最後の一口は誰のもの?~大家族の鍋と盆正月のご馳走から受け継ぐ味覚の作法~

[ 家族の四季と作法 ]

はじめに…最後の一個が残る食卓には理由がある

大皿の上に、最後の1個だけ料理が残っている。誰も嫌いなわけではない。それどころか、ちょっと食べたい人までいる。それなのに箸が伸びない。「誰か食べるかな」「好きな人がいたはず」「まだ子どもが食べるかもしれない」。そんな小さな譲り合いが重なると、最後の1個はただの残り物ではなく、その食卓の人間関係を映すような存在になります。

8人家族の鍋となれば、さらに賑やかです。食べる速さも好みも違い、子どもは勢いよく食べたと思えば突然止まる。大人は酒でも飲みながら少し速度を落とし、「それ残ってるぞ」「好きだったろ?」と声を掛け、時には鍋奉行になって配給開始。気がつけば肉や魚は綺麗に消え、最後に残るのは出汁をたっぷり吸った白菜やネギといった野菜だけだったりします。これはこれで旨い。負け惜しみではありません、多分。

食べられるものを無理に押し込む必要はありませんし、翌日の弁当に回せるものなら立派な次の出番があります。大切なのは「その場で全部なくすこと」ではなく、食べ物を粗末にせず、誰がどう食べれば気持ちよく終われるかを考えることなのでしょう。そこには一家団欒の楽しさと、臨機応変な暮らしの知恵が詰まっています。

最後の一口には、料理の量よりも「誰に食べてもらいたいか」という気持ちが残っているのかもしれません。

そして、その譲り方や食べ方を辿っていくと、盆や正月の親戚宅で味わった手料理、自分が子どもの頃に覚えた「残さない」という感覚、親になって子どもへ回した少し良い食材まで、食卓の記憶が1本に繋がってきます。お腹を満たすだけでは終わらないのが、家族で食べるご飯の面白いところです。

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第1章…鍋奉行は今日も忙しい~食べムラ一家を回す譲り合いの知恵~

大人数で鍋を囲むと、食卓はなかなか予定通りには進みません。グツグツ煮えている鍋を前に「さあ食べよう」と始まったはずなのに、肉ばかり狙う子がいれば、豆腐を何個も確保する子もいる。さっきまで勢いよく食べていたのに、突然お腹がいっぱいになった顔をする子までいます。一家団欒とは、全員が同じ速さで仲良く箸を進める光景ではなく、案外こういうバラバラまで含めて賑やかなものなのでしょう。

子どもが何人もいる家庭では、大人が自分のペースだけで食べてしまうと少し困ったことが起きます。好物に手を伸ばすのが遅かった子の前で、それが全部なくなってしまうこともあるからです。「まだ肉、食べるか?」「これ好きだっただろ?」「そっちに魚残ってるぞ」。そんな声を掛けながら、大人は少しゆっくり食べる。酒の一杯でもあれば、速度調整にはちょうど良いものです。飲み過ぎて鍋そのものを忘れてはいけませんが、それは別の問題です。

時には鍋奉行も必要になります。「これはまだ食べてないだろ?」と家族の器へ入れ、「そればかりじゃなく、こっちも食べてみろ」と交通整理をする。自由な食卓なのに、急に配給所のような瞬間が訪れます。それでも、誰かだけが好物を食べ損ねたり、好き嫌いの陰で同じものばかり食べたりするより、少し声を掛けてもらった方が食卓全体は丸く収まります。

もちろん、食べたくないものを無理に押し込むこととは違います。子どもの食欲は日によって変わりますし、体調によって食べられる量も違います。だからこそ「全部食べなさい」の一言だけで終わらせず、その日の様子を見ながら臨機応変に回していく。まだ食べるのか?、もう十分なのか?、好きなものを本当に食べられたのか?鍋を見ながら、実は人の顔もかなり見ています。

鍋奉行の役目は、鍋を支配することではなく、みんなの「食べたかった」を出来るだけ残さないことなのかもしれません。

不思議なもので、そうして子どもたちへ先に回していると、終盤の鍋から肉や魚は見事なほど姿を消します。残っているのは、出汁を吸った白菜、ネギ、きのこ、少し崩れた豆腐。開始時には豪華鍋だったものが、大人の最終戦になる頃には滋味深い野菜煮込みへ華麗に転身しています。それでも「みんな食べたな」と思えれば、最後の白菜もなかなか旨いものです。

