目次
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百獣の王と聞けば、多くの人はこう思うだろう。
風にたてがみを揺らしながらサバンナを悠然と歩く、孤高のオスライオン。
あらゆる動物がその足音に道を譲り、吠えれば草原が震え、子どもたちは「パパみたいになりたい」と目を輝かせる――。
しかし、それは物語の中の王の姿だ。
現実のライオン社会では、王は生まれついて王ではなく、牙と血と放浪の末に、たった数年の“頂点”を掴み取る。
その後、また新たな若獅子に追われ、名もなき草むらで消えていくことも少なくない。
この話を聞いたとき、私はふと考えた。
もしも私たち人間の世界が、そんなライオン社会のルールで動いていたらどうなるだろう?
高校卒業と同時に実家を追い出され、兄弟とスタートアップを組み、定年制度ではなく“力による社長交代劇”が起こり、恋愛はたてがみの量で決まり、会社に寝泊まりするのは「防衛任務」扱い……。
なんだかちょっと面白い。
いや、笑えないかもしれないけど、想像するだけで妙にリアルで、妙にしんどくて、そして、なぜか心に残る。
本記事では、そんな“リアル・ライオン社会”と“もし人間社会がそれだったら”という二つの世界を並べながら描いていく。
たてがみの意味、王の孤独、そして「群れ」とは何かという根本に触れつつ、読み終えたあとには、ちょっとだけ「王って、なんか大変そう…」と感じてもらえるはずだ。
サバンナの現実と、私たちの日常が、重なるところもあればズレているところもある。
でも、だからこそ、どこか愛おしくて目が離せない。
ようこそ、リアルと妄想が交錯するサバンナへ🩷。
次のページでは、王子が追い出されるところから始まる。
生まれた群れで過ごす日々は、穏やかだった。
母や姉たちに囲まれ、毎日ひなたぼっこをしながらお腹いっぱいミルクを飲んで、たまにじゃれ合って、たまに怒られて、それでも安心という名の毛布に包まれた日々。
だが、そんな時間には“期限”があった。
2歳を過ぎた頃、たてがみの影がうっすらと現れはじめた少年ライオンは、ある日、見送られることもなく、群れの端に立っていた。
いつものように甘えようとしたら、母はそっと目をそらし、姉は距離をとった。
言葉では言わないけれど、「もう、ここにはいられない」ことを本能で悟る。
その日から、彼の世界は急に広く、そして冷たくなった。
なぜ群れを出るのか?
それは、メスとの交配を避けるため。
血のつながったメスとの関係は、自然界ではタブー。
だからこそ、すべての若いオスは、群れを出される。
王の息子も、庶民の息子も関係ない。
血筋ではなく、狩りと牙で生きる世界。
それがサバンナの掟なのだ。
一方、人間界でもちょっと似たようなことが起きていた。
大学卒業を前に、「そろそろ家を出て独立しなさい」と母がポツリ。
いや、就職先も未定、給料のあてもないのに。
だが社会という名のサバンナに放たれるとき、人は案外あっさり突き放される。
甘えていた妹には「まだいたの?」と真顔で言われ、洗濯機の使い方も知らないまま、彼は段ボール片手にひとり暮らしのスタートを切る。
ライオンは狩りを知らず、人間は炊事を知らず🩷。
それでも世界は「はい、今日からあなたは自立です」と無慈悲に言ってくる。
母のミルクと冷蔵庫の卵、どちらが偉大だったかはさておき、旅は始まったのだ。
名前も名誉もないままに。
ひとりぼっちのサバンナは、想像以上に静かだった。
草の揺れる音、虫の羽音、たまに遠くから響く咆哮。
それだけが、昨日まで群れのにぎわいに包まれていた彼の耳を満たしていた。
腹が減る。喉が渇く。足元の砂は熱く、風は冷たい。
何より、孤独がこたえる。
そんなとき、草陰から顔を出したのは、同じようにくたびれたたてがみの青年だった。
どこかで見た顔だ。
昔じゃれあった隣の群れのあいつか?
それともただの野良オスか?
