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父の日が来るたび、私は毎年同じことを考える。
「今年は何を贈ろうか」なんて、ありきたりな悩みじゃない。
もっと根本的な、もうちょっと複雑な…たとえば、「この父の背中に、果たして私は何か返せるのだろうか」みたいな、ちょっと重ための、でも不思議とあったかい悩みだ。
というのも、うちの父は80歳にして現役。
朝から畑で土と会話し、自転車で風を切って走り、仲間とコーヒーを淹れて飲み、そして夜はしっかりお風呂に入ってスッキリする。
母の「はい、お風呂!」のひと声で、もう完璧に動く。
なんだろう、AIより反応が早い気がする🩷。
一方、私はというと。
50歳になり、湿布と仲良くなり、階段と会話する前に息を吐き、車の乗り降りはもはや忍者修行のようになり、日々、どこかしら痛いか重いか怠いかのどれかを抱えながら生きている。
だから、父を見上げるたびに、「え?この人ほんとに80歳なの?間違えてない?」ってなる。
戸籍をもう一回見直したくなるレベルで、元気なのだ。
そんな父の背中を、ちょっと腰をかばいながら見上げる私が、今年の父の日に思ったこと。
……これは、ただの感謝じゃ終われないぞ。
あれは、まだ20代の頃だった。
職場のエレベーターを降りて、廊下を数歩歩いたそのとき、まるで誰かに後ろから膝カックンをされたような、あの“グラリ”とした感覚が突然やってきた。
おかしいな?と思っているうちに、足に力が入らなくなった。
階段がやけに遠く見える。しゃがむのも怖い。
それまで何も考えずに“当たり前”だと思っていた身体が、なんだか急に不機嫌になった感じだった。
診断は、脊柱管狭窄症。
言葉の響きはちょっと難しいけど、要は「腰から足がガタつきますよ~」ってやつだ。
しかも、手術にはお金とリハビリがのしかかる。
時間もいる。
それならまずは保存療法で…と選んだのが、思えば“立ちっぱなし仕事”との決別のはじまりだった。
それでも当時の私は、介護職にしがみついていた。
なぜなら——若かったからだ。
理想も熱意もあったし、「誰かの力になれる自分」になりたかったし、なにより、“動けるうちはやってみたい”と思っていた。
けれど、そういえば。
私が介護の道に入ると父に話したとき、はっきりと反対されたわけではないけれど、「あまりおすすめはしないなぁ」と、ぽつり言われた記憶がある。
父なりに、先の苦労や現場の厳しさを察していたのかもしれない。
なのに私は、人生で同じ施設に2度も入職するという親不孝をやらかし、しかも同じ職場で、2度も身体を壊した。
いや、正確には「壊れかけていたものを無理して使い続けた」結果かもしれない。
今なら、あのときの父の気持ちがわかる。
止めたくなるよね、そりゃあ。
何が悲しいって、そのときの“やめておけばよかったなぁ”という後悔が、いまや30分も歩けば膝がジンジン、足がビリビリしてくるたびに、地味に更新されていくのだ。
「ねぇ、私の過去よ、いい加減反省してくれない?」と鏡に向かって小声で言いたくなる。
そんな私も今や50代。
けれど、それでも。
あの頃の私はあの頃の私なりに、真剣だったんだよなぁ…と、今も思っている。
だからこそ、この体に刻まれた膝の痛みも、“人生の勲章”ってことで、そっと胸を張ってみたりしている。
いや、胸を張ると腰に響くので、やっぱりそっと心🩷で張っておこう。
ほんの少し前まで、私は「ケアマネの弾丸ライナー」だった。
資料抱えて、施設を回って、車に乗り込み、また別の場所へ。
高速移動、早口トーク、即時対応。
自分で言うのもなんだけど、なかなかやるじゃん、と思っていた。
ところがどっこい。
ある日、車の乗り降りに数分かかるようになった。
助手席に足を入れるだけで、「あれ?なんでこんなに遠いの?」と空間に戸惑うようになった。
エレベーターのボタンはまだ押せる。
でも押したあとに「……え、何階だっけ?」と思うことが増えた。
階段は、気持ちの中で2階分くらい高く見えるようになった。
そんな私に、ある日、同僚がそっと声をかけてくれた。
「最近、ちょっと動きがゆっくりになってきましたね」
やさしい言い方だった。
“遅い”とも“だるそう”とも言わなかった。
その思いやりが、胸に沁みた。
たぶん同僚には、すでにすべてバレていたんだと思う。
表情とか、動作とか、あの沈黙の時間とか。
でも、上の人たちは違った。
私の動きの変化に気づくには、きっともっと時間がかかったのだろう。
