目次
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その日、私は「先生」と呼ばれた。
おでこに汗をにじませながら申請書の山と戦っていた、ただのケアマネであるこの私に、利用者さんがふとつぶやいた。
「先生、今日は暑いですねぇ」
……ん? 誰のこと? と思ったら、どうやら私のことらしい。
いやいや、ちょっと待ってほしい。
私は医学部も出ていないし、診察もしないし、注射なんて打てば即タイーホである。
白衣の代わりにエプロン、聴診器の代わりにバインダー。
そんな私に「先生」と呼ぶとは、さては何かの陰謀か!?
でも、よくよく考えると、施設の中では「先生」と呼ばれる存在がたくさんいる。
お医者さんはもちろん、リハビリの人も、マッサージの人も、ついでに歯医者さんも「先生」。
時にはスーツを着てたというだけで、なぜか「先生」と昇格する謎の風潮すらある。
実はこの「先生」と呼ばれる現象には、ちょっとした秘密と、けっこうな危険性が隠れている。
なぜ呼ばれるのか、呼ばれてしまったときの心構えは?
そもそも、呼び方ひとつで人間関係ってどうにでも変わってしまうのでは?
そう考え始めると、これはただの言葉遣いの話では終わらないぞ……というわけで、今回は「先生と呼ばれるとは何か?」を、ちょっと笑えて、でも大事な視点で見つめ直してみたいと思います。
さぁ、白衣のない先生たち、エプロンの哲学者たちよ。
一緒に“呼び名”という小さな大事件をひも解いてまいりましょう──🩷。
ある日、利用者さんに「先生、ありがとねぇ」と言われた私は、目の前のコーヒーをこぼしそうになった。
いやいや待って、私は“先生”なんて柄じゃないんです、本当に。
ただのケアマネです、マッサージもできませんし、薬も出せませんし、言葉のチョイスがちょっと気の利いてるくらいが取り柄ですから!と、心の中で全力で否定しているのに、相手は満面の笑みで「やっぱ先生は頼りになるわぁ」なんて言ってくる。
そう、「先生」と呼ばれるのって……照れくさい。
だけど同時に、ちょっと危ない。
だって、呼ばれ慣れるとつい背筋がピンッと伸びちゃったりして、「私、けっこう出来る人間なんじゃ……」なんて気が大きくなる。
その結果、気づけば現場で「あの件はわたしが判断しておきました」なんて、無意識に上からケアをしていたりする。
ヒエラルキーのトラップ、恐るべし。
そしてもうひとつ、実に厄介なのが、他職種からの「おいおい、なんであいつ“先生ヅラ”してんの?」という視線。
あれが刺さる刺さる。
看護師さんからすれば「お薬の指示もできない人が“先生”はないでしょ」、介護職からすれば「支援内容、実際にやってるのうちらやん」ってなるわけで。
でもね、利用者さんからすれば、「先生」と呼ぶのは別に学歴や国家資格を称えてるわけじゃない。
ただ、「この人、頼りになるなぁ」「何でも相談していいんだなぁ」という気持ちが、自然に出てしまっただけのこと。
つまり、「先生」と呼ばれるのは“信頼”の表れであると同時に、“試されている”ということ。
この人に託しても大丈夫か? この人は、安心して甘えていい人か?