名前も定かじゃない。
だが、互いに視線を交わし、においをかぎ、そして何も言わずに隣を歩きはじめた。
やがてもう1頭、また1頭と、同じような境遇の若者たちが加わる。
こうして、彼らは“コアリション”という旅の連帯を組んだ。
敵でもなく、家族でもなく、それでも背中を預けられる関係。
サバンナにおいて、それは何よりの武器だった。
一方、人間界でもコアリション的なものが生まれていた。
ある者はフリーランス、ある者はバンドマン、ある者は会社辞めたばかりのスーツ姿。
年齢も経歴もバラバラだけど、なぜか「なんか気が合う」という理由だけで集まりはじめる。
目的は――まあ、仕事すること、くらいだろうか。
でも、やる気と情熱だけはやたらある。
コンビニ飯でミーティングし、カフェで打ち合わせと称して3時間雑談、やがて「俺たち会社作る?」という流れになり、無計画なまま結成されたのが“放浪系スタートアップ集団”である。
夢もビジョンもないけれど、友情と空腹感だけはしっかり共有している。
狩りもできずに彷徨う若オスたちと、金も仕事もなく彷徨う人間たち。
どちらもまだ“強くはない🩷”。
だが、強くなろうとする者にとって、一番の支えはスキルでも実績でもなく、隣に立つ誰かの存在なのかもしれない。
そんな日々の中で、ふと彼らは思うのだ。
「こいつらとなら、どこかの群れ、奪えるかもしれない」って。
その日は、突然だった。
放浪をともにしてきた若きオスたちが、丘の上から見下ろすと、そこには老いた2頭の王が支配する群れがいた。
陽の光の中でたてがみはややまばら、歩く足取りも重く、咆哮にはかつての鋭さがない。
獲物の群れは多く、メスたちはよく肥え、子ライオンたちもそこかしこに遊んでいる。
これ以上ない「理想の群れ」だった。
そして彼らは無言で、互いにうなずいた。
咆哮が空を裂く。
それは「今から奪いに行くぞ」という宣戦布告だった。
老いた王たちは迎え撃ち、牙と牙がぶつかる。咆哮、飛び散る砂、血のにおい。
勝ったのは、若者たちだった。
何年も放浪して培った連携が、ついに王座を奪い取ったのだ。
そこから始まるのは、昼寝と交尾と哨戒の毎日。
そう――狩りはしない。
メスがやってくれる。
彼らの仕事は、吠えることと、群れを守ること、そして昼寝中にメスにどつかれないこと。
サバンナの王とは、力と戦いで群れを奪い、その後のんびりする職業だった。
人間界でも、それは起きていた。
かつて“仲良しスタートアップ”として生まれた彼らは、ある日、老舗の地方企業に目をつけた。
社長は70代、跡継ぎ不在、社員の半分が昼休みに将棋を打ってる、そんな会社。
チャンスは今だ。
企画書を片手に突撃訪問、SNSとウェビナーで情報拡散、気づけば社長の隣で堂々と「我々が未来のビジョンを」と語っている。
結果――乗っ取り成功。
地元の経済新聞の片隅に「新体制へ」などと書かれ、気づけば会社の看板には、さりげなく新しいロゴが貼られている。
そして彼らは、月曜から昼寝した。
出社時間も自由、会議も月イチ、あとは社員がなんとかしてくれる。
やることといえば、月に一度のインスタ投稿と、時々のイベント視察(ついでに温泉)。
戦って勝ち取った王座は、ゆるくて、ふかふかで、思ったより居心地が良かった。
だが、この平和な日々の先に何が待っているか――
彼らはまだ、知らない🩷。
群れを手に入れたその日から、彼のたてがみは、どこか誇らしげだった。
まだフサフサというには物足りない。
けれど、それでも光を浴びればほんのりと黄金色にきらめく。
風に揺れるそれは、まさに“王の象徴”だった。
メスたちは見ている。
いや、見ているどころか、評価している。
「このたてがみ、濃さはまあまあ」「ツヤはあるけどボリュームがねぇ」
――そんな内なる品評会が、あの優雅な目線の中で繰り広げられているのだ。
たてがみの色や濃さは、健康状態と戦闘能力のバロメーター。
濃い=強い、つまり「このオスとなら子どもが生き残れる」と判断される。
交尾とは、ロマンでも愛でもなく、確率と条件反射のゲーム。
