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それ胃袋のせいにしないで!〜介護と食の現場で起きている“ホントの話”〜

はじめに…「胃に入れば同じ」なんて誰が言った?

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「胃に入れば同じ」なんて言葉、誰が最初に言い出したんでしょうね。

現場の介護士たちに聞かせたら、全員がそっとお茶を吹き出すことでしょう。

噛めるか、飲みこめるか、冷めてないか、のびてないか、そのすべてが一口ごとのドラマです。

そもそも、ひと口目が汁物だったか、メインだったかで、その後の人生(昼食後の血圧)まで変わることだってあるんです。

高齢者施設の「食べる」という行為は、カロリー計算で割り切れるものではありません。

レプチンがどうとか、血糖値がこうとか、えぇ、もちろん大事です。

でも実際の現場では、「今日はお腹空いてるのか?」「満腹中枢は働いてるのか?」なんて、相手の目の動きとスプーンの重みで判断せざるを得ない日々が続きます。

そこに、夏がやってきてしまいました。

素麺・冷やし中華・ラーメン・うどん……麺の記念日ラッシュ!

厨房は「季節感を出してみました」と張り切る一方で、介助現場は静かにざわつきます。

「あぁ、今日って……あの日だっけ?」と。

なぜなら、麺類は伸びる、滑る、噛めない、くっつく、冷める、そして最後に職員のメンタルを削る、介助者泣かせの代表格だからです。

さらに、昼休み前にやってくる“検食係”の当番。

黙って食べて「美味しかったです」だけ書いて退出する人がいれば、「今日の揚げ浸しは出汁が勝ってますね」と妙に評論家ぶる人まで。

違うんですよ、検食って。

ただの味見じゃないんです。

のびのび素麺と一緒に高齢者の楽しみが流れてしまってないか?

豆腐がパサついていないか?

誤嚥のリスクがそっと潜んでいないか?

それを感じ取る“愛ある最終審査員”、“施設の食の未来の鍵”があなたなのです🩷。

本記事では、「介護×食事」の一年を通して現場に潜む“あるある”と“気づき”をお届けします。

ホルモンの話から満腹の謎、麺との戦い、そして検食の真の役割まで、笑いながら、でも本気で語ります。

介護職も栄養士も経営陣も、そしてこれから介護に関わるかもしれない人も、「あぁ、そういうことだったのか」と思える瞬間が、どこかにありますように。

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第1章…満腹中枢ってそんなに働いてるの?


