父の背中はいまも現役だった!ケアマネ息子が見つめる80歳の父の日常

[ 6月の記事 ]

はじめに…父の日が来るたび少しずつ変わる父の姿に気づく

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父の日が来るたびに、私はひとつだけ悩むのだ。

何を贈ろうか、ではない。

この父に一体、何を贈れば「足りる」のかという問題である。

うちの父は、もう80歳。

高齢者、と言えばたしかにそうなのだが、畑へ向かうその背中は、誰よりしゃんとしているし、自転車に電動がついているとはいえ、風を切って走る姿は、ちょっとカッコいい。

朝から夕方まで、好きな野菜を育てる日々。

コーヒーセットを持参して、畑仲間とちょっとしたカフェタイム。

猪除けの電気柵を張った時には、「お前も張ってみろ、難しいぞ」と言って笑った。

正直、私よりもはるかに活動的で、人生を楽しんでいるように見える。

そんな父を、私は50歳になった今、尊敬のまなざしで見つめている。

そしてその裏で、ケアマネとして1,000人以上の高齢者と向き合ってきた私は、ほんの少しの変化にも、つい目がいってしまう。

笑顔で繰り返す同じ話。

昔より少し、ぼんやりと柔らかくなった表情。

会話の流れの変化に、あれ…?と立ち止まる自分もいる。

職業病かもしれない。

でもそれは、「気づいてしまう」息子の業だ。

父はまだ元気だ。

でも、いつまでもそうとは限らない。

だから私は考える。

この父に、どんな“父の日”を贈れば、心から喜んでもらえるのだろう🩷。

ありがとね。

がんばってるね。

——そんな言葉ではきっと追いつかない。

今年の父の日、私はちょっと本気を出すことにした。

そう、この父にふさわしい、“盛大な感謝と未来の贈り物”を届けたいと毎年振り返る…。

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第1章…朝から晩まで畑に通う父の“今”という奇跡


父は毎朝、電動自転車にまたがり、まだ少し冷たい空気のなかを颯爽と走っていく。

ヘルメットこそ被らないけれど、背筋はピンと伸びて、まるで老舗の配達員のような風格

「行ってくるぞ」の声とともに飛び出していく姿に、こちらが「いってらっしゃい」と返すタイミングを逃すこともしばしばである。

向かう先は、父が長年愛してきた畑だ。

季節ごとに色を変えるその畑には、スーパーでは見かけないような野菜たちが並ぶ。

名前を聞いてもピンとこないものもあるし、「これ、食べられるの?」と一瞬疑ってしまうようなビジュアルのものもある。

だが、それらがまた…驚くほど、うまい。

その畑には、父の人生が詰まっている。

土をいじるその手には、誰にも真似できない熟練のリズムがあって、収穫した野菜は、まるで宝物のように大切に扱われる。

「これ、今日できたばっかりや」

どこか誇らしげに、でも自然体で話す父の横顔に、私はつい見とれてしまう。

一通りの作業が終わると、父は自前の湯沸かしセットを取り出して、ゆっくりお湯を沸かす。

そこまでして飲むのかと思うくらい丁寧に準備して、コーヒーを淹れる。

インスタントではない、本気のやつだ。

畑の片隅で、香ばしい香りがふわっと漂い、それを目当てにぽつぽつと集まる“畑仲間”たち。

そこに椅子が並び、おしゃべりがはじまり、まるで青空喫茶店のような時間が始まる。

そんな父の畑からは、毎日たっぷりの野菜が生まれる。

家ではもちろん、それだけで食卓が豊かになるし、近所の人たちにも「どうぞどうぞ」と配られていく。

もらう人はみな笑顔で、「お父さん、いつもありがとう」と声をかけてくれる。

父も「またできたら持っていくよ」と笑いながら返す。

この自然なやりとりが、どれだけ心をあたたかくしてくれることか。

さらに驚くべきは、最近ついに猪避けの電気柵まで導入し、それを自力で張り巡らせたことである。

説明書を読みながら、脚立に登り、線を引き、金具を打ち、電源をつなぐ父の姿は、もう「80歳」の概念を大幅に覆してくれる🩷。

畑に猪が来ることはもうほとんどないが、万が一やって来たときには、父の仕掛けがピカッと光る予定である。

こうして、父の一日は続く。

夕方、満足げな顔で帰ってくると、母から「お風呂入って!」とすかさず声が飛ぶ。

汗と土と陽射しの香りをまとったまま、父は「はいはい」と笑いながら風呂へ直行する。

その姿を見ながら、私は思う。

父って、すごいな。

まるで、老いなんてどこにもないような、“今”という時間を精一杯生きている人なのだと。

第2章…「まだ元気」は魔法じゃない。老いの気配に気づく瞬間


父は元気だ。

誰が見てもそうだと言うだろうし、私だってそう思っている。

ただ、元気な人が“老いない”わけじゃないことを、私は仕事を通して知っている。

それに、私の目はもう、普通の目じゃない。

1,000人以上の高齢者をケアし、看取りもたくさん経験してきた。

自慢でも何でもなくて、そういう目を持ってしまったのだ。

だからこそ、父に会うと、つい見てしまう。

つい気づいてしまう。

これまでと、ほんの少し違うところを。

久しぶりに帰省して顔を合わせたとき、父の顔に“何か”が乗っていた。

しわじゃない。

疲れでもない。

ただ、全体がふわっとしたような、茫洋とした雰囲気がある。

顔の輪郭も、眼差しも、どこか柔らかくなっていて、まるで、霧が少しだけまとわりついているような…。

きっと誰も気づかない程度の、けれど私には見える変化。

そして会話のなかで、ふと気づく。

あれ、この話…前にも聞いたな。

いや、昨日も聞いたかもしれない。

