『善悪』『白黒』『明暗』に振り回されない静かな中間視点の整え方
目次
はじめに…両極のことばが息苦しく感じられるとき
「善悪をはっきりさせましょう」「ここは白黒つけるべきだ」「この一手が明暗を分ける」……そんな言い回しを、テレビでも職場でも、日常的によく耳にします。言葉としては短くて覚えやすいのに、どこか胸のあたりがキュッと固くなるような、重たい響きがあると感じたことはないでしょうか。
善悪、白黒、明暗。どれも漢字を一つずつ見ると、まったく反対の意味を持つ一対の言葉です。そこに、是非、真偽、美醜、優劣、貧富、生死……いろいろな「両極セット」の表現が加わると、世界はたちまち、はっきりとした二つの陣地に分けられてしまいます。こちら側は「正しい人たち」、あちら側は「間違っている人たち」。こちらは「勝ち」、あちらは「負け」。そんな風に、目に見えない線が引かれていきます。
もちろん、本当に良いか悪いかを決めなければならない場面もあります。事故や事件、命に関わる判断、法や制度の運用など、曖昧にしてはいけない局面があることも、私たちはよく知っています。それでも、普段の暮らしの中で「善悪」「白黒」「明暗」という言葉が乱れ打ちされる時、多くの場合、その場にいる誰かは、何も言えなくなって縮こまってしまっているのではないでしょうか。
強い口調で「どっちなんですか」と迫られた時、人は冷静に考えるより先に、「悪」と言われたくない、「負け」とされるのが怖い、という気持ちに押されてしまいます。視野がギュッと狭くなり、「賛成か反対か」「味方か敵か」という二択だけが目の前に残る。そこに、両極を示す言葉が上手く重なると、私たちは自分でも気付かないうちに、誰かの都合の良い判断へと誘導されやすくなります。
世の中を広く眺めると、「人は基本的に自分勝手で、損をしたくない存在だ」と感じる場面も多いかもしれません。いわゆる性悪説のような見方が、妙にしっくり来てしまう瞬間もあるでしょう。けれど、その裏側には、「責められたくない」「危険を避けたい」という、ただの「こわがり」な心が隠れていることも少なくありません。
本当は、中間のグレーな領域に、事情や迷い、弱さややさしさが折り重なっているのに、両極の言葉がそれを見えなくしてしまうのです。
この文章では、「善悪」「白黒」「明暗」といった両極の言葉たちを入り口にして、私たちの視野がどのように揺さぶられているのかを、ゆっくりほどいていきます。是非や真偽、美醜や優劣、貧富、生死といった表現も交えながら、「その言葉を多用する人を、なぜ少し疑ってみた方が良いのか」「どうすれば、二択に追い込まれずに、自分のまま考え続けられるのか」を、一緒に考えてみたいのです。
介護の現場や、家族の話し合い、職場での会議、友人同士のやり取り。どんな場面でも、両極の言葉は簡単に飛び交います。そのたびに心が擦り減ってしまわないように、柔らかな中間視点をそっと守る工夫はないだろうか。そんな問い掛けを胸に、この先の章では、両極ワードの顔触れと、その裏にある「視野コントロールの絡繰り」、そして、詐欺や極端な物言いに振り回され難くなる、小さなコツたちを紹介していきます。
善か悪か、白か黒か、と決め付けられそうになった時、「本当にそれしかないのかな」と、心の中で一歩下がるためのヒントになれば嬉しいです。
[広告]第1章…『善悪』『白黒』『明暗』――二文字の両極が生む圧力
『善悪』『白黒』『明暗』という言葉を、じっと眺めてみると、ある共通点が見えてきます。どれも、前の漢字と後ろの漢字が、まるで向かい合うように反対の意味を持っているのです。善と悪、白と黒、明るさと暗さ。たった二文字なのに、その間に広がる世界はとても広くて、深くて、時には人を追い詰めてしまうほどです。
