「手を出さないこと」は冷たいことなのか?~待つ1分が人の力を守る話~

[ 介護現場の流儀 ]

はじめに…早くしてほしい人と自分で決めたい人の小さな攻防

スーパーのお菓子売り場で、小さな子どもが棚から棚へと楽しそうに動いていました。そばにいるお祖母さんは、どうやら少し先にいるお母さんへ早く追いつきたい様子です。「これに決めな」「いつものこれで良いだろ?」「早くして、ママのところへ行くよ」。次々と繰り出される見事なクロージングの嵐。それでも幼児はどこ吹く風で、夢中でお菓子選びを続行します。お祖母さんは急ぎたい。子どもは自分で選びたい。どちらの気持ちも分かるだけに、ちょっと笑えてしまう小さな攻防です。

介護の場面でも、似たことは起こります。袖に腕を通すのが遅い、立ち上がるまで時間が掛かる、食事の一口がなかなか進まない。見ている側は善意から「手伝った方が早い」と手を伸ばします。忙しい朝なら、なおさら電光石火で介助したくなるでしょう。

けれど、その人にはまだ自分で動かせる手があり、考えられる時間があり、「自分で出来た」と感じられる瞬間が残っているかもしれません。介護の「待つ」は何もしない時間ではなく、その人が今も持っている力を見つける時間です。

もちろん、何が何でも待てば良いわけではありません。痛みや疲れ、ふらつき、息苦しさがある人に「自立支援だから頑張って」というのは酷な話です。大切なのは時計を見ながら60秒耐えることではなく、すぐに全部を代わる前に、ほんの少し相手の動きを見ること。手を出す優しさと、敢えて待つ優しさ。その間にある絶妙な匙加減が、介護される人の毎日を随分と変えてくれます。

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第1章…介護の「つい手が出る」は親切だからこそ起こる

朝の着替えで、シャツのボタンに指を掛けた高齢者さんがいます。1つ目は留まった。2つ目は少し苦戦している。介助する側から見ると、手を伸ばして留めてしまえば数秒です。「ちょっと貸してくださいね」と声を掛けた瞬間、アッという間に全部完成。介助者としては一件落着です。ところが本人からすれば、「2つ目を留めようとしていた途中」だったかもしれません。

こうしたことは、着替えだけではありません。ベッドから起きる、椅子から立つ、スプーンを口まで運ぶ、歯ブラシを持つ、車椅子を少し動かす。介護には「待っていれば本人が出来るかもしれない場面」がたくさんあります。それでも手を出してしまうのは、介助者が意地悪だからではありません。むしろ逆で、困らせたくない、疲れさせたくない、転ばせたくないという親切心があるからこそ、先回りしやすくなります。

そこへ時間まで加わると、介助者の手はさらに速くなります。朝食の時間が迫り、次の人の介助も待っている。「ゆっくりで良いですよ」と口では言いつつ、心の中では「でも出来れば30秒くらいでお願いします」と時計に交渉している自分がいたりします。人間ですから無理もありません。忙しい介護現場で悠々自適とはいきませんし、家族介護でも朝の出勤や家事が消えてくれるわけではありません。

ただ、効率よく全部やってあげる日が積み重なると、本人が自分で動く出番まで少なくなることがあります。残存機能(その人に今も残っている身体や生活の力)は、筋力だけを指すものではありません。手を伸ばす、姿勢を整える、順番を考える、選ぶ、やってみる。日常生活には小さな能力がいくつも組み合わさっています。

着替え1つでも、服を見て前後を判断し、袖口を探し、腕を通し、布を引き上げるという動作があります。全部介助すれば短時間で終わりますが、本人が出来るところまで一緒に終わってしまいます。介護の親切は、早く終わらせることより「本人の出番を残すこと」で深くなる時があります。

