしたように見えて、実際には自分を表す道具箱が少し大きくなっただけなのかもしれない。

そして、その道具箱を男女がお互いに覗けるようになると、「男ならこれ」「女ならこれ」という境界そのものが少しずつ揺れ始める。次に面白くなるのは、男が女へ寄ることでも、女が男へ寄ることでもない。両方の良いところを持ち帰って、自分なりの形へ組み替える人たちが現れることである。

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第3章…男らしさも女らしさも混ぜて良い~境界を越えると魅力はもっと自由になる~

ステージの上で女性グループが踊っている。ある瞬間には腰や肩の線をしなやかに使い、次の瞬間には床を踏み込むような勢いで腕を振り抜く。可愛らしさだけでもなければ、力任せでもない。柔らかさの中へ一瞬だけ鋭さが入り、その直後にはまた軽やかな表情へ戻る。こういう踊りを見ていると、「男性的」「女性的」という2つの箱だけでは、もう魅力を説明し切れないことに気づく。

同じ振り付けでも、男性が踊れば大きな重心移動や踏み込みが目を引き、女性が踊れば体の線や手先の動きが違った表情を生むことがある。そこで片方を消す必要はない。パワーが映える部分には思い切った動きを残し、柔らかさが映える部分では線の美しさを前へ出す。適材適所で組み合わせれば、1つの動きの中に2つ以上の魅力が同居する。全部を平均点へ丸めるより、尖った部分を残した方が見ていて楽しい。

この感覚はステージの上だけのものでもない。テレビや動画を通して、私たちは毎日のように自分とは違う装いや動き方、考え方に触れている。男性が丁寧に肌を整える姿も、女性が豪快に体を動かす姿も、珍しいものとして遠巻きに見るだけではなくなった。「あ、それ格好良いな」「そこは自分にも取り入れられそうだ」と、知らないうちに互いの道具箱を覗いている。

そこで面白いのが、人は見たものをそのままコピーするとは限らないことである。美容に興味を持った男性が、女性と同じ姿を目指す必要はない。力のある動きを好む女性が、男性のようになろうとしているとも限らない。それぞれが自分に似合う部分だけを持ち帰り、少し角度を変えて使う。そんな千変万化が積み重なると、昔なら一言で片づけられていた「男らしさ」「女らしさ」が、随分と広い言葉に見えてくる。

異性の良さを取り入れることは、自分らしさを捨てることではなく、自分という器に使える表現を増やすことでもある。

若い男性が化粧品売り場で真剣に商品を選び、その横では女性が筋力トレーニングの動画を見ている。少し前なら誰かが振り返ったかもしれない光景も、今ではそれほど珍しくない。本人たちは社会の男女観を変えようと旗を振っているわけではなく、「こっちの方が自分には合う」と選んでいるだけだったりする。革命家だと思ったら、本人は眉毛を整えたかっただけ。世の中はそんな肩透かしを繰り返しながら少しずつ変わっていくのかもしれない。

ただし、何でも混ぜれば魅力的になるわけでもない。自分が好きでもないものを流行だからと抱え込めば、今度は別の窮屈さが始まる。大切なのは男性的か女性的かを先に決めることではなく、「自分には何が心地良いか」「どんな姿なら胸を張れるか」を選ぶことだ。柔らかさが似合う人もいる。逞しさが気持ち良い人もいる。両方を行ったり来たりする人がいても良い。

そうして境界を越える人が増えていくと、次にはさらに面白い人たちが現れる。男らしさと女らしさのどちらを多く持つかという勝負そのものから、スッと横へ移動する人たちだ。異性にどう見られるかより、自分の暮らしをどう成り立たせるかを優先する。「その競技、私は出場しなくても良いかな…」と静かに席を立つ。そこから、男女どちらの側にもベッタリ寄らない新しい立ち位置が生まれてくる。


第4章…そして第三勢力が現れた~誰も攻略せず自分で成り立つという選択~

気になる相手の好みを読み、近づく距離を考え、自分の見せ方を工夫する。反対側もまた、相手の気持ちを読み違えないよう慎重になり、服や美容や会話まで整えていく。男女がお互いの攻略法を知れば知るほど、恋愛は上手になりそうなものだ。ところが、その知識が増えた先から少し不思議な人たちが現れる。「そこまで頑張って参加しなくても、自分は自分で楽しく暮らせるのでは?」と、盤面そのものから半歩横へ移動する人たちである。

恋人が欲しくないわけでも、人間嫌いになったわけでもない。気の合う人とは付き合うし、心が動けば恋だってする。ただ、価値観が大きく違う相手を説得したり、こちらを嫌っている人へ無理に好かれようとしたり、自分を削ってまで関係を維持したりしない。誰かとの勝負に勝つより、自分の時間、仕事、趣味、暮らしをきちんと成立させる方へ力を使う。そんな独立独歩の選択である。

これは恋愛だけに起きる話でもない。テレビやインターネットを開けば、遠い土地の暮らしも、自分とは違う価値観も、見知らぬ誰かの怒りまで一瞬で届く。世界との接点が増えた分、「全部と仲良くするなんて無理だ」と気づける機会も増えた。そこで取捨選択が始まる。好きなものには近づき、苦手なものからは少し離れ、自分に必要な縁を残す。人間関係まで二十四時間営業にしなくて良いのである。