『善悪』は、一番分かりやすい両極かもしれません。良いこと、悪いこと。子どもの頃から、「それは善いことなのか、悪いことなのか」と問われて育ってきた人も多いでしょう。この二文字が口にされる時、そこにはどこか、裁かれるような空気が付き纏います。誰かが少し高い位置から、「これは善だ、これは悪だ」とラベルを貼る。その場に居合わせた人の心には、「自分はどっち側に置かれるのだろう」という不安が、スッと影を落とします。
『白黒』という言葉は、本来はただの色の名前です。それなのに、「白黒つける」「白黒はっきりさせる」といった言い回しになると、急に語勢が強くなります。緩やかに話し合っていた空気が、ピンと張りつめた勝負の場に変わっていくような感覚さえあります。特に、声の大きな人や立場の強い人が「ここは白黒つけないとね」と言い始めた時、弱い立場の人ほど、「何か言い返したら、自分が黒の側にされてしまうのではないか」と、身構えてしまうことが多いのではないでしょうか。
『明暗』という言葉は、少し時間の流れを含んでいます。「明暗を分けた一戦」「あの時の判断が明暗を分けた」など、結果を振り返る場面でよく使われます。この二文字が持っているのは、過去を切り取って、「良かった人生」と「そうでなかった人生」を分けてしまう力です。上手くいった人の側に立って語られれば、「あの人は明るい方に行けた、あなたは暗い方に落ちた」と言われているように感じる人もいるでしょう。本人としては懸命に生きてきただけなのに、後から貼られた明暗のラベルが、その人の時間をすべて決めてしまうようで、どこかやり切れなさが残ります。
こうして見てみると、『善悪』『白黒』『明暗』は、どれもが「両端」を強く意識させる言葉です。真ん中の曖昧な地帯、迷いのある場所、事情が複雑に入り組んでいるグレーゾーンは、二文字の影に押し込められて、見えづらくなってしまいます。善でもなく悪でもない、白とも黒とも決めかねる、明るいとも暗いとも言い切れない、そんな「中間」が、本当は一番多いはずなのに、言葉の力で薄くされてしまうのです。
『善悪』『白黒』『明暗』を好んで使う人の中には、悪気なく「話を分かりやすくしたい」と思っているだけの人もいるでしょう。ただ、使う回数が増えるほど、周りの人の視野は知らず知らずのうちに両極へ引っ張られていきます。「善か悪か」「白か黒か」「明るいか暗いか」。そんな風に極端な二択だけが目立ち始めると、人はその間にあるはずの無数の選択肢に、気付き難くなってしまいます。
時には、両極をわざと強調することで、相手の心を意図的に揺さぶろうとする人もいます。大袈裟な善悪を並べておいて、「私はその真ん中の穏やかな案を出しているだけです」と見せかける人。白と黒しかないように語って、中間の選択肢を最初から隠してしまう人。そんな場面に何度も出会ううちに、「この両極の言葉たちは、少し距離を置いて眺めた方が良さそうだ」と感じるようになった、という方もいるかもしれません。
それでも、『善悪』『白黒』『明暗』という表現そのものが、完全に悪いわけではありません。本来は、世界の両端を示すことで、「ここからここまでの間に、いろいろな段階があるよ」と教えてくれる役目も持っているはずです。問題は、その間を見ようとする余裕が、使う側にも受け取る側にも残っているかどうか、という点なのかもしれません。
この章では、『善悪』『白黒』『明暗』という三つの言葉を入り口に、「二文字の両極」が人の心にどんな圧力をかけているのかを眺め直しました。次の章では、この他にもたくさん存在する「両極セットの言葉たち」に目を向けてみます。是非や真偽、美醜や優劣といった表現が、どのように人を二択に追い込んでしまうのか。その顔触れと使われ方を、もう少し丁寧に辿っていきましょう。
第2章…是非・真偽・美醜・優劣……人を二択に追い込むことばたち
『善悪』『白黒』『明暗』の他にも、私たちの周りには両極を並べた言葉がたくさんあります。『是非』『真偽』『美醜』『優劣』『貧富』『成否』『吉凶』。漢字を1つずつ見れば意味は分かりやすいのに、二つ並べて口にした途端、そこには「どちらかを選べ」と迫る圧力が生まれます。
