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ステハジの日と愛の欠片~記念日だけじゃ世界は変わらない問題~

はじめに…「ステハジって?捨てることが恥ずかしい?…でもこの社会、捨ててばかりじゃない?

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6月8日の「ステハジの日」ってご存じですか?

正式には「使い捨ては恥ずかしい日」──なんだかちょっと小学生の反省文みたいな名前ですが、実はこれ、2022年にちゃんと制定された立派な記念日なんです。

プラスチック問題、食品ロス、衣類ロス…

いまの社会にあふれる“捨て文化”を見直そうという、なんとも正義感に満ちた素敵な発想。

でも、思いませんか?

その「捨て文化」を作ってしまったのも、それを“売れないと困る”と支えるのも、結局は企業であり、国であり、社会のしくみそのものじゃないの?って。

そして…なにより私たち自身が、日々の忙しさや便利さに流されて、「使い捨て上等!」の暮らしをちゃっかり楽しんでいたりする。

──それ、恥ずかしいどころか、むしろ快感だったりして。

あれれ?

どっちがステで、どっちがハジなのやら。

今日はそんな「正論と現実のすれ違い」について、ほんのりあったかく、ちょっぴり笑いを混ぜて、一緒に考えてみませんか?

「愛があれば世界は変わる🩷」なんてセリフ、ちょっと鼻がむずむずするけれど、でもやっぱり、変わるとしたら、きっとそこからなんじゃないかなって思うのです。

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第1章…使い捨てが前提の世界でどんなに叫んでも届かない理想


ステハジとは、「使い捨ては、恥ずかしい」という考え方らしい。

うんうん、言ってることは素晴らしい。

まるで地球が微笑んでくれそうな正論だ

だけど、スーパーのレジで「袋いりますか?」と聞かれて、「あっ、いりません!」って言った直後に、袋なしじゃ持てない大量の割引品に囲まれてモタモタしてるおばちゃんを見たら、…あれ、これ、恥ずかしいのどっちだろうって、ちょっと思っちゃったりする。

コンビニで、レジ袋を断ってまでサステナブルを意識したのに、帰ってみればお弁当もスプーンもプラスチック。

ついでにスイーツまで買ってるし、ふた付きのホットコーヒーまで…。

環境に優しいはずだった自分が、まるで「使い捨て詰め合わせセット」になって帰宅してる。

ステハジって、「理想はカッコイイけど、現実とめちゃくちゃ仲が悪い」っていう、どこかで見たような人間関係みたい。

世間体ばっかり気にして、家では靴下脱ぎっぱなしの旦那さんみたいな。

あるいは「地球のために」とか言ってるくせに、エコバッグに5円のアイス詰めてる自分みたいな。

いやでも、責めるつもりはないんです。

だって現実は甘くない。

一人暮らしの忙しい日常に、「洗って再利用!」の余裕なんてないし、子どもが手を汚した瞬間に、サッと出せるのはやっぱり使い捨てのウェットティッシュ。

冷蔵庫に眠る謎の半玉キャベツに睨まれて、最終的に捨てるのは心じゃなくて野菜の方だったりして。

たぶん、ほんの少しでも「なんとかしたい」って思ってる人はたくさんいる。

でも、社会の大きな流れは“捨てること”を前提に設計されてるし、便利の波に逆らうのは、なかなか大変なこと。

だから、声をあげるだけで「ステキ!」って言われる記念日ができるわけで。

そういう意味では、「使い捨ては恥ずかしい」よりも、「使い捨てに気づくことが偉い」っていう方が、しっくりくるのかもしれません。

ねぇ、今日もお弁当のプラ蓋を見ながら、ちょっぴり反省しつつ、でもまた明日には同じことしてる私たち。

それでも「ちょっとでも気をつけようかな」って思えたら、それってきっと、立派な第一歩🩷。

正義はお高くとまってるけど、私たちはその足元で、今日もドタバタと暮らしてる。

…でもその暮らしが、悪いわけじゃないと思うのです。

第2章…医療・介護の現場の「仕方なさ」と愛の消耗


「使い捨ては、恥ずかしい」──その言葉を、医療現場のナースステーションで大きな声で言ってみたら、きっとスタッフ全員が一瞬フリーズする。

「え、うち…使い捨てしかないけど…」ってね。

注射器、ガーゼ、マスク、グローブ、エプロン、尿カテーテルに点滴パックまで、もういっそ、使い捨てがユニフォームなんじゃないかってくらい、現場は“ワンショット”にあふれている

感染症対策?

