人生の哀とどう付き合うか~喜怒哀楽の中で迷う権利を守る~

[ 家族の四季と作法 ]

はじめに…哀しむ時間は生き方を選び直す大切な間

人の感情をあらわす言葉として、よく「喜怒哀楽」という四つの文字が並びます。嬉しいこと、腹が立つこと、楽しいことは、日常でもたくさん語られますが、「哀」の話だけは、どこかそっと脇へ避けられてしまうようなところがあります。

テレビやネットの世界では、出来事そのものよりも、そこから「どう感じて欲しいか」がセットで流れてきます。怒りを煽る言い回し、不安を強めるテロップ、すぐに感動へ着地させるまとめ。気づけば私たちは、自分の中から静かに立ち上がるはずの「哀しみ」よりも、用意された感情の型に乗せられてしまいがちです。

一方、現実の人生で本当に大きな場面を振り返ると、そこには必ずと言って良いほど「哀」が顔を出します。大切な人との別れ、自分の限界を知った瞬間、取り返しのつかない選択に気づいた時。そうした場面で本来必要なのは、「早く元気になろう」と背中を押されることよりも、一度立ち止まり、過去と今とこれからを静かに見つめ直すための時間なのかもしれません。

しかし現代の空気は、「即断即決」「前向き」「切り替えが早い」ことを良しとしがちです。手早く片付けることが得意な分野なら、それは大きな強みになりますが、人生の岐路や、大きな哀しみに出会った時まで同じ調子で急がされると、後からジワジワとした後悔を抱え込むことにも繋がります。「もっとゆっくり考えたかった」「本当はああしたくなかった」という小さな声は、誰にでも心のどこかに眠っているのではないでしょうか。

この文章では、「喜怒哀楽」や、五行説の「怒・喜・思・悲・恐」といった感情の言葉を辿りながら、特に忘れられがちな「哀」に光を当ててみます。哀しみの中に留まる時間が、何故その人の生き方を選び直すための大切な間(ま)になるのか。そして、その時間を外側から急がせたり、別の感情にすり替えたりすることが、どうしてその人の人生を歪めてしまうことに繋がるのか。そういったことを、ゆっくりと言葉にしていきたいと思います。

「哀を大切にする」と聞くと、暗く沈み込むイメージを持つかもしれません。でも本当は、哀を丁寧に扱うことは、自分のこれからを丁寧に選び取ることでもあります。立ち直ることや、次へ進むことを否定するのではなく、その前に通り抜けておきたい静かな通過点としての「哀」。その価値を、今一度、一緒に見つめ直していけたら嬉しいです。

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第1章…喜怒哀楽と五情~避けられがちな哀という感情~

「喜怒哀楽」と聞くと、多くの人はなんとなく、明るい場面を思い浮かべます。嬉しい「喜」、ワイワイ盛り上がる「楽」、少しピリッとした「怒」、そして端の方に、そっと置かれているような「哀」。学校でも職場でも、「楽しくいきましょう」「ポジティブに考えよう」という言葉はよく飛び交いますが、「今日はしっかり哀しもう」という声掛けは、殆ど聞こえてきません。

普段の会話を思い出してみると、誰かが落ち込んでいる時に掛けられる言葉も、「早く元気出してね」「まあまあ、次いこ、次」というものが多いはずです。そこには、「哀しみは長居させてはいけない」「さっさと別の感情に切り替えた方がよい」という空気が、背景に薄っすらと流れています。もちろん、励ましそのものは悪いことではありません。ただ、その前に「今は哀しいよね」と、その感情をそのまま認める時間が抜け落ちてしまうと、心のどこかに置き去りのままの気持ちが残ってしまいます。

一方で、昔の人たちは感情をもっと細かく見ていました。五行説に出てくる「五情」と呼ばれる考え方では、人の心の動きを「怒」「喜」「思」「悲(憂)」「恐」という五つに分けています。ここでは、私たちがよく知っている「喜怒哀楽」の「楽」がひとまとめにされ、その代わりに「思」と「恐」が独立した形で並んでいるのが特徴です。誰かのことをずっと気にかけて考え続ける「思う気持ち」、先のことを心配して胸の辺りがソワソワする「恐れ」。こうした感情も、喜びや怒りと同じくらい大事なものとして扱われてきました。