サバンナでは、たてがみが命を左右するのだ。
そしてもうひとつ、彼には試練が待っていた。
交尾だ。
想像を超える頻度で、朝も昼も夜も求められる。
それが一週間近く続く。
最初は「やった!王になった実感だ!」と喜んでいたが、3日目には「ちょ、ちょっと休ませて…」と草陰に逃げる始末。
だが逃げても、たてがみは風に揺れてバレる。
メスたちは妥協しない。
健康なDNAを残す、それがこの社会の唯一にして最優先のミッションだから。
一方、人間社会では、たてがみの在り方がまた別の方向で重要視されていた。
30歳を超えたあたりから、男性たちは気づく。
昔は寝ぐせすらカッコよかったのに、今は風が吹くだけで“地肌透け”が怖い。
合コンのたびに整髪料の銘柄が増え、写真は常に斜め45度からしか撮らせない。
さらに驚くのは、マッチングアプリでの“ヘアフィルター”なるタグが登場していることだ。
「フサ推し女子」なる謎のジャンルが生まれ、男性はシャンプーに月1万円を投じる時代。
髪は飾りじゃない、愛されるための前提条件なのだ。
結局、時代も種も違えど、「見た目」は重要であるらしい。
けれど、もしあなたが“たてがみ”を持たない側だったとしても、悲しむことはない。
どんなに風が吹いても、心にたてがみを――そう思えば、今日も堂々と歩けるのだ🩷。
今日もメスたちは、獲物を追って走っていた。
草を踏み、空気を切り、見事な連携でシマウマを囲い込む。
そして仕留め、引きずって帰る頃――オスはあくびをひとつ。
のそのそと起き上がり、堂々と肉にかぶりつく。
いやいや、ちょっと待って。
あれ? このオス、何してた? と思ったあなたは正しい。
サバンナにおいて、オスライオンは基本的に狩りをしない。…というか、狩りが下手。
スピードも、隠密性も、女子に完敗なのだ。
そのかわり、オスには「吠える」という大事な仕事がある。
夜に遠くへ響くあの咆哮は、他のオスに「ここは俺の群れだから来るなよ」と示す、サバンナの“防犯ブザー”みたいなもの。
また、もし若いオスの一団が群れに近づいてきたときには、命がけで戦う準備もしている。
…しているはずだ。たぶん。
そしてもう一つの大切な仕事――それは「寝ること」である。
王がよく寝ているのは、それだけ咆哮や戦いに備えて体力を温存しているから。…たぶん。
いや、ほんとに。
それに、昼寝中のオスの横をうっかり通ろうものなら、メスたちでも遠巻きにすることもある。
寝ているけど、王は王。
下手に突っつくと面倒なのである。
さて、人間社会。
ここにもまた、「狩りをしないオス」は存在する。
某企業の役員室。
日当たりの良い最上階で、イスを揺らしながら新聞を読んでいる部長の姿がある。
部下たちは知っている。
「部長、今日も会議という名の昼寝…」
それでも、いざというときに部長が一喝すれば、他部署は黙る。
新人も震える。
そう、この人には“吠える力”がある。
ほとんどの仕事は課長と主任がやっているのに、なぜか部長の存在が大きく感じられるのは、きっとその“空気感”ゆえだろう。
ライオンも人間も、頂点に立つ者は「目立つ」「響く」「怖がられる」――これが、たとえ実働ゼロでも、王の資格なのかもしれない。
だが、忘れてはならない。
どんな王も、いつかは老いる🩷。
そして、その時が来るのだ――
その朝、サバンナにただならぬ風が吹いた。
遠くから近づいてくる、若きオスたちの足音。
彼らは群れを持たぬ放浪者、だが目は澄み、毛並みはつややか。
たてがみは未熟でも、闘志は漲っている。
目指すはただ一つ、「群れを奪うこと」。
それが若獅子の成長の証。
王座は譲られない。
奪うものだ。
迎え撃つは現王。
かつては自分もああだった。
だが今は、昼寝の回数も増え、肉の消化にも時間がかかる。
あれほど威勢のよかった咆哮も、少しだけ喉が枯れるようになっていた。
それでも、王は立つ。
戦わずして明け渡す王など、ライオンではない。
戦いは一瞬で終わらない。
噛み合い、組み付き、唸り声が響く。
メスたちは見ている。
彼女たちはもう知っているのだ。
