目次
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それは、火曜日の夕方だった。
赤ちゃんがミルクを飲んでゴキゲンな声を出していたかと思えば、次の瞬間にはピューッと噴水のような吐き戻し。
慌てて抱き上げたその手に、小さな体の熱さがじわっと伝わる。
あれ…熱い?
まさか発熱?
いや、その前にこのミルク、飲みすぎただけ?
一息つく間もなく、隣の部屋から聞こえる「ママ~、おなか痛い~…うえっ!」という悲鳴。
そしてカーペットの上には、食べかけのバナナと、おやつのクッキーの…残骸。
さらに夜になって、「ご飯はもうええ」と珍しく食欲のないひぃじぃじ。
普段はちゃっかりおかわりまでしてたのに、今日は黙ってうつむいたまま。
喋らない、むせない、咳もしない。
でも、なんとなく顔色が気になる。
そんな“違和感”に気づけるのは、やっぱり毎日そばにいる家族だけ。
この家は、8人家族。
ママは25歳の介護士。
体温計も血圧計も、パルスオキシメーターも毎日のように使う。
実は“喉詰めしたときにスポンって取れるやつ”まで、玄関の救急バッグに常備してある。
家族構成はというと…パパはちょっぴりおっとりした27歳、保育園に通う4歳の元気娘、0歳の赤ちゃん、そして同居するじぃじ・ばぁば・ひぃじぃじ・ひぃばぁば。
誰かが体調を崩せば、ドミノ倒しのように他の誰かも倒れていく。
けれど、そんな中でも暮らしは待ってくれない。
ご飯は作らなきゃいけないし、洗濯も回さなきゃいけないし、何より“命”は待ってくれない🩷。
今回の記事は、そんな8人家族の中で起こった“ある5日間”の記録です。
嘔吐と誤嚥――決して他人事ではない、けれどどこか日常の中に潜んでいるもの。
介護士でもあるママが、家庭の中で実際にどう動き、何を感じ、どう乗り越えたのか。
ほんの少し笑えて、だけど真剣に読める。
そんな「ママの救急奮闘記」、はじまりはじまり――。
赤ちゃんの吐き戻しなんて、育児中のママにとっては日常茶飯事だ。
けれど、その日だけは、何かが違った。
いつものようにミルクを飲み終えて、ご機嫌な笑顔を見せた次の瞬間、赤ちゃんの口元からミルクが勢いよく噴き出した。
あ、またやっちゃったな…と一瞬思ったものの、床に落ちたミルクの量を見て、ママの眉がピクリと動いた。
明らかに“いつもより多い”。
しかも、なんとなく呼吸が浅い気がする。
「大丈夫?」と声をかけても、返ってくるのはうっすらした泣き声。
喉の奥でゴロゴロと音がして、ちょっと苦しそうな表情を見せたその瞬間、ママの頭の中に“誤嚥”の3文字が浮かんだ。
すぐに抱き上げて、頭が下になるように軽く横向きに体位を変え、背中を優しくトントン。
すると、ゴロッという音とともに、少しだけミルクが口から再びこぼれた。
気道から食道へ逆流していたのか、それとも完全に気道に入る前にうまく戻ったのか。
いずれにせよ、その処置の数十秒後には、赤ちゃんの顔色がほんのり戻ってきた。
呼吸も少しずつ安定してきて、いつものぐずり泣きに切り替わる。
ママは、静かに胸を撫で下ろした。
「ミルクの量、多すぎたかな…」と呟きつつ、ママはいつものルーティンを始める。
体温を測り、パルスオキシメーターで酸素飽和度を確認し、呼吸数と胸の動きを見る。
体温は37.4度と微熱程度、酸素も98%。
とりあえず救急車は不要、けれど経過観察は必須だと判断。
念のため、ミルクを飲ませた量・時間・嘔吐のタイミング・色・量などもスマホのメモアプリに入力する。
後で病院に行ったとき、説明に困らないように。
こういうとき、介護士でよかったと思う。