だからといって、毎朝じっと腕組みをして「さあ、自力でどうぞ」と眺めれば良いわけでもありません。それでは介護者というより、突然現れた厳しい審査員です。必要なのは無我夢中で手伝うことでも、完全放置でもなく、相手の動きが始まるかをほんの少し見る余裕です。

「急がば回れ」ということわざがあります。介護では、急いで全部してしまう方がその瞬間は早くても、本人が持っている力を使える毎日を育てるなら、少し待つ方が長い目では近道になることがあります。臨機応変に手を出しながらも、本人の一挙一動を奪わない。その小さな匙加減に、介護の面白さと難しさが同居しています。


第2章…待つ時間は何もしていない時間じゃない~残存機能と「自分で出来た」を守る介助~

介護を受けるようになったからといって、その人が突然「何も出来ない人」になるわけではありません。立ち上がるには支えが必要でも、椅子の肘掛けを掴むことは出来る。着替えを全部1人で済ませるのは難しくても、腕を袖へ通すことは出来る。食事を最後まで自力で食べるのは疲れてしまっても、最初の何口かは自分で運べる。介護が必要な状態の中にも、「出来る」は細かく残っています。

介護では、こうした力を残存機能(その人に今も残っている心身の能力)として捉えます。ただし、筋力だけを数える話ではありません。目の前の服を見て「これを着る」と理解すること、手を伸ばすこと、動作の順番を思い出すこと、上手くいかなければ少しやり方を変えてみることも生活を支える力です。毎日の着替えや食事、整容、移動は、試行錯誤を重ねながら多くの力を使う小さな実践の場でもあります。

そこで介助者が先回りせず、少し待ってみます。シャツの袖を目の前に置いたら手が伸びるだろうか?スプーンを持ったら自分から一口目を運べるだろうか?立ち上がる前に足を引く動作が出るだろうか?静かに見ていると、「全部介助が必要だと思っていたけれど、ここは自分で出来るんだ」と発見することがあります。待つ時間は介助の空白ではなく、本人の能力を確かめる観察時間になっているのです。

この時に大切なのが、自己効力感(自分なら出来ると思える感覚)です。ほんの小さな動作でも、自分の力で達成できれば「まだ出来た」という経験になります。昨日はボタンを1つ、今日は2つ。今日は疲れて1つに戻ったとしても構いません。高齢期の暮らしは、いつも右肩上がりの成長グラフにはなりません。一進一退しながら、その日の体調と折り合いをつけて暮らしていくものです。

介助者にとっては、全部やった方が仕上がりも早く、見た目も整います。髪をとかす場面などは分かりやすく、本人に任せたら右側だけ妙に念入りで左側が少々自由奔放、ということもあるでしょう。「うん、今日は右半分が絶好調だな」と心の中で思いつつ、出来たところは本人の仕事として残し、届きにくいところだけ支える。そんな介助には、完成品の美しさとは違う価値があります。

自立支援は「1人で全部やってもらうこと」ではなく、「自分で出来る部分まで介助者が奪わないこと」から始まります。 出来るところは本人に任せ、難しいところには手を添える。その積み重ねが、生活機能(毎日の暮らしの中で実際に使える力)を生かすことに繋がります。

そして介護者にも良い変化があります。「この人は全介助」と大きなひと括りで見るのではなく、「立つ時は支えがいるけれど、服は自分で選べる」「食事後半は介助が必要だけれど、最初は自分で食べられる」と細かく見られるようになります。出来ないことの一覧表ではなく、出来ることの地図が少しずつ出来上がっていく感覚です。

その地図は毎日同じではありません。体調や気分、睡眠、痛みでも変わります。それでも「今日はどこまで出来そうかな」と見てくれる人が傍にいることは、本人にとって心強いものです。待つ数十秒には、身体を動かす機会だけでなく、自分で選び、自分で始め、自分で終えられる小さな誇りまで詰まっています。

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第3章…「自分でやって」は自立支援とは限らない~見守りと放置を分ける観察力~

