風見鶏ケアマネと中間視点~在宅か施設かに揺れる家族へ~

[ ケアマネの流儀 ]

はじめに…「どっちが正解ですか?」とケアマネにすがりたくなる夜

在宅か、施設か。特養か、老健か、グループホームか。延命を続けるか、自然な流れに委ねるか。

介護の相談現場では、こうした重たい選択が、何度も何度も家族の前に置かれます。どちらを選んでも誰かが少し傷つきそうで、どちらを選んでも「これで良かった」と胸を張りきれないような決断ばかりです。そんな時、多くのご家族が最後に縋りつくのが、「ケアマネさん、正解はどっちですか?」という問い掛けではないでしょうか。

ところが現実には、ケアマネジャーの側もまた、風に揺れる心を抱えています。ご本人の希望、家族の事情、事業所の枠、地域のサービス事情、そして制度の制限。その全ての間で板挟みになりながら、「こちらがいいですよ」と言い切ることに、どこか怖さを感じている人も少なくありません。

家族の前では在宅寄りの話をし、主治医の前では施設寄りの説明をし、事業所会議では事業所にとって無理のない案を口にする。聞く相手によって言うことが少しずつ変わってしまうケアマネは、利用者や家族からすると「風見鶏みたいだ」と映るかもしれません。この記事では、そんな存在を敢えて「風見鶏ケアマネ」と名付けてみます。

「風見鶏」と聞くと、どうしても「芯がない」「都合のいい方に付く」というマイナスのイメージが浮かびます。でも、風の向きがコロコロ変わる介護の現場で、たった一人で踏ん張り続けることは、本当に可能なのでしょうか。状況も人も感情も日々変わる中で、「いつでもブレない絶対の正解」を示せと言われれば、ケアマネでなくても、誰だって足が竦んでしまいます。

在宅か施設かを巡る相談の場で、家族はしばしば「善悪」や「白黒」の物差しを自分に向けてしまいます。親を施設に預けるのは冷たいのではないか、自宅で看られない自分はダメな子どもなのではないか。逆に、無理をして在宅を続けることが、本当に本人の幸せに繋がっているのか、と自問自答する人もいます。そのたびに心の中では、「在宅=善」「施設=悪」といった極端なラベルが、何度も貼り直されているのかもしれません。

本当は、どちらか一方が絶対に正しいという場面の方が少ないはずです。けれど、「どっちが正解かを教えて欲しい」という期待と、「どちらとも言い切れない」という現実の間で、家族もケアマネも揺れ続けています。その揺れを、「風見鶏だからダメだ」と切り捨ててしまうのか、それとも「揺れながら中間の視点を探しているのだ」と捉え直すのかで、見えてくる景色は大きく変わります。

この文章では、「風見鶏ケアマネ」という少し自虐を込めた言葉を入り口に、在宅か施設かで揺れる家族と、それを支えるケアマネジャーの姿を見つめ直していきます。家族の顔色や行政の基準、事業所の事情に振り回されてしまう風見鶏的なあり方と、それでもなお、「中間視点」を手放さずに支えようとするケアマネの姿。その両方を、責めるだけではなく、等身大の姿として描いてみたいのです。

介護を受けるご本人、日々決断を迫られるご家族、そして同じように悩みながら支援しているケアマネジャー自身。それぞれの立場から、「風見鶏でもいいけれど、最後は同じ方向を向けるために、何が出来るだろう」と一緒に考えていくことを、この記事のゴールにしたいと思います。

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第1章…風見鶏ケアマネってどんな人?家族の前で揺れ続けるコンパス

「風見鶏みたいなケアマネだなぁ」と、心の中でため息をついたことがあるご家族は、意外と多いのではないでしょうか。ある日は「在宅で頑張りましょう」と寄り添ってくれたのに、別の日には「そろそろ施設のことも真剣に考えた方が」と口にする。家族の前では一緒に悩んでくれたのに、主治医の診察室では医師の意見に頷いてばかり。そんな姿を目にすると、「この人はいったいどちらの味方なのだろう」と、不安になってしまいます。

