目次
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アメリカではお祭りのようにワクワクした昼食が並び、子どもたちは口のまわりをケチャップで染めながらニッコリしているかもしれない。
世界中でも、バンズの間に肉や野菜や何やらがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、今日も元気に「ザ・バーガー文化」が回転中。
だが、ここ日本ではどうだろう。
高齢者施設のお昼どき、トレイにそっと乗っているのは白ごはんに煮物、そしてお吸い物。
パンが出たとしても、そこは食パンかロールパン。
うっかりハンバーガーなんて並べようものなら、「これはおやつですか?」と真顔で尋ねられる始末。
ホットドッグは?もちろん見当たらない。
アメリカン・ドリームは、ここでは遠い夢なのかもしれない。
いやいや、日本にはおむすびがあるじゃないか?と言われそうだけど、彼らだって最近はちょっと不遇だ。
冷たい、乾く、型崩れする。
どの具材も個性派なのに、「高齢者に向かない」の一言でごっそり棚から外される。
そんな食べ物たちの静かな絶滅危惧を目の当たりにしながら、ふと思う。
「自分が施設に入る20年後、食べたいものは、ちゃんと食べられるのかな?」と。
これは、世界のバーガー事情をのぞきつつ、日本の高齢者施設で“消えてゆく味”をめぐる、ちょっとお腹がすいてくる物語である🩷。
世界を見渡せば、今日も元気に挟まれている。
バンズの中に肉、野菜、チーズ、時には果物。
パリではバジルの香りが漂い、ニューヨークではパティの焦げ目がジュウジュウ音を立てる。
ベトナムの屋台ではピリ辛ソースが垂れそうになり、トルコの街角ではラム肉バーガーが香辛料とともに立ち上る湯気をまとっている。
ハンバーガーはもう、国を超え、文化を超え、人生の横にそっと添えられる食べ物として、世界の“主食兼エンタメ”の地位を獲得している。
ときには豪快に、ときには軽やかに。
中身のバリエーションはもう宇宙規模。
ホットドッグだって負けてはいない。
縦に割ったパンの中にソーセージ、そこにザワークラウトを乗せるか、チリビーンズをぶっかけるか、ケチャップ&マスタードでクラシックに決めるか。
世界の手軽な主役級グルメたちは、今日も片手の中で自由を語っている。
だが、日本の高齢者施設に目を向けると……その自由は静かに姿を消していた。
お昼時のトレイの上にあるのは、炊きたてごはんに、よく煮えたおかず、そして味噌汁。
パンが出たとしてもそれは、食パン。
多くてロールパン。
耳付きか耳なし、せいぜいそのくらいの差である。
そして何より驚くべきは――おむすび、ですら滅多に主役を張らないという事実だ。
あのコンビニで多くの人々が「今日はツナマヨか?それとも鮭か?」と真剣勝負をしている。
あの日本の代表選手・おむすびが、施設ではせいぜい“たわら型の白い米塊”にまで姿を縮め、しかも「たまには違う形で…」などという願望は海よりも深く沈んでいる。
海苔のパリパリ感?
ありません。
具材のバリエーション?
だいたい梅か昆布。
熱々のおにぎりを握ってくれるおばあちゃん的な温もり?
冷蔵ケースの冷たさで上書きです。
世界では“挟む食べ物”がどんどん進化しているというのに、日本の高齢者施設では“包む食べ物”までが進化の余地を奪われている。
なぜこんなに静かなのか。
なぜこんなにも彩りを避けるのか。
いや、彩りがないわけではない。
トマトゼリーとか、謎のカボチャプリンとか、そこじゃない系の色は出てくる。
でも、そこじゃない。
世界がバンズで挟んで自由を叫び、ホットドッグがかけられる自由を謳歌し、おむすび屋が今日も感動をにぎっているその横で、日本の施設のトレイは、なぜこんなにも“しーん”としているのか。
おかしいのは、私の味覚ではない。
多分、現場の常識のほうだ🩷。
ホットドッグは、語った。
「俺はね、片手で収まる喜びってやつを大事にしてきたんだよ」
そう彼は語った。
かつては球場で、屋台で、学園祭で、世界中を股にかけたソーセージ界のスターダム。
その誇らしげな姿は、いつだって片手にフィットし、ケチャップの赤とマスタードの黄色で“即席の幸せ”を描いてきた。
けれど今、彼は言う。
「最近、見かけなくなったって?ああ、そりゃ俺も気にしてるさ…特に日本の高齢者施設からは、まるっと消えたようだな」
確かにホットドッグの名は、最近の施設の献立表には現れない。
ドッグパンはどこへ?
ソーセージのパリッと感はどこへ?