『是非』は、本来「これは良いことか、そうでないか」を静かに確かめるための言葉です。「是非を問い直す」「是非をご検討ください」のように使う時には、一応、相手の考える余地も残しています。けれど、強い調子で「これは是非を問われるべきだ」「是非をはっきりさせようじゃないか」と言われた瞬間、場の空気はガラリと変わります。そこには、互いに考え合うというより、「正しい側に付くのか、間違った側に落ちるのか」を試されているような、薄い緊張が張りつめてしまうことがあります。
『真偽』もよく似ています。本物か偽物か、という区別は、大事な時には欠かせません。詐欺や偽装、情報の誤りから身を守るために、真偽を確かめる視点は必要です。ただ、「その人の気持ちは真か偽か」「あの人の涙は真か偽か」といった形で使われ始めると、話は少し違ってきます。人の感情や迷いは、そもそも白黒付け難いものなのに、真か偽かの二択に押し込められた瞬間、「どちらかに決めないといけない」というプレッシャーだけが残ってしまうのです。
『美醜』や『優劣』『貧富』になると、その圧力はさらに鋭くなります。美しいか醜いか、優れているか劣っているか、豊かか貧しいか。どれも、社会の中で人を序列に並べる時に好んで使われてきた言葉です。本人の努力ではどうにもならない部分まで含めて、一括りに評価してしまう。そうやって貼り付けられたラベルは、なかなか剝がれてくれません。
例えば、「あの人は劣っているから」「あの家は貧富の“貧”の側だから」といった言い方が、はっきり口にされなくても、態度や扱いの中に滲むことがあります。介護や福祉、医療の現場でも、「この人は理解力が劣っているから」「家族の経済力が低いから」といった視線が、ふとした瞬間に顔を出すことがあります。その時、『優劣』『貧富』の二文字は、本人の尊厳をジワジワと削ってしまうのです。
『成否』や『吉凶』は、出来事の結果を区切る言葉です。「手術の成否」「事業の成否」「試みの吉凶」。何かが終わった後、「成功」「失敗」「吉」「凶」と結果だけで語ろうとすると、その途中にあった努力や工夫、葛藤や成長は、たいてい置き去りにされてしまいます。上手くいった人は「成」、上手くいかなかった人は「否」として並べられ、まるで人生がそれだけで評価されてしまうような錯覚を生みやすくなります。
こうした言葉を頻繁に口にする人が、必ずしも悪意を持っているとは限りません。多くの場合、ただ「話を分かりやすく整理したい」という気持ちから、両極の表現を選んでいるだけかもしれません。それでも、『是非』『真偽』『美醜』『優劣』といった言葉が繰り返される場では、いつの間にか、二択以外の選択肢が見えづらくなっていきます。賛成か反対か、本物か偽物か、美しいか醜いか、優れているか劣っているか。そんな問い掛けの形で語られ続けるうちに、人の心は「どちらかに決めなければ」という思い込みに追い込まれてしまうのです。
時には、その二択を意図的に作り出して、相手をコントロールしようとする人もいます。「今ここで決断できる人だけが、成否を分ける瞬間を掴めます」「この選択が、あなたの人生の吉凶を決めるのです」といった言葉は、聞いている人の不安を掻き立てます。誰だって失敗はしたくないし、不幸な未来は避けたい。そんな気持ちにつけ込むようにして、「ここで前向きな決断をしない人は、敗者の側に落ちますよ」と、目には見えない線を引いてくるのです。
この章で見てきた『是非』『真偽』『美醜』『優劣』『貧富』『成否』『吉凶』といった言葉は、本来であれば世界を理解しやすくするための道具です。それでも、使い方を誤れば、人を二択に追い込み、グレーな領域や背景事情を見えなくしてしまう危うさも同時に抱えています。だからこそ、こうした両極の言葉が連続して使われている場面に出会った時は、「本当に二つに分けるしかない話なのだろうか」と、一歩引いて眺めてみる視点が必要になるのかもしれません。