「もうお腹いっぱいだって言ってるでしょ!」と、本人が訴えているのに、おかずには一口しか手をつけていない。

こうなると、職員の間では満腹中枢の陰謀が疑われはじめます。

「この人、朝からほとんど食べてないのに」「たった茶碗半分のご飯で“満腹”って何事?」そんな疑問が給食の味噌汁と一緒に湧いてくるのです。

高齢者の満腹中枢は、若いころとはまるで働き方が違います。

24時間営業だったのが、今や週3パート勤務。

気が向いた時だけ「はい、もう食べなくていいです」とシグナルを出す。

しかも、出すタイミングが早すぎる。

胃にはまだ空きスペースがたくさんあるのに、脳が「もういいよ」と旗を振ってしまうのです。

原因は一つじゃありません。

年齢とともに胃の筋肉が弱くなり、ちょっと食べただけで胃が「ふくらんだ」と勘違いしてしまう。

さらに、腸から脳へ伝えるホルモンも手を抜きがちで、「あれ?あのレプチンさん今日いないの?」みたいな日もある。

そうすると、本人も「なんかよくわからないけど、もういらないかな…」と感じてしまうんですね。

そして職員の胸には、湧き上がる切なさ。

「それ、本当に満腹なの?ただ気分が乗らないだけじゃないの?」「さっきのど乾いてお茶飲んだだけで満腹って、どんな仕様?」

――そんな気持ちをぐっと飲み込んで、「無理に食べさせるわけにはいかないしね…」と引き下がる日々。

こうして、ご飯が1/3、味噌汁半分、メインおかずは手つかず、という“終了の図”がテーブルに残されます。

でも、ここで大事なのは、“本人のせいにしないこと”。

満腹感の感じ方が変わるのは、高齢者の体の仕様なのです。

無理に「もっと食べて!」と声をかけるのではなく、「だったら最初の数口でしっかり栄養をとろう」と方向を変えること。

これが、満腹中枢の気まぐれに振り回されず、介護職が前向きにやっていけるコツでもあります。

思い通りに働かない中枢たち。

でも彼らも、決してサボってるわけではないのです。

そう、ただ年季が入ってるだけ。

ならば、寄り添って一緒にやっていきましょう🩷。

「今日は彼(満腹中枢)、ちょっと気まぐれだったね」なんて言えるくらいのゆとりが、現場には必要なのかもしれません。

第2章…レプチンよ!もう少しやる気を出してくれ


レプチン。

それは「もうお腹いっぱいです」と脳に伝えるホルモンであり、脂肪細胞から出てくる“お知らせ係”でもあります。

本来なら、たくさん食べたらちゃんと顔を出して、「はいストップ」とブレーキをかけてくれるはずなんです。

ところがこのレプチン、年齢とともにやる気が低下。

高齢者の体内では、まるで定年後のアルバイトのように、呼ばれたときだけひょっこり現れるくらいの存在感になってしまいます。

しかも、出てきたとしても脳が「誰?」と受け取ってくれないことすらある。

「いや、レプチンさん来てたんだけど、伝票が通ってなくて…」みたいなすれ違い。

これが“レプチン抵抗性”というやつで、いくら頑張っていても報われない立場。

現場で言えば、昼休憩中の職員に「すみません、急ぎのオムツ交換なんですけど…」と声をかけるような空気の読めなさ。

そりゃあ誰だってスルーしたくなりますよね。

でもこのレプチン、若い世代でも意外と振り回されている存在。

夜更かし、ストレス、ジャンクフードの連発で、あっという間に「もう無理っす」って顔をして働かなくなります。

そして逆に、胃から出る“お腹すいたよ!”担当のグレリンは元気いっぱい。

「もっと食べろ」「さあ今すぐ!」と煽ってきます。

そう、レプチンが静かに机に向かって仕事してるのに、グレリンが廊下から大声で呼びかけてるような状態。

集中なんてできるはずがありません。

高齢者の場合、このバランスがもっと複雑になります。

体のリズムは乱れがちで、腸も静かに、筋肉はそっとしておいてほしい。

そんなときに「お腹すいたサインが出ない」「満腹感が早すぎる」といった現象が起きても、もう誰も驚きません。

ただ、ここで一つ覚えておきたいのは、レプチンもグレリンも、運動や睡眠、生活の整い具合で“やる気”が全然違うということ。

たとえば、食前1時間前にベッド上で少しだけ手足を動かしたり、ちょっとしたストレッチをするだけでも、消化器官の目が覚めて「今日のごはん、ちょっと楽しみかも」と感じることがあるんです。

ほんの10分のリハビリでも、レプチンが「よし、そろそろ働くか」と出てきてくれるチャンスになるんですね。

ただし、このあたりを現場で語っても「ふーん」で終わる可能性は高いです。

なぜなら、現場は今日の昼ごはんと午後のオムツ交換で精一杯🩷。

だからこそ、レプチンがやる気を出してくれるような仕組みを、生活全体の中にそっと仕込んでいくことがカギなんです。

お腹いっぱいを伝えるレプチンさん。

普段は忘れられがちだけど、ちょっと気にかけてあげると、ちゃんと答えてくれる不器用な働き者です。

現場のスタッフだって、そうでしょ?

誰だって見ててくれたら、やる気出るものなんです。

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第3章…メインは最後?いえ最初でお願いします!


現場に聞きたい。

「メインって、いつ食べてますか?」……あっ、はい、わかってます。

自立支援ですものね、自分で食べてもらうのが基本ですから。

配膳して、はいどうぞって言ったら、すでにごはんが半分消えてて、汁物がほとんど飲まれてて、おかずに一口も手がついてないまま「ごちそうさま」って言われたこと、ありますよね?

あるんですよね?

それです。

それが日常なんです。

介護施設での“理想的な食べ方”なんて、もはや都市伝説。

介助側も「本当は主菜から…」なんて言ってる余裕はなく、「もうなんでもいいから食べて…全部…お願いだから…」という気持ちだけでスプーンを握っている日も少なくありません。

食べきってくれれば成功、なんならデザートからでもOK、最終的に茶碗が空なら花丸。

そんな戦場のような食事風景が、全国のどこかで、たぶん今この瞬間も繰り広げられていることでしょう。

でもね、やっぱり声を大にして言いたいんです。

**「メインは最初に食べようよ」**と。

なぜかって?

