目次
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朝、玄関で気づいたんです。
左右の靴が、見事に違う。
しかも片方はスニーカーで、もう片方はサンダルという、なんという大胆な取り合わせ。
…いやね、せめて似た系統だったら気づかないふりもできたんですけどね?
これじゃあ「本日、どっちかの足が完全オフ」みたいな状態ですよ。
どっちが?
でもね、不思議とその瞬間、妙な静けさとともに「今日、いい日になるかも」って思ったんです。
ズレてることって、普通は恥ずかしい。
でも、そのズレが“気づき”を生んでくれる。
左右が違うことで、初めて“真ん中”っていう位置が分かるのかもしれないなって。
真ん中の日に贈る、そんな「ズレの哲学」。
裏返った服、非対称の髪型、バランス崩れたお弁当…それ、もしかしたら全部ラッキーサイン。
今日だけは、ズレてる自分に胸を張っていこうじゃありませんか🩷。
電車の中で、斜め向かいに座った女性がいたんです。
片方だけ外ハネ、もう片方は内巻き。しかも髪色も微妙にグラデ。
最初は「寝ぐせか…?」と目を細めてしまった私をお許しください。
数秒後、わたしの脳内で鐘が鳴った。「これは…意図的だ…!」
そう、それは完璧に計算された“左右非対称ヘア”。
きっと朝、鏡の前で「ちょっとズラしてみよっか」と試したんでしょう。
そのズレが、まるでリズムの中に生まれる即興ジャズのようで、彼女の存在を、なんともいえない“今っぽさ”で際立たせていたんです。
左右対称が安心なら、非対称は挑戦。
その“ズレ”にこそ、自分だけの“真ん中”が潜んでる。
たぶんね、違和感は、未来のセンスなんです。
だから、「変かな?」と感じた瞬間が、実は“先を行ってる”合図かもしれない。
今日の服の袖が片方だけまくれてても、それ、案外正解かも。
え、左右で違うイヤリングつけちゃった?
最高じゃないですか、それ。
ズレは恥じゃなくて、芽なんです。
誰かが気づく前に、自分で咲かせにいこう🩷。
お弁当って、詰めるときにきっちり真ん中を意識しがちだけど、気づけばなぜか、からあげがいつも左に寄っていませんか?
卵焼きも右のすみっこでキュッと小さくなってたりして。
「この人、盛り付け下手ね」と思いました?
ちがうんです、それ、じつは“感覚派の配置”なんです。
お弁当ってね、バランスより“リズム”が大事なんですよ。
真ん中にメインをドンと置くと、見る人は構えてしまう。
でもあえてズラすと、「あ、ここに何か仕掛けがある?」と気持ちがほどけるんです。
左から順に「からあげ➡ブロッコリー➡ミニトマト➡ごはん」という流れが、まるで“昼の四重奏”みたいに、五感をくすぐってくれる。
ズレてる?いいじゃないですか。
人間の胃袋は、完璧より“遊び”を求めてるんです🩷。
しかもね、どこから食べても主役にたどりつくのが、ズレ配置のすごいとこ。
もしかしたら、あなたの“お弁当のズレ”は、誰かの午後のテンションを救ってるかもしれない。
「これ、どう詰めたの?」って聞かれたら、「ズレの美学だよ」とだけ、ささやいてみましょう。
きっとその瞬間、あなたは“昼の魔術師”です。
子どものころ、「それちがうよ!」って言われたこと、ありませんでしたか?
色を塗る時に、空をピンクで描いて怒られたり、「なんでぞうさんが空を飛んでるの?」って笑われたり──
でもね、大人になった今こそ言いたい。
それが正解なんです!
世界を変えた数々の発明や作品は、ぜんぶ“ズレ”から始まってる。
カップ麺を発明したおじさんも、「鍋がない人だって食べたいよね?」っていうズレた視点から生まれたし、服にポケットを増やした人だって、「カバンを持たない自由」っていうちょっと斜めな発想があったからこそ。
「まっすぐ進めばゴールにたどり着く」なんて、それこそ誰が決めたルールでしょう?