あの「かぶりついたときの背徳感」は、誰が封印したのか。
そりゃあ分かってる。
嚥下が不安、パンが喉に詰まりそう、ソーセージが噛みきりにくい…。
そういう声があるのもわかるけど、それって全部“調理の工夫”でなんとかなることじゃなかった?
アメリカの施設なんか、低脂肪ソーセージにやわらかバンズで対応して、ちゃんと並べてるっていうのに。
あっちはホットドッグだって“高齢者対応済”なんだ。
日本では、ホットドッグは「学生の軽食」か「コストコのおまけ」か「ドトールの朝食セット」みたいな位置づけで止まっている。
でも、本来は食文化の合理主義の代表選手だったはず。
パンに切り込みを入れて、ソーセージを挟み、かけるだけ。
これはもう、巻物文化に匹敵するスピード料理。
カリフォルニアあたりの職人なんか、朝食のホットドッグにアボカド、ポーチドエッグ、チポトレソースまで乗せてきやがる。
完全に“片手のグルメバーガー”に進化している。
それに比べて、日本の施設よ――ホットドッグはどこへ行ったのか。
せめてソーセージパンとか、あの懐かしの揚げパンドッグでもいい、何か気配があってもよくないか。
昔、学園祭で焼いてくれたホットドッグの匂い。
屋台で頬ばった、紙ナプキンの染み。
あのとき感じた“自由の味”は、施設のトレイのどこにも見当たらない。
ホットドッグは、今日もどこかで誰かの手の中にある。
でも、それが日本の高齢者の手の中でなくなってしまったのなら、それはやっぱり、ちょっとさみしい。
そして、かなり悔しい🩷。
「おい、俺たちはどうなるんだ…?」
最初に声をあげたのはツナマヨだった。
ほんのり温かくて、塩味も控えめ、どんな主食にも寄り添えるオールラウンダーだ。
でも、彼は今、存在の危機に瀕していた。
「この施設には白ごはんか週1回のパンしか出ないんだってさ」「パンが出てもジャムかマーマレードかマーガリン、それかシンプル菓子パンだってよ」そんな噂が、具材たちの間に静かに広がっていた。
かつて主食の上に乗ったり、挟まれたり、包まれたりしていた具材たちは、今や出番を失って控え室に追いやられている。
明太子は辛さを理由に退場。
高菜は噛み応えで不合格。
焼きそばは炭水化物ON炭水化物の判決を食らい、ベーコンエッグは朝のヒーローだったはずなのに「施設では控えてください」の貼り紙で門前払い。
かくして、具材たちはトレイの外でぽつねんと佇み、「自分が主役だった時代」を思い出して涙ぐむ。
主食の座は、白ごはんか食パンの二強体制。
そこにバリエーションはほとんどなく、たまに現れるロールパンは「小さい」か「パサつく」のクレームにさらされて早々に退場。
ごはんに至っては、炊き込み・おにぎり・チャーハン…すべて遠い夢。
やっと出てきたと思ったら、白くて丸くて、何も乗っていない。
いや、乗せてもいいのだけれど、何を乗せても結局、トレイの上の“自由度の低さ”に打ちのめされてしまう。
ホットケーキ?それはおやつ枠です。
カレー?施設では月1まで。
ピザトースト?ええ、もちろん、それは幻です。
全部、ご家族に差し入れを願ってくださいね…。
ここには「選ばない文化」という厳格なルールがあって、それは「栄養士が選んだものを静かにいただく」ことが“正しい食事”とされているのだ。
でも本当にそうだろうか?