次の章では、人はなぜ両極の言葉に弱いのかという根っこの部分に目を向けていきます。人間は本当に「悪い方に転びやすい存在」なのか、それとも、ただ「怖がりで、自分を守ろうとするあまり両極に飛びついてしまう存在」なのか。両極ワードと視野コントロールの絡繰りを、性悪説と「怖がり説」という二つの見方から、ゆっくりとほどいていきましょう。
第3章…性悪説より「こわがり説」――両極ワードと視野コントロールのからくり
世の中を大きく眺めた時、「人間はやっぱり性悪説寄りだよな」と感じる瞬間は、どうしてもあります。自分さえ良ければいい、責任は取りたくない、損はしたくない。ニュースを見ても、身近な人間関係を見ても、そんな場面には事欠きません。「善悪」や「白黒」を振りかざして他人を責める人の姿を見ると、「やっぱり人は怖い」と身構えたくもなります。
けれど、ここで少しだけ立ち止まってみます。「人はもともと悪い存在」なのではなく、「人は元々、怖がりで、防衛のために両極の言葉に飛びついてしまう存在」と考えたらどうでしょうか。これを、敢えて性悪説ではなく「怖がり説」と呼んでみると、両極ワードの絡繰りが少し見えやすくなってきます。
人は不安になると、「はっきりした答え」が欲しくなります。曖昧さの中に立ち続けるのは、とてもエネルギーがいるからです。「どちらとも言えない」「状況による」「人による」といったグレーな状態は、頭では分かっていても、心が落ち着きません。そこで、「善か悪か」「白か黒か」「明るい未来か暗い未来か」という分かりやすい二択が示されると、私たちは思わずそちらへ視線を引き寄せられてしまいます。
この時、両極の言葉は、まるで強い磁石のような役割を果たします。『善悪』『白黒』『明暗』『是非』『真偽』『成否』『吉凶』……そのどれもが、不安で揺れている心に向かって、「はい、こっちかあっちかを決めなさい」と迫ってくるのです。決めてしまえば一時的には楽になります。「自分は善の側にいる」「自分は白の側を選んだ」「この決断が明るい未来に繋がる」と信じていられる間は、不安から解放されます。だからこそ、人はつい両極にしがみ付きたくなるのです。
ここに、「視野コントロール」の入り込む余地があります。誰かが意図的に、あるいは無意識のうちに、両極ワードを繰り返し使うことで、周囲の人たちの視野は、ジワジワと二択に狭められていきます。「この案に賛成する人は善、反対する人は悪」「今ここで動く人だけが白、迷う人は黒」「この提案を受け入れれば明、断れば暗」。そんな構図が、何度も何度も、言葉の形を変えながら刷り込まれていくのです。
詐欺や強引な勧誘、モラルハラスメントに近い関わり方の中では、これがとても分かりやすい形で現れます。「今決断できる人だけが、成功の側に立てます」「ここで踏み出せない人は、一生変わらないままです」といった言い回しは、まさに両極ワードと不安を結びつけて、相手の心を揺さぶる典型的なパターンです。相手に考える時間や第三の選択肢を与えず、「はいかいいえか」「やるかやらないか」の二つしかないように見せかけることで、自分の都合のいい方向に誘導しようとします。
ただ、ここで一つ覚えておきたいのは、そうした言い方をする人自身も、実はどこかで「怖がり」なのかもしれない、ということです。自分が否定されるのが怖い、自分の正しさが揺らぐのが怖い。だからこそ、大袈裟な両極を並べて、「自分はその中道に立っている」と装いたくなる。あるいは、自分が信じているやり方に人を巻き込みたくて、「賛成か反対か」と迫らずにはいられない。そう考えてみると、性悪説で切り捨ててしまうよりも、少しだけ人間らしい姿が見えてきます。
一方で、両極ワードに振り回されやすい側にも、「怖がり」が潜んでいます。責められたくない、仲間外れにされたくない、負け組と呼ばれたくない。「悪」「黒」「暗」「否」「凶」といったラベルを貼られることへの恐怖が、判断を急がせます。本当はもっとゆっくり考えたい、本当は「どちらでもない」と言いたい。でも、それを口にする勇気が持てない。そんな心の揺れにつけ込まれると、人は本来の自分とは違う選択をしてしまうことがあります。