“次の王”が誰になるのか、王座が揺れるとき、群れの未来も変わる。
勝者が決まると、敗者は去る。
多くは傷つき、時に命を落とす。
だが、生き延びたとしても、もう戻る場所はない。
新たな群れを求め、また放浪が始まるのだ。
それがオスライオンの宿命。
生涯に何度、王になれるかは運と力次第。
人間界にも、よく似た光景がある。
新卒社員たちは、最初は腰が低い。
笑顔で挨拶し、コピーを取り、言われた仕事をこなす。
だがある日、会議でふとした指摘をするようになる。
「その資料、前年度から更新されていませんよね?」
……あの瞬間、部長の目が泳ぐ。
そう、彼らはもう若手ではない。
経験を積み、情報武装し、会話に自信が宿る。
ベテラン上司が「俺の若い頃はな~」と語るたびに、彼らは心の中で「また始まった…」と舌打ちする。
そうして、役職を背中から刺すような改革提案が、次々と繰り出される。
気づけば部長の席は、会議室の隅へ。
「そろそろ、次の人材にバトンを…」という声は、役員室からも漏れ始める。
だが、これもまた自然の摂理なのだ。
若き者が牙を剥くことは、未来を作るということ。
老いとは敗北ではなく、別の道を進むためのサイン。
だからこそ、ライオンも人間も――王であることを誇るならば、最後の戦いすら、堂々と挑んでほしい🩷。
昼下がりのサバンナ。
数頭のメスライオンたちは、草の中から顔を出し、ゆったりとした呼吸を繰り返していた。
狩りを終えて腹もふくれ、あとは涼しい風と日差しを楽しむひととき。
その背後では、オスがでろーんと寝ている。
完全に、だらしない。
たてがみが風に揺れて、カッコよく見えなくもないが……どう見ても寝てるだけである。
そんな姿を横目に、メス同士の会話が始まる。
「またあれで“群れを守ってる”つもりなのよ」
「この前なんて、吠えたあとすぐお腹壊してたわよ」
「え、あれって咆哮じゃなくて腹痛の声だったの!?」
……笑い声は、風に紛れて消えていった。
実はライオンの群れでは、リーダーシップをとるのはほとんどがメスたち。
狩りの手配、育児の分担、食べる順番、オスが変わったときの対応まで、全部女性陣の話し合いで決まる。
オスはそれを知らずに「俺が王だ」と思っているが、それすらも許されているのだ。
ある意味、彼は「大きな子ども」扱い。
メスたちの中で最年長の者は、時に“母のように”、時に“女王のように”群れをまとめる。
まさに静かなカリスマ。
そして人間界。
こちらでも、男たちがバタバタとポジション争いをしている間、女性たちは社内LINEグループで「あの会議、また無駄話で終わったね」と小声で盛り上がっていた。
仕事を回す段取り、部長のご機嫌の調整、新人への教育、プリンターの修理手配まで――
誰も言わないが、オフィスを正常に保っているのは彼女たちである。
部長が「大事な決断だ」と渋い顔でボールペンをカチカチ鳴らしていても、その裏では、女性職員の一言で業務が進んでいる。
「〇〇さんに言えば通るわよ」
「△△課長はこの書き方だとOK出すから」
もはや読み合いの達人である。
どの世界でも、静かに、しかし確実に動かしているのは、声高に吠えない者たちの、熟練した知恵と対応力である🩷。
それは、暴れずに世界を守る力。
それは、騒がずに次を導く技。
王は代わっても、群れは残る。
その群れをつなぐものこそ、真の“王”かもしれない――。
サバンナの朝。
地平線の彼方から昇る太陽を、誇らしげに見つめる若ライオン。
胸を張り、「今日こそ、俺がヒーローになる」と心に誓う。
だがその横で、年長のメスは呆れ顔で言う。
「そんなことより、あんた、あの木の上にフクロウいるから気をつけな」
ライオン界において、空の脅威はほとんどない。
大空を支配するワシやハゲタカ、時にフクロウだっているけれど、成獣のライオンを襲うほど無謀ではない。
しかし、油断ならないのは子どもたち。
夜陰に紛れて飛んでくる猛禽類が、小さな子ライオンをくわえて持ち去る――そんな話も、昔の長老ライオンが低く語る伝説として残っている。
それは都市伝説か、本当の事件か?