保育園では見逃されてしまいがちな“少しの異変”に、気づくための習慣がある。
けれど、たとえ資格がなくても、いつも赤ちゃんを見ているママだからこそ「なんか違うかも」と気づけることはたくさんある。
それでも、救急対応は心臓に悪い。
心臓のバクバクは赤ちゃんではなく、自分の方だった。
それを隠して笑いながら「大丈夫だよ~」と声をかけたとき、赤ちゃんが不思議そうにこっちを見て、ふにゃっと笑った🩷。
その笑顔でまた、少し泣きそうになる。
けれど、ようやく一段落…と安心したママに、すぐ次の試練がやってくる。
隣の部屋から、聞こえた。
「ママ~!おなかいた~い……う、うえっ!!」
この日、2人目の“事件”が、幕を開けた。
「おなかいたい~…」の叫びとともに、リビングから足音と嗚咽が混ざったような音が聞こえてきた。
すぐに駆けつけると、床にはおやつのバナナと午後のクッキーが原形をとどめぬ形で広がり、真ん中でうずくまる4歳の保育園児――うちの元気娘が、顔を真っ赤にして涙ぐんでいた。
「どうしたの?」「いつから痛かった?」と声をかけながら背中をさすると、「おどってたら…ぐるぐるしたら…バナナが変になって…ぶえぇ~って…」と断片的な供述。
要するに、ふざけながら食べていたところに、急な回転系ダンスで胃が刺激され、吐いたということらしい。
しかも咳き込んでいる様子がただごとじゃない。
ママは一気に緊張モードに入る。
まず、誤嚥していないか確認。
咳の様子は湿っぽく、異物感があるような響き。
咳き込んではいるけれど、泣けているということは、少なくとも気道はふさがれていない。
ひとまず安心…と思いたいが、油断は禁物。
次は、姿勢を正して座らせ、少し前屈みになるようにして背中を優しくトントン。
「飲み込んじゃったのかなぁ? バナナってけっこうネバネバするしね…」と心の中でつぶやきながら、いつものように体温計とパルスオキシメーターを装備。
体温は平熱、酸素飽和度も98%で安定。
ただ、本人が「胸がちょっとヘン」と言っているのが気になり、呼吸数とリズムを1分ほど観察する。
異常はなし、けれど経過観察ライン確定。
一方で、パパはとなりで「病院行った方がいいかな?」と珍しく心配気。
ママは「うーん、今のところ呼吸大丈夫そうだけど、夜に熱出たら行こう」と冷静に返しつつ、吐いた時間と状況をスマホに記録。
こういう時の情報整理は、あとで判断する材料としてすごく重要になる。
何気なく見ていた娘の顔が、ふと笑っていた。
さっきまで泣いてたのに、急にケロッとして「ママのトントン、気持ちよかった~」と一言。
なんなんだこの回復力。
けれど、こういう“見た目元気”が一番こわいことも、ママはよく知っている。
あとから高熱、あとから嘔吐再発、あとから気づく脱水。
どれも、油断した時に忍び寄る。
ひとまず今夜は、食事は抜いて様子見。
水分は一口ずつ、30分おきに🩷。
そう決めて、ママはカーペットの片付けに向かう。
……と思ったら、その横で赤ちゃんが、再びゴロリと寝返りをうち、ミルクのにおいをぷんと残したまま、また妙な顔をしていた。
まさかの第1章、再演の予感。
夕方のリビングは、ひとときの静けさを取り戻していた。
赤ちゃんは一度目のミルク嘔吐事件から小康状態、保育園児はおとなしくアニメを見ながら“もう食べない宣言”。
ママはささっと洗濯機を回し、次の波が来ないことを祈っていた。
そんな中、ふと気づいた。
ひぃじぃじが、何も言わずにお茶を飲んでいる。
いや、“飲もうとしている”のに、妙に手元がもたついて、しかも一口も飲まずに湯のみを置いたのだ。