だからこそ、「人は悪いから騙される」のではなく、「人は怖がりだから揺さぶられる」と捉え直してみることには、大きな意味があります。悪いかどうかを責め始めると、議論はアッという間に『善悪』『白黒』の世界へ逆戻りしてしまいます。それよりも、「自分も相手も、怖がりで、不安になると両極に飛びついてしまう存在なのだ」と認めることで、少しだけ冷静さを取り戻しやすくなるのです。
両極ワードと上手に付き合うための第一歩は、「今、自分の視野は狭められていないだろうか」と、自分自身にそっと問い掛けてみることかもしれません。「これは本当に二択しかない話なのか」「第三の案、第四の案は本当にゼロなのか」「そもそも、今この場で決めなければならない話なのか」。そうした問いを心の中に用意しておくだけでも、両極の言葉に引っ張られ過ぎないで済む場面が増えていきます。
両極ワードは、世界を整理するための便利な道具であると同時に、人の視野を狭める危うさも持っています。性悪説で世界を切り捨ててしまうのではなく、「怖がり説」で人を理解しながら、両極ワードの誘惑と距離をとる。次の章では、そのために日常の中で出来る、ささやかな工夫や心の習慣について、もう少し具体的に考えていきます。両極に引っ張られそうになった時、柔らかな中間視点を守るための、小さな手掛かりを一緒に探していきましょう。
第4章…柔らかな中間視点を守るためのささやかな工夫
両極の言葉が飛び交う場面にいる時、私たちの心は、どうしても引きずられやすくなります。「善か悪か」「白か黒か」「成功か失敗か」といった二択が並ぶと、落ち着いて考える前に、「どちらかを選ばなければ」という焦りが胸の奥で膨らんできます。それでも、ほんの少しだけ意識の向け方を変えることで、柔らかな中間視点を守ることは出来ます。ここでは、日常の中で出来るささやかな工夫を、ゆっくりと言葉にしてみます。
一番基本になるのは、「本当に二つしかない話なのか」と自分に問い掛けてみることです。両極の言葉が出てきた瞬間、心の中でそっとブレーキを踏みます。「善か悪か、と言われているけれど、その間に事情や背景はないだろうか」「賛成か反対かで分けているけれど、部分的賛成や条件付き賛成は本当に存在しないのだろうか」。そう自問してみるだけで、視野はほんのわずかでも横に広がります。たとえ口には出せなくても、心の中に第三の視点を用意しておくことが、柔らかな中間視点を守る第一歩になります。
次に意識したいのは、「誰の得になる分け方なのか」という問いです。『善悪』『白黒』『明暗』『是非』『真偽』『成否』『吉凶』といった言葉が続く場面では、その分け方によって、誰が得をして、誰が損をするのかを想像してみます。「この二択で考えるように勧めている人は、どんな立場の人なのか」「この枠組みの中で、いちばん追い詰められるのは誰なのか」。そう考えることで、自分の中に、もう1つの観客席が生まれます。自分自身が当事者として巻き込まれそうになっていても、同時に少し離れた席から眺めている自分を育てていく。その距離感が、盲目的に両極へ飛びついてしまうのを防いでくれます。
時間の使い方も、大切な工夫の1つです。両極ワードと相性が良いのは、「今すぐ」「この場で」「今日だけ」といった焦らせる言葉です。時間を急かされれば急かされるほど、人はグレーな選択肢を検討する余裕をなくしていきます。だからこそ、「今決めなければならないのか」という問いを、自分の中の合言葉にしておきます。「一度持ち帰って考えます」「少し時間をください」と言えるだけで、両極の圧力から一歩離れることができます。たとえその場で返事を求められても、「今の時点では保留にしたいです」と伝える選択肢も、本当は残されているはずです。
