1月3日はひとみの日~ものの見方と観察の目で一年を変える~
目次
はじめに…ひとみの日は「心のレンズ」を整えるチャンス
1月3日は「ひとみの日」。お正月三が日の中では、元日ほど有名ではないかもしれませんが、実はとても面白いテーマを持った日です。目そのものを大切にしようという意味と同時に、「物事の見方」や「人への眼差し」を見直す切っ掛けにも出来るからです。
お正月といえば、「1年の計は元旦にあり」という言葉や、初夢、書き初め、新年の抱負など、「これからの1年をどう過ごすか」を考える行事がたくさんありますよね。カレンダーが新しくなるタイミングで、私たちは自然と未来を見ようとします。ここに「ひとみの日」を重ねてみると、今年はどんな目で世界を見ていくのか、どんな目で自分や家族、高齢者の方を見守っていくのかを考える、ちょうど良いチャンスになります。
「目」と言うと、まずは視力や健康状態など、体のことを思い浮かべるかもしれません。たしかに、よく見えるかどうかは生活のしやすさに直結します。しかし、私たちの日常にはもう1つ、目に関する大事なテーマがあります。それは「ものの見方」と「人の見方」です。「目つきが怖い」「冷たい目で見られた」「優しい目で見守る」など、心の状態や関係性まで、目にまつわる言葉で表現されることがたくさんあります。
介護の世界や家族の中でも、これはとても重要なポイントです。同じ出来事でも、「また我儘を言っている」と見るのか、「それだけ不安が強いのだな」と見るのかで、その後の声掛けも対応もガラリと変わります。私たちがどんな「心のレンズ」を通して相手を見ているかで、その人との距離感や信頼関係まで、少しずつ変化していくのです。
一方で、現場や家庭の毎日は忙しく、「見ているようで、実は見えていない」ことも起こりがちです。高齢の家族のちょっとした表情の変化、歩き方の変化、言葉の選び方の変化など、本当は早めに気付きたいサインほど、慣れと疲れで見落としてしまうこともあります。本当は優しい気持ちで接したいのに、こちらの余裕がなくて、つい厳しい目になってしまう日もあります。
そこでこの記事では、「ひとみの日」を切っ掛けに、2つの「目」に光を当てていきます。1つは「目」のつく言葉から見えてくる、私たちの本音やものの見方について。もう1つは、介護のプロや家族に欠かせない「観察の目」、つまり小さな変化を丁寧に受け留める力についてです。最後には、今日から出来る簡単な「優しい目」のトレーニングや声掛けの工夫も紹介しながら、「自分にも人にも優しい1年」を始めるヒントをまとめていきます。
1月3日のひとみの日。今年は「目の健康」だけでなく、「心のレンズ」も一緒に磨き直してみませんか。
[広告]第1章…「目が笑っていない?」“目”のつく言葉から見える本音
「目が笑っていない」「白い目で見られる」「温かい目で見守る」。私たちの会話には、「目」のつく言葉が本当にたくさん登場します。同じ「目」でも、やさしさを感じる言い回しもあれば、ちょっと刺さるような表現もありますよね。まずは、こうした言葉をひとつずつ眺めてみるところから、「ものの見方」の話を始めていきましょう。
たとえば、「目が笑っていない」という言葉。口元はニコニコしているのに、どこか本心が見えないときに使われます。仕事で愛想笑いをしているとき、家族の前で「大丈夫だよ」と言いながら心の中では余裕がないとき、私たち自身もそんな表情をしてしまうことがあります。自分では隠しているつもりでも、「ひとみ」の奥には、疲れや不安、いらだちが透けて見えてしまうのかもしれません。
逆に、「温かい目で見守る」という言葉には、相手を急かさず、その人のペースを尊重しながら見ている姿勢がにじみます。幼い子どもがお手伝いをしてくれるとき、少し危なっかしくても見守ってみようと思う気持ち。高齢の家族が時間をかけて箸を動かしているとき、手を出しすぎずにそっと見守る気持ち。そこには、「早くしてよ」という苛立ちよりも、「あなたなりのやり方でいいよ」という信頼が込められています。
少し耳が痛い表現としては、「白い目で見る」や「節穴か」という言い方もあります。これらは、「ちゃんと見ていない」「分かっていない」という非難のニュアンスを含んでいます。介護の場面でも、家族の中でも、相手の行動だけを切り取って評価してしまうと、ついこうした視線になりがちです。「どうしてこんな簡単なこともできないの」と見てしまうとき、その背後にある体調の変化や、認知機能の揺らぎには目が向いていないことも少なくありません。