誰かが「選べるようにしたい」と願ったとき、その願いは具材たちに届いているのか。
自分で焼きそばをパンに挟んで食べた日曜日の昼、ロールパンに卵焼きを挟んで“自己流サンド”にした子どもの頃、全部がひとりひとりの“食の物語”だったはずなのに、それらは「むせるかも」「手間がかかる」「誤嚥のリスク」そんな理由でどんどん切り落とされていく。
気づけば、具材の声が聞こえない食卓が、あちこちに並び始めていた。
いや、静かすぎるんだ。
おかずに色はあるけれど、言葉がない。
選べないって、こんなに静かなのかと驚くほどだ。
ツナマヨも、焼きそばも、ベーコンも、彼らはきっと、こうつぶやいている。
「なあ、俺たちのこと…忘れたのか?🩷」
「ところでさ、日本の施設って、外国の高齢者さんを見たことある?」
ふとした会話でそう聞かれて、「あれ?」と思った人も少なくないはず。
スタッフには外国人が増えてきた。
技能実習生も、特定技能も、いまや現場に欠かせない存在。
でも、入居者側は?となると、見事なまでに“全員日本人”だったりする。
まるで施設の入口に「文化の単一化はこちらです」と書かれているような雰囲気だ。
それもそのはず、日本の介護保険制度は“日本人で、かつ定住歴が長い人”を前提に作られている。
長期在留の外国人でない限り、制度の入口すら遠い。
そして、そこに言語の壁がある。
申請書類も説明会も地域包括支援センターの案内も、すべて日本語。
「困ったら帰国」というルートを暗に想定しているような空気が、社会の奥底に静かに横たわっている。
これはもう“見えない構造”と呼ぶしかない。
でも、世界を見れば、特にアメリカでは事情がまるで違う。
アメリカは多民族国家、移民国家。
だからこそ、「人によって“食べたい味”が違うのは当然」という前提が福祉の根っこにある。
州によっても「心の食べ物」が違うのが当たり前で、ルイジアナではケイジャン料理、ニューメキシコではチリソース、ニューヨークではデリ風サンド。
高齢者施設の献立でも、単なる“バリエーション”ではなく、その人の人生と地域に根ざした味が提供されるよう、かなり細かく配慮されている。
しかも、ただ選べるようになっているだけじゃない。
「今日はAさんのふるさとの味を出しましょう」と、回想法と地元食を結びつけるようなサービスも多くある。
さらに宗教や健康状態に応じたメニューも常設され、ベジタリアン・ハラール・グルテンフリー・ラクトースフリーなどの対応は、もはや“当たり前”の水準。
そこには「施設の都合に合わせるのが当たり前」という空気はなく、「その人らしく食べる」を支える文化が根を張っている。
対して日本ではどうか?
「高齢者だから、和食が一番落ち着くでしょ?」という思い込みが、メニューの多様性を削っている。
でもそれ、本当に“みんなが望んでいるもの”なんだろうか?
カレーライスを週に一度食べたい人、たまにはピザトーストで朝を迎えたい人、アメリカ育ちでケチャップが恋しい人――そういった“個人の当たり前”を受け止める仕組みが、なぜかここにはない。
多様性とは、他人の文化をイベント的に取り上げることじゃない。
それは誰かの“日常”をそのまま尊重すること。
アメリカはそれを、国家規模で少しずつ実現してきた。
そして、その日常の中に、ハンバーガーも、ホットドッグも、郷土の味も、しっかりと並んでいる。
つまり今の日本の介護現場に足りないのは、外国人高齢者だけじゃない。
食の選択肢を通して“その人らしさ”に寄り添う視点そのものが、まだ育っていないだけなのかもしれない🩷。
最近ちょっとした口癖になってきた。
「今のうちに、食べておこう」
ラーメンも、焼き肉も、こってりチーズバーガーも。
夜遅くのピザ、朝の目玉焼きの黄身をトロリと割る感覚、コンビニおむすびの具材ガチャで一喜一憂するあの時間。
それらすべてが、なぜか“期限付きの楽しみ”に感じてしまう。
なぜだろう?
多分、それはうっすらと見えてしまうからだ。
「将来、施設に入ったら、こんなものは出てこないだろうな…」という未来のトレイが。
2025年現在のトレイを思い浮かべてみよう。
白ごはんに、よく煮えたおかず、そしてお吸い物。
安全ではある。
とても安全。
だけど…それだけ?
「選べるメニューはありません」「個別対応はご遠慮ください」「食材アレルギー以外は共通メニューです」
まるで給食のスピンオフ。
いや、給食にはまだ「揚げパン」とか「ソフト麺」とか夢があった気がする…。
では、20年後のあなたのトレイはどうなっている?
ハンバーガーはどこ?ホットドッグは?おむすびは?