だって、最初の一口がいちばん確実に“食べてもらえる一口”だからです。

味覚も、咀嚼力も、気分も、食べることへの集中力も、すべてがMAXなのが最初の数分。

そこにカロリーもたんぱく質も詰まった“メインおかず”をぶつけないで、いつ出すっていうんですか。

ご飯や汁物って、地味にお腹をふくらませるんですよね。

しかも高齢者の胃は、ちょっとふくらむと「もういいです〜」ってのれんを下ろすタイプ。

ここでおかずに手が届く前に「満腹信号」が出た日には、あとの祭りです。

白身魚のふっくら煮なんて、気づかれもせずにそのまま配膳台へ帰還。

厨房泣かせの代表作になってしまいます。

「でも、メインは最後に食べるのが正しい食べ方じゃないの?」そんな声もあります。

たしかに、日本の食文化では“ごはんとおかずを交互に少しずつ”なんて言われてきました。

でもそれは、食欲があって、好きな順番で食べられる人の話。

高齢者の中には、“とりあえず食べる”こと自体がしんどい日もあるんです。

だからこそ、その日に食べられるエネルギーを最も効率的に届ける手段として「最初にメイン」が最善なんです。

しかもメインって、味がしっかりしててインパクトがあるから、食欲を引き出すスターターにもなれるんです。

甘辛い煮魚、ジューシーな肉団子、ふわふわ卵のあんかけ――これらが最初に口に入れば、汁物もご飯も「ついでに食べようかな」となりやすい。

逆に、お吸い物から始めたら、脳が「これは終わった後の一杯かな?」と勘違いして終了してしまうことだってあるんです。

だから、私たちはあきらめない。

どれだけ「なんでもいいから早く全部食べて」と言われても、その中にそっと「じゃあ、最初の一口だけ、メインからどうですか?」と忍び込ませる。

これが、無理なく、でも確実に栄養を届ける、小さな革命かもしれません。

今日の食事、まずは主菜をひと口🩷。

そこから広がる世界を信じて、配膳の工夫、声かけの一工夫、そして満腹中枢のやる気も、ちょっとだけ引き出していきましょう。

第4章…なぜ主菜が最後に残るのか?私たちはまだ知らないフリをしている


主菜が残っている。

誰もが一度は見た光景だ。

でも、ふと目をそらして「たぶん今日は気が乗らなかったんだろうな」で済ませてはいけない。

あの皿に残るメインディッシュには、いくつもの“理由”が絡み合っている。

無言の訴えが詰まっている。

ここでは少しだけ、その理由に立ち止まってみよう。

まず、そもそも魅力がない。

正確に言うと、その人にとって魅力的に見えない。

茶色い煮魚が、ご飯の白さと器の色と溶け合って、もはや背景と化していることもあるし、視力が落ちて細かいものが見えにくくなっていることで、そこに何があるのかすらわからないこともある。