あれ?と思って視線を送ると、なんだか顔がぼんやりしている。
普段なら「おやつはまだか」とか「寒いな」とか、何かしら口にするじぃじが、黙っている。
「じぃじ? どうかした?」と声をかけても、「うーん…」と曖昧な返事。
この時、ママの頭に警鐘が鳴った。
咳もしていない。
むせてもいない。
でも、話さないし、ちょっと前にお茶を口にしていた。
これは、サイレント誤嚥かもしれない――。
高齢者の場合、食べ物や飲み物が気管に入っても、咳き込まずに飲み込んでしまうことがある。
喉や咳の反射が鈍くなっていると、むせることすらない。
それが“サイレント誤嚥”というやつで、後から肺炎を起こして命に関わることもある。
介護現場では何度も見てきたけれど、自宅のリビングでそれが起きるとは思っていなかった。
とっさにパルスオキシメーターを装着。
酸素飽和度は95%。やや低い。
血圧を測ると、上が104と、じぃじにしては少し低め。
脈もやや速い。
呼吸回数は、普段より浅く速い印象。
念のため体温も測ると、37.1度。わずかな微熱。
その間にも、じぃじは「なんともない」と繰り返していた。
けれどその“なんともない”が一番こわい。
だからママは言った。
「うんうん、でも今日は病院で“なんともない”って言ってもらおうか」。
パパは「いや、大丈夫そうに見えるけど…」とつぶやいたが、ママはもう準備に取りかかっていた。
保険証、お薬手帳、じぃじのいつものメモ帳。
病院でスムーズに伝えられるよう、いくつかのチェック項目をノートにメモして持参する。
結局、かかりつけの内科での診断は“軽度の誤嚥性肺炎の疑い”。
即入院とまではいかなかったが、抗生剤と経過観察で数日は慎重に対応を、とのことだった。
早めの判断で悪化を防げた、と医師に言われて、ママは胸を撫で下ろした。
家に戻ると、ばぁばが煮物を温めながら「ママってすごいねえ」とぽつりと言った。
その言葉に照れながら、ママは冷蔵庫の奥から経口補水液を取り出す。
今夜からは、家族全員が“経過観察モード🩷”である。
誰もが体調万全ではないなか、何より必要なのは“誰かの違和感”を、見逃さないこと。
そして、そんなママの手には、すでに新たな戦いの予感が忍び寄っていた。
キッチンの奥から漂ってくる、なんとも言えぬあの香り――そう、吐瀉物の気配である。
地獄の処理タイム、第4章、開幕である。
カーペットの端から、ほんのり酸っぱい香りが立ち上っていた。
ああ、これは確実に“来てる”。
リビングの片隅で、小さく身を縮めたままの保育園児。
顔はすっきりしているが、足元のあたりに広がるそれは、もう疑う余地もない。
第2波、発動である。
「大丈夫、大丈夫だよ」と声をかけながらママは速やかに行動に入る。
まず、周囲にいる家族を別室へ避難させる。
ひぃじぃじと赤ちゃんには特に近づかせない。
ノロだったら一発アウトだ。
次に、玄関収納から防護グッズ一式を取り出す。
手袋、マスク、エプロン、そして消毒スプレーとキッチンペーパーの山。
現場での経験が染みついているとはいえ、家庭での嘔吐物処理は別格だ。
病院でも保育園でも、ある程度準備された環境があるけれど、家の中では床の材質も、空気の流れも、家族の動きもバラバラ。
今日みたいな突然の事態では、ママがすべてを仕切らなければならない。
吐瀉物の中心には、半分消化されたバナナがのたうっていた。
むやみに近づけば飛沫が舞う。
慎重に、周囲から内側へ向かってキッチンペーパーを重ねる。
その上から次亜塩素酸ナトリウムをしっかり噴霧。
一般的なハイターを水で0.1%に薄めたやつだ。
匂いはきついけれど、ウイルスにはこれが一番効く。