そんな見えない問いかけが、たった一言の中にぎゅっと詰まってる。
だから私は、笑ってこう返すことにしている。
「先生じゃないんです。ただのぽっちゃりケアマネです🩷」って。
すると、利用者さんが笑ってくれて、「あんた、ええ人やねぇ」と言ってくれる。
その瞬間、ああ“上下”じゃなくて“並び”になれた、そう思えるのです。
さあ、“先生”のラベルをそっと外して、本当の関係を築きましょう。
このムズムズこそが、ケアの入り口かもしれません。
「あら先生、今日も若々しいねぇ」──この一言で、一日3回は照れる。
いや、正確には、照れてるフリをしてその場をやり過ごす。
なぜなら私は“先生”じゃないのだ。ケアマネージャーである。
スーツを着て、話を聴いて、書類をまとめて、時にコーヒーの差し入れをする、そんな人間である。
なのに「先生」と呼ばれる。なぜだ。
でも考えてみれば、利用者さんにとって“先生”という言葉は、人生の中で培ってきた信頼と敬意の象徴だ。
病院では白衣を着てる人はみんな「先生」。
学校では黒板の前に立つ人も「先生」。
郵便局の職員を「先生」と呼んだ時代もあったようななかったような……いや、あったかもしれない。
つまり、「先生」というのは立派な資格を持ってる人とか難しい言葉を使う人にだけ与えられる称号ではないのだ。
むしろ、「自分のわからないことをわかってくれる人」「判断してくれる人」「頼ってもいいと思える人」──そんな感覚の集大成として、口からポロッと出る言葉なのだ。
そしてこの“ポロッ”は、実はものすごく深い。
不安、困惑、信頼、敬意、全部がごちゃ混ぜになって「先生」となる。
家族の前では気丈にふるまっていても、実は心の中で「誰か助けて」「判断してほしい」って叫んでる人がいる。
そういう人にとって、スーツを着てにこやかに「大丈夫ですよ」と言ってくれる人は、もうその時点で「先生」なのだ。
名札なんて関係ない。
何の資格を持ってようが関係ない。
笑顔があれば“先生免許”発行完了である。
だが、ここで大事なのは「呼ばれた方の受け止め方」だ。
「わたし、先生なんで」と受け止めてしまえば、その瞬間から関係は崩れ始める。
利用者さんにとっては一言の安心でも、こちらにとっては“地雷付きのラブレター”のようなものだ。
それをうっかりポケットに入れて歩くと、爆発する。
だから私はそのたびに、こう返してきた。
「先生だなんて、私、注射すら打てませんよ~」と。
すると、たいていの利用者さんは「まあ~うまいこと言うねぇ」と笑ってくれる。
その笑いの中に、信頼がちゃんと根付いていくのがわかる。
先生なんて呼ばれなくても、人と人は通じ合えるのだ。
さて次は、「じゃあ呼ばれちゃった場合、どんな心構えが必要なのか?」──そこに切り込んでまいりましょう。
受け流すのも芸のうち、でも芯を持って立つ覚悟もまたプロフェッショナルの証です🩷。
さて、ここまでの流れで「先生」と呼ばれるのは避けられない宿命のようなものだということが見えてきた。
じゃあ、呼ばれてしまった側はどう振る舞えばいいのか?
この答えを間違えると、とんでもない勘違い人間になってしまうので注意が必要だ。
たとえば「そうかそうか、私は先生なのだな」と思った瞬間に、あなたの背中に見えないマントが生える。
それは“万能感”という名の危険な布切れで、気づけば会議の場で「ここは私がまとめましょう」とか言い出したり、他職種の意見に「でもそれって、こうすべきですよね?」と口をはさみたくなってくる。
そう、人は呼ばれる言葉に影響されやすいのだ。とくに“先生”なんて高カロリーな敬称を浴び続けると、思考がエリート街道を走り出す。
あっという間に“先生モード”が発動し、足元の現場からふわりと浮いてしまう。
ところが、本当の“先生”というのは、そのマントの裏側にものすごく重たい責任を縫い込んでいる。
たとえば医師。
一文字違えば命の行方を変えてしまう可能性があり、毎日の判断が張り詰めたロープの上を歩くような仕事。
薬の処方も指示も、そのすべてが命の天秤にかかっている。
では、ケアマネや相談員はどうか。
確かにプランを作る。でもそれは“提案”であり、“命令”ではない。
失敗しても「次のモニタリングで調整すれば…」で済む。
つまり、どれだけ「先生」と呼ばれても、実のところ責任は薄めで、制度的にはほぼノーリスクだったりする。
このギャップが恐ろしい。
「先生」という肩書きをもらっているのに、中身がポンポンと軽いと、気づかないうちに“言ったもん勝ち”の世界へ迷い込んでしまう。
そのまま“先生気取り”が進行すると、現場の空気は一気に重くなる。
利用者やスタッフとの距離が広がり、信頼が薄れ、「相談しづらい人」の仲間入り。
気づけば「先生って呼ばれたけど、みんなが避けて通る人」になっていた……という笑えないオチも現実にある。
だからこそ大切なのは、「呼ばれることに甘えず、自ら名乗らないこと」。
呼ばれたら、軽く笑って受け流しながら、常に自分を“ただの一員”として自覚すること。
威厳よりも親しみを、正解よりも対話を。
マントは着るのではなく、折りたたんでそっと胸ポケットにしまっておくくらいがちょうどいい。
先生って、呼ばれて嬉しい。
でも、そこで自分を見失わないこと🩷。
それがプロフェッショナルの品格であり、現場で信頼を育てる唯一の方法なんじゃないかと、私は思うのです。
さあ、次はその「呼び名」をめぐる施設全体の理想像へと旅してみましょう──呼び方一つで空気が変わる、そんなお話です。
あの人は「相談員さん」、この人は「主任さん」、そして私は「ケアマネ先生」──。
ある日ふと、施設の職員呼称マトリックスを見つめながら、私は思った。
もういっそ全部“さん”付けの名前呼びに統一しちゃえばいいんじゃないのか、と。
だってね、誰が誰をどう呼ぶかによって、空気ってまるで違うんです。
たとえば「施設長」っていう響き、どこかで“上”に構えているように聞こえたりしませんか?