真偽はさておき、空を仰ぐ彼らにとって、「空に敵なし」はあくまで“自分がデカくなった後”だけの話。
そう、ヒーローは空なんか見ない。
空に気を取られたとき、守るべき小さなものがいなくなる。
それを知っている者は、黙って地面を見つめる。
現代社会においても、ヒーロー像はどこか勘違いされがちだ。
「空を見上げて夢を語れ」「志は高く」なんて言葉が、毎年4月の入社式で量産される。
一方、現場のママパパたちは、日々、地べたを這いつくばっている。
「あの靴どこいった!」「砂食べてる!やめてー!」――空なんて見てる暇はないのだ。
そして今、育児に導入されつつあるドローン見守り。
子どもが迷子にならないように、カメラ付きで追跡してくれる賢い味方……のはずが、「電波が切れて落ちてきた!」「頭に直撃!」「なぜか鳩と接触事故!」など、落とし穴は空からやってくる。
さらに、近所のマダムは言う。
「あら、ドローン?あなたの子、ベランダで歌ってたわよ~♪」なんて報告が来るたび、心がヒュンッと飛んでいく。
見守る目が空にあること、それ自体がストレスになったりもする。
空を見上げるのは悪くない🩷。
でも、足元の子どもが、砂場で作った“ジャリカレー”をどや顔で差し出してくれる瞬間――それが、ヒーローを超える魔法の時間かもしれない。
サバンナの真昼、喉が渇いた若きオスライオンが、ゆらゆら揺れる水面を見つめて立ち止まった。
暑さで口を開けながら、ふと耳に届くはバシャーンという音。
その瞬間、彼は水辺から後ずさった――そう、カバの登場である。
ライオンが群れでいても、水辺にはカバやワニという“別格の王”が存在する。
ワニは姿を見せないまま、突然ガブッと飛び出してくるし、カバに至っては「ねぇ?歩いてるだけなのに、なんでそんなに怒ってるの?」と聞きたくなるくらい、ムスッとした顔で突進してくる。
ライオンは強い。
しかし、ワニの顎力とカバの突進力に対しては、「勝てるけど、やらない主義」とでも言わんばかりに距離を置く。
たとえ百獣の王であっても、“その水たまり、どうぞご自由に”と譲るシーンがあるのだ。
水辺の王は、“獣”ではなく“怪物”に近い。
そう、百獣の王には百獣でいるための“謙虚さ”も必要らしい。
ある日、社員旅行で訪れた温泉宿。
風呂上がりにのれんをくぐると、そこにいたのは社長。
手ぬぐいを肩にかけ、ドーンと湯上がりビールを手に、「ほっほっほ、いい湯じゃった」と笑う様子は、まさに“水辺の主”。
若手社員Aが冷水器に手を伸ばそうとするが、社長の半径1メートル以内に入る勇気はない。
洗面所でも歯磨きを始めようとして「あ、どうぞどうぞ…」と譲り続けた結果、歯ブラシを口に入れたまま湯冷めしそうなBくんもいた。
水まわりは戦場。
洗面所、風呂、給湯ポットに至るまで、“長くいる人”がその場の空気を支配する。
特に“裸の付き合い”が成立した風呂上がりでは、上下関係がより濃くなる。
「先に出た者こそが勝者」という理論すらある中、老舗の主(社長)は、誰よりも遅く出てくる。
「あの方が出たから、今がチャンス」――そう感じた瞬間の、皆の団結力と安心感たるや、まさに人間社会のライオンたち。
人は、水まわりでこそ真の力関係を知る。
そして悟る――「あの社長、カバだったのかもしれない🩷」と。
「王の死」と聞いて胸を打たれるのは、ディズニー映画の影響が大きい。
でもサバンナの現実はもう少し…過酷で合理的だ。
そもそもムファサ的存在は一頭じゃない。
群れを乗っ取るために集まった複数の若いオス、彼らが同時に“王”の座に就くこともある。
1匹が目立って吠えたって、横にいる兄弟ライオンが「はいはい、次はオレの番ね」と口を開けば、順位なんてあってないようなもの。
そして、かの有名な“シンバ”のような息子ライオン。
彼が育った群れにとどまっていれば、あっという間に“父親に代わった新王たち”に追い出されるのがオチだ。
父を継いで王になるなんて、そんな温室育ちはここには存在しない。
王が死んで、涙が溢れ、誇り高く立ち上がる?