一方で、「目を掛ける」「目に入れても痛くない」という表現には、相手への強い愛情や期待が込められています。孫に甘くなってしまうお爺ちゃんお婆ちゃんを思い浮かべると、すぐにイメージ出来ますよね。ただ、この「期待」が行き過ぎると、「こうあってほしい」という自分の理想を押しつけてしまうこともあります。厳しい視線も、甘やかし過ぎる視線も、どちらも「自分の物差し」が色濃く入り込んだ目の向け方だと言えるかもしれません。
面白いのは、どの言葉も「目そのもの」の話ではなく、殆どが心の状態や関係性を表しているところです。目は、現実の世界を見るための器官ですが、同時に「心の状態を映し出すスクリーン」の役割も担っています。だからこそ、同じ人を見ているはずなのに、「優しそうな人だね」と言う人もいれば、「なんだか怖そう」と感じる人もいるのです。その違いは、相手の表情だけでなく、見る側の心のレンズにも左右されています。
介護の現場や家庭では、この「心のレンズ」の影響がとても大きくなります。忙しさや疲れで余裕がない時、私たちの目はどうしても厳しくなりがちです。溜め息をつきながら利用者さんを見る時と、ひと呼吸おいて「今日も来てくれて嬉しいな」と思いながら見る時では、同じ目でも眼差しの温度がまったく変わります。そして、その違いは、相手にも不思議と伝わっていきます。
「目が笑っていない」と感じた時、それは自分の心が少しお疲れ気味ですよ、というサインなのかもしれません。「白い目で見てしまった」あとでハッとするなら、自分の中にある怖さや不安に気づくチャンスとも言えます。ひとみの日は、こうした「目」のつく言葉を手がかりに、自分がふだんどんな目で人を見ているのか、そしてどんな目で見られたいのかを、そっと見つめ直す日にしてみても良いのではないでしょうか。
第2章…同じ出来事も見方次第~介護と家族の“あるある”で考える~
同じ出来事でも「どう見ているか」で、意味付けも、その後の行動も大きく変わります。これは家族の中でも、介護の現場でも、毎日のように起きていることです。「事実」は1つでも、「解釈」は1つではない。ここを意識できるかどうかで、目付きも声のトーンも、関係性も少しずつ変わっていきます。
例えば、高齢の家族が食事中にお茶を溢してしまった場面を想像してみてください。ある人は「また溢したの?しっかり持ってよ」と言いたくなるかもしれません。心の中には「前にも同じことがあった」「片づけが面倒だ」という思いが浮かんでいるでしょう。目線も、ついじっとりとした厳しいものになりがちです。別の人は同じ場面を見て、「あれ、最近よく溢すようになったな。手の力が弱くなっているのかな」「もしかして見え難いのかな」と感じるかもしれません。この時の目つきは、少し心配そうで、相手を責めるというより、状況を確かめようとする眼差しになります。
事実として起きているのは「お茶を溢した」という出来事1つだけです。けれど、前者は「不注意」というラベルで見ていて、後者は「変化のサインかもしれない」というラベルで見ています。このラベルの違いが、言葉選びやその後の行動を大きく分けてしまうのです。
介護の場面でも同じような“あるある”があります。デイサービスで、Aさんが何度も同じ質問をしてくるとします。「今日は何曜日?」「お風呂はあるの?」と、短い間に何回も尋ねられると、職員側はつい「さっきも説明しましたよ」と言いたくなることがあります。ここで「しつこいな」「話を聞いていない」と見るか、「不安が強いのだろうな」「記憶の保ち方に揺らぎがあるのかな」と見るかで、目の表情が変わってきます。
前者の見方では、目の奥にイライラが滲みやすくなります。眉もつい上がり、口元は笑っていても「目が笑っていない」状態になりがちです。後者の見方では、同じ説明を繰り返しながらも、「何度聞かれても大丈夫ですよ」という安心感を伝えようとする方向に気持ちが働きます。声のトーンは落ち着き、目の力みも少し抜けていきます。
家族同士のコミュニケーションでも、似たようなすれ違いが起きます。介護を中心で担っている人は、「自分ばかり負担が大きい」と感じていることが多く、手伝いに来た兄弟の一言を、必要以上に冷たい目で見てしまうことがあります。「たまに来て口だけ出して」と見てしまえば、その人の言葉は全部トゲに聞こえてしまいます。でも、「慣れていないから、どう手伝っていいか分からないだけかもしれない」と見方を変えると、その人の不器用さが少し違う形で見えてきます。すると、同じ言葉でも「こういう意味で言っているのかな」と受け止め方が変わっていきます。