家族で1つの鍋を囲む楽しさは、同じ料理を食べることだけではありません。譲ったり、勧めたり、ちょっと待ったり、時には強制的に1個ずつ配ってみたりしながら、それぞれのお腹と好みを見つけていく。その小さなやり取りの積み重ねが、その家ならではの食卓の作法を作っていきます。


第2章…父の鍋には野菜が残る~食べ切るより先に子どもへ回したご馳走~

鍋の序盤には、肉も魚もつみれも豆腐も元気よく浮かんでいます。ところが家族みんなの箸が進み、子どもたちのお腹が満たされてくる頃には、景色が随分と変わります。肉は消え、魚も見当たらず、鍋底から顔を出すのは出汁をたっぷり吸った白菜やネギ。父親の終盤戦だけを見ると、「今日は野菜鍋でしたっけ?」と聞きたくなるほどです。

それでも、最初から自分の肉を別皿に確保しておきたいとは限りません。少ししかないもの、高かったもの、子どもが好きなものなら、「まだ食べるか?」と先に声を掛ける。食べムラのある子なら、今はいらないと言っていても少し後から箸が伸びることがあります。そこで大人が先に平らげてしまえば、「あれ食べたかったのに…」が発生します。小さな一言ですが、食卓ではなかなかの大事件です。

そんな時、大人が食べる速度を少し落としておくと都合が良くなります。子どもが本当に食べ終わったのかを見ながら待ち、残っている好物を知らせ、それでも要らないとなれば次の人へ回す。8人、6人と人数が多ければ、これは遠慮というより臨機応変な配分です。食事なのに、どこか家族経営の物流センターのようでもありますが、荷物ならぬ肉や魚が無事に目的地へ届けば上出来です。

ここで大切なのは、何が何でも皿を空にすることではありません。唐揚げなら翌日の弁当に回せますし、保存できる料理なら次の食事に登板してもらえば良い。反対に、鍋の中ですっかり煮えた野菜なら、その日のうちに食べられる人が引き受ける。食べ物ごとに行き先を変える方が、無理なく無駄も減らせます。

子どもには体調も食欲も好みもあります。苦手なものを力ずくで食べさせるのではなく、「これは好きだったな」「こっちは食べてみるか」と声を掛けながら、その子なりの食べ方を見つけていく。そこに大人側の「食べられるものは大切にしたい」という感覚が加われば、食卓は押しつけではなく和気藹々とした小さな学びの場になります。

親が最後に野菜を食べているのは、我慢した結果ではなく、家族みんなの「美味しかった」を見届けた結果なのかもしれません。

もちろん、毎回そんな立派な気持ちで白菜をさらっているわけではないでしょう。「もう誰も食わんな? じゃあ全部もらうぞ」と締めに入る夜もあります。それで良いのです。誰かに譲り、残ったものを別の日へ繋ぎ、最後には食べられる人が引き受ける。その繰り返しの中で、子どもは料理の味だけでなく、食べ物にはちゃんと行き先があることまで覚えていきます。

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第3章…盆と正月は味覚の博覧会~親戚の手料理が教えてくれた忘れられない味~

子どもの頃の盆や正月には、親について本家や親戚の家を巡るだけで、ちょっとした大旅行のような楽しさがありました。玄関を上がれば大人たちは挨拶を交わし、子どもにはお年玉やお小遣いという嬉しい出来事が待っています。しかし、本当の勝負はその先。座敷へ入ると、既に料理がズラリと並び、「さあ食べなさい」と歓迎される。ところが困ったことに、これが一軒だけではありません。満腹で次の家へ行っても、またご馳走が待っています。子どもの胃袋にも予定表が必要だったかもしれません。

大人たちの宴会は半日ほど続くこともあり、その横で子どもも立派な参加者でした。酒の肴だけが並ぶのではなく、おはぎや栗の渋皮煮をはじめ、甘いもの、季節のもの、手間を掛けた料理がふんだんに用意されています。老若男女が同じ場所に集まりながら、それぞれに楽しめる味がちゃんとある。今思えば、あの食卓には一家団欒だけでなく、子どもを客人として迎える心遣いまで盛り込まれていたのでしょう。