いやいや、現実は「死んだか!よし、次オレらね」というスピード感と、先代の遺児には「お前、もう出てけ」の冷酷さ。
ライオンの世界に“家督”なんてロマンは存在しない。
「いつかこの会社は息子に継がせようと思ってまして…」と語る経営者の顔には、どこか王者の気配がある。
でもその横でふわっと笑う奥さんの目には、“新しい専務候補”の営業部長をちらつかせているかもしれない。
人間社会でも、「親の会社を子が継ぐ」というシナリオが、現代では神話に近い。
下手に“息子シンバ”が居座れば、バチバチに動く役員会という名の“群れのオスたち”にあっさり蹴散らされる。
「このポストはオレたちで守る。お前はまだ狩りすらできてない」――そんな空気感の中、突然アフリカへ武者修行に行く青年社長候補もいれば、いつの間にか芸人になってる子もいる。
子の進路は自由だが、王座は自由にはならない。
会社にしがみついたところで、継がせてもらえる保証はどこにもない。
現実のサバンナでは「父を継ぐ」ではなく、「自分で群れを持つ」しかない。
つまり、甘えは通じず、実力とタイミングとほんの少しの牙が必要なのだ。
「親の背中を見て育て」と言うけれど、見えた瞬間に追い出されることだってある。
そう――ライオン・キングは、美しい夢なのだ🩷。
ライオンは百獣の王。
だけどそれは、吠える姿がカッコいいからでも、筋肉がゴリゴリだからでもない。
本当の理由は、過酷な環境の中でも「群れを守る力」と「その場を生き抜く知恵」を兼ね備えているからだ。
群れのオスは“旅をして、勝って、守って、そして追い出される”。
メスは“静かに狩りをして、群れの未来をつくる”。
この役割分担は、まるで人間社会の縮図のようでもある。
一方、人間世界。
肩書きや地位にしがみついたところで、風が吹けば役員会は揺れるし、家庭ではちびっ子ライオン(息子・娘)が予測不能に吠え出すこともある。
会社を継ぐ夢を抱いたシンバくんが「はい、君には経験が足りないから」とベテラン幹部たちに門前払いされる姿は、まるで新参オスが古参ライオンに追い払われるあの瞬間とシンクロする。
つまり、王でいるには――力も知恵も覚悟も必要。
そして“その場所にふさわしいかどうか”を、他の群れメンバーがちゃんと見ている。
「いつか王に…」という気持ちだけでは、たてがみが風にそよぐことすらないのだ。
最後にひとつ。
サバンナでも社会でも、頼れるのは「自分で勝ち取った群れ」と「笑えるユーモア」だったりする。
だから、今日だけでも百獣の王を目指して、背筋をピンと伸ばして歩こう。
隣を歩く誰かが、「おっ、たてがみ増してきたね」と、こっそり思ってくれるかもしれないから。
あ、8月10日は世界ライオンの日…にちなんだ記事でした🩷。
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