もちろん大切。

命に関わることだから、そこは譲れない。

でも、その結果として毎日ゴミ袋がずっしり満タンになっていくのを見ると、どこかで「ごめんなさい、地球さん…」って、思っちゃうスタッフも、きっといる…いると思いたい。

そして、介護現場も負けてはいない。

紙おむつ、使い捨て手袋、口腔ケアのスポンジ、エプロン、食事トレイ…

「洗って干す時間?ないですないです、そんなの夢のまた夢!」と、現場の声がこだまする。

便利と効率を優先しなきゃ、回らない。

でも、それを選ぶたびに、何かを置いてきているような、そんな気がしなくもない。

実際、昔は布おむつやエプロンも洗って使っていた。

でも今では、それを“非効率”と断じるマニュアルが山のようにある。

やっとの思いで覚えた利用者さんの名前より先に、「感染症マニュアル第13条」が口をついて出る世の中だ。

それは決して、誰かが悪いわけじゃない。

守るために、誰かを救うために、そうせざるを得ない現場があるのだから。

けれど時々、思うのだ。

誰かの肌に直接触れたガーゼも、笑顔を拭いたエプロンも、一度きりで捨てられるのって、なんだか少し寂しい。

それは物に対しての愛着がゼロだというよりも、

「その人との時間が、ただの処理になってしまうのが嫌だ」という、ちょっとした、でも確かな“心🩷”の問題。

使い捨てでしか守れない命がある。

だけど、使い捨てが日常となることで心まで消耗していたら、何かが崩れていってしまう気がする

ほんの少しだけでも、

「これでいいのかな」って立ち止まることができたら、それはもう十分、“恥ずかしくない行動”なんじゃないかと思う。

便利と効率に追われる中で、ふと立ち止まるその一瞬が、きっと誰かを大切にする第一歩。

使い捨ての手袋の中にだって、ちゃんと“ぬくもり”はあるんです…たぶん。

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第3章…壊して売って、売って壊して、ステハジどこいった?


「サステナブル社会へ!」なんてフレーズが、まるでおしゃれカフェの壁紙みたいにあちこちに貼られているこの時代。

企業も行政も、それっぽいポスターやら動画やらで「私たち、地球の味方です」みたいな顔をしてる

けれど、そうやって大真面目にエコを唱えている企業の会議室のホワイトボードには、今日も「今月の売上目標!!」の文字がドーン。

地球を守る?もちろん大事。

でもまずは利益。

愛と信頼と、ついでに売上の三本柱が揃わないと、会社は回らない。

あっ、愛と信頼は書いてるだけで、実質は「利益、利益、もっと利益」が三連発のところもありそうだ。

たとえば家電製品、最近は何かと壊れるのが早い気がしませんか?

え?

昔の冷蔵庫なんて20年も動いてた?

いやいや、今は修理するより買い替えた方が早いし、だって最新機種がカッコイイし省エネだし…って、そうやって捨てさせるための努力が凄まじい。

もう、「壊れやすさの設計」までが商品企画なんじゃないかと思えるレベル。

服だってそう。去年の流行は、もう今年の恥らしい。

なんてこった、衣類まで恥を背負って生きている。

おかげでアパレル業界は在庫の山。

捨てるのは洋服じゃなくて心にしたいところだけど、やっぱり一番先にゴミ袋に入れられるのは、流行を過ぎたセーターだったりする。

そして行政も、けっこうしたたか。

「地域でゴミ削減に取り組んでます!」って発信しながら、裏では補助金を使って、地域商品券やキャンペーンで消費を後押ししてたりする。

いやいや、どっちが本音ですか?と問い詰めたくなるダブルスタンダードな場面は日常的に当たり前なのだ。

ステハジという言葉は確かに綺麗だけど、社会全体が「売ってなんぼ、捨てて更新、消費こそ活性化!」ってノリで走っているうちは、この正義のヒーローは、なかなかマントを翻すチャンスがないのかもしれない。

でもね、矛盾に気づいたからといって、それが全部ダメってことじゃないと思うんです。

少なくとも、「この構造ちょっと変じゃない?」って小さくつぶやける人がいるだけで、空気って、ちょっと変わる🩷。

ステハジの世界は、まだ遠い。

でも、「捨てることを前提にしない選択肢」が、ちょっとだけ増える未来は、そんな矛盾を笑い飛ばせる人たちの中から、生まれてくる気がするのです。

だって、マジメすぎると社会って窮屈でしょう?