実際は、横にそれたり、後ろ向きに歩いたり、ときには地面に寝そべって空を見上げるような動きこそが、一番豊かな“発想力”を育ててくれるんです。
だから、あなたの今日の「うっかり」や「変な考え」こそ、明日の名案の芽になるかもしれない。
冷蔵庫の残り物で作った奇跡の晩ごはん。
雨の日にひらめいた、ありえない恋の告白。
その全部に、“ズレ”の神様が宿ってる。
真ん中じゃなくてもいい、むしろ“端っこ”のあなたにこそ、新しい世界を描くペンが握られているのです──🩷。
最短ルートは確かにスマート。
地図アプリも言う通りに曲がれば、たいてい迷わず目的地にたどり着きます。
でもね、その道のり、景色はどうだった?
季節の花は咲いてた?
ちょっとした寄り道で見つけたカフェ、あった?
「最短」がいつも「最善」とは限らない。
それはもう、何度でも言わせてください。
人生にもそんな道があります。
まっすぐ行けた人をうらやましく思う日もあるかもしれない。
でも、たとえば進路で迷って、別の学校に行ったり、一度あきらめた夢をもう一度拾いなおしたり──
それって、遠回りじゃなくて、「見落とさなかった」っていう勲章なんです。
時には焦りの中で思うかもしれません。
「自分、出遅れてる?」「もう手遅れ?」
でも大丈夫。
時計の針はひとつでも、心の歩幅は十人十色。
回り道にこそ、人間らしさやあたたかさがにじんでいる。
イチョウ並木が黄色くなるのを横目に歩くこと。
朝の光に照らされた誰かの笑顔にふと足を止めること。
それがどれだけ“心の体力”を育ててくれるか、わたしたちはちゃんと知ってる。
だからこそ、「真ん中の日」くらい、ちょっとぐらい寄り道していい。
いつかそのルートが、誰かの道しるべになるかもしれないのだから──🩷。
若さは勢い。
年齢を重ねると深みが出る。
──って、よく言いますが、本当に深みが出てる人ってどんな人?
それは、“真ん中”の空気を知ってる人、だと思うんです。
最初はとにかくがむしゃら。
やるしかない、できるかどうかより、とにかく前に出るしかない。
でも、そのうち気づきます。
「休むこと」「引き受けすぎないこと」「誰かに託す勇気」。
それはサボりじゃなくて、成熟のはじまりなんだって。
真ん中に立てるっていうのは、片方に傾かず、でもどちらの重さも知っているからこそできること。
たとえば、「がんばりすぎた人」と「もうがんばれない人」のどちらにも、言葉を届けられる人になる。
それって、人生の後半戦でこそ手に入る“役割”かもしれません。
「もう半分しかない」じゃなくて、「まだ半分ある」。
そんな風に、自分のことをちょっと優しく語れる人になれたら、その言葉はきっと、誰かの“背中を押す力”になる🩷。
真ん中に立てる人は、実は強い。
だからこそ、「真ん中を語れる人」になるって、ちょっとかっこいいんです。
人生の“真ん中”って、不思議なポジションですよね。
先が見えるようで、まだ見えなくて。
過去がすべてだったようで、まだ何かが始まるようで。
けれど、その“あいまい”な空気が、実は一番自由。
両手に持ったいろんな荷物も、背中にくっついた見栄やこだわりも、ちょっとだけ置いて、深呼吸できる時間。
この「真ん中」という視点は、私たちの暮らしの中に、ふとした瞬間に訪れてくれます。
たとえば、おにぎりの具がちょうど中心に来た瞬間。
たとえば、花火の音が胸に響いたあと、静寂に包まれる数秒。
たとえば、うまく言葉にできなかったけれど、なぜか“このままでもいいかな”って思えた夕暮れ。
そう、真ん中はドラマティックじゃないかもしれないけれど、どんな始まりにも、どんな別れにも、必ず寄り添ってくれている場所なんです。
きっとこの先、また何度でも迷うし、悩むし、やり直したくなることだってあると思う。
でもね、そんなときはまた「真ん中」に帰ってきて、そっと、自分をもう一度“選び直せば”いいんです🩷。
だって、“真ん中”って、何度訪れてもいい場所なんだから。
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