クリスマスからお正月まで~年末スーパーの高過ぎるご馳走の正体~
目次
はじめに…年末年始のスーパーおかしくない?から始まるお話
12月に入って、クリスマスが近づき、やがてお正月が見えてくる頃。いつものスーパーに行っただけなのに、値札と売り場の空気が、急に別世界になったように感じたことはありませんか。
普段は申し訳程度にしか置いていないはずのブランド地のチキンが、クリスマス前になると山のように積まれ、あちらこちらから「ごちそうセット」「パーティーセット」がこちらを見つめてきます。その一方で、いつも買っているお気に入りの練り物や定番のお惣菜は、気づけば棚から姿を消し、「イベント専用のラインナップ」が幅を利かせている。年末のスーパーは、まるで舞台セットの組み換えを見ているようです。
お正月が近づくと、今度はかまぼこや伊達巻、黒豆、数の子、お重に入れるための華やかな食材が前面に並びます。続いて年明けには、お寿司と刺身、焼肉用の盛り合わせ、鍋セットがずらり。けれど、山のように並んだお寿司のネタは日を追うごとにツヤが薄れ、巻き寿司は箸でつまんだ瞬間にボロッと崩れ、見ていて少し切なくなることもあります。節分の恵方巻きでも、同じような「大量生産の限界」を感じたことがある方は少なくないでしょう。
それだけ並べて、本当に全部売れるのだろうか。売れ残ったものは、どこへ行くのだろうか。物価高で家計が苦しくなっている今、「アホみたいな高額品」と心の中で呟きながらカゴに入れるかどうか迷う時間は、年々長くなっているようにも思えます。ついには、「いっそ食品を大量に捨てたお店には、重い税金をかけたらいいのに」なんて、ちょっと過激な妄想まで浮かんでしまうことも。
この物語では、そんな素朴なモヤモヤを出発点に、クリスマスからお正月、年明けの寿司や鍋まで、年末年始のスーパーで起きていることをゆっくりほどいていきます。どうしてあんなに高くなるのか、どうして普段の定番が追い出されてしまうのか、そして、その裏でどれくらい食品が無駄になっているのか。少しユーモアを交えながら、お店側の事情と、私たち買う側の気持ちの両方を眺めてみましょう。
仕組みを知れば、「全部イヤだ」と突っぱねるのではなく、「ここだけは贅沢しても良し」「ここはいつもの日常で十分」という、自分なりのラインが引きやすくなります。年に一度のイベントに振り回されすぎず、でも、ささやかな楽しみはちゃんと守る。そんなちょうど良い付き合い方を一緒に探していく旅へ、まずは足を踏み入れてみませんか。
[広告]第1章…クリスマスとお正月で一変する売り場と消えるいつもの定番
12月も半ばを過ぎると、同じスーパーなのに、入り口に一歩足を踏み入れた瞬間の空気が変わります。店内のBGMはクリスマスソングに切り替わり、赤と緑のポップが踊る通路の先には、いつの間にか「ごちそうゾーン」が出来上がっています。
普段は、片隅に少しだけ並んでいるだけのチキンコーナーが、この時期だけは主役です。どこどこのブランド地から取り寄せました、と立派な名前の付いた丸鶏や骨付きチキンが、ずらりと行儀よく並んでいる。「いつもはどこに隠れていたの?」と聞きたくなるほどの品揃えなのに、普段の数か月を思い返しても、その顔触れを見た記憶はありません。数日のために突然登場して、売り場の真ん中を占拠していく、この存在感の強さがまず不思議です。
チキンだけではありません。パーティー用のオードブル、ローストビーフ、エビフライの盛り合わせ、クリームたっぷりのケーキ、スパークリングワイン。「クリスマスの食卓見本市」のような棚がいくつも並び、カゴを押す家族連れの歩みが、そこで一度立ち止まります。子どもの目はキラキラ、大人の頭の中ではお財布との相談が静かに始まり、「今年はどうする?」の無言の会議が始まるのです。
その裏側で、そっと肩身を狭くしているのが、「いつもの定番たち」です。毎週のように買っていたお気に入りの練り物、普段使いのかまぼこ、見慣れたソーセージやハム、馴染みのパック惣菜。ある日を境に、棚の端に追いやられたり、ひどい時には丸ごと姿を消したりしてしまいます。売り場には限りがあるので、イベント用の商品が幅を利かせる分だけ、日常の品が押し出されてしまうのは理屈として分かります。それでも、「今日もいつものあれを…」と手を伸ばして、空っぽのスペースと「クリスマス限定」「パーティーセット」のポップに出会ってしまうと、少し裏切られたような気持ちになるのです。
クリスマスが終わると、その変化はさらに鮮やかです。25日の夜が終わった途端、あれほどキラキラしていたクリスマスコーナーは、一晩で姿を消してしまいます。数日後に同じ場所を訪れると、そこにはかまぼこや伊達巻、黒豆、数の子、お重用の焼き魚や煮物素材が、ズラリと並んでいる。ついさっきまでサンタクロースとトナカイが微笑んでいた棚に、今度は門松や鶴亀が描かれたパッケージが整列し、「お正月準備モード」に一気に衣替えしているのです。
この流れに乗って、普段は見かけない華やかな練り物たちが、賑やかに登場します。紅白のかまぼこに、金粉入りのような豪華な一品、厚みのある伊達巻、彩り豊かな詰め合わせセット。それ自体は確かにおめでたくて心が躍るのですが、その一方で、「いつもの、あの控えめな味のやつ」はどこにも見当たらない。毎年、決まった味が好きなお年寄りや、食べ慣れた物しか受け付けない家族がいる家庭では、「あのパック、今年もあるかな」と探し歩き、結局見つからずに別の商品で妥協する、という小さなガッカリが生まれます。
お正月を迎えて少し落ち着いた頃、今度は寿司と刺身、焼肉セット、鍋用の盛り合わせが主役に踊り出ます。おせちに飽きてきたタイミングを狙って、「そろそろお寿司やお肉はいかがですか」とばかりに、色とりどりのパックが山積みになっていきます。ところが、あまりにたくさん用意されるせいか、ネタのツヤは日ごとに元気がなくなり、巻き寿司は箸で摘まんだだけでバラっと崩れてしまうことも珍しくありません。節分の恵方巻きの時期にも、同じような光景を目にしたことがある人は多いでしょう。大量に巻かれ、積み上げられ、売り切れれば拍手喝采、売れ残ればその行き先を考えなければならない。年末から年明けにかけてのスーパーは、まさに「イベントと日常のせめぎ合い」の舞台なのだと感じさせられます。
こうして改めて眺めてみると、私たちが日々使っているスーパーという場所は、単なる食材の置き場ではなく、「季節の行事に合わせて顔を変える装置」でもあるのだと分かってきます。けれど、その変身のたびに、いつもの定番が消えたり、急に値段が跳ね上がったり、品質が緩んだりするたびに、小さな違和感が胸の中に積もっていくのも事実です。次の章では、この派手な変身の背景にある、お店側の事情と「ごちそう価格」の仕組みを、もう少し丁寧に覗いてみることにしましょう。
第2章…クリスマスチキンとかまぼこが高くなるワケとお店の事情
クリスマス前のスーパーで、普段は全く見たこともないような「〇〇産ブランドチキン」がズラッと並んでいる光景は、もう季節の風物詩になりつつあります。その産地が普段は売っていないところへ大量に高額で出荷するのも不思議ですが…。丸ごとのロースト用チキンや、骨付きの大きなモモ肉が、立派な箱や金色のシールをまとって山積みになり、その横にはパーティー用のオードブルが肩を並べている光景。その値札をそっと覗き込んで、「うわ、高っ」と心の中で呟いたことのある人は、きっと少なくないはずです。
まず、大きな理由の1つが、「欲しい人が同じタイミングで一気に増える」ということです。クリスマスチキンや特別なかまぼこ、おせち用の豪華な練り物は、どう考えても年中同じペースでは売れません。12月24日、25日、そして年末の数日間だけ、普段の何倍もの人が「同じような商品」を求めて売り場にやってきます。お店から見れば、「いつもと同じ値段」では仕入れ切れない、という気持ちもそこにはあるのです。
もう1つの大きなポイントが、「仕入れ値そのものが上がっている」という現実です。ブランド地のチキンや、かまぼこの原料になる魚のすり身は、国内だけでなく世界の状況や天候、燃料代の影響を受けることがあります。海が荒れれば漁の回数が減り、エサ代や人件費が上がれば、原料の値段もジワジワと上がります。そこに遠距離から運ぶ輸送費、保冷のための設備費、パックや化粧箱といった「見た目を良くするためのコスト」が重なっていけば、スーパーの棚に並ぶ時点で、それなりの金額になってしまうのも無理はありません。
さらに、クリスマスや年末向けの商品は、「手間と人の数」が普段とは比べものにならないほどコストがかかります。普段は少人数でまかなっている惣菜コーナーに、短期アルバイトや応援のスタッフを増やし、夜遅くまで仕込みとパック詰めを続けて、大量のチキンやオードブル、かまぼこの詰め合わせを用意していきます。綺麗に並んだお寿司のパックや、崩れないように巻かれた太巻きの裏には、黙々と手を動かし続ける人たちの存在があります。人件費は、目には見えませんが、確実に値札の中に当然、がっつり含まれています。
それでもやはり、「それにしても高過ぎない?」という気持ちが消えないのは、「売れ残りのリスク」が大きく関係しています。クリスマスチキンも、お正月用かまぼこも、売れる時間帯や日付を過ぎてしまうと、一気に価値が下がってしまいます。26日のチキン、元日の夜を過ぎたかまぼこは、同じ商品であっても、お客さんの心には届き難くなってしまうのです。お店側は、「売れ残った分は値引きしてもまだ残るかもしれない、それでもダメなら廃棄になるかもしれない」という覚悟を持って仕入れをします。その「もしもの分」まで含めて、最初の値段が少し高めに設定されていると考えると、あの価格にも1つの理屈が見えてきます。
忘れてはいけないのが、「人の心理」を見込んだ価格である、という側面です。一年の締め括りに、家族や親族が集まる場で、出来ればテーブルの上を華やかにしてあげたい。子どもや孫に、ちょっといつもと違うご馳走を食べさせてあげたい。「年に一度くらいなら」「今年も何とか乗り切ったご褒美に」という思いが重なると、普段なら絶対に選ばない値札にも、つい手が伸びそうになります。スーパーも、もちろんその気持ちを確信してその日に絞って出すという戦略です。だからこそ、「少し高いけれど、特別感のある商品」を、このタイミングで前面に押し出してくるのです。
一方で、その陰で棚から消えてしまう「いつもの定番」があることも、忘れたくない事実です。お年寄りが慣れ親しんだ、シンプルで控えめな味付けのかまぼこや、普段の料理にちょうど良い価格帯の練り物たちは、派手なパッケージに場所を譲らされてしまいます。毎年同じ商品を買っている家庭から見れば、「せめて隅っこに少しだけでも置いておいて欲しい」というのが本音でしょう。売り場のスペースが限られている以上、お店がどこかで取捨選択をしなければならないのは理解できますが、そのたびに小さなモヤモヤが積み重なっていくのも、生活者としての正直な感覚です。
こうして見ていくと、クリスマスチキンとかまぼこが高くなるのは、「お店が悪いから」という一言では片付けられません。短い期間に集中する需要、上がり続ける原料と人件費、売れ残りの恐怖、そして「特別な日には贅沢したい」という私たち自身の気持ち。それらがグルグルと混ざり合って、あの「ご馳走価格」が出来上がっているのです。次の章では、その流れが年明けの寿司や焼肉、鍋セットにどう繋がっていくのか、そしてその裏側でどんな緩みや無駄が生まれているのかを、もう少し踏み込んで覗いてみることにしましょう。
第3章…おせちの次は寿司と焼肉~大量生産と質の緩みと食品ロス~
お正月の三が日が過ぎる頃、かまぼこや伊達巻で埋め尽くされていた売り場は、またゆっくりと姿を変えていきます。今度スポットライトを浴びるのは、お寿司と刺身、焼肉用の盛り合わせ、鍋セット。「おせちにそろそろ飽きたでしょう?」と語りかけるように、色とりどりのパックが山のように積まれ、今度は別の「ごちそうモード」がスイッチオンされます。
ところが、じっと目を凝らしてみると、そこには少し気になる現実が見えてきます。並んだ直後のお寿司は確かに美味しそうなのに、日が進むにつれてネタのツヤが少しずつ失われていく。巻き寿司は、箸で摘まんだ瞬間にシャリがボロッと崩れ、具だけがコロンとお皿に転がってしまう。「味以前に、形がもたないじゃないか」と、思わず心の中でツッコミたくなる瞬間です。節分の恵方巻きでも、同じような光景を目にしたことがある人は多いのではないでしょうか。不良品や粗悪品を高価格で売りつけられた残念感…。
その裏側には、とにかく量をこなさなければいけない現場の事情があります。年末年始の数日間に合わせて、いつもの何倍ものパック寿司や太巻き、焼肉セット、鍋用の盛り合わせを用意しようとすれば、職人の手だけではとても追いつきません。パートさんやアルバイトさんも総動員し、ひたすらシャリを握り、具を並べ、ラップをかけ、ラベルを貼り続ける日々が続きます。「ひとつひとつ丁寧に」という理想と、「とにかく時間までに並べなければ」という現実の間で、どうしても作業は適当な流れ作業になり、どこかで締め付けが甘くなったり、盛り付けのバランスが崩れたりしてしまうのです。
それでも、売り場に出てしまえば、お客さんの視線は見栄えにあるので、表面的には「綺麗に並んだパック」としてしか商品を見れません。ネタのツヤやシャリのまとまりに、ほんの少しでも違和感があると、「この値段でこれはちょっと…」という気持ちが先に立ってしまいます。おせちの段階ですでに「お正月価格」に付き合わされてきた家計から見れば、年明けのお寿司や焼肉セットにまで高めの値札がぶら下がっているのは、なかなかのプレッシャーです。「アホみたいな高額品」と心の中で呟きながらカゴを戻す人が増えれば、当然、売れ残るパックも増えていきます。
売れ残ったお寿司や刺身、鍋セットは、まず値引きシールで何とか出口を探ります。夕方以降に行けば、赤や黄色のシールが貼られたパックが並び、その場では得した気分になることもあります。けれど、値引きしても売れない分は、やがてバックヤードへと戻され、廃棄という道を辿ることになります。原料、手間、人件費、電気代、パックやラップといった資材をたっぷり使って作られた商品が、「売り場の都合」と「タイミングのズレ」だけで丸ごとゴミになる。この流れを想像すると、勿体なさと切なさが混じった、何とも言えない気持ちになります。
節分の恵方巻きも、構造はほとんど同じです。「今年のラッキー方角はこちらです」と華やかに宣伝され、一気に売り場を占拠していく太巻きたち。しかし、当日を過ぎればあっという間に価値を失い、大量廃棄が社会問題として取り上げられる年もあります。年末年始から節分まで、「イベント用大量生産➡短期決戦➡売れ残りは廃棄」というサイクルが、あちこちで繰り返されているのです。
もちろん、お店側も、好き好んでゴミを増やしたいわけではありません。「足りない」とクレームが来ることを恐れ、「余るかもしれないが多めに用意しよう」と考えてしまう。「せっかく来てくれたお客さんが、買いたい商品を手に出来ない」のは、小売業にとって一番避けたい事態でもあります。その結果として、どうしても安全側に振った仕入れと製造が行われ、私たちの目には「こんなに並べて大丈夫?」という光景が映るのです。
買う側として出来ることは、決して派手ではありませんが、ゼロでもありません。「今日はこれだけ」と量を決めて買う、必要以上に『何となく』でカゴに入れない、値引き品を選ぶ時も、食べ切れる分だけに留める。ほんの小さな選択の積み重ねが、長い目で見れば「作り過ぎなくても売れる」というサインになっていきます。お店も、家庭も、作る側と食べる側の両方にとって無理のないバランスを探っていかなければ、今のような大量生産と質の緩み、それに伴う食品ロスはいつまでも続いてしまうでしょう。
次の章では、そんな現状を前にして、「思い切って廃棄に重い税金をかけたらどうなるのか」という、少し過激だけれど考えてみたくなる妄想ルールを入り口に、もう一歩踏み込んで年末年始の食卓との付き合い方を考えてみたいと思います。
第4章…もし食品廃棄に重い税金がかかったら?妄想ルールと現実的な付き合い方
年末年始のスーパーで山のように積まれたチキンやお寿司、おせち用の食材を見ていると、ふと頭をよぎる疑問があります。これ、本当に全部お腹の中に納まっているのだろうか。売り場からは消えても、その後ろでゴミ袋がズッシリと重くなっているのではないか。そんな想像をしてしまうと、「いっそ捨てた分に税金を掛けたらいいのに」という、少し過激な妄想が顔を出します。
例えば、燃えるゴミになる食品を1g捨てたら100円、燃えない容器やパックを1g捨てたら200円。そんな途方もないルールが本当に導入されたとしたら、年末のスーパーは一晩で姿を変えるかもしれません。チキンやおせち、お寿司の山は一気に低くなり、「売れ残ったら破産する」と分かっている以上、お店も