ママは黙々と動きながら、かすかにぶつぶつと独り言を呟いていた。
「新聞紙で覆って終わりとか、昔はそれで済んだけどね…」「今じゃそれ、ウイルスばらまきの儀式なんですってば」
…どこかで聞いたひぃばぁばの昔話に、心の中でツッコミを入れながら、処理を続ける。
嘔吐物をまとめたペーパー類は、二重のビニール袋に詰めて密閉。
袋の口にはガムテープで「危険」と書いた。
念のため玄関の外に一時避難。
処理後の床は、さらに消毒を重ね、水拭き・乾拭きと丁寧に。
見た目がきれいになったからといって、ウイルスがいなくなるわけじゃない。
それは、ママがいちばんよく知っている。
処理が終わったころには、汗だくだった。
背中にはりつくTシャツの気持ち悪さよりも、なによりも、「家族に感染させたくない」というプレッシャーが重かった。
ふと、ばぁばが麦茶を持ってきてくれた。
「ありがと」と言いながら口にした瞬間、ママは少し涙ぐんだ。
こういう時、言葉じゃなくて、そっと差し出された飲み物が一番沁みるのだ。
しかし、戦いは終わっていなかった。
赤ちゃんの体温が、さっきより上がっている気がする。
保育園児も「ちょっとだけおなか痛いかも…」とボソリ。
ひぃじぃじは「大丈夫」と言い張っているが、さっきから少し顔が赤い。
“処理が終わった”は、ほんの入り口に過ぎない。
この後やってくるのは、全員分の経過観察タイム🩷。
それこそが、ママにとっての“本番”だった。
「とりあえず様子見ましょう」
それは、医師がよく言う魔法の言葉だ。
けれど、その“様子見”の全責任がこっちに丸投げされることを、ママはもう知っている。
診察を終えて帰宅したら、そこからが本番。
あとはすべて、ママの判断にかかっている。
まずは赤ちゃん。
前日よりミルクの量が減っていて、いつもより寝てばかり。
熱も微熱が続いている。
元気がないだけなら疲れているのかもしれない。
でも、水分をとった後に口の中でゴクンと飲み込む音がいつもより鈍いような気がする。
そんな“かすかな違和感”が、ママの中で何度も引っかかる。
誤嚥性肺炎という言葉が、何度も頭をよぎる。
保育園児は、嘔吐後にすっきりした様子だったのに、夜になって38.5度の発熱。
あれだけ元気に踊っていたのに、今は食欲がない。
水分を少しずつ、スプーンで与えて様子を見るしかない。
でも一気に飲ませるとまた吐くかもしれない。
その恐怖と緊張で、ママの手の動きは自然と慎重になる。
ひぃじぃじは、「なんともないって言っただろ」と言い張っていたものの、体温はじわじわ上がってきて37.8度。
歩き方がややふらついて見える。
高齢者の脱水は“汗が出ない”から分かりにくいけれど、脈が速くなってきているのが気になる。
念のためにと思って準備していた経口補水液が、ここで出番になる。
ばぁばは「私が見ておくから少し休みな」と言ってくれるけれど、ママはソファに座るとすぐ立ち上がる。
寝かせてしまったら、誰かのサインを見逃すかもしれない。
咳の音、寝返りの頻度、トイレの回数、手足の冷たさ、呼吸のテンポ。
家中がモニタリングの対象で、ママの脳内はもはや監視センターのようだ。
食事の再開にも、ママの神経はとがっていた。
赤ちゃんは、白湯から。
スプーン1杯、まずはゆっくりと。
それを飲み込んで5分後、問題なければもう1杯。
保育園児には、おかゆをすりつぶしたものを、笑顔で「今日はごちそうだよ」と言いながら差し出す。
本当は「少しでも栄養を…」という焦りがあるけれど、それを悟られないようにするのもママの技術だ。
そしてひぃじぃじには、「おかゆがいいよ」と促すと「味がしない」と言われてしまった。