「出来ることは自分でしてもらおう」。介護ではとても大切な考え方ですが、この言葉だけが独り歩きすると、少々怖いことがあります。立ち上がろうとして何度も腰が落ちている人に「自立支援ですから頑張りましょう」、息を切らしながら服を着ている人に「もう少し自分でやってみましょう」。これでは支援というより、突然始まった根性試験です。介護職は鬼教官になるためにそこにいるわけではありません。

高齢者の身体は、昨日出来たことが今日も同じように出来るとは限りません。眠れなかった朝、食欲がない日、膝が痛む日、風邪の治りかけ、薬の影響でぼんやりしている時など、同じ人でも動ける範囲は変わります。認知症があれば、身体は動かせても動作の順番が分からなくなることがあります。パーキンソン病などでは、動き始めに時間が掛かったり、時間帯によって動きやすさが変わったりすることもあります。

だから介助者が見るべきなのは、「昨日は出来た」という記録だけではありません。目の前にいる今日の本人です。アセスメント(心身の状態や生活状況を見て必要な支援を判断すること)は、書類を作る時だけに行うものではなく、日常の介助でも繰り返されています。顔色はどうか、呼吸は乱れていないか、痛そうな表情はないか、手に力が入っているか、立った時に身体が傾いていないか。食事なら、咳や咽込み、声の変化、眠気などにも気を配ります。

ここで「1分待つ」という言葉の意味も変わってきます。時計を見て、何が起きても60秒間は手を出さないという話ではありません。転びそうならすぐ支える。痛みが出れば止める。息苦しそうなら休んでもらう。飲み込みに異変があれば食事を続けることより安全が先です。良い見守りとは、手を出さずに眺めることではなく、いつ手を出すべきかを見逃さないことです。

見守りと放置の違いは、この「観察」があるかどうかに表れます。少し離れていても、本人の動きを見ていて、必要ならすぐ動ける。それなら見守りです。反対に、「自分で出来る人だから」と決めつけて注意を向けず、困っていることにも気づかない。それでは本人の自立を尊重しているとは言いにくくなります。

この判断は十人十色です。同じ要介護度でも、得意なこと、苦手なこと、疲れやすさ、痛み、認知機能、生活歴は違います。同じ人でさえ朝と夕方では様子が変わります。介護に万能の秒数や万能の介助量がないのは、少々ややこしいところです。「この人は50%介助」と計算機のように決められたら楽なのですが、人の暮らしはなかなか小数点まで言うことを聞いてくれません。

だからこそ、臨機応変が介護の腕になります。今日は手を添えるだけで立てた。明日は腰を支える必要があるかもしれない。別の日には声掛けだけで動き始めることもある。その変化を「昨日は出来たのに」と責めず、「今日はここまで支えよう」と受け止める方が、本人も介助者も穏やかです。

自立支援は、本人に無理をさせて能力を証明してもらうことではありません。その日の力を見つけ、使えるところは任せ、危ないところや苦しいところは迷わず支える。その柔らかな判断があるから、「待つ」という介護は冷たさではなく、本当の意味での優しさになっていきます。


第4章…上手な介助は0か100かではない~待つ・声を掛ける・少し支える段階的介助~

介護を「自分でしてもらう」か「全部手伝う」かの二択にすると、途端に難しくなります。実際の暮らしは、そんなに綺麗な二色には分かれません。立ち上がり1つ取っても、椅子の位置を少し直せば自分で立てる人もいれば、「足を少し引いてみましょうか」という声掛けで動ける人もいます。手すりに手を置くところまで手伝えば、その先は自力で立てる人もいるでしょう。

そこで役立つのが、段階的介助(本人の力に合わせて必要な分だけ援助を加えていく方法)という考え方です。最初から身体を抱えて動かすのではなく、まず本人が始めるのを待つ。それで難しければ声を掛け、動きやすい位置へ物を整え、それでも足りなければ手を添える。必要になれば、しっかり身体介助まで行います。介助量を0から一気に100へ跳ね上げるのではなく、その人に合うところまで少しずつ調節していくわけです。