「ありますよ、ミニバーガー風蒸しパンです」
「魚肉ソーセージを挟んだ、やわらかパンです」
そう来たか。
いや、悪くない。
けど、それじゃない感がすごい。
思い出の味に似たものを与えられて、“食べたことにしてください”という圧がある。
しかもそのメニュー、回想法じゃなくて“演出法”みたいになっていて、「記憶じゃなく、演目じゃん…🩷」というズレに苦笑いする未来。
若いころに通ったおしゃれカフェのモーニングセット。
たまに衝動的に食べたコンビニのホットスナック。
土曜日の昼に頬張った焼きそばパン。
そういう、**なんでもない日常の味が、いちばん心に残る“自由の象徴”**だったんだと、気づくのはきっと“それらが出てこなくなったとき”だ。
「今のうちに食べておこう」って、軽いジョークのつもりだった。
でも、本当にそうなるなら、ちょっと笑えない。
そして、同じ思いを次の世代にもさせるのかと思うと、もっと笑えない。
だから、今のうちに食べておこう――ではなくて、“未来にも選べるようにしておこう”。
それがきっと、老後のQOL(生活の質)を守る、いちばんおいしい一歩になる。
ここまで散々、ハンバーガーだのホットドッグだのと語ってきたけれど、そろそろこの話の本丸に触れておこう。
外国人技能実習生のことである。
日本の介護施設では、今やその存在なくして現場がまわらないところも珍しくない。
が、問題はそこではない。
**“彼らがまわしているのに、誰も彼らを次のステージへ進ませようとしない”**ことにある。
彼らを“労働力”としか見ていない施設があるのなら、どうか今すぐ冷房の効いた事務室から一歩出て、現場で彼らの目を見てほしい。
介護技術、礼節、行動力、全部持っている。
なのに「うちは入浴と排泄だけ頼むからさ」とか、抑圧しよう…なんて扱いをしているとしたら、それはもう三流経営者の証。
大金を払って海外から人材を招いておきながら、使い捨て感覚で扱う時点で、その施設に未来はない。
そもそも、国はもっと遠くを見ている。
今の日本人は、確かに全員が日本語を話す。
でも、世界共通語の英語が日常使いできるかと問われたら、首をかしげる人が多数派だ。
対して、今ここにいる外国人技能実習生たちは、**母国語+日本語という“歩み寄りの心と言語努力”をして、今日も働いている。
**その努力に応えるつもりがない組織なんて、いったい何を守ろうとしているのだろう。
そして、彼らは一定期間で帰るかもしれない。
でも、**本当は国も現場も、彼らに“帰らずに、橋になってほしい”と願っている。
**母国と日本をつなぐ懸け橋として、未来の多民族社会・日本の医療福祉を支えてほしいと思っている。
そう、彼らこそが未来の“文化翻訳者”であり、“多文化ケアの体現者”なのだ。
食文化もその一端である。
ハンバーガー1つの提供にだって、宗教的背景、国民的な嗜好、思い出の味…それぞれの人生が詰まっている。
介護とは「お世話」じゃない。
その人の文化を、尊厳を、誇りを、ちゃんと支える仕事であるならば、異なる文化を深く理解してくれる人材こそ、これからの施設に必要な幹部候補じゃないのか?
経営者のイスは今のところほとんどが日本人だ。
でも、だからといって「外国人には責任を持たせられない」なんて言葉が平然と通るようでは、もはや施設経営そのものが“過去の遺物”になりかけている🩷。
**“文化を理解できる力”と“人を幸せにする想像力”を持った人が、上に立つべき時代が来ている。
**それが日本人であるか、外国人であるか――もはや関係ない。
たった一つのハンバーガー。
けれどそれが、**誰の文化も傷つけず、むしろその人らしさを称える一皿として出されたとき、そこには希望がある。
**その希望を実現するのは、きっと「現場で汗をかいてきた誰か」であって、机上の管理表を眺めているだけの誰かではない。
私たちは、今、変わる準備ができているだろうか。
それとも、ハンバーガーの登場をいつまでも拒み続けて、“ぬるま湯の白ごはん”だけを囲んだまま、時代に取り残されるつもりなのか。
答えは、私たち自身の“未来のトレイ”が知っている。
さて、ここまで読んで、あなたはどんな“味”を思い出していただろうか。
ハンバーガー?
ホットドッグ?
それとも、ツナマヨおむすびのあの食感だろうか。
どれも、ただの食べ物じゃない。
そこには自分の暮らしがあり、思い出があり、そして何より、「選んで食べられた自由な日々」があった。
でも、それらが将来、自分のトレイからすっかり消えていたとしたら――?
きっとそれは、健康のためでもなく、宗教の理由でもなく、“制度と配慮の足りなさ”という静かな都合のせいだ。
食べたいものを食べる。
それだけのことが、「むせますから」「一括調理なので」「一人だけ違うとコストが…」で遠ざけられる未来。
…それ、ちょっと寂しくない?
今ある当たり前が、未来でも当たり前でいられるように。
それには誰かが「変だな」と口にすること、そして「変えてみよう」と動くことが必要だ。
そして今日、この記事を読んだあなたがそのひとりかもしれない。
ハンバーガー1つから始まったこの話は、実は**“その人らしく生きる”ことを支える介護の話**だった。
食べるって、すごいことなんだ。
ひと口の中に、文化も尊厳も自由も、ぜんぶ詰まってる🩷。
そしてそれを「選べる」ことが、これからの介護施設にとって何より大切なサービスになる。
食べる自由は、生きる力。
あとはもう、誰かが「今日、施設でホットドッグを食べました」とSNSに投稿してくれるその日を、ほんのちょっと、楽しみにしていよう。
[ ⭐ 今日も閲覧ありがとう 💖 ]
読み込み中…読み込み中…読み込み中…読み込み中…😌来場された皆様、今日という日の来訪、誠にありがとうございます
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