言葉の選び方を、そっと変えてみることも出来ます。『善悪』『白黒』『明暗』といった表現をそのまま受け取るのではなく、「この人は今、自分の価値観でそう感じているのだな」と翻訳し直してみます。「あの人は悪だ」と言われても、「あの人の行動には問題があると、この人は感じているのだな」と言い換えてみる。「白黒つけよう」と迫られても、「この人は早く結論を出したいのだな」と一段階ずらして受け取る。言葉の鋭さを、そのまま自分の胸に突き刺さる槍として受け取るのではなく、「誰かの感情や都合を表している記号」として眺め直すことで、心の傷つき方は少しだけ変わります。
また、自分が使う言葉も、意識して柔らかくしてみると、周囲の空気まで変わっていきます。「あの人は悪い」「この案は間違っている」と決めつけたくなる時ほど、「私はこう感じる」「今の私には合わない」と主語を自分に戻して語るようにしてみます。「正しい」「間違い」と断言する代わりに、「メリットもデメリットもある」「良いところと難しさが混ざっている」といった言い方を試してみる。そうすると、自分自身も両極から少し離れた場所に立てるようになり、同じ場にいる人たちも、中間のグレーな領域を口に出しやすくなります。
介護や福祉、医療の現場では、とりわけこの「中間視点」が大切になります。「自宅か施設か」「延命か中止か」「家族が正しいか職員が正しいか」といった両極の構図に巻き込まれやすい場面が、いくつもあります。そのたびに、「どちらかが完全な正解、もう一方が完全な不正解」という形で結論を出そうとすると、当事者の心は擦り減っていきます。そういう時こそ、「どちらの選択にも痛みがある」「その人にとってのベターを探しているだけだ」といった中間の言葉を、意識して挟んでみる。善悪や白黒で語らない会話を、少しずつ積み重ねていくことが、現場の安心感に繋がっていきます。
何より大事なのは、自分自身を両極で裁かないことです。「あの時、善を選べなかった自分は悪だ」「白を選べなかった自分は弱い」と、過去の自分に厳しいラベルを貼り続けていると、他人にも同じ物差しを向けてしまいます。「あの時の私は、あの条件の中で、精一杯選んだのだ」「あの場面では、どの選択も完璧ではなかったのだ」と、柔らかく振り返る習慣を持つことで、人を見る目も少しずつ変わっていきます。自分に対する視線が緩む時、他人に対する視線もまた、中間の色合いを取り戻していくのです。
柔らかな中間視点を守るというのは、決して高尚な哲学ではありません。「本当に二択なのかと問い直す」「誰の得になる分け方かを考える」「今決めなくて良いと言える」「言葉を少し言い換える」「自分を両極で裁かない」。そんな小さな習慣の積み重ねです。全てを完璧に実行する必要はありません。どれか1つでも、自分なりに取り入れてみることで、両極ワードに押し流されそうな場面で、足元に踏ん張りを利かせることが出来るようになっていきます。
次のまとめでは、『善悪』『白黒』『明暗』をはじめとする両極の言葉たちと、どのように距離をとりながら生きていくかを、改めてゆっくり振り返ってみます。ラベルだけで人や出来事を判断してしまわないために、自分の中の「中間色」を大切にしていくという視点を、最後にもう一度、言葉にしてみましょう。
[広告]まとめ…両極のことばと上手に距離をとりながら生きていく
『善悪』『白黒』『明暗』。たった二文字の組み合わせなのに、その後ろには、大きな力と重たい空気がくっついていました。前半では、『是非』『真偽』『美醜』『優劣』『貧富』『成否』『吉凶』といった仲間たちも眺めながら、両極を示す言葉が、人をどのように二択へと押し込んでしまうのかを見てきました。はっきりさせるための道具のはずが、いつの間にか、誰かを裁いたり、負け役を決めたりするための刃物のように振るわれてしまう。その危うさは、私たちの身近なところに、静かに横たわっています。
