目次
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「8月6日」と「8月9日」。
カレンダーを見て、ふとその数字が目に止まるとき、ちょっとだけ息をつきたくなる。
そう思うのは、私だけじゃない気がします。
毎年、夏のまっただ中にやってくるこのふたつの日。
セミの声が元気すぎるくらい鳴いている中で、テレビからは式典の映像、静かに手を合わせる人たちの姿。
なのに、わが家ではうちわ片手に「今日はそうめんにする?冷やし中華?」なんて、けっこうにぎやかだったりするんですよね。
実は今回、「今日は何の日かな〜?」といつものように日付ネタを探していたら、すぐにこのふたつの日が出てきたんです。
でも、書くかどうか、正直けっこう悩みました。
だって、重いでしょ?
どうしても真面目で難しそうになっちゃうし、「わたしのキャラじゃないかな〜」って思ったり。
でもね、それでもやっぱり「この日だけ、何も言わずに通り過ぎるのも違うかもしれない」って、思っちゃったわけです。
だから今日は、あの出来事をじっと見つめるのではなく、ちょっとだけ角度を変えて。いつものように、ちょっとおしゃべりをしながら。
夏の空の下で、アイスを食べながら、「平和ってなんだろうね」って、そんなやわらかい感じで読んでもらえるとうれしいです🩷。
大丈夫、戦争映画の予告編みたいにはなりません。
涙をぐいぐい誘うわけでもありません。
ほんの少し、こころの片隅で「ふーん、そうなんだ」って感じてもらえたら、それだけでこの記事は幸せです。
ではでは、静かで暑くて、でもちょっと特別なこの8月の物語、はじまりはじまり~。
蝉があまりにも一生懸命に鳴いていたあの夏の日、冷房の効いた部屋の片隅で、カレンダーをめくる手がほんの少しだけ止まりました。
「あれ、8月6日って……」そう思った瞬間、胸のどこかがキュッとなって、つい麦茶をひと口飲み直す。
そんな感覚、ありませんか?
わたしはあります。
というか、毎年あります。
思い出すような、でも思い出しきれないような、どこか距離を感じるのに、遠くはないあの2つの日。
ニュース番組では静かに鐘が鳴り、街の人たちが立ち止まり、空を見上げて祈っている。
こっちはというと、朝から洗濯機が大回転し、お弁当づくりに格闘し、子どもに「もう歯みがいたの!?」と叫んでる最中。
そんな中で突然ふと、「ああ、今日は特別な日だった」と思い出す。
だけど不思議と、その「静けさ」っていうのは、街の雑踏の中にもちゃんと届いてくるんですよね。
駅前の喧騒の中、誰かがスマホでニュースを読んでたり、マスク越しでも目を閉じている人がいたり。
なにかこう…言葉にしなくても感じる空気。
夏の暑さと、心の奥でそっと息をひそめてる何かが、同じ空の下で共存してる感じっていうか。
そういう気配があるから、この2つの日は「思い出さなきゃいけない日」っていうより、「思い出したくなる日」なんじゃないかなって、最近は思っています。
セミの大合唱の中で、たまにはちょっと静かになってみる。
それってきっと、悪くないことですよね。
さて、次は、あの2つの街に吹いた“運命の風”の話を、少しだけしてみようと思います🩷。
広島と長崎。
その名前を聞くだけで、なにか胸の奥がきゅっとなるという人も多いかもしれません。
けれど実は、あの2つの都市が選ばれた背景には、ちょっと意外で、ちょっと不思議な“空の事情”が関係していたという話、知っていますか?
まず広島。
これは最初から「候補」に入っていた町のひとつ。
地形が平坦で、効果がはっきりと観測できるという理由から、あまりにも冷静な基準で選ばれてしまったそうです。
そして長崎。
本当は、長崎じゃなかったかもしれないってご存じでしたか?