「主任さん、ちょっとよろしいですか」なんて、まるでオフィスドラマの一幕。
でも「〇〇さん、お時間ありますか?」と言った瞬間、そのやり取りはふんわりと和らぐ。
肩書きを脱いだだけで、そこには“人と人”が残るのです。
もちろん、「いやいや、責任の所在が分かりづらくなるじゃないか!」という意見も出てくる。
その通り。だから名前の横にちょこっと役職が見えるバッジでも付けとけばいいんです。
制服の色を変えるでも、名札にひと工夫でも、見える形での役割明示はちゃんと残しておく。
でも呼び方だけは、ぐっとフラットに。これだけで、チームはぐんとやわらかくなるんですよ。
なにより大切なのは、利用者さんもその空気に包まれること。
「主任」「係長」「先生」が飛び交う職員同士の会話って、どこか他人事に聞こえちゃうんですよね。
それが「〇〇さん」っていう言葉に統一されると、「ああ、ここは家みたいな場所なんだな」って感じてもらえる。
その安心感こそが、信頼を育て、心を開いてくれるきっかけになる。
そしてもうひとつ、大きなメリットがある。
それは“誰も偉そうに見えない”こと。
これはめちゃくちゃ大事。
上下じゃなく、横並びの空気。
その空気の中では、職種の違いは「役割の違い」に過ぎず、誰かが誰かの上に立ってるわけじゃない。
それぞれがその役割を果たすことで、全体がうまく回るチームになる。
つまり、名前呼びの統一は“文化”の話なのです。
制度ではなく、気持ちのあり方の問題。
マニュアルを貼るより先に、「呼び方をそろえてみませんか?」って提案するだけで、関係性の温度が少しあたたかくなる🩷。
呼び名ひとつで、人の距離は縮まるんです。
さあ次は、その呼び名が「利用者さん」側だったら……?
そこに待っているのは、もっと繊細で、もっと奥深い“お名前問題”です──じぃじも、ばぁばも、愛しきあだ名も全部ひっくるめて、次の章でお会いしましょう。
さてさて、「職員の呼び名は統一しましょう」なんて偉そうに語っておいて、次にやってくるのが、もっと難しくて、もっとデリケートなテーマ──そう、「利用者さんの呼ばれ方」問題でございます。
施設ではたいてい、「〇〇さん」と苗字で呼ぶのが基本スタイルになっている。
でも実際には、その“呼び方”ひとつで、目の輝きが変わったり、まったく反応がなかったりする不思議な現象があるのです。
ある女性の利用者さん、苗字で呼んでも知らん顔。
けれど、昔の旧姓で「〇〇さん」と呼ぶと、くるっと振り向いて「はーい」って返事する。
「どうしてですか?」と尋ねたら、ぽつりと一言、「だってあの名前で何十年も生きてきたんやもん」。
……グッとくるでしょう?
その一言に、人生のページがぎゅっと詰まってるんです。
かと思えば、「〇〇ちゃん」とちゃん付けで呼ばれたい方もいる。
しかもそれを“キャピキャピ言われたい”のではなく、ずっと家庭でそう呼ばれてきたから、落ち着くのだそう。
「ばぁば」や「じぃじ」だって、単なる家族内のあだ名だったのが、施設でそのまま継承されていることも。
呼び方って、記憶や自尊心と直結しているんですね。
まさにその人の“心の住所”。
でもここで難しいのが、「家族の前では別の呼び名がいい」というケース。
家では「お母さん」と呼ばれていたけれど、施設では「〇〇ちゃん」で馴染んでいて、家族が来るときだけは恥ずかしいから戻してほしい……なんていう、繊細なリクエストもある。
これを無視して「職員の呼びやすさ」で統一してしまうと、途端に信頼が崩れる。
本人がどう呼ばれたいのか?