この二つの分類を見比べてみると、面白いことが見えてきます。私たちの日常会話では、「喜」と「楽」はたくさん語られますが、「哀」は小さく、「思」や「恐」に至っては、そもそも名前として意識されることすら少ないのではないでしょうか。何となくモヤモヤ考え込んでしまう時間や、明日が不安で眠れない夜も、本当は「思」と「恐」が働いている大事な時間なのに、「優柔不断」「心配性」といった言葉で片付けられてしまうことがあります。

それでも、人の心はそんなに綺麗に四つや五つに分かれてはくれません。嬉しい中に微かな不安が混ざることもあれば、怒りの裏側に深い哀しみが潜んでいることもあります。「喜怒哀楽」も「五情」も、感情を整理するための地図のようなものであって、現実の感情はいつも少しずつ混ざり合いながら揺れ動いています。だからこそ、本来ならどの感情にも、ゆっくりと顔を出してもらう時間が必要なはずです。

ところが今の社会では、その中でも「哀」が一番、居場所を失いやすい立場にいます。悲しい気持ちに長く浸っていると、「いつまでも引き摺っている」と評価されたり、「切り替えが遅い」と言われたりすることがあります。表面上は笑っていた方が、周りとの関係も上手くいくし、自分自身も深く考えずに済むように感じるかもしれません。けれど、本当は哀しみを通り抜けないまま次の感情へ飛び移ろうとすると、その後の怒りも、喜びも、どこか落ち着かないものになってしまいます。

五情の中で「悲(憂)」は、静かに心を沈め、目の前の出来事と向き合うための感情だとも言われます。それは、人生の歩みを止めてしまうためではなく、「この先どう進むか」を選び直すための、ほんの一時の足止めです。それなのに、哀しみを感じる時間そのものが「良くないもの」と見做されてしまうと、人は立ち止まる権利を失い、気づかないうちに誰かが敷いたレールの上を走らされてしまいます。

「喜怒哀楽」と「五情」という二つの地図を眺め直してみると、見せ方の違いによって、どの感情が大切にされ、どの感情が脇へ追いやられているのかが浮かび上がってきます。その中でも、特に「哀」は、避けられがちでありながら、本当は人生の方向を決める場面に必ず顔を出してくる感情です。次の章では、この「哀」が持っている立ち止まる力に、もう少し近づいてみたいと思います。


第2章…立ち止まる力としての哀~現在・過去・未来を繋ぐ眼差し~

人の一生を振り返ると、「哀」が顔を出す瞬間は、いつも何かが大きく変わる場面と重なっています。家族との別れ、仕事や立場を手放す時、長く続けてきた暮らし方を変えざるを得なくなった時。そういう場面では、多くの人が自然と足を止めてしまいます。何かをしようと思っても身体が動かない、いつものように笑えない、ただぼんやりと時間だけが過ぎていく。その状態を、周りは「落ち込んでいる」とか「前に進めていない」と評するかもしれませんが、心の中ではもっと静かで大きな作業が始まっています。

哀しみの中にいる時、人は今この瞬間だけを見ているようでいて、実は、過去と未来を何度も行き来しています。「あのとき、別の選択もあったのではないか」「あの日々はもう戻ってこないのだろうか」という過去への問い掛け。「これから自分はどうなるのだろう」「どんな風に生きていけばいいのだろう」という未来への不安。そして、「今の自分は何を大切にしたいのか」「何を手放すしかないのか」という現在への視線。この三つの時間が、ゆっくりと胸の中を巡るからこそ、哀しみの時間は長く、重たく感じられるのです。

けれども、その「重さ」と「長さ」こそが、本当は大切な役割を果たしています。喜びや楽しさの中では、人は立ち停まることなく進み続けることが出来ます。怒りや恐れが強い時は、目の前の危険や不満に集中するあまり、過去や未来を落ち着いて考える余裕がありません。それに対して、哀はむしろ、人を一端、座らせます。走ることを止めさせ、見たくなかった現実を見せ、同時に、これまでの歩みとこれからの道を見直すための静かな時間を用意します。

例えば、長年続けてきた仕事を体力の限界から手放すことになった人を思い浮かべてみましょう。頭の中では、「これで少し楽になるはずだ」「新しいことにも挑戦出来るかもしれない」と前向きな言葉を並べることも出来ます。それでも心のどこかでは、「自分の役目は終わってしまったのではないか」「あの時もっと頑張れたのではないか」と、深い哀しみが静かに広がっています。その哀しみを無理に押し込めて、「これで良かった」「前を向こう」とだけ言い聞かせ続けると、自分の中の本音との間に小さなヒビが入ってしまいます。

一方で、哀しみの中にしばらく身を置き、「本当は何が一番つらいのか」「何を惜しく思っているのか」を確かめる時間を持てた時、人は少しずつ、自分の本当の願いに触れていきます。仕事そのものではなく、誰かに必要とされている感覚を手放したくなかったのかもしれない。役割を失うことではなく、「自分が自分である理由」を見失うのが怖かったのかもしれない。そうした気づきは、哀しみを丁寧に味わった後に、ゆっくりと浮かび上がってきます。

哀には、出来事を「無かったこと」にする力はありません。むしろその反対で、「確かに起こった」という事実を、心の奥までしみ込ませる働きを持っています。そして、その事実を受け入れた上で、「では、これからどう生きるか」「何を大切にしていきたいか」という問いを差し出してきます。この問いに、すぐに答えを出す必要はありません。時間を掛けて悩み、迷い、時には同じところをグルグル回っても構わない。その過程そのものが、人生の方向を選び直すための準備運動になっていくのです。

もしこの立ち止まりの時間が、外側から急かされてしまったらどうなるでしょうか。「いつまでも落ち込んでいないで」「早く切り替えなさい」という言葉は、一見すると励ましに聞こえますが、別の言い方をすれば、「立ち止まる権利」を取り上げることでもあります。哀しみと向き合う前に無理やり前へ進めば、確かに表面上は元気そうに見えるかもしれません。しかし、ふとした瞬間に、「あの時、本当はどうしたかったのか」という後悔の思いが、未消化のまま胸を刺すことがあるのです。

哀の時間は、「現在・過去・未来をつなぎ直すための間」です。その間に何を考え、どの感情と向き合ったかによって、その後の生き方は少しずつ変わっていきます。哀しみを丁寧に通り抜けた人の笑顔は、どこか深みを帯びて見えることがあります。それは、ただ明るいだけの笑顔ではなく、失ったものや、戻らない時間への理解を含んだ上で、それでも今日を選び取ろうとしている表情なのかもしれません。

私たちが「哀」を避けずに受け止めることは、自分の人生のハンドルを自分の手に取り戻すことでもあります。次の章では、この大切な時間が、社会の中でどのように急がされ、別の感情へと摩り替えられてしまうのかについて、ことばの使われ方にも目を向けながら見ていきます。


第3章…哀を急がせる社会~感情のレールと言葉の摩り替え~

ここまで見てきたように、「哀」は本来、人が立ち止まり、現在・過去・未来を繋ぎ直すための大切な時間を作ってくれる感情です。ところが現代社会では、その時間がゆっくり持たれる前に、外側からいろいろな力が働いて、別の感情へと急がされることが少なくありません。それは、はっきりした命令のような形ではなく、言葉の選び方や、番組や記事の流れ方といった、もっとさりげない形で沁み込んできます。

テレビやニュースを思い浮かべると、事件や事故が伝えられた後、「普通の生活者」である私たちは、最初はどこか他人事のような位置から眺めています。「そんなことがあったのか」「大変だっただろうな」と、まだ自分の感情を決め切っていない状態です。本当はここから先、自分でゆっくりと、「自分ならどう感じるか」「この出来事から何を受け取りたいか」を選んでいく時間があっても良いはずです。

ところが、その隙間に入り込んでくるのが、「感情のレール」を敷く言葉たちです。「怒りの声が広がっています」「不安の声が各地で上がっています」「専門家からは懸念する見方も出ています」。こうした言い回しは、一見するとただの説明のように見えますが、「これは怒るべき出来事ですよ」「これは不安に思うべきニュースですよ」と、さりげなく感情の方向を示しています。視聴者はそれを聞きながら、「周りの人たちは怒っているらしい」「不安に感じるのが普通なのかもしれない」と受け取り、自分の感情を選ぶ前に、「用意された感じ方」に乗ってしまいやすくなります。

本来「哀」で始まるはずの場面も、同じように別の感情に変えられてしまうことがあります。深い哀しみの出来事が、いつの間にか「許せない」と叫ぶ怒りの物語に摩り替えられたり、「こんな悲劇を二度と起こさないために、私たちが出来ることは」と、不安と義務感を掻き立てる話に変わっていったりします。最後には「それでも前を向いて生きていく姿が、多くの人に感動を与えています」と、美しいまとめが添えられることも少なくありません。こうして、元の出来事の中にあった静かな哀しみの時間は、画面の外側へ押し出されてしまいます。

日常生活の中にも、同じような摩り替えは起こっています。誰かが大きな哀しみに直面した時、本当はただそっと傍にいるだけで十分な場面でも、「早く元気を出して」「いつまでも泣いていても仕方ないよ」という言葉が先に出てしまうことがあります。それは、相手を励ましたいという善意から生まれる言葉ですが、「今ここで哀しんでいたい」という、その人の自然な流れを止めてしまうことにも繋がります。さらに、「いつまでも引きずっている」「決断力がない」「切り替えが遅い」といった評価の言葉が重なると、哀しみの時間そのものが「いけないもの」として扱われてしまいます。

世の中のあちこちで語られる「即断即決」「スピード感」「ポジティブ思考」といった合言葉も、場所を選ばずに使われると、同じような圧力になります。仕事の現場で、情報処理や事務作業をテキパキ進めることは確かに大事です。けれども、家族のあり方を決める場面や、人生の方向を左右するような選択にまで同じ調子を持ち込むと、「じっくり迷う時間」「哀しみを通り抜ける時間」がどんどんと削られてしまいます。本当は立ち止まって考えたいのに、「早く決めなければならない」というプレッシャーが掛かると、人は自分の感情よりも、「周りから見て筋が通っていそうな答え」「責められ難そうな答え」を優先してしまいがちです。

さらに現代では、画面越しに見せられる情報や意見の量が、昔とは比べものにならないほど増えています。同じ出来事について、何度も何度も似た映像や言い回しが繰り返されると、「自分の感情」よりも「何度も聞かされる感情の型」が強く刷り込まれていきます。怒るべきだと言われれば怒りたくなり、不安だと言われれば不安になり、「こう感じるのが普通だろう」という空気に飲み込まれやすくなります。そうしているうちに、「私は本当はどう感じているのか」「私が一番哀しいと思っているのはどこなのか」という、一番大事な問い掛けそのものが、心の奥へ追いやられてしまうのです。

一人一人の人生にとって、本当に必要なのは、「正しい感情の持ち方」を誰かに教えられることではないはずです。出来事をじっと見つめ、自分なりに観察し、そこから自然に立ち上がってくる感情を、自分で選び取っていくこと。その過程の中で、「哀しい」「悔しい」「怖い」「それでも大切にしたい」といった様々な気持ちが、少しずつ形を変えながら、自分だけの答えに近づいていきます。その時間を短く切り上げさせられたり、別の感情に上書きされたりすると、「後悔のない選択」をするための土台が弱くなってしまいます。

哀を急がせる社会とは、言い換えれば、「人が迷う権利」「立ち止まる権利」を軽く扱う社会でもあります。感情のレールを外側から敷いてしまうほど、人は自分のハンドルを手放しやすくなり、後から「あの時、本当は違う道を選びたかった」と感じやすくなります。次の章では、この「後悔のない選択権」を守るために、私たちが自分自身や、周りの人の哀しみに対して、どのような距離感で向き合えるのかについて考えていきます。


第4章…後悔のない選択権を守る~他人の哀を急かさないという優しさ~

ここまで見てきたように、「哀」は人を立ち止まらせ、これまで歩いてきた道と、これから進んでいく道を静かに見つめ直す力を持っています。その時間の中で、人は自分の本音に触れ、「何を手放し、何を大切に抱え続けていきたいのか」を少しずつ選び直していきます。つまり哀しみの時間とは、その人が「後悔の少ない選択」をするための、内側の準備期間でもあるのです。

ところが現代の空気の中では、この準備期間がとても軽く扱われがちです。仕事の場面で身につけた「即断即決」「スピード感」が、そのまま人生の岐路や心の問題にまで持ち込まれてしまうことがあります。大切な人との別れや、長年続けてきた仕事を手放す決断、家族の暮らし方を変えざるを得ない状況など、本来なら時間をかけて向き合うべき場面にも、「早く決めないと」「いつまでも悩んでいられない」というプレッシャーがかかってしまうのです。

自分自身に対しても、同じような圧力をかけてしまうことがあります。「いつまでも落ち込んでいるのは弱い証拠だ」「もっと前向きにならなければいけない」と、自分で自分を急かしてしまう。すると、心のどこかでまだ整理しきれていない思いや、ちゃんと味わえていない哀しみを抱えたまま、「これが正しいはずだ」と思い込める選択肢に飛びついてしまいます。その時は何とか前へ進めたように感じても、ずっと後になって、「あの時、本当は別の道を選びたかった」という後悔が顔を出してくることがあります。

反対に、哀しみの時間を自分に許すことは、自分の中に「ゆっくり考えていい場所」を作ることでもあります。例えば、「今一番つらいのは何なのか」「何を失ってしまったと感じているのか」「どんな結果なら、後から自分を責めにくいか」といった問いを、少しずつ言葉にしてみる。ノートに書き出してもいいし、信頼できる誰かに話してみてもいい。その過程で、「世間から見て正しそうな選択」と「自分の心が納得する選択」が、同じ時もあれば、少しズレている時もあることに気づいていきます。そのズレに気付けることこそが、後悔の少ない選び方へ近づくための大切な一歩です。

そして、この「選ぶ時間」を守る上で、とても大きな役割を果たすのが、周りにいる人たちの態度です。誰かが深い哀しみの中にいる時、私たちはつい励ましの言葉や、元気になってもらうための提案を急いでしまいます。「きっと大丈夫だよ」「もっといいことがあるって」「いつまでもクヨクヨしていても仕方ないよ」という言葉は、本人を思って出てくるものですが、受け取る側にとっては、「今ここで哀しんでいてはいけない」と言われているように感じられることがあります。そうなると、その人は本音をしまい込み、「分かってもらえないのなら、明るく振る舞うしかない」と、自分の感情に蓋をしてしまうかもしれません。

本当の意味での優しさは、相手の哀しみを消してあげることではなく、「その哀しみと一緒にいても大丈夫だよ」と伝えることなのかもしれません。例えば、「辛かったね」とただ一言だけそっと添える。答えを急がせず、「今はまだ決めなくていいんじゃない?」と、迷う時間を許す。言葉が浮かばない時は、無理に何かを言おうとせず、ただ同じ場所にいて、相手のペースを尊重する。こうしたささやかな関わりが、その人が自分の感情をゆっくり見つめ直すための土台になっていきます。

介護や看取りの場面でも、同じことが言えるでしょう。大切な家族の状態が変わっていく中で、「自宅で看るのか」「施設を頼るのか」「どこまで治療を続けるのか」といった重たい選択を迫られることがあります。その時に周囲が、「もう決めなきゃダメだ」「皆そうしているから」と急かしてしまえば、残された家族は、「あの時、もっと時間をかけて考えたかった」「本当にあれで良かったのか」という思いを長く抱え続けることになります。逆に、「迷うのは当たり前だよ」「どんな答えを選んでも、あなたが悩んだ時間は無駄にならない」と寄り添ってもらえたなら、その人はたとえ同じ決断をしたとしても、「あの時、自分なりに精一杯考えた」と感じやすくなります。

もちろん、哀しみにいつまでも沈み続けることが、心や身体をすり減らしてしまう場合もあります。食事や睡眠が極端に乱れたり、「何もかもどうでもいい」と感じてしまったりするほど苦しい時には、専門家の助けや、医療的な支えが必要になることもあります。哀を大切にするということは、ただ暗い感情に浸り続けることを勧めることではありません。そうではなく、「本来必要なだけの哀しみの時間」を、外側から短く切り詰めようとしないこと、そして限界を越えてしまいそうな時には、「助けを求めてもいい」という選択肢を一緒に見つけることです。

自分自身の哀しみに対しても、他人の哀しみに対しても、「急がせない」「摩り替えない」という態度を選ぶことは、その人の「後悔のない選択権」を尊重することに繋がります。迷う時間、涙の出る時間、何も決められない時間を、人生の中の大切な一部として認めてあげる。その上で、いつかその人が自分の足で立ち上がり、「これでいこう」と選び直した時、その決断は、誰かに押しつけられた答えではなく、自分の心と向き合った末の一歩になります。

私たち一人一人が、自分の中の哀しみだけでなく、周りの人の哀しみも急かさずに見守ることが出来たなら、世の中には「本当はこうしたかった」という後悔が、少しずつ減っていくかもしれません。次のまとめでは、喜怒哀楽の中で忘れられがちな「哀」をどう扱うかが、自分自身の人生をどのように支えてくれるのかを、改めて振り返っていきます。

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まとめ…哀を大切にすることは自分の人生を大切にすること

人の感情を表す言葉として、私たちは「喜怒哀楽」という四文字をあまりにも当たり前のように使っています。そこに五行説の「怒・喜・思・悲・恐」という見方を重ねてみると、本来はもっとたくさんの色合いをもった感情が、ゆらゆらと混ざり合いながら生きていることが見えてきます。その中でも「哀」は、出来れば短く済ませたい、早く通り過ぎてしまいたい感情として扱われがちですが、本当は人生の方向を選び直す上で、一番深い場所を照らしてくれる存在なのかもしれません。

哀しみの時間は、決して「前に進めていない時間」だけではありません。過去を振り返り、今の自分を見つめ、これからの生き方を考え直すための、静かな通過点です。その間に、人は「自分は何を失ったと感じているのか」「本当は何を大切にしたいのか」「どんな選択なら、あとから自分を責め難いだろうか」といった問いを、何度も胸の中で行き来させます。涙が出る日もあれば、何も考えられない日もあり、同じところをグルグル回っているように思えることもあるかもしれません。それでも、その時間を抜きにして「前向きさ」だけを急いでしまうと、自分の心から少しずつ離れていってしまいます。

一方で、現代の社会は「即断即決」「スピード」「ポジティブ」といった合言葉を好む傾向があります。それ自体が悪いわけではありませんが、仕事の効率や日常の段取りを良くするための合言葉が、そのまま人生の岐路や深い哀しみの場面に持ち込まれると、「立ち止まる権利」「迷う権利」が削られてしまいます。メディアの言葉や周りの空気がさりげなく敷いてくる感情のレールに乗せられ、「自分はどう感じたいのか」という問いよりも、「皆と同じように感じておいた方が安心だ」という気持ちが勝ってしまうこともあります。その積み重ねが、「あの時、本当は違う選択をしたかった」という、長く残る後悔に繋がっていきます。

だからこそ、自分自身の哀しみに対しては、「これは大事な時間なんだ」と心のどこかで認めてあげることが、何よりの支えになります。すぐに答えを出そうとせず、「今はまだ決めなくていい」と自分に言ってみる。必要なら誰かに助けを求めたり、専門家の力を借りたりしながら、「本音に追いつくための時間」をきちんと確保する。それは決して甘えではなく、自分の人生のハンドルを自分の手に取り戻すための、当たり前の営みです。

同時に、周りの人の哀しみに出会った時、私たちに出来る一番の優しさは、「急がせない」ことかもしれません。励ましの言葉を急いで探すよりも、「つらかったね」とひと言だけそっと添えること。正解を提示するよりも、「迷っていいよ」「時間をかけて考えていいよ」と、選び直す余白を一緒に守ること。沈黙しか共有できない日があっても、「それでもそばにいるよ」という態度そのものが、相手の心にとって大きな支えになります。その関わりは、たとえ同じ結論にたどり着いたとしても、「あのとき、自分なりに精一杯考えた」という感覚を相手に残してくれます。

喜びも楽しさも、もちろん人生には欠かせません。怒りや恐れが教えてくれることもたくさんあります。そのうえで、「哀をどう扱うか」は、その人がどのように生きていきたいのかという問いと、深いところでつながっています。哀しみをなかったことにしないこと。哀しみの中で立ち止まる自分や誰かを、急かさずに見守ること。その積み重ねは、目に見える成果にはなりにくいけれど、じわじわと日々の表情や、言葉の選び方、人との距離感ににじみ出てきます。

ニュースや世間の声に揺さぶられそうになったときこそ、「この出来事を前にして、自分は本当は何を哀しいと感じているのか」「どんな生き方を選びたいのか」と、静かに問いかけてみてください。その問いにすぐ答えが出なくても、問い続けること自体が、あなたの人生をあなた自身の手に戻していきます。哀を丁寧に扱うことは、自分の人生を粗末にしないということ。喜怒哀楽の中で小さく押しやられがちなこの感情を、これから少しだけ大切に扱ってみることで、日々の景色がどこか違って見えてくるはずです。

今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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