本来の2発目のターゲットは「小倉」だったんです。
でもその日、小倉の空にはぶ厚い雲が広がっていて、パイロットが「ここじゃ何も見えない」と判断して、目的地を変更。
そう、雲のせいで、長崎に決まってしまったんです。
そんな偶然ってある?って思いますよね。
でも、実際に歴史は、空模様ひとつで変わってしまいました。
雲ひとつが、町の未来を、家族の運命を、世界の記憶を、まるっと変えてしまうなんて…まるで映画の脚本みたいな話。
だけどそれが現実。
しかもその長崎でも、最初に狙っていた中心部とは違う場所に爆弾が落ちたことで、山に囲まれた地形のおかげもあって、被害が少しだけ緩和されたとも言われています。
とはいえ、たったひとつの爆弾で街が燃え上がり、多くの人が傷ついたのは変わりありません。
ただその裏側にあった“見えない風”や“気まぐれな雲”の存在を知ると、なんだか人間のちっぽけさと、それでも生きていく強さを両方感じてしまうのです。
そんなふうにして、歴史は進んできました。
意志や選択だけじゃなく、空の表情すらも巻き込んで。
だからこそ今、わたしたちはこの空の下で生きているってことに、ちょっと感謝してみたくなるのかもしれません。
それにしても、今年の夏の雲はご機嫌ナナメ続き。
洗濯物は乾かないし、天気アプリは外れるし…。
でも、そんな空模様にも、きっと意味があるのかもね🩷。
なーんて思いながら、アイスをもうひとつ。
続きはまた、あの“止まった時間”のお話を。
あの日、止まったのは街の時だけじゃなかったんです。
広島の原爆資料館には、8時15分で止まった時計が展示されています。
あれは飾りじゃありません。
本当に、あの瞬間の衝撃で壊れて、その時刻のまま動かなくなったもの。
でも実は、あの止まった時計はひとつだけじゃないんです。
いくつもの家から、いくつもの時間が、同じようにピタリと止まっていた。
それぞれの暮らしの中の、それぞれの朝が、同時に終わってしまった証なんですね。
だけど、不思議なことに、止まっていたのは時計だけじゃありません。
人の言葉も、時間も、ある意味で動かなくなってしまったようなところがあって。
なかには、自分が体験したことをずっと語らなかった方もいます。
いや、語れなかったのかもしれません。
あまりにも大きな出来事すぎて、口に出した瞬間に壊れてしまいそうで。
だから心の奥にそっとしまって、代わりに笑顔で家族を守ってきた、そんな人がいたって話を、後から聞いたことがあるんです。
語られなかった記憶。
それって、記録よりもずっと重いことだと思います。
だって、言葉にならなかった感情って、想像するしかないから。
でも、その“想像する”ってことが、今のわたしたちにできることのひとつなんじゃないかなって思うんです。
知らなかったことを知るより、「そんなことがあったんだろうなぁ」と思いを馳せること。
数字や年表じゃなくて、生活のなかにあった悲しみや、温かさに近づくこと。
それって、きっと何よりの“手を合わせる”行為なんじゃないかって。
それにしても、あの展示されている時計、なんであんなに静かな存在感なんでしょうね。
誰もしゃべってないのに、「見てくれてありがとう」って聞こえてくるような気がして。
おそらくあの場に立った人は、全員ちょっと姿勢が良くなるはず。
背筋を正す、というより、自然と背筋が伸びてしまう感じ。
言葉のない会話が、そこには確かにあるのです🩷。
さて次は、そんな重たい話から少しだけ視線をそらして、今のわたしたちの足元にある「ありふれた毎日」の話を、してみようと思います。
冷たい麦茶でも用意して、もうちょっとだけ、お付き合いくださいね。
もしも今、あなたの目の前にあるアイスが「当たり前じゃないもの」だったとしたら…ちょっと味わい方が変わると思いませんか?
いや、別に急に哲学めいた話をしたいわけじゃないんです。
ただね、わたし、思っちゃったんですよ。
冷凍庫からアイスを取り出して、パキッと袋を開けたその瞬間、「これ、もしかして奇跡なのかも」って。
なんて大げさに聞こえるかもしれませんけど、真夏の午後3時、エアコンが効いた部屋で、汗ひとつかかずにバニラアイスを食べてるこの状況って…もうリラックスタイムの定番の風景じゃないですか?