その希望は、日々の暮らしの中でいちばん身近な“アイデンティティのカタチ”なのです。
だから私は、こうしている。
まず本人に「なんて呼ばれたいですか?」と聞いてみる。
わからないときは、ご家族に昔の呼び名やエピソードを聞いてみる。
そして、それを職員間で共有して、全員で統一する。
もちろん、変化があれば柔軟に対応する。
「今日の〇〇ちゃんは、“お姫さま”って呼ばれたい日かもしれない」──そんな軽やかな想像力も、ケアのうち。
お名前は、ただの記号ではない。
それは、その人の人生を呼びかける大切な扉。
ノックの音を間違えると、扉は開かない。
でも合った呼び方で呼べば、たとえ認知症が進んでいても、記憶の奥にある“誰かとの時間”がよみがえることもある。
呼び方一つで、笑顔が生まれる🩷。
言葉ひとつで、心がつながる。
じぃじ、ばぁば、〇〇ちゃん、旧姓、ニックネーム──どれも“その人らしさ”のかけら。
それを見つけ、手渡し合える関係こそが、ケアの宝物なのです。
さあ、次は少し視点を広げて、「責任」という名の重さと、安心感という名の演出効果について、ぐいっと深掘りしてまいります。
まじめな話も、ひとさじの笑いを忘れずに──それがこの物語の作法です。
誰にでも一度はあると思う。
「あの人、めっちゃ“先生ヅラ”してるなぁ…」という瞬間。
もちろん本人にその気はなくとも、周囲の空気がそう感じてしまうことってあるんです。
いやね、スーツを着て颯爽と登場、しかも“ちょっといい声”で「それは〇〇で調整しましょう」とか言い始めたら、もう8割方“責任者っぽい人”に見えてしまうわけです。
でもここで大事なのは、「見えている姿」と「実際に背負っている責任」が一致しているかどうか。
本物の“先生”、つまりお医者さんや歯医者さんは、見た目もそうだけど、その肩に乗ってるプレッシャーが違う。
ひとつの判断ミスで、命の行方が左右される。
指示を出せば出すほど、後から責任のブーメランが飛んでくる。
だからこそ、看護師さんたちはその指示のラインから一歩もはみ出さないように細心の注意を払う。
「先生」の一言が、すべての前提になる現場もあるのだ。
一方、私たちケアマネや相談員はどうかというと──あ、ちょっと言いづらいけど、ぶっちゃけそこまでの“絶対的責任”はない。
もちろん利用者さんの生活に関わる調整役ではあるし、倫理的責任や道義的責任はあれど、制度的には「計画がうまくいかなかったらまた調整しましょう」くらいの柔軟性があるのが正直なところ。
でも、利用者さんやご家族から見たら、それって分からないんですよね。
何かを説明してくれて、資料を出してくれて、「こういう支援を入れましょう」と案を出してくれる人は、みんな“決める人”に見えてしまう。
つまり、実際には“責任は持っていない”けれど、“安心を演出してしまう立場”にいる。
そしてそれがときに、「先生」と呼ばれてしまう原因にもなる。
これが、ややこしい。
責任がないのに、あるように見える。
判断していないのに、判断したように受け取られる。
ここで本人が“演じること”に酔ってしまったら、もう大変。
あっという間に“判断者ゴッコ”が始まり、現場が振り回されることになる。
だからこそ必要なのは、「自分の立場の限界をちゃんと知っておくこと🩷」。
安心を演出することは悪くない。むしろ大切。
でも、安心の中身が幻想になってはいけない。
「これは私の判断ではなく、医師の判断が必要です」と言えること。
「私の立場では、ここまでしかお手伝いできません」と素直に言えること。
その正直さが、真の信頼につながっていく。
責任を負うふりをして安心させるのではなく、“分担された責任”を明確にして、それでも一緒にいる姿を見せる。
それが、ケアのプロとしての成熟であり、呼ばれ方に左右されない“本物の姿勢”なのだと思う。
さあ、ここまで来たら次は実践編!
じゃあ実際、職員間でどう共有すればこの“呼び名のモヤモヤ”は晴れるのか?