しかし、風見鶏のように見えるケアマネジャーは、本当に芯がなく、都合の良い方にだけ体を向けているのでしょうか。少し想像してみると、その背後には「風向きが変わり続ける現場」で、何とかバランスを取ろうとしている一人の人間の姿が浮かび上がってきます。

相談室で家族と向き合うとき、ケアマネはまず、ご本人と家族の思いを受け止めます。家での暮らしを続けたいという願い、もう限界だと呟く介護者の疲労、兄弟姉妹の本音と建前。そこには、綺麗ごとだけでは片付かない感情が、複雑に絡まり合っています。「在宅か施設か」という両極の言葉の下には、「親との時間を取りたい」「仕事を失いたくない」「お金が不安」「兄弟の誰かだけに負担を掛けたくない」といった、様々な事情が沈んでいるのです。

一方で、ケアマネには「制度のルール」と「地域の事情」も重く圧し掛かっています。要介護度によって使えるサービス量は決まっていて、ヘルパーやデイサービスの枠にも限りがあります。地域によっては、受け入れ可能な施設が少なく、空きが出るまで何か月も待たなければならないこともあります。頭の中の理想と、現実のサービス量や人員配置との間で、ケアマネ自身も何度も溜息をついているのかもしれません。

そんな中で「あなたはどう思いますか」「どちらが正解ですか」と問われた時、ケアマネの心の中では、いくつもの矢印がぶつかっています。ご本人の気持ち、ご家族の体力や仕事、経済状況、医師の見立て、事業所の負担、行政の基準。どれか1つだけを見て「こちらが正しい」と言い切ることに、躊躇いを覚えるのは、ある意味では当然の反応とも言えます。それでも何か言葉を返さなければならないからこそ、場面ごとに言い回しが変わり、「風見鶏」のように見えてしまうのです。

家族の立場からすれば、「言うことが変わる人」に見えるでしょう。しかしケアマネの側から見ると、「どの方向にも顔を向けざるを得ないコンパス」のような感覚で立っていることも多いのです。向きを変えているというより、「あらゆる方向の風を感じながら、その時点で一番安全な線を探している」という表現の方が近いかもしれません。

もちろん中には、本当に責任を取りたくなくて、その場その場で都合の良いことだけを言う人もいるでしょう。家族の顔色だけを見て、専門職としての視点を出さないまま、ひたすら同調するだけの支援者も、残念ながら存在します。そうしたケースまで含めて一括りにした時、「風見鶏ケアマネ」という言葉には、どうしても批判のニュアンスが強くなってしまいます。

それでも、全ての揺れが「悪い揺れ」ではない、という視点も持っておきたいところです。新しい情報が入った時、ご本人の状態が変わった時、家族の体力や状況が変化したとき、その都度考えを調整するのは、本来は当たり前のことです。本来、ケアプランとは「一度決めたら動かさない契約書」ではなく、「状況に合わせて書き換え続ける設計図」のようなものです。にも関わらず、私たちはどこかで、「最初に方向性を決めたら、ブレずに貫くべきだ」と思い込み過ぎているのかもしれません。

風見鶏ケアマネを、「すぐ意見を変える頼りない人」とだけ見るのか、「揺れながらも、みんなの顔を見渡している人」と受け止めるのか。それによって、家族側の気持ちも少し変わってきます。もし、自分の前にいるケアマネが「今もまだ、一緒に考え続けてくれている人」だと感じられたなら、揺れを責める気持ちは、少しだけ和らぐかもしれません。

この章では、風見鶏に見えるケアマネの姿を、敢えて別の側面から眺めてみました。次の章では、そんな風見鶏的な揺れが、在宅か施設かという両極の選択とどのように絡み合い、家族会議を追い詰めていくのかを、もう少し具体的な場面を通して辿っていきます。


第2章…在宅か施設か~両極のことばに追い詰められる家族会議~

在宅か、施設か。この二つのことばは、介護の場面になると、まるで大きな看板のように家族の前に立ちはだかります。支援者の側の言葉選び1つで、家族会議の空気は一気に重くなり、「どちらかを選ばなければならない」という圧力だけが部屋いっぱいに広がっていきます。