こういうとき、塩分の調整が難しい。
塩を増やせば喉に刺激が強くなって誤嚥しやすくなるし、薄すぎれば水分だけでおなかが膨れて栄養不足になりやすい。
でも、それでも、食べてもらうことが最優先。
味よりも“食べるという行為”を取り戻すこと。
それが重症化を防ぐ一歩になる。
夜が明けて、ようやく家族全員の熱が落ち着いてきたとき、ママの手元のメモ帳はびっしりと観察記録で埋め尽くされていた🩷。
誰が、何時に、何を食べて、何度トイレに行き、熱はどう変化したか。
まるで看護記録のようなそのページを見て、ママはようやく小さく息をついた。
「病院に行ったら終わり」じゃない。
本当は、そのあとがいちばん大事で、いちばん孤独だ。
でも、見逃さなかった。守れた。
この小さな家庭の中で、今日も命が、ちゃんと生きていた。
そっと部屋を見回すと、保育園児が鼻をすする音が聞こえる。
ひぃじぃじはテレビの前でウトウト。
赤ちゃんはぬいぐるみを抱えて、ミルクをちゅうちゅう吸っていた。
みんな、それぞれの形で、元気を取り戻そうとしている。
ママも、今日くらいは、ちゃんとごはんを食べよう。
たぶん今夜はまた、誰かが寝冷えする予感はしているけれど――。
この5日間で、赤ちゃんはミルクを吐いて息苦しくなり、保育園児は踊って吐いてむせて、ひぃじぃじは無言で誤嚥していた。
カーペットには何度も吐瀉物が広がり、洗濯機はフル稼働、ママの手は消毒と拭き掃除でがさがさになった。
だけど、家族は誰も重症化せず、ちゃんと生きて、笑って、またごはんを食べるところまで戻ってきた。
その陰には、誰よりも早く異変に気づき、誰よりも丁寧に対応し、誰よりも家族を観察し続けた、ひとりのママの存在があった。
体温計も、血圧計も、パルスオキシメーターも、ある意味では“お守り”のようなもの。
どんなにいい道具があっても、最後に頼れるのは「なんか変だな」という家族の直感と、「よし、念のために動こう」と思える勇気だ。
誤嚥や嘔吐は、どんな家庭でも起こりうる。
赤ちゃんも、園児も、高齢者も、どこかで一度は経験するかもしれない。
けれど、正しく気づき、きちんと対応すれば、命を守ることはできる。
医療の現場にいなくても、資格がなくても、命を支えることはできる。
むしろ、家庭こそが“最前線”なのだと、今回あらためて感じさせられた。
誰かが嘔吐した時、誤嚥しかけた時、発熱した時…パニックになるのではなく、「落ち着いて観察する」だけで救える命がある。
大切なのは、完璧な知識よりも、日頃の小さな「変化」に敏感でいられること。
そして、それを信じて行動に移せること。
8人家族の中で、ママが一人で背負っていたものは小さくなかった。
けれど、それでもなんとかやれたのは、たぶん「いつも見てる」人にしかできない力があったから。
笑った顔、しゃべり方、食べるスピード、寝る姿勢。
毎日のさりげない観察が、いざという時、命の差になる🩷。
最後に、これを読んでいるあなたへ。
大丈夫、ママはすごい。
あなたが見ているその“少しの違和感”こそが、誰かを守る光になる。
今日も、明日も。
小さな命と暮らすすべての人に、そっと拍手を。
そして、次に誰かが吐いたときは、深呼吸して、こう言ってあげてほしい。
「よし、ママに任せておきなさい」って――。
[ ⭐ 今日も閲覧ありがとう 💖 ]
読み込み中…読み込み中…読み込み中…読み込み中…😌来場された皆様、今日という日の来訪、誠にありがとうございます
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