しかも、多くは家庭で作られた料理でした。同じおはぎでも家によって餡の甘さや米の残し方が違い、煮物なら出汁も具材も変わる。栗の渋皮煮などは、皮を剥いて煮て味を含ませるまで相当な手間が掛かります。そんな料理を親戚宅から親戚宅へ移動しながら食べれば、子どもは意識しないまま千差万別の味に出会います。「この家のは甘い」「これは初めて食べた」「あっちのおばちゃんのも旨かった」。そんな小さな比較が、舌の中に少しずつ物差しを作っていきます。

三つ子の魂百までと言いますが、味の記憶にも似たところがあるのかもしれません。甘さや塩気だけではなく、香り、歯触り、温度、季節、その場にいた人まで一緒になって記憶へ残ります。子どもの頃に出会ったご馳走は、舌で覚えた味であると同時に、人に迎えてもらった記憶でもあります。

だから、大人になって「あれがもう一度食べたい」と探しても、なかなか同じものには巡り合えません。立派な店で高価なものを買えば、料理そのものはもっと洗練されていることさえあります。それでも「あの味とは違う」と感じる。腕前の差だけではなく、作った人も、食べた場所も、自分の年齢も違うからです。畳の上で大人たちの話を聞きながら食べた一口と、今の自分が買ってきて静かに味わう一口では、同じ材料でも記憶の調味料が違います。

その味に二度と会えないと思うと少し寂しくなりますが、悪いことばかりでもありません。あの日の味を完全再現できなくても、自分の中には「こんなものも旨かった」「世の中にはこんな味もある」という経験が残っています。豪華な食材だけではなく、手間を掛けた甘味や旬の料理、知らなかった食感まで次々と口にした体験そのものが、豊かな味覚の土台になっているのでしょう。

盆と正月の親戚巡りは、子どもにとってお年玉を集める行事だったはずなのに、ずっと後になって思い出すのは、何故か名前も分からない煮物や、もう作る人のいないおはぎだったりします。財布に入ったお金はいつの間にかなくなっても、「あれは旨かったなあ」という記憶だけは長持ちする。ご馳走とは、なかなか面白い財産です。


第4章…「これ食ってみろ」が味覚を育てる~知っている大人から知らない子どもへ~

少し値の張る肉が手に入った日、珍しい魚を見つけた日、人数分には少し足りない果物をもらった日。家族の食卓では、時々、小さな選択が生まれます。大人が先に食べても何も悪くありません。それでも親になると、不思議と「これ、子どもに食わせてみようか…」と皿をそちらへ寄せることがあります。自分はその味をもう知っているけれど、子どもはまだ知らない。その違いだけで、一切れの肉や一口の果物の行き先が変わるのです。

これは高価なものほど偉いという話ではありません。値段に関係なく、甘いだけではない甘さ、脂の旨み、魚の香り、野菜のほろ苦さ、果物の酸味、煮たものと焼いたものの違いなど、食べ物には千差万別の表情があります。同じ鶏肉でもムネとモモでは違い、同じ魚でも刺身と焼き物では印象が変わります。子どもがいろいろな料理に出会うことは、「好き」「嫌い」の二択を増やすのではなく、自分の舌の中にたくさんの基準を作っていく時間でもあります。

食育(食べることを通して、食べ物や健康、暮らしについて学ぶこと)というと、栄養や好き嫌いの克服を思い浮かべがちです。しかし、「これ旨いぞ。ちょっと食ってみろ」と大人が楽しそうに差し出す一口も、立派な食の経験でしょう。説明書を読みながら食べる必要はありません。「どうだ?」「旨い」「そうか」で終わっても良い。その短いやり取りの中で、知らなかった味が1つ増えています。

もちろん、差し出した高級肉を子どもが一口食べて「普通」と答える日もあります。親としては心の中で「それ、結構したんだけどな…」と会計担当者が顔を出しますが、そこで講義を始めなくても大丈夫です。今は分からなくても、別の料理で食べた時に「あれと違う」と気づくかもしれません。味覚は一回の正解発表で完成するものではなく、いろいろなものを食べ比べながら少しずつ育っていくのでしょう。