朝の洗面でも同じです。タオルや歯ブラシが手の届かない場所にあれば、「出来ない」のではなく「届かない」だけかもしれません。目の前に置けば、自分から手を伸ばすことがあります。服を着る時も、袖口が丸まっているだけで苦戦しているなら、袖を広げるところだけ介助すれば済むかもしれません。介護者がやるべきことは、本人の代わりにゴールまで走ることだけではなく、本人が走りやすいスタート地点を作ることでもあります。

この視点を持つと、「出来る・出来ない」の境目も少し面白く見えてきます。冷蔵庫の奥にある牛乳を取れない人でも、手前に置けば取れる。ボタン掛けに時間が掛かる人でも、大きなボタンなら出来る。椅子から立てないように見えても、座面の高さを変えれば立てることがある。環境を少し変えるだけで、介助者の手ではなく本人の力が主役に戻ることがあります。創意工夫とは、豪華な福祉用具を並べることだけではないのです。

そして、上手くいかなかった時も大切です。何度か試して動きが止まったなら、「もう少し頑張って」と押し続ける必要はありません。「今日はここをお手伝いしますね」と途中から介助に入れば良い。自分で始めたことを最後まで自力で完遂しなければ失敗、という採点表は介護には要りません。途中まで本人、途中から介助者。それで無事に暮らしの動作が終われば、立派な共同作業です。

良い介助は、本人から仕事を奪わず、本人だけにも背負わせず、その日のちょうど良い分担を探すことです。

この「ちょうど良い」は毎日変わります。昨日は声掛けだけで立てた人が、今日は手を添える必要があるかもしれません。反対に、しばらく介助していた動作を本人が突然すっと始める日もあります。「おお、今日はそこまで行きますか」と介助者が心の中で小さく拍手する瞬間です。予定通りにいかないのが介護ですが、予定を超えて出来る日もあるから侮れません。

段階的介助が身についてくると、介護者の手も少し変わります。「してあげる手」だけではなく、「待てる手」「キッカケを作る手」「必要な瞬間だけ支える手」になるからです。臨機応変に介助量を変えながら、その人の動きを最後まで見届ける。介護技術の上手さは、どれだけ素早く動かせるかだけでなく、どこまで自分の手を使わずに済ませられるかを考えられることにも表れます。

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まとめ…その手を出す前のひと呼吸がその人の明日を支えている

介護をしていると、「手伝わなければ」という気持ちは自然に湧いてきます。困っている姿を見れば助けたくなりますし、転倒や失敗を防ぎたいと思うのも当然です。それでも、手を伸ばす前にほんの少し相手を見る時間があると、思っていた以上の「出来る」が見つかることがあります。

待つ1分とは、60秒をきっちり計る介護技術ではありません。本人が動き始めるのを待ち、難しそうなら声を掛け、環境を整え、それでも必要なら少し手を添える。危険や苦痛があれば迷わず介助する。その臨機応変な往復こそ、毎日の介護に必要な匙加減です。

全部してあげるのでもなく、何でも自分でしてもらうのでもない。本人と介助者が二人三脚で、その日に使える力を探していく。昨日とは違っても、それで良いのです。ボタンが1つ留められた日も、今日は疲れて全部お願いした日も、暮らしはちゃんと続いていきます。介護は毎日満点を取る試験ではありませんから、採点係まで引き受けなくても大丈夫です。

手を出さない時間にも介護はあり、必要な瞬間に差し出す手にも介護があります。その両方を使い分けられるようになると、「してあげなければ」という肩の力が少し抜け、本人の動きを待つ時間にも価値が見えてきます。

一進一退の日々の中で、「今日はここまで出来たね」と笑える瞬間が1つ増える。それは本人にとっても、支える人にとっても小さな成功です。介護する手をほんのひと呼吸だけ止めてみる。その短い時間から、その人らしい明日がそっと動き出すことがあります。

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