魅力を感じるためには、まず“見えている”必要があるのだ。

そして次に、「これは硬そうだ」と感じた時点でスルーされる。

これは過去の記憶も大きく関係している。

「前にこの手の肉を食べたら喉につかえた」「魚の骨が気になって食べられなかった」――そんな経験があると、人は自然とそれを避けるようになる。

もう見ただけで警戒モード。

見る➡思い出す➡やめておく。

この流れが脳内で秒速で完了していることだってある。

さらに忘れちゃいけないのが、介助者の“ほとんど食べた感”。

小鉢って、なんかすぐ空になる。

野菜の煮びたしとか、ポテトサラダとか、茶碗蒸しの残りとか、小さい器のものって介助しやすいし、食べさせる側も「おっ、進んでるじゃん」って手応えを感じやすい。

でも実は、肝心の主菜には一口も手をつけてなかったりする。

けれど、皿の上の空いたスペースと相まって、なんとなく“完食っぽい雰囲気”が出来上がってしまう。

そして、「まぁ、ほとんど食べましたからね~」と笑って流れていく。

この“主菜の置き去り感”、もっと注目されるべきだと思う。

そして最後に、とどめを刺すのが“冷まし待ち問題”。

主菜に限って、熱かったりトロミがあったり、あんかけになってたりするから、「これ熱いね、ちょっと置いとこうか」っていう定番のセリフが飛び出す。

そしてそのまま…。

気づいたら食後のお茶の時間。

本人はもう「終わった」と思ってる。

こちらが「さ、主菜行きましょう」と言っても、「あぁ、それはもういいわ」ってなる。

いや、いいわじゃないんだよ、それが栄養の本丸なんだよ!と心で叫びながら、食器を片づける日もあった。

主菜が最後に残るというのは、決して偶然じゃない。

そこには、**見えない、合わない、冷たい、怖い、そして“もう満足した気になってしまった”**という、さまざまな要因が複雑に絡んでいる。

だから私たちは、ただ「残した」で済ませるのではなく、その背景をちゃんと想像する力を持たなきゃいけないのだ。

見えなかったら、見えるように。

合っていなかったら、合わせられるように。

怖かったら、安心できるように。

冷めるまで放置するのではなく、タイミングと順番を考える技術が必要なのだ🩷。

そして何より、「ちゃんと主菜まで食べてもらえた」ということが、食事の“成功”なのではなく、「本人が心地よく、美味しく感じて食べてくれた」ことこそが、ほんとうの意味での“食支援の成功”なのだと、私たちはもう一度、自分の手元のスプーンを見つめ直す時期に来ているのかもしれない。

第5章…麺類の呪い〜現場を泣かせるのび問題〜


冷やしうどんの日。

食卓には涼しげな器、つやつやと輝く白い麺。

夏の演出は完璧だ。

けれどその器を前にして、静かに目を伏せる職員がいる。

なぜなら、そこに待っているのは、麺だけじゃない。

そう、のびるんです。

麺も。

時間も。

そして満腹中枢も。

自力で食べられる人が、麺をすすっている間はいい。

問題は、その奥に並ぶ食事介助を必要とする方々。

配膳された料理は一瞬きれいだけれど、ひと口目が訪れるまで、ゆうに10分、いや15分かかることもある。

介助は一人ずつ。

順番に声をかけて、姿勢を整えて、ペースを見て、スプーンを運ぶ。

あの介助のリズムは、食堂という名の回転寿司より遅い。

しかも、順番を待っている間に、満腹中枢が目を覚ます。

「おや、何か入ってきそうだな」「このままじゃたくさん来るぞ」「だったら早めにシャッター閉めとこう」――そんなふうに、まだ食べていないのに“食べた気”になってしまう人が出てくる。