第7章では、とある施設の“呼称ルール見直し会議”をのぞいてみることにしましょう──笑いあり、納得ありの裏側ストーリーです
ある日のこと。
施設内でひそかに巻き起こった“呼称モヤモヤ問題”がついに表面化した。
発端は新人職員のつぶやきだった。
「すみません、“〇〇主任”って、どの方が主任なんですか?」
……うん、分かる。名札じゃ分からないし、呼び名もバラバラ。
しかもフロアによっては“チーフ”とか“係長”とか変化球も飛んでくる始末。
もはや呼称は現場の妖怪図鑑である。
見た目じゃ正体がつかめない。
というわけで、施設長の「一度、呼び方を整理しようか」というひと言をきっかけに、職員全体を巻き込んだ呼称ルール見直し会議が開かれることになった。
名づけて“呼び名ってなんだっけ?プロジェクト”。
いや正式名称は「呼称整理検討会」だけど、内心みんなそう呼んでいた。
最初は「“〇〇先生”って呼んでるけど、本当は先生じゃないしね~」なんて笑い話だったけど、
進むにつれて、意外と深いテーマにぶち当たった。
「呼ばれ方が“立場の壁”になってることって、ありませんか?」
「役職名で呼ぶと、ちょっと話しかけづらい気がします」
「でも、ちゃんと“責任者”って分かるようにしないと困る人もいますよね」
出てくる出てくる、モヤモヤと本音とちょっとした恥ずかしさ。
最年少の職員がポツリと言った。
「でも、“さん”付けだけになったら、なんか家族っぽくていいなって思います」
その瞬間、空気がふわっと変わった。
誰も否定しなかった。
それどころか、「その方が話しかけやすいよね」「たしかに利用者さんも安心するかも」と意見が次々に続いた。
結局、「名札に役職を表記するけど、呼び方は“さん”で統一する」という結論に。
それだけで、職場の空気が明るくなった。
翌朝、「主任~」ではなく「〇〇さん、おはようございます!」と声をかけた時の、その人の顔のほころび方ったらもう。
呼び方ひとつで、人は柔らかくなる。
言葉を変えると、関係も変わる。
それを実感した現場の職員たちは、こっそりガッツポーズを決めていたに違いない。
そしてこのプロジェクト、実は利用者さんにも波及した。
「今日から“じぃじ”って呼んでもらおうかな~」なんて嬉しそうに言う方が現れたり、「うちは昔から“ばあちゃん”って呼ばれてたんで、それがええわ」と職員と二人でニコニコ話していたり。
呼び名が関係性を作り、関係性がその人の一日を彩る。
そんな小さな革命が、静かに施設の中に広がっていった。
会議で何かを決めるって、つい重たい話になりがちだけど、こんなふうに笑って、納得して、ちょっと胸があたたかくなる。
そういう変化こそ、じわじわと現場を変えていくんだと思う。
次回、研修のネタに困ったらぜひ思い出してほしい。
「あなたは、どう呼ばれたいですか?」
「あなたは、どう呼んでほしいですか?」
それを尋ね合える職場は、きっと今日もやさしくて、あったかい🩷。
さあ最後は、これまでの旅のまとめと、呼び名の向こう側にある“本当のケア”について、しっとり語って締めくくりましょう──。
敬称ひとつに、これほどまでのドラマが詰まっているとは──書いている本人もびっくりです。
「先生」と呼ばれること、呼ばれる側の心構え、そして“呼び方”がもたらす現場の化学反応。
どれもが、現場で働く誰もが一度は感じたことのある“あるある”だったのではないでしょうか。
呼び名って、つい流してしまいがちなものだけど、そこには人の心の動きがぎゅっと詰まっています。
信頼がにじんでいたり、緊張がにじんでいたり、あるいはその人なりの敬意や不安、期待がふと現れていたり。
「呼び名」はつまり、“その人との関係性のかたち”そのものなんですね。
「先生」と呼ばれたときにどう受け止めるか。
「さん」付けを徹底することで何が変わるか。
そして、利用者さんが“どう呼ばれたいか”に、どこまで耳を澄ませられるか。
呼び方に正解はありません。
でも、“考えること”と“統一すること”には、大きな意味がある。
それは制度ではなく、文化であり、チームとしての「私たちって、どうありたいの?」という問いかけに近いのかもしれません。
そう、敬称の問題とは、実は「ケアの在り方」そのものを映す鏡なのです。
誰が偉いとか、誰が下だとか、そんな話ではない。
上下じゃなく、向き合って並ぶこと。
呼び方は、その第一歩。
それだけで関係性が変わる。空気が変わる。
気づけば、施設の中がほんの少し、あたたかくなっていたりするんです。
さあ今日からまた、「先生」じゃなくていい、でも誰より信頼される“あなた”として、名前を呼ばれ、名前を呼びかけながら、一歩一歩のケアを重ねていきましょう🩷。
やさしい言葉の中に、きっと本当のケアが隠れているはずですから──。
またお会いしましょうね、〇〇さん~(ここは、あなたのお名前で!)
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