ここで大切なのは、「どの見方が正しいか」を決めることではありません。むしろ、「自分は今、どんな目でこの出来事を見ているのか」に気づくことです。心に余裕がない時、人はどうしてもネガティブなラベルを貼りやすくなります。「また」「どうせ」「いつも」という言葉が頭に浮かんできた時は、心のレンズが少し曇っているサインだと受け止めてみてもよいかもしれません。
視点をひとつだけ変えてみるだけで、目の表情がやわらぎ、相手の反応も変わることがあります。たとえば、「またこぼしたの?」を、「ビックリしたね。大丈夫?ちょっと一緒に拭こうか」に言い換えてみる。Aさんの繰り返しの質問に、「またですか」ではなく、「気になりますよね。今日は〇曜日で、お風呂もちゃんとありますよ」と、ひと言添えてみる。起きている出来事は同じでも、そこにそっと「安心」を乗せるイメージです。
この「安心を乗せる」ためには、こちらの目つきがとても大事になります。怒っていないつもりでも、眉間にシワが寄っていたり、相手から目を反らしたまま早口で返事をしたりすると、その雰囲気は相手に伝わります。「また怒らせちゃったかな」「迷惑なのかな」と感じた瞬間、人は心を閉じやすくなります。逆に、短い時間でも相手の方に顔を向けて、目の高さを合わせて話そうとすると、その人は「自分のことをちゃんと見てくれている」と感じやすくなります。
介護や家族の場面で起きる“あるある”は、どれも避けることが難しいものばかりです。転びそうになってヒヤッとする、何度も同じ質問が続く、同じ説明をくり返す。そうした場面そのものを無くすことは出来ませんが、「どう見るか」は少しずつ変えていくことが出来ます。ひとみの日を切っ掛けに、「出来事」そのものではなく、「出来事をどう見ている自分か」に目を向けてみると、日々のイライラやモヤモヤが、少し違う形で解けていくかもしれません。
第3章…介護のプロと家族に必要な「観察の目」とは何か
ここまで見てきたように、同じ出来事でも「どう見るか」で受け止め方が変わります。では、介護のプロや家族には、どんな「目」が求められているのでしょうか。よく使われる言葉で表すと、それは「観察の目」です。ただし、ここで言う観察は、ジロジロと睨むことではありません。相手を責めるためではなく、守るためにそっと様子を見つめる目のことです。
介護の専門職は、利用者さんの小さな変化を掴むために、日頃から全身を「眺める目」を意識しています。例えば、朝の挨拶の時の声の調子、歩く時の足取り、食事の量、トイレの回数、会話の内容。1つ1つは些細な変化でも、「いつも」と比べてどうかを丁寧に見ていきます。「今日はやけにテレビの音を大きくしているな」「箸の持ち方がいつもより覚束ないな」といった違和感は、体調や心の変化のサインになっていることが多いからです。
一方、家族には、専門職とは少し違う強みがあります。それは、長い時間を共にしていることです。朝起きた時の表情、家事の仕方、趣味への意欲、季節ごとの過ごし方。こうした普段の様子を知っているのは、やはり家族ならではです。だからこそ、「最近、笑い声が減った気がする」「好きだったドラマを見なくなった」といった変化に、誰より早く気付ける可能性があります。
ただ、ここに落とし穴もあります。毎日一緒に過ごしているからこそ、「見慣れてしまう」のです。だんだん歩くスピードが遅くなっていても、「前からこんなものだったかな」と思ってしまう。食事の量が少しずつ減っていても、「今日は疲れているだけだろう」と流してしまう。忙しさや心配ごとが多い時ほど、こうした変化は後回しになりがちです。
そこで役に立つのが、「観察の目は、物差しを1つ増やすこと」という考え方です。たとえば、「体」「心」「環境」の3つの視点で、その人を見るイメージを持ってみます。
「体」は、歩き方、食事量、顔色、声の出し方など。
「心」は、表情の豊かさ、好きなことへの意欲、言葉のトゲや弱さ。
「環境」は、部屋の散らかり方、照明の明るさ、段差や足もとの危なさ。
この3つを頭の中のチェックポイントとして持っておくと、「今日は体は元気そうだけど、心がちょっと元気ないかも」「環境の方に危険が増えているな」と、気付きやすくなります。
介護のプロにとっての観察の目は、記録や会議にも繋がる大事なスキルです。一方で、家族にとっての観察の目は、もっと素朴で構いません。「昨日と比べてどうかな」「いつものあの人と比べて、今日はどうかな」という、たったひと言を心の中で呟いてみるだけでも、見え方は変わってきます。その小さな違和感をメモに残したり、受診の切っ掛けにしたり、ケアマネジャーに相談したりすることで、大きなトラブルを防げる場合もあります。