けれど私は、それを指摘するようなことはしない。

ニコニコとうなずいて、驚いて、笑って、何度でも聞く。

だって私は“息子”で、そして、父がどんなに同じ話を繰り返しても、その話をする父の目が、誇らしそうだから。

繰り返す言葉のなかには、同じことを言いたいわけじゃなくて、ただ誰かに伝えたい想いが、何度も溢れてくるだけなんだと私は知っている。

それが例え、昨日と同じ言葉であっても、今日の父の気分と風と光は違うのだ。

だから、話す意味も、きっと違う。

でも…正直に言えば、やっぱり寂しい。

強く、たくましく、どこか手の届かない存在だった父が、少しずつ、やわらかく、近づいてくるような気がして。

嬉しいような、心細いような、説明しきれない気持ちになる。

だけど私は、ケアマネとして生きてきた人間でもある。

老いとは、消えていくものではなく、育っていくものだということを知っている。

父も、そして私自身も、老いていく。

だからこそ、ただ黙って受け入れるんじゃなく、この“気づき”を、何かに活かしたいと思った。

父が老いていくことを、悲しむのではなく、今という時間を、もっと味わえるようにするための準備として。

そして、そう考えたとき、今年の父の日が、ちょっと特別な意味を持つように思えた🩷。

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第3章…「父の日ギフト」は“尊敬”と“未来”を贈る日に


さて、父の日である。

世の中のお父さんたちがネクタイやシャツやビールをもらっているその日、私は今年、ちょっと違う贈り物を用意しようと思っている。

なぜなら、うちの父は“普通のお父さん”ではない。

を相手に柵を張る80歳である。

電動とはいえ自転車で毎日往復する体力を持ち、その上、畑でお湯を沸かしてコーヒーを淹れ、青空の下で仲間と談笑し、夕方にはお風呂へ直行するという、もはや神話の領域に入りつつある生活を送っている。

そんな父に、ありきたりなプレゼントでは失礼というものだ。

そもそも、物なんて必要としていない。

どちらかといえば、**“時間”と“役割”と“記憶”**のほうを大切にしている気がする

だから私は、今年の父の日に、父の畑を一冊の本にしようと思っている。

名付けて「父の畑の一年」だ。

収穫した野菜の写真と、何月に何を植えたか、どんなふうに育ったか、そして父がぽつぽつと語ってくれる、土との会話。

それを、録音して、文字にして、写真に添える。

何がどうしてこうなったか分からないけれど、父の話は繰り返しが多い分だけ、名言も多い。

「スイカは、あまやかすとダメになる」とか、「土も、人間も、雨に当たらんと腐る」とか、そのへんの自己啓発本より、ずっと奥が深い。

それらをまとめて、ひとつの記録として贈る。

これはもう、プレゼントというよりも、**共に作る“人生の記録”**だ。

そしてもうひとつ。

香りと触感のプレゼントも添えたい。

いつも父が飲んでいるコーヒー豆に、私が選んだ別の豆を混ぜて、ちょっと違う香りを足してみる。

「なんか違うなぁ」と言いながら飲んで、「でも、これも悪くないな」と言ってくれたら、それでいい。

さらに、畑に置く“父専用のベンチ”を作ろうかとも思っている。

もちろん、木工のセンスはゼロに等しいので、プロに頼むけれど。

父の名前を彫って、座面にはちょっとした防水クッション付き。

畑仲間とのコーヒータイムが、ますます楽しくなるように🩷。

父はまだまだ元気だ。

でも、その元気がある“今”だからこそ、この時間を記録し、価値に変えていくことが大切だと思っている。

「ありがとう」だけじゃ、きっと足りない。

父の今と、これからの人生に、“これからも一緒にいるよ”という気持ちを贈りたい。


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まとめ…老いは止められない!でも“価値”には変えられる


気がつけば、私も50歳を越えた。

若い頃には「親父みたいにはなりたくない」なんて思っていた時期もあったけれど、いざこうして年を重ねてみると、父の背中が、なんだかどんどん大きく見えてくる

80歳の父が、畑で汗を流し、仲間と笑い、コーヒーを淹れている。

を相手に策を張り巡らせ、夕方には母に命じられてお風呂へ直行し、夜にはその日の野菜とともに、いつもの話をもう一度語ってくれる。

それはまるで、絵本のような時間だ。

父の日というイベントは、ただの「ありがとう」を伝える日じゃない気がしてきた。

むしろ、「これからも一緒に生きていこうね」とそっと手を重ねるような、そんな未来の約束の日にしても、いいんじゃないかと思う。

私は、父の老いに気づいている。

でも、それを「終わりのサイン」だなんて、絶対に思いたくない。

老いは、静かに進んでいくものだけれど、それは決して“失うこと”ではなくて、時間の味わいが深くなっていく過程なんだと、父が教えてくれた気がする。

今年の父の日は、ちょっと盛大にしてみようと思う。

豪華な食事もいい。

ちょっと照れくさいけど、思いきって手紙もいい。

でも一番の贈り物は、**「今日の父を、きちんと見つめて、記録して、共に笑うこと」**なのかもしれない。

父の背中が、いつか静かに止まるその日まで、私はずっと、息子でいたい。

そして、父の“今”を、愛おしく大切にしながら生きていきたい🩷。

ありがとう、お父さん。

だけど今年は、それだけじゃ終わらないよ。

これからも、よろしく。

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