この距離の取り方には、接触コスト(人と関わることで生まれる時間や気疲れの負担)を小さくする働きもある。毎回ぶつかる相手と延々と議論するより、会う回数を減らせば心は静かになる。恋愛でも「振り向かせなければ」と追い続けるより、「合わなかったな」と帰宅して好きなご飯を食べた方が、翌朝は元気だったりする。壮大な恋愛戦争から撤退した晩ご飯が卵かけご飯というのも少々締まらないが、平和とはそんなものかもしれない。

誰とも争わずに自分で立てることは、孤独になることではなく、誰と近づくかを自分で選べる余白を持つことである。

ただし、距離を取れば何も問題が起きなくなるわけではない。自分と似た考えの人、自分が好きな情報、自分が心地良い場所だけに囲まれていると、違う価値観に触れた時の衝撃が却って大きくなることもある。「そんな考え方の人、本当にいるの?」と驚いたところで、向こうも同じ顔をしているかもしれない。自分の世界を守ることと、世界には自分と違う人もいると知っておくことは、両立させた方が暮らしやすい。

だから第三勢力は、誰とも関わらない人ではない。誰にでも近づくことを辞めた人、と見る方が近い。扉には鍵があるけれど、永久に封鎖しているわけではない。気の合う相手が来れば開ければ良いし、怪しい訪問販売ならインターホン越しで十分である。恋愛も人付き合いも、このくらい自分で距離を決められると少し気が楽になる。

女子がクモの巣を張り、男子がそこへ近づく。男子も自分を磨き始め、男女がお互いの魅力を取り込む。そして最後には、「待てよ、自分はそもそもどこへ行きたいんだ?」と足元を見る人が出てくる。男女どちらの旗を持つかではなく、どの距離なら自分らしく人と付き合えるかを選び始めるのである。

恋の網から逃げ切ることがゴールではない。網に飛び込む自由も、少し離れて眺める自由も、自分の生活を楽しんでいる途中で思わぬ誰かと出会う自由もある。誰かを攻略し続けた先で、人は意外にも相手ではなく、自分自身の輪郭へ戻ってくるのである。

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まとめ…人を攻略した先で戻ってくる「私は何者でいたいのか?」

男子から見れば、女子はなかなか手強い。笑顔1つで気持ちを揺らし、服や髪や声の調子まで変え、何気ない会話の奥で相手の反応を見ていることもある。男子が「偶然会えた」と喜んでいる頃、女子側では小さな準備が積み重なっていたかもしれない。それを知れば、「女子、怖いな」と言いたくなる気持ちも分からなくはない。

けれど男子も、いつまでも無防備ではいられなかった。髪や肌を整え、服を選び、体を鍛え、自分がどう見えるのかを考えるようになる。さらに男女がお互いの表現を見られる時代になり、柔らかさは女性だけ、逞しさは男性だけという境目も少しずつ動いた。十人十色、それぞれが似合うものを選べば良いという空気は、昔よりずっと広がっている。

そこで生まれるのが、相手を攻略し続けることから少し離れた生き方だ。誰かに好かれるためだけに自分を作らず、価値観の合わない相手とは無理に争わず、必要な人とは心地良い距離で付き合う。恋愛を否定するわけでも、人を遠ざけ続けるわけでもない。「この人とは近づきたい」「この人とは少し離れていたい」を自分で決められるようになるだけで、毎日の消耗は随分と変わる。

もちろん、自分の心地良い世界だけに閉じこもれば、思いもしなかった場所に落とし穴が出来ることもある。違う考え方を知らなければ、いざ出会った時に驚きも大きくなる。それでも、全ての人と分かり合おうとして疲れ果てる必要はない。扉を閉める時があっても良いし、面白そうな人が来たら少し開けてみても良い。「袖振り合うも多生の縁」というくらい、人との縁は予定表通りにはやって来ない。

誰かに勝つことより、自分がどんな人間として、誰と、どのくらいの距離で生きたいのかを選べる方が、ずっと頼もしい。

恋する女子がクモの巣を張っていたはずなのに、男子も鏡の前で装備を整え、男女とも互いの良さを取り込み、そのうち「私は私で良いじゃないか」と自分の道を歩き始める。何とも自由奔放な着地である。尤も、その道を一人でご機嫌に歩いていたら、横から気の合う誰かが現れるかもしれない。そうなったらクモの巣だの防具だのと言っている場合ではない。たぶん二人とも、少し照れながら歩幅を合わせることになる。

心身の全てが凶器に見えた相手も、近づいてみれば同じように迷い、考え、傷つく1人の人間である。そして自分自身も、誰かから見れば十分に不可解で、時には魅力的な存在なのだろう。恋も美容も男女らしさも、自分を縛る札ではなく人生を楽しむ材料くらいにしておけば良い。最後に残るのは、誰かにどう見られたかではなく、「この自分なら、まあ悪くない」と笑える毎日なのだから…。

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