ここで忘れたくないのは、「観察=チェック」ではない、ということです。テストの答え合わせのように「出来ているか、出来ていないか」を見張る目になると、どうしても厳しい表情になってしまいます。本来の観察の目は、「この人がこの先も安心して暮らせるように、今のうちに気づいておきたい」という優しさから出発するものです。だからこそ、目の前の人を減点するためではなく、「どうしたら楽に過ごせるかな」「何か助けられることはないかな」と考えながら見ることが大切になります。
ひとみの日は、「見る力」そのものに意識が向きやすい日です。この機会に、自分の中にどんな観察の目を育てていきたいか、少しだけ立ち止まって考えてみるのも良いでしょう。介護のプロとして、家族として、そして一人の人として。相手を責めるためではなく、守るためにそっと働く目を持てた時、人との関わりは、今より少しだけ優しいものになっていきます。次の章では、その観察の目を、日々の中でどう育てていくかについて、具体的な工夫を見ていきましょう。
第4章…今日から出来る“優しい目”のトレーニングと声掛け
「ものの見方を変える」と聞くと、何か大きな覚悟や特別な勉強が必要なイメージがあるかもしれません。けれど実際には、ほんの少しだけ「目の向け方」と「ひと言の添え方」を変えてみるだけでも、毎日の空気は和らいでいきます。この章では、介護の場面でも家庭の中でも、今日から試せる小さな工夫を紹介していきます。
まず意識してみたいのが、「一瞬立ち止まってから見る」という習慣です。忙しい時ほど、私たちの目は結果だけを追いがちです。「まだ準備ができていない」「またこぼした」「また同じことを聞かれた」。そんな場面に遭遇した時、心の中で数秒だけ深呼吸をしてから相手を見るようにしてみます。「どうしてこうなったのかな」「この人の立場で見たらどう見えるかな」と、ひと呼吸おいてから目を向けると、さっきまでとは違う景色が見えてくることがあります。
次に、「今日の良いところを1つだけ探す目」を持ってみる方法です。完璧を目指すと、人の欠点ばかりが気になってしまいます。でも、「今日はどんな小さな“出来た”があったかな」と意識して見ると、目のピントが自然と変わります。例えば、時間は掛かったけれど自分で服を着られた、いつもより少し多く食事を口に運べた、久しぶりに自分から話題を振ってくれた。そうした細やかな変化に気づけた時、目の表情もふっと和らいでいきます。
「やさしい目」を育てる小さなトレーニング
「やさしい目で見よう」と頭で分かっていても、感情が追いつかない日もあります。そんな時は、自分自身にも1つ練習問題を出すつもりで、意図的に視点を変えるトレーニングをしてみましょう。
例えば、1日の終わりに、その日あった出来事を1つ選びます。そこで自分がイライラした場面でも構いません。「お茶を溢した」「同じ質問を何度もされた」など、心がざわついた瞬間を思い出します。そして、紙や頭の中で、「怒っていた自分の見方」と「もし余裕があったら、どう見ていたか」の2パターンを書き出してみます。前者は「不注意」「しつこい」といったラベルが浮かぶかもしれません。後者では「手の力が弱くなっているのかな」「不安が強かったのかもしれない」といった、少し違う言葉が出てくるはずです。
この「もし余裕があったら、どう見ていただろう」という想像を繰り返していくと、実際の場面でも、少しずつ第二の見方が浮かびやすくなっていきます。完璧に切り替えられなくても、「あ、今、厳しい目で見ていたな」「もう1つ別の見方もあったな」と気づけるだけで、大きな一歩です。その気付きこそが、優しい目を育てる土台になります。
また、自分自身に向ける目も、同じようにトレーニングが必要です。「またイライラしてしまった」「優しく接するって決めたのに出来なかった」と、自分を責める目ばかり向けてしまうと、心はどんどん疲れていきます。そんな時は、「それだけ頑張っているからこそ、余裕がなくなっているんだな」と、自分の疲れにも優しい視線を向けてみてください。自分に対して少しだけ甘い目を向けられる人は、他人に対しても柔らかな目を向けやすくなります。
声掛けを少しだけ変えてみる工夫
目の表情と同じくらい、言葉も大切なメッセージです。同じ内容を伝えるにしても、ひと言の添え方次第で、相手の受け取り方は大きく変わります。「早くして」「何度も同じこと言わせないで」とストレートに言いたくなる場面でも、ほんの少し言い換えてみるだけで、雰囲気は和らぎます。