もしくは、気づいていたけど“気づかないフリ”の技術があったのかもしれない。
いずれにせよ、言われたのは一言だった。
「それ、業務に支障出てるなら…」
ああ、来たな。
三行半って、こういうときに出されるんだなって思った。
ただ、不思議と泣けなかった。
涙って、体力がある時に出るもので、心も体もヘロヘロになってると、もう出ないものらしい。
かわりに、ふうっと息が出た。
「そっかー、じゃあ、やめよっかー」って。
静かなフェードアウトだった。
引き留められることも、拍手で送り出されることもなく、私は音もなく、ケアマネの椅子を立った。
ただその時、思ったことがひとつだけある。
「今までの私、よく頑張ったね」って🩷。
自分で自分をねぎらった。
誰にも聞かれないように、小さく小さくつぶやいて。
そして今。
畑じゃなく、画面の前で、私は言葉を育てている。
体はボロボロだけど、心はまだいける。
だから、ブログという畑で、今日もぽつぽつ言葉の種をまく。
土の手ざわりはないけれど、キーボードのカタカタ音が、私の耕すリズムになっている。
父は、ほんとうに絵になる。
朝の畑でラベンダー色のベストを着て、手際よく土をいじり、一息つくと、おもむろにコーヒーを淹れはじめる。
しかも、畑の真ん中で。
どこのバリスタだと思うくらい湯気を優雅に立たせて、仲間たちと笑いながらカップを持つ姿は、もはや「畑の社交界」である。
その横顔を、少し離れた日陰から眺めている私。
どこかのイタリア映画だったら、今ごろナレーションで「人生とはこういう時間を味わうことだ」って語られているかもしれない。
……まあ、実際はこっちは日陰で足をさすってるんだけどね。
「いや~腰がなぁ…」とごまかしつつ、私は父の背中にそっと問いかけてみる。
“お父さん、なんでそんなに元気なの?”
“ねぇ、何食べて生きてきたの?”
“なんならDNAを返送して精査したいくらいなんだけど?”
一方の私は、というと、今やプリン体を気にしながら水分補給し、「立ち上がるたびに鳴る音がカスタネット状態」だし、鏡に映る背中は、なんだか曲線を描いていて芸術点が高い。
父の背はスッと天を仰ぎ、私の背はそっと現実を見つめている。
でも、不思議なことに、そんな自分の背中も、最近は少しだけ愛しく思えてきた。
だってね、考えてみたら、この背中だって、けっこう頑張ってきたじゃないか。
立ち仕事をして、抱え上げをして、転倒対応をして、濡れた床を滑って“生まれたての子鹿”みたいになったこともあった。
そして今、パソコンの前で背筋を伸ばそうとして、「ビキッ」と静かに自己主張してくるこの背中に、ちょっとだけ「よくやったね」と言ってやりたい気持ちになる。
父の背中を見て、私は思う。
自分は父のようにはなれなかったかもしれない。
でも、父のように「今日も笑って暮らす背中」にはなれるかもしれないと。
それならそれで、いいじゃないか。
できればこの先、子どもたちが私の背中を見て「うちの親父、なんかずっと笑ってたよなぁ」ってちょっとでも思ってくれたら、本望である🩷。
まあ、できれば「背中曲がってたけど」って部分は黙っててほしいけど。
父の日というのは、プレゼントを選ぶ日でもあるけれど、もっと大きな意味では「親子ってなんだったかなぁ」と、そっと考えるきっかけになる日なのかもしれない。
80歳の父が畑で元気に笑っている姿は、いまだに私のなかでは“理想の背中”だ。
一方、50歳の私は、身体のあちこちがギシギシ言いながら、ゆっくりと、でも確実に、ひとつの時代を終えていった。
でも、それでいいと思う。
たしかに私は立派な父にはなれなかったし、まっすぐな人生でもなかったし、階段はできればエスカレーターでお願いしたいし、自転車にはもう10年くらいまたがっていない。
けれど、そんな自分もまた、誰かの“背中”であることに変わりはない。
よろよろしていても、道草ばかりでも、歩いていれば、それが「誰かの道しるべ🩷」になることもある。
もしも子どもたちが、将来なにかにつまずいたときに、「そういえばうちの親父、なんかいろいろ抱えてたけど、それでも笑ってたな」ってほんの少しでも思い出してくれるなら、それだけでじゅうぶんじゃないかと思う。
父の背中を見て、自分の背中を見つめなおして、少しだけ姿勢を正してみる。
それが、今年の父の日の…、私なりの感謝のかたちだった。
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