大人が子どもへご馳走を回す意味も、そこにあります。親が全部を我慢して、子どもだけ豪華にすれば良いわけではありません。家族みんなで「旨いな」と食べる時間も大切です。ただ、少ししかないものなら、まだ知らない子に一口多く経験させてみる。それは食べ物を譲っているようで、実際には自分がこれまで集めてきた「旨いものの地図」を少し渡しているのかもしれません。

「これ食ってみろ」の一口は、お腹を満たすだけでなく、その子の中に新しい味の物差しを1本増やしてくれます。

そして、その物差しは高級料理だけでは育ちません。出汁を吸った白菜、おばあちゃんのおはぎ、親戚宅の栗の渋皮煮、家のカレー、季節の魚、少し焦げた焼き物まで、豪華絢爛な一皿も普段着のご飯も一緒になって味覚の引き出しを増やしていきます。多くの味を知っているからこそ、「高いから旨い」ではなく「私はこっちが好き」と自分で選べるようになります。それなら、子どもへ渡したいのは高級品そのものではなく、選べるだけの経験なのでしょう。

やがて子どもが大人になり、自分では覚えていないような一口まで、どこかに残っているかもしれません。そして親になった時、少し良いものを前にして、ふと子どもの皿へ寄せる。「これ食ってみろ」。その瞬間、昔どこかの食卓で見ていた大人と同じことをしている自分に気づくことがあります。料理の作り方だけではなく、旨いものを次へ回す仕草まで受け継がれているのだとしたら、家族の食卓というものはなかなか奥深いものです。

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まとめ…ご馳走の記憶は食卓を巡る~最後の一口から次の世代へ~

食卓に残った最後の一口だけを見れば、ただの食べ残しに見えるかもしれません。でも、その周りには「まだ食べるか?」「これ好きだったろ」「明日の弁当に置いておこう」と、人のことを考える小さな判断が飛び交っています。鍋奉行まで出動すれば少々にぎやかですが、それも家族それぞれのお腹と好みを見ながら、ご馳走を気持ちよく着地させる知恵の1つです。

家族の食べ方は十人十色です。満腹なら無理をしない、食べられない理由があるなら尊重する、その上で食べられるものを簡単に捨てず、翌日に回したり、欲しい人へ譲ったりする。食べ物を大切にすることは、何が何でも完食する競技ではありません。最後まで行き先を考えてあげることも、十分に立派な食卓の作法でしょう。

かつて盆や正月に親戚の家で出会った手料理も、そんな食卓の記憶を育ててくれました。おはぎや栗の渋皮煮、名前も覚えていない煮物まで、大人になってから同じ味を探してもなかなか見つからない。それでも「あれは旨かった」という感覚は残り、今度は自分が子どもへ「これ食ってみろ」と差し出す側になります。誰かから受け取ったご馳走が、そのままの姿ではなくても次の食卓へ渡っていくのです。

高価な食材を全部子どもへ譲る必要もありませんし、親がいつも最後の白菜担当になる必要もありません。家族で「これ旨いな」と一緒に食べれば、それも立派な共有です。ただ、時々、自分が知っている味を、まだ知らない子へ一口だけ渡してみる。そこで「旨い」が返ってきても、「うーん、普通」が返ってきても、それで経験は1つ増えています。後者なら親の財布だけが少し泣きますが、それも食育の授業料と思えば……やっぱり少し高いかもしれません。

食卓で受け継がれるのは料理だけではなく、食べ物を大切にする気持ちと「旨いものを次の人にも知ってほしい」という小さな願いです。

昔のご馳走を完全に取り戻せなくても、これから誰かの記憶に残る一口を作ることはできます。最後の肉を子どもの皿へ入れた夜も、残った野菜を大人がさらった鍋も、みんなで笑った何気ない夕飯も、いつか「あの頃の味」になるのでしょう。そう思えば、今日の晩ご飯もちょっとだけ特別です。さあ、最後の一口が残ったら誰が食べるのか。それを決めるところまで含めて、家族のご馳走なのかもしれません。

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