少しだけ皮肉を混ぜた笑顔こそ、じつはいちばんサステナブルだったりして…。

第4章…持続可能な愛が最も持続しない悲しい社会


持続可能な社会、とか言いますよね。

もう耳にタコができるほど聞きました。タコもびっくりなほどサステナブル。

ゴミを減らそう、エネルギーを大切にしよう、森を守ろう、水をきれいに、資源はリサイクル…どれも大切。

でも、でもですよ。

どうして誰も「愛はリサイクル可能です」って言わないんでしょうか?

たぶん、愛ってのは、いちばん管理しにくい資源なんですよね。

数値化もできないし、再利用しようとしても、だいたい拗れちゃう。

しかも、余ったからって冷蔵庫に入れても腐る。熱しすぎても焦げる。

取り扱い注意すぎて、たいていの人が途中で投げ出しちゃう。

でも、その愛が足りないんだって、やっぱり思うんです。

家庭でも、職場でも、政治でも、教育でも、介護でも。

「自分さえよければ」って空気がどんどん濃くなって、いつの間にか、愛ってものが“めんどくさい荷物”みたいな扱いになってる。

子どもにだって、大人にだって、「思いやりましょう」って言葉は届いても、「思いやったら損をする社会」だったら、そりゃ誰も続けられない。

感謝されない、時間はかかる、評価はされない、しかも給料にはならない…

愛ってコスパ悪すぎじゃない?って、真顔で言いたくなる今日この頃。

それでも、それでもですよ。

誰かにそっと差し出されたあたたかい言葉とか、帰り道で見かけた親切とか、「そんなとこまで気づいてくれたの?」っていう小さな行動に、なぜか涙腺がゆるんでしまうのが人間というもの。

だから私は、使い捨てにされない愛が、もっと日常の中にあってほしいと思うんです。

「効率の悪さこそ、人間らしさ」って言ってもいいくらい。

何回も洗って使うマイバッグみたいに、誰かを思う気持ちも、少しくたびれて、でも味が出て、そうやって育てていけたら、それが本当のサステナブル。

愛は測れない。だからこそ、なくなったことにも気づきにくい。

でも、ふとした瞬間に「足りないな」って思うあの感じ、それがたぶん、社会のSOSなんだと思います。

ゴミより先に、心が捨てられないように。プラより先に、思いやりが詰まった世界になりますように。

今日もどこかで、誰かの愛が、誰かをちょっとだけ救っていますように🩷。

それが回りまわって地球に届くなら、「使い捨ては、恥ずかしい」じゃなくて、「使い捨てられないものって、実はすごい」って言いたい。

…そんなふうに思うのです、しみじみと。


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まとめ…:「誰かのために動く」ことをもう一度“恥ずかしくない”にしよう


「ステハジの日」という名前は、どこか真面目で、お堅くて、一見すると“意識高い系の人たち専用”な記念日にも見えます。

でも実は、その奥には、誰もがちょっとだけ「うん…分かる」と感じるモヤモヤが詰まっていて、それをユーモラスに、そして真剣に向き合うための、ちょっとした“きっかけ”なのかもしれません。

使い捨ては、便利。

とても便利。

でもその便利さの裏で、たくさんのゴミが生まれて、たくさんの人が疲れて、そして…たくさんの愛が、見えないところに置き去りにされていく。

医療も介護も、家庭も社会も、なんだかいつも時間に追われていて、“人のために”って言いながら、“自分の都合”が先になってしまうこの時代。

そんな中で「使い捨ては、恥ずかしい」なんて声をあげても、それを現実に変えるのは、口で言うより100万倍むずかしい。

でも、むずかしいからこそ、大事なのかもしれません🩷。

いま目の前にいる誰かを、もう少しだけ気にかけること。

捨てる前に、ちょっとだけ「これ、本当にいらないのかな?」と立ち止まること。

そういう“無理のない想いやり”が、じわじわと広がっていけば、もしかしたら社会のどこかの空気が、少しずつ変わっていくのかもしれません。

使い捨てが当たり前になった今だからこそ、「捨てられない何か」を大切にする生き方が、ちょっとだけかっこよく見えたりして。

それは愛かもしれないし、もったいない精神かもしれないし、あるいはただのケチかもしれないけれど、そのどれもが、“本当の豊かさ”に繋がっているような気がします。

だから今日は、声高に叫ばなくていい。

ただ、静かに「ステハジって、案外いいかもね」ってつぶやくくらいで、十分なんです。

それが、やさしくて、あたたかくて、そしてちょっと笑える未来への一歩になりますように。

さあ、使い捨てるのはプラ製品だけにして、今日の怒りやイライラは、なるべく心の中で再利用していきましょう。

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niiro makoto