例えば、同じ質問を繰り返された時、「さっきも言いましたよね」ではなく、「気になりますよね。今日は〇曜日で、お風呂もありますよ」と、安心を添えながら返してみます。「また溢したの?」の代わりに、「ビックリしたね。大丈夫、一緒に拭こうか」と、失敗そのものよりも「大丈夫」というメッセージを前面に出してみます。これだけで、相手の表情や、次に起こる行動は少し変わっていきます。
声掛けの工夫は、長いセリフにする必要はありません。むしろ、「大丈夫だよ」「ゆっくりでいいよ」「一緒にやろうか」といった短いひと言が、相手の心に残ることが多いものです。そのひと言を伝える時、目の高さを合わせて、相手の方に顔を向けてみましょう。言葉と目つきが揃った時、相手は「本当にそう思ってくれているんだな」と感じやすくなります。
さらに、自分の中の余裕を守る工夫も忘れずにいたいところです。どれだけ優しい声掛けを意識しても、心身が限界に近づけば、目も言葉も尖りやすくなります。ほんの短い時間でも、自分の好きなお茶を飲む時間を作る、外の空気を吸いに出て空を見上げる、信頼できる誰かに愚痴を聞いてもらう。そうした小さなセルフケアが、優しい目を保つためのエネルギー源になります。
ひとみの日は、目の健康だけでなく、「どんな目と言葉で人と向き合いたいか」を考えるのにピッタリの日です。観察の目は、鍛えれば鍛えるほど鋭くなりますが、その矛先を相手への批判に向けるのか、安心の土台作りに向けるのかで、大きく意味が変わります。今日から少しずつ、「責めるためではなく、支えるために見る目」と「責めるためではなく、寄り添うために掛ける言葉」を意識していくことで、新しい1年の人間関係は、今より少しだけ穏やかなものになっていくはずです。
[広告]まとめ…ひとみの日から始める「自分にも人にも優しい一年」
1月3日のひとみの日は、カレンダーの上ではお正月三箇日の一部に過ぎませんが、少し目線を変えてみると、とても味わい深い日になります。目そのものの健康を思いやる日であると同時に、「どんな目で人と向き合うか」「どんな目で自分の一年を眺めるか」を考える、静かな切っ掛けの日にもなるからです。
私たちの日常には、「目が笑っていない」「温かい目で見守る」「白い目で見る」といった、目にまつわる言葉が溢れています。それらはどれも、視力の話ではなく、心の状態や人間関係を表す言葉でした。同じ出来事でも、「また失敗して」と見るのか、「それだけ頑張っている証拠だな」と見るのかで、目つきも、掛ける言葉も、そして相手の表情も変わります。ひとみの日は、普段、自分がどんな言葉で、どんな目で相手を見ているのかを、そっと振り返る良いタイミングです。
介護の世界や家庭の中では、「観察の目」が取り分け大切になります。お茶を溢した、同じ質問を繰り返す、歩くスピードが少し落ちた――どれも小さな出来事ですが、その裏に体や心の変化が隠れていることがあります。責めるために見張るのではなく、「早めに気づいて守りたい」という思いから、柔らかな観察の目を向けられるかどうか。その違いが、早めの受診や環境調整、安心できる暮らし作りに繋がっていきます。
とはいえ、毎日完璧に優しい目で居続けることは、誰にとっても難しいものです。忙しさや疲れが溜まる時、人の表情は自然と強張りますし、「また」「どうして」といった言葉が頭に浮かぶのも、ごく自然なことです。大切なのは、自分の目が少し尖っていると気づけた時に、「それだけ今の自分もしんどいんだな」と受け止め直し、もう1つ別の見方を探してみようとする姿勢です。その小さな軌道修正の積み重ねが、結果として優しい目を育てていきます。
今日から出来ることは、決して難しいことではありません。心の中でひと呼吸おいてから相手を見ること。1日の終わりに「その人の良かったところ」を1つ思い出してみること。「大丈夫だよ」「一緒にやろうか」といった短いひと言を、目を合わせて伝えてみること。そして、自分自身にも「よく頑張っているよね」と優しい目を向けてあげること。ほんの少しの意識の変化が、関係性の空気をゆっくりと変えていきます。
一年の計は元旦にあり、と昔から言われますが、ひとみの日は「一年の眼差し」を選び直す日だと考えてみるのも素敵です。今年は、どんな目で自分を見つめ、どんな目で家族や高齢者の方たちを見守っていきたいか。答えは人それぞれですが、「自分にも人にも出来るだけ優しい目でいたい」と願う気持ちは、多くの人に共通しているはずです。ひとみの日を切っ掛けに、その願いを胸の片隅にそっと置きながら、これからの一年を歩んでいけたら良いですね。
今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
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