例えば、ある家族会議を思い浮かべてみます。これまで在宅で頑張ってきたご家族は、既に心も身体も限界に近づいています。それでも、「最後まで家で看てあげたい」という思いと、「もう無理かもしれない」という囁きが、胸の中で揺れ続けています。そこに、「在宅継続か施設か、そろそろ決めましょう」と言われたとき、その言葉は「あなたは親を手放すのか、それとも命がけで支えるのか」と聞こえてしまうことがあります。

本人の前では「家がいい」と笑っていたのに、ケアマネとの個別面談になると、「本当はもう限界です」と涙をこぼす介護者もいます。その姿を見て、ケアマネの心も揺れます。「在宅で続けることが善で、施設に預けることが悪なのではない。そんな風に思って欲しくない」と分かっていても、社会の中に根強く残る「親を施設に預ける=冷たい」というイメージが、家族の罪悪感を刺激してしまいます。

家族の中でも、「在宅こそ善だ」と感じている人と、「施設を使うことも本人のためだ」と考える人に分かれてしまうことがあります。兄弟姉妹で意見が割れ、「お母さんを見捨てるのか」「そんなに自分の生活が大事なのか」といった言葉が、つい口から飛び出してしまうこともあります。「善悪」「白黒」の言葉は表に出ていなくても、心の中ではとっくに線引きが始まっていて、誰かが「良い子」、誰かが「冷たい子」にされてしまうのです。

そこへ、医療や行政の視点が重なります。主治医からは「もう在宅は限界では」と言われ、行政窓口では「施設入所はまだ先ですね」と告げられる。ケアマネからは「ショートステイを増やしながら様子を見ましょう」と提案される。立場によって言うことが違う時、家族は「誰を信じればいいのか」とますます迷い込んでしまいます。そして疲れ切った心は、「もういいから、誰か『正解はこれです』と言って欲しい」と叫びたくなるのです。

この時、「在宅か施設か」という両極の言葉が、家族会議を静かに追い詰めていきます。本来なら、「しばらく在宅で、月に数日だけショートステイを増やす」「数か月後の施設入所を前提に、今は在宅を続けつつ準備を進める」「昼間だけ通所を増やして、夜間は家族で支える」など、グレーゾーンにいくつもの選択肢があるはずです。けれど、話し合いの土台が「在宅か施設か」の二択に固定されてしまうと、その中間にある具体的な工夫が、スッポリ抜け落ちてしまいます。

ケアマネもまた、この両極の言葉に縛られがちです。「在宅で頑張りたい家族の気持ちを尊重したい」という思いと、「介護者の健康が壊れてしまう前に施設という選択肢も示したい」という責任感。その両方に引っ張られながら、「今は在宅でいきましょう」「そろそろ施設も視野に入れて」と、その時々の情報に応じて言葉を選び直していきます。ところが、その揺れが家族には「前と話が違う」「風向き次第で言うことを変えている」と感じられてしまうことがあるのです。

特に、介護保険の制度説明が前面に出過ぎると、「要介護いくつだからこのサービス量」「この度数だと在宅で頑張れますね」といった、数字ベースの話ばかりが並んでしまいます。その瞬間、「在宅か施設か」という両極のラベルは、「頑張れる家族か、頑張れない家族か」という新しい二択に擦り替わってしまいがちです。すると、家族は本音を語り難くなり、「本当はしんどい」と言い出せないまま、限界を越えるまで在宅を続けてしまうこともあります。

一方で、「施設に入れたらもう終わり」「家に戻れない」という思い込みも、両極の言葉が生み出す誤解の1つです。本当は、施設入所を一度してから、状況が落ち着いた後に在宅へ戻るケースもありますし、短期利用を活用しながらゆっくりと方向性を決めていくこともできます。それでも、「施設=永遠に帰れない場所」というイメージが強いと、「在宅か施設か」という問いかけ自体が、「今日、親との別れを決めなさい」と告げられているように感じられてしまうのです。

家族会議が両極の言葉に飲み込まれてしまうと、そこにいる誰もが、少しずつ孤立していきます。親を思う気持ちが強い人ほど、「在宅を選ばない自分は親不孝なのでは」と自分を責め、施設を提案した人は「冷たい役」を引き受けたような罪悪感に悩まされます。ケアマネは、「どちらの味方をしても誰かを傷つけてしまう」と感じて、言葉を選ぶこと自体が怖くなっていきます。

この章で見てきたように、「在宅か施設か」という両極の問いかけは、家族会議を分かりやすく見せてくれる一方で、大切なグレーを見えなくしてしまう危うさも持っています。だからこそ本当は、「今日は方向性を決め切る日」ではなく、「今の状況を整理して、次の一歩だけ考える日」として家族会議を開く、という発想の転換が必要なのかもしれません。

次の章では、風見鶏ケアマネがなぜ生まれやすいのか、その背景にある「怖がりな心」と、「中間視点を持つケアマネ」というあり方について、もう少し踏み込んで考えていきます。在宅か施設かという二択から少し離れ、「揺れ続けることそのものを前提にした支援」の姿を、一緒に描いてみましょう。


第3章…風向き次第から卒業する『中間視点ケアマネ』というあり方

風見鶏ケアマネと呼ばれてしまう人の姿の裏には、「芯がない」というより、「責められるのが怖い」「誰か一人を見捨てたくない」という、素朴な怖さが潜んでいることが多いのかもしれません。家族からも、医療からも、事業所からも、行政からも、それぞれ違う期待と圧力がかかる中で、「あなたの判断で決めてください」と言われ続ける。そんな状況に立ち続ければ、どんな人でも、つい風向きの良い方へ体を向けたくなるのは自然な反応です。

在宅か施設か、延命かそうでないか。二つの選択肢を目の前に並べて、「こっちが正しい」と言い切ることは、ある意味ではとても楽な役割です。後で何かあったとしても、「あのとき私は、こう言いました」と、自分の正しさを主張できますから。でも、そのひと言の重さを知っているケアマネほど、「白黒をはっきりさせる役」にはなり切れません。自分が強く勧めた方向でご本人や家族が苦しむ姿を、何度も見てきているからです。

そこで必要になってくるのが、「風向き次第で言うことを変える」あり方から、「揺れを言葉にしながら一緒に考え続ける」あり方への切り替えです。ここで言う『中間視点ケアマネ』とは、どんなに求められても「絶対の正解」を演じない人のことです。善悪や白黒を押しつけるのではなく、その間にあるグレーの領域を、敢えてテーブルの上に広げて語ろうとする人。風を感じながらも、「今どの方向から風が吹いているのか」を家族と共有しようとする人です。

たとえば、在宅か施設かで揺れている家族に対して、『中間視点ケアマネ』はこんなふうに話し始めるかもしれません。「今の時点で言えるのは、どちらを選んでも、いいところと苦しいところが両方あります。お母さんの希望、介護している〇〇さんの体力、ご兄弟の暮らし方、金銭面。このあたりを一つずつ整理しながら、『今はここまで在宅』『このタイミングで施設も視野に』と段階的に考えていきませんか」と…。

ここには、「在宅=善」「施設=悪」といったラベルは登場しません。「この選択をしたらあなたは良い子、この選択をしたらダメな子」という裁きもありません。その代わりに、「今の条件の中で、どこまでなら続けられそうか」「何をしたら誰が一番壊れそうか」といった問いが、ゆっくりと差し出されます。家族は「正解かどうか」ではなく、「どこまでなら自分たちの心身がもつか」という現実的なラインを、一緒に探っていくことになります。

また、『中間視点ケアマネ』は、自分の迷いを隠しません。「私自身、ここは悩ましいところです」「医師の見立てと、ご家族の思いの間に差がありますね」と、今この場にあるズレや揺れを、そのまま言葉にしてくれます。立場ごとの意見を綺麗にまとめて「みんな同じ方向を向いています」と装うのではなく、「実はそれぞれ、少しずつ違う方向を向いている」という現実を共有するのです。

その上で、「今日は結論を出す日ではなく、状況を整理する日としましょう」と提案することもあります。一度の話し合いで白黒をつけるのではなく、「今日はここまで」「次回はここから先」と分けていく。決断を先送りするのではなく、「段階的に決める」という発想に切り替えることで、家族の心に掛かる重さは少しずつ変わっていきます。