考えてみたら、毎日の暮らしの中には、戦わなくても手に入る平和があふれてるんですよね。
冷たい麦茶、洗い立てのタオル、鳴り響くセミの大合唱に「うるさいっ!」って突っ込みながらカーテンを閉めるこの自由な感じ。
お昼寝中の子どもにそっとタオルをかけて、パタパタとうちわをあおぎながら「今日も暑いねぇ…」なんてつぶやく、そんな日常。
ぜんぶ、ほんとうは「ありがたいこと」なのに、慣れてしまうと見逃してしまうんですよね。
でもきっと、あの2つの都市の人たちは、今のこの暮らしを知ったら、目を細めてこう言うんじゃないでしょうか。
「いいねぇ、しあわせそうだね」って。どんな言葉よりも、そんなふうに静かに喜んでくれる気がするんです。
だからこそ、わたしたちは気取らずに、そして感傷的になりすぎずに、「ありがとね」って心の中でこっそりつぶやいてみるだけでいいのかもしれません🩷。
ということで、わたしは今から、もう1本、アイスを食べようかと思っています。
これは“平和活動”というやつです。
わが家にできるささやかな貢献。
アイスと平和の関係性については、お腹を壊さない程度に引き続き検証していこうと思います。
では次の章では、なぜこの記事を書くか書かないかで悩んだのか、そのウラ話もこっそりお話しますね。お楽しみに〜。
正直に言って、この記事を書くかどうかは最後の最後まで迷いました。
「もっと軽くて笑える話の方が読みやすいよね」とか、「わたしなんかがこのテーマを扱ってもいいのかな」とか、いろんな考えが頭の中で交差して、アイスの棒が2本たまるほど、ひとりでウダウダ悩んでたんです。
でもある時、ふと思ったんですよね。
「これ、たぶん“悩んでる”ってこと自体が、大事なんじゃないか」って。
だって、こういう話題に“向き合うか迷う”ってこと自体が、たぶん平和だからできることなんですよ。
選べるって、自由なんですよ。
誰かに強制されて書くんじゃなくて、書くか書かないかを自分で決められる。
それって、とても静かで尊い自由だなって。
そしてもうひとつ。
この記事を読んでくれているあなたが、もし「うんうん、わかる」とか「なんとなく読んでしまった」って思ってくれているなら、それもまた、すごくありがたいことだなって思います。
このテーマは、たしかに重い。
裏話だけで10記事は書けてしまう。
でも、それを重くしすぎずに「なんか優しい気持ちになれたな」って感じてもらえたら、それだけで十分なんです。
だからこうして、あえて真面目すぎない文体で、クスッと笑えるところを残しながら、ひとつの記事にまとめてみました🩷。
きっと、笑いながらでも涙は流せるし、アイスを食べながらでも祈れるんです。
そう思ったら、「書くか書かないか」の迷いは、いつの間にか「よし、書こう」って気持ちに変わっていました。
では、あと少しだけお付き合いください。
ラストは、まとめ…と言っても、堅苦しいものじゃありません。
いつも通りの言葉で、そっと終わろうと思っています。
あと1章、どうぞよろしくね。
夏って、なんだか特別な季節です。
暑さのせいなのか、にぎやかな行事のせいなのか、それとも夜空に浮かぶ花火や、昼間に響くセミの声のせいなのか、とにかく心がふわふわと揺れる季節。
そしてその中に、そっと立っている日が2つあります。
8月6日と8月9日。
にぎやかな夏に、ぽつんと現れる静かな日。
手を合わせる日。
思い出す日。
何かを思い返す日。
そして、何気ない毎日がどれほどありがたいかを、ちょっとだけ考えてみる日。
でもそれは、決して難しいことじゃありません。
うやうやしく考えなくてもいいし、正解の気持ちなんて、誰も持っていません。
ただ、いつもの夕ご飯のあとに、「そういえば、今日ってね」と話してみたり。
アイスを食べながら「今年も暑いねぇ」と笑い合えたり。
その一瞬一瞬の、なんでもない時間の中に、ちゃんと平和は生きてるんですよね。
あの日、雲の向こうで落とされたものは、たしかに大きな悲しみをもたらしました。
でも今、わたしたちが見上げる空には、もう爆音じゃなくて、打ち上げ花火とヒグラシの声が響いています。
それを当たり前と思わずに、今日も生きていることに、小さな「ありがとう」を。
読んでくれて、ほんとうにありがとう。
あなたの今日が、静かで、あたたかく、ちょっとだけ特別な1日になりますように。
そしてまた、どこかの記事でお会いできたらうれしいです。
ではでは、冷たい飲み物でも用意して、しばし夏の風と仲良くしてくださいね🩷。
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