ほんのひと口、お茶を飲んだだけで、「もうお腹いっぱい」と口にする。

それはもしかしたら、待ちくたびれて、気力ごと満腹になってしまっただけかもしれない。

その上、今日の主役は“のびる系”。

そう、麺類。

しかも、スプーンでの介助という高難易度。

麺はちぎってある。

でも、それでもつかみにくい。

すくっても垂れ下がり、すくい直せば汁がこぼれ、どうにか口に運んだら滑り込んで誤嚥寸前――これはもはや、介護職の一大スリルイベント。

誰が一番うまくすくえるか、なんて世界競技があれば金メダル間違いなし。

だけど現実には、ひと口ごとに息を飲むような静かな緊張が走る。

汁気が多いと詰まりやすい。

だからといって、汁がなければ麺はバサつく。

そこに温度の問題も加わる。

とろみのあんかけ麺。

「熱いですね、少し冷ましましょうか」と声をかける。

しばらく置いて冷める。

でも、そこにもう“食欲の熱”が残っていない。

冷ましたのは麺だけじゃなく、食べる意欲までだった。

あの、ふわっと香っただしの匂いも、もうどこかへ消えてしまっていた。

そうなると、厨房に思う。

「いっそメニューを変えてくれませんか」

刻みうどんという名の“とろみスープ付き柔らかスティック”は、もう別物。

本人の記憶にある美味しかった麺ではない。

せめて、あの頃の「ちゅるん」がよみがえるような、**“麺らしい麺”を、美味しい形で、本人のタイミングで”**食べられるようにしてあげたい。

ただそれだけなのに。

介助は人手も時間も要る。

食事は待たせてはいけない。

でも、現場はいつだって手いっぱい。

厨房は一括調理、配膳は一斉スタート、介助は順番待ち、麺はのびる、そして満腹感は“食べる前”にやってくる。

介護現場の麺の日は、まるで時間とのマラソン🩷。

それでも、たったひと口で「美味しいね」と笑ってくれたその表情に、みんなが救われてきた。

だから、麺に罪はない。

問題は、その美味しさを誰にどう届けるか。

一人ひとりに合った形で、ちゃんと“あの味”を届ける工夫を、あきらめないでいたい。

第6章…検食とは食事の最終審判である


検食。

それは、厨房で生まれた一食が、利用者さんの口に届く前に、一度立ち止まる儀式のようなもの。

なのに現場では、「あっ、今日検食当番?」と、まるで資源ゴミの日を忘れたかのようなテンションで思い出されがち。

急いでお盆を持ち、カチャカチャと食べて、「ごちそうさまでした、問題ありません」と紙に書いて終わり。

そんな検食が、食事支援の“最終防衛ライン”であっていいのだろうか。

そもそも、検食とは何を確認するのか。

味?温度?異物?アレルゲン?いや、それだけじゃ足りない。

もっと大事なのは、この料理が、これから提供される人たちの“今日の1食”になりうるかどうか。

それを一番最初に体験する人としての責任が、検食者にはあるのだ。

たとえば今日のメニューが、刻みあんかけ焼きそばだったとしよう。

一口食べて、「あっつ!」「とろみ強いなぁ…」と内心で思っても、「まぁ、そのうち冷めるだろう」とスルーする検食係がいたら要注意。

なぜなら、食べ始めるまでに15分かかる人がいることを、きっとその人は知らない。

待っている間に、あんかけは固まり、麺は崩れ、本人の気持ちは冷めていく。

検食とは、現場の時間の流れも感じ取る仕事でなければならないのだ。

さらに、「味はちょっと濃いけど、まあ高齢者向けだし」と思ってしまう罠もある。

いや待って、それは自分の味覚基準では?

ここで大事なのは、「噛めるか」「飲み込めるか」「量が多すぎないか」「主菜の印象がぼやけてないか」「冷ますべき品が冷まされずに出てきてないか」など、あくまで“あの人たちがどう感じるか”に想像をめぐらせることなのだ。

検食記録に「問題なし」と書くとき、それは「誰かがこの料理をちゃんと味わえると信じて送り出す」という意思表明でもある。

だからこそ、「今日の煮魚はややパサつきあり、嚥下に不安のある方には注意を」や、「刻み麺、スプーンですくいにくく介助に配慮が必要」などの一言が、本当の意味での検食になる。

料理の合否判定ではなく、未来への伝言なのだ。

そして現場に伝えたいのは、「検食だからこそ、誰よりもゆっくり、真剣に、味わっていい」ということ。

検食が“早食い選手権”になってしまっては、意味がない。

口の中で崩れるまでの時間、温度変化、のど越し、見た目の第一印象、それをすべて体験したうえで、「これは、今日もきっと喜ばれる」と自信を持って送り出してこそ、その一口に責任を持った人間の仕事と言えるのだ。

厨房の技術、現場の工夫、介助の配慮、それらすべてが積み上がった食事のバトン。

その最後のリレーゾーンに立つのが、検食係。

ほんの一口、されど一口。

そのスプーンの先には、誰かの「今日、ちゃんと食べられてよかったな🩷」が待っている。


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まとめ…ひと口の重みを私たちは知っている


食べるって、実はとても繊細で複雑な行為なのだと、あらためて感じさせられる。

「お腹いっぱいになった」「美味しかった」「今日はちょっと食べたくない」――それらすべての言葉の裏に、満腹中枢やホルモン、記憶の味や嚥下の機能、そしてたったひと口をめぐる“その人なりの背景”が詰まっている。

高齢者施設での食事は、ただ“出すだけ”“食べさせるだけ”ではない。

食前のリズム、介助の順番、食材の相性、器の配置、温度、硬さ、味付け、そして時間の流れまでもが、すべてお皿の上にのっている。

それはもう、ほとんど芸術。

誰も褒めてくれないけど。

でも、現場は今日も工夫を重ねる。

満腹中枢に負けないように、最初のひと口を主菜に誘導する。

のびる麺をどうにか美味しく保ち、時間差で生まれる“食べる気”を拾い上げる。

そして検食という名の最終チェックで、「この一食で、今日もいい時間が過ごせますように」と願う。

時には、「ほとんど食べたからいいよね」と笑って済まされることもある。

でも本当は、たった一口残った主菜の奥に、その人の満足感や栄養バランス、記憶の味覚が詰まっているのかもしれない。

だから私たちは、諦めずに問い続ける。

「今日はどうだった?」「何が食べやすかった?」「次はどんな工夫ができるかな?」と。

誰かの“ごちそうさま”のあとに、ちゃんと“満足”がくっついているように。

今日の介助が、ほんの少しでも“その人らしい食事”に近づけるように。

現場のスプーンも、厨房の包丁も、検食係の味覚も――全部が同じテーブルに座っていることを、忘れないでいたい🩷。

そして、食べ終えたあとに小さくも笑ってくれたあの顔が、今日のすべての報酬であることも、私たちはちゃんと知っている。

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