もちろん、『中間視点ケアマネ』は、何も決めてくれない人、責任を取らない人とは違います。在宅で続けるには危険が大き過ぎると判断した時には、「このままでは、ご本人と介護者の両方が危ないです」とはっきり伝える勇気も必要です。ただその際も、「在宅は間違い」「施設が正しい」と善悪で裁くのではなく、「今の条件では、このまま在宅を続けると、〇〇さんの身体がもちません」「〇〇さんが倒れてしまうと、お母さんも在宅を続けられなくなります」と、具体的なリスクとして説明します。両極のラベルではなく、具体的な事実を土台に話をすることで、家族は「責められている」のではなく「一緒に現実を見ている」と感じやすくなります。

家族の側から見た時、『中間視点ケアマネ』は、派手な名医のような安心感はくれないかもしれません。「大丈夫、任せておいてください。私が全部決めます」と言い切ってはくれないからです。その代わり、「あなたの迷いはおかしくない」「揺れているのは当たり前だ」と、揺れている心ごと受け止めてくれます。そして、「今のあなたの体力や生活を守りながら、親御さんの暮らしを支える道を、一緒に探していきましょう」と、バトンを投げ返してくれます。

風見鶏ケアマネと呼ばれてしまう揺れやすさも、見方を変えれば、『中間視点ケアマネ』への入り口なのかもしれません。風に翻弄されるだけで終わるのか、風を感じながら「今どの方向から風が吹いているのか」を言葉にしていくのか。その違いは、ほんの小さな心構えと、言葉の選び方にあります。

「このケアマネは、何でもかんでも白黒つけようとしていないだろうか」「揺れを隠さずに、一緒に考え続けようとしてくれているだろうか」

家族がそんな目で支援者を眺めてみることも、実はとても大切です。完璧な「正解を知っている人」を探すのではなく、「一緒に迷いながら、少しずつ前に進む人」を選ぶ。その視点を持てた時、在宅か施設かという重たい問い掛けも、ほんの少しだけ別の顔を見せてくれるようになります。

次の章では、こうした『中間視点ケアマネ』と家族が協力し合いながら、「迷いを前提にしたケアプラン」をどう形にしていけるのかを考えていきます。揺れることを前提にした計画だからこそ、途中で変えても良いし、立ち止まってもいい。そんな、やわらかな設計図の描き方を、具体的なイメージとともに辿ってみましょう。


第4章…迷いを否定しないケアプラン~グレーを前提に進めてみる~

ケアプランという言葉を耳にすると、きっちりと作り込まれた「台本」や「契約書」のようなものを想像してしまいがちです。いったん方向性を決めたら、後はその線路の上を走り続けるだけ。途中でしんどくなっても、「最初に自分たちで決めたのだから」と、家族も専門職も我慢してしまう。そんな空気が、どこかに漂ってはいないでしょうか。

けれど本来のケアプランは、「揺れや迷いを前提にした設計図」であって構わないはずです。ご本人の状態も、家族の体力も、経済状況も、季節も、時間の経過と共に変わっていきます。今日正しかった選択が、半年後もそのまま正しいとは限りません。それなのに、いったん決めた方針を「変えてはいけない」と思いつめてしまうと、在宅か施設かという両極の枠の中で、誰かが静かに擦り減っていってしまいます。

『中間視点ケアマネ』が目指すのは、「迷いごとケアプランに書き込む」という発想です。例えば、「今は在宅を軸とするが、介護者の体力がこれ以上落ちた時には、施設入所も選択肢とする」「〇月頃を目安に、再度在宅と施設のバランスを見直す」といった一文を、敢えて最初から盛り込んでおく。こうして「今の結論は仮であり、状況に応じて書き換える前提です」と宣言しておくことで、家族も専門職も、少し肩の力を抜いて話し合いを続けることが出来ます。

実際の場面を思い浮かべてみます。例えば、「当面は在宅で、月に数回のショートステイを利用しながら様子を見る」という方針になったとします。その時『中間視点ケアマネ』は、「この方針で3か月ほどやってみて、〇月の担当者会議で改めて振り返りましょう」と、予め「見直しの約束」を組み込んでおきます。これだけでも、家族の受け止め方は変わります。「これで最後の決断」「もう後戻りはできない」という重さが、「まずはここまで試してみて、合わなければ一緒に変えよう」という柔らかさに変わっていくのです。

この「お試し期間」を設定する感覚は、施設利用でも同じです。いきなり長期入所を前提に話を進めるのではなく、「まずはショートステイで数日過ごしてみましょう」「数回利用してみて、お父さんの表情や体調を見てから、次の一手を考えましょう」と段階を分ける。施設側にとっても、ご本人や家族にとっても、「合う・合わない」を見極める時間を持つことは、とても大切なプロセスです。

また、『中間視点ケアマネ』は、「誰のケアプランなのか」を常に確認し続けます。本人のケアプランと、家族の暮らしのプランは、本来セットで考えるべきものです。ところが現場では、「利用者さんのケアプラン」は丁寧に作られているのに、「介護者の生活のプラン」は、話題にすら上らないことがあります。結果として、家族は自分の仕事や健康を後回しにしながら、「親のため」という名のもとに限界を越えてしまうのです。

例えば、こんな対話があるかもしれません。「お父さんは在宅を希望されていますね。そのお気持ちは、とても大切です。同時に、〇〇さんご自身の生活やお身体のことも、私は同じくらい大事にしたいと思っています。お仕事やご自身の通院、睡眠時間は、今どのくらい確保できていますか?」

こうして、家族の暮らし振りそのものをケアの対象として言葉にしていくと、「在宅か施設か」という両極ではなく、「誰の、どんな暮らしを守りたいのか」という問いが浮かび上がってきます。その上で、「お父さんの希望を尊重しつつ、〇〇さんの身体と生活を守るために、どこまで在宅が現実的か」「どのタイミングで施設の力を借りると、全員が少し楽になるか」を、一緒に探ることが出来ます。

もう1つ大切なのは、「保留」を恥ずかしいことだと思わないことです。ケアプランの説明の場で、「この点については、まだご家族の中でも迷いがあります」と、敢えて言葉にしてしまう。文書上にも、「今後も継続して話し合う事項」として残しておく。そうすることで、「今答えが出ていないこと」をちゃんと扱えるようになります。「決められない自分はダメだ」と責めるのではなく、「それだけ大事なことだから、時間を掛けて一緒に考えているのだ」と捉え直す土台が出来ます。

ケアプランを途中で変えることは、失敗の証ではありません。在宅を選んだ後に「やっぱりキツかった」と言って施設に切り替えることも、施設を選んだ後に「やっぱり家で過ごす時間を増やしたい」と言って在宅の比重を高めることも、本来はどちらも自然な揺れです。それを「前の選択が間違っていた」と裁いてしまうと、家族はますます決断を怖がるようになります。「どちらを選んでも、その時点では精一杯考えた結果だった。状況が変われば、方針を変えて良い」。このメッセージを共有できるかどうかが、グレーを前提に進めるケアプランの鍵になってきます。

専門職の側も、「計画を変える=自分の判断の誤り」と感じてしまうと、変更を提案しづらくなります。けれど、本当に求められているのは、「最初から外さない人」ではなく、「状況の変化をいち早くキャッチして、柔軟に舵を切り直してくれる人」です。家族もケアマネも、「前に決めたこと」に縛られ過ぎず、「今の状態に合った新しい一手」を一緒に探っていく。その繰り返しの中でしか、現実に即したケアは形になっていきません。

迷いを否定しないケアプランとは、「決める力」だけでなく、「やり直す力」も含めて設計することです。在宅か施設かという両極の看板に振り回されず、「今の私たち家族にとって、どの組み合わせがいちばん息をしやすいか」を、何度でも問い直していい。そんな前提が共有できた時、風見鶏のように揺れているように見えたケアマネも、実は同じ風の中で踏ん張っている仲間として見えてくるかもしれません。

次のまとめでは、「風見鶏ケアマネ」という少し自虐的な言葉を出発点にしながら、在宅か施設かで揺れる家族と、それを支える専門職が、どのようにして同じ方向を向いていけるのかを、もう一度振り返っていきます。善悪や白黒ではなく、中間の色合いを大切にする視点が、介護の現場にもたらしてくれるものを、ゆっくりと言葉にしてみましょう。

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まとめ…風見鶏でもいいけれど~最後は同じ方向を向けるために~

在宅か、施設か。どちらを選んでも、誰かが少し傷つきそうで、どちらを選んでも「本当にこれで良かった」とは言い切れない。そんな場面の真ん中に立たされる時、人はつい、自分を「善悪」や「白黒」で裁きたくなってしまいます。「在宅を選べない自分は冷たいのでは」「施設を選ばない自分は、親の命を軽く見ているのでは」と、心の中で自分に厳しい判定を下してしまうのです。

その視線は、ケアマネジャーにも向かいます。家族の前では在宅寄りに話し、医療の場では施設寄りの表現をし、事業所の会議では現場の負担を気にして言葉を選ぶ。そんな姿を見れば、「風見鶏のように言うことが変わる人だ」と感じるのも無理はありません。けれど、その揺れの背景には、ご本人の希望、家族の暮らし、医療や制度、地域資源といった、様々な条件に板挟みになりながら、それでも何とか誰も見捨てずにいたいと願う、一人の支援者の姿が隠れています。

この記事で辿ってきたのは、「風見鶏ケアマネ」をただ責めるのでも、持ち上げるのでもなく、揺れや迷いそのものを前提にした「中間視点」のあり方でした。在宅か施設かという二択だけでなく、その間に無数に広がるグレーの選択肢を、一緒にテーブルに並べてみること。今日決めた方針を絶対視せず、「3か月後にもう一度見直そう」と、予め揺れの余白をケアプランに書き込んでおくこと。本人の人生のプランと同じように、介護者の暮らしのプランも同じテーブルに乗せて、「誰のどんな日常を守りたいのか」を、ゆっくり言葉にしていくこと。

それは、決して格好良いドラマのような解決ではありません。「この道こそ正解です」と胸を張って言い切る代わりに、「どちらを選んでも、良いところと苦しいところが混ざっています」と認めることから始める生き方です。揺れ続ける現場の中で、「揺れる自分」を恥じるのではなく、「揺れているからこそ見える景色もある」と受け止め直すことでもあります。

家族の立場から言えば、「風見鶏でもいいから、一緒に風の向きを見てくれるケアマネかどうか」という視点が、大切になってきます。白黒をはっきりさせてくれる人を探すのではなく、「迷っていること」を安心して打ち明けられる相手かどうか。その人となら、「在宅か施設か」にとどまらない、「その人らしい暮らし」と「家族の暮らし」を同時に考えられるかどうか。そんな目で支援者を見てみると、選び方も少し変わってくるかもしれません。

ケアマネの立場から見れば、「風向き次第で言うことを変える人」で終わるのか、「風を感じながら、その向きと強さを家族と共有する人」になるのかは、小さな違いです。自分の迷いを隠さず、「ここは私も悩んでいます」と言える勇気。白黒ではなく、「どこまでなら在宅が現実的か」「どのタイミングで施設を考えると、全員が少し楽になるか」という問いを差し出す視点。その積み重ねが、『中間視点ケアマネ』というあり方を形作っていきます。

何よりも大切なのは、在宅か施設かという選択そのものより、「その選択を通して、誰と、どうやって悩み、どうやって決めていったか」というプロセスです。一人で背負い込んで、心も身体もすり減らしてしまうのか。迷いを否定せず、「今はここまで」「次はそこから」と、誰かと一緒に段階を踏んでいけるのか。同じ決断でも、その過程によって、心に残る重さは大きく変わります。

風見鶏のように揺れることは、決して恥ずかしいことではありません。大切なのは、その揺れの中で、最後にどの方向を向きたいのかを、お互いに確かめ合うこと。在宅介護を続けるにせよ、施設入所を選ぶにせよ、「あの時、皆で本気で考えた」「あの時の自分たちなりに、精一杯だった」と、いつか少し微笑みながら振り返ることが出来るように。善悪や白黒の物差しではなく、中間色を大切にする眼差しで、自分と家族と支援者を見つめ直す。その小さな一歩が、揺れの多い介護の世界を、ほんの少しだけ柔らかい場所にしてくれるのかもしれません。

今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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