同時に、「人はやっぱり性悪説寄りだ」と感じたくなる瞬間が多いのも事実です。自分の得を優先する人、責任を避ける人、都合の良い二択を押しつけてくる人。そんな姿を目にするたびに、「やっぱり世界は怖い」と心が固くなってしまいます。けれど、少し視点をずらして、「人は悪いというより、怖がりだから両極に飛びついてしまうのだ」と考えてみると、見え方が少し変わってきます。責められたくない、損をしたくない、仲間外れになりたくない。そんな小さな恐れが積み重なって、両極の言葉にしがみ付きたくなるのだとしたら、そこには、どこか人間らしい弱さが滲んでいるのかもしれません。
だからこそ、大切になるのが、「中間を見ようとする目」を手放さないことです。『善悪』『白黒』『明暗』が投げかけられた時に、「本当に二つしかないのだろうか」と自分に問い直してみること。「この分け方で得をするのは誰だろう」と、少し離れた場所から眺めてみること。「今ここで決めなければならない話なのか」と、時間に対しても問いかけてみること。そんなささやかな習慣が、両極のことばに視野を奪われそうになったときの、小さな踏ん張りになってくれます。
介護や福祉、医療、子育て、職場の人間関係。人生のあらゆる場面で、「こちらが正しい」「あちらは間違っている」と言い切りたくなる局面はたくさんあります。けれど、実際の現場に立ってみると、多くの出来事は、「どちらも正しい部分がある」「どちらも苦しい事情を抱えている」という、混ざり合った色合いをしているものです。そこを見ずに、『善悪』『白黒』だけで語ろうとすると、当事者の誰かが押し潰されてしまいます。逆に、グレーな領域をそのまま抱えながら、「今の条件の中で一番マシな選択はどこか」を探ろうとする姿勢には、静かな優しさが宿ります。
自分自身に向ける言葉も、同じです。過去の自分に対して、「あの時、善を選べなかった」「白い側に立てなかった」と厳しいラベルを貼ってしまうと、心はどんどん窮屈になっていきます。「あの場面では、どの選択にも痛みがあった」「あの時の自分は、あの自分なりに精一杯だった」と、柔らかく振り返ることが出来た時、少しだけ息がしやすくなります。その優しさは、やがて他人を見る目にも滲み出ていきます。自分を両極で裁かない人は、他人のことも、簡単には白か黒かに分けなくなっていきます。
『善悪』『白黒』『明暗』といった言葉を、完全に封印する必要はありません。本来は、世界の端と端を教えてくれる、便利な目印でもあるからです。大事なのは、その二文字の間に広がるグレーな世界を、見えなくしてしまわないこと。両極の言葉が聞こえてきた時こそ、「中間には何があるだろう」と、もう一歩だけ想像してみること。その想像力こそが、詐欺や極端な正義感に振り回されず、自分の足で立ち続けるための支えになります。
両極の言葉が飛び交う世の中で、私たちは、生き方そのものにまで『善悪』『白黒』『明暗』を持ち込みがちです。それでも、「人は怖がりで、迷いながら生きている」という前提に立ち、お互いの中間色を認め合えるなら、世界は少しだけやわらかく見えてきます。どちらが正義かを競うのではなく、「どんな事情や思いが交差して、今この場面があるのか」を見ようとする視点を、そっと胸にしまっておきたいものです。
そして何より、「両極の言葉に振り回されない生き方」は、「誰にも負けない強さ」を求める道ではなく、「ほどよく緩んだ自分らしさ」を守る道なのだと思います。善か悪か、白か黒か、と迫られる場面に出会った時、「ちょっと待って、その間にある色も、一緒に見せてくれませんか」と言える勇気を、少しずつ育てていけたら。それだけで、この世界は、今より少し、中間の色合いに満ちた、優しい場所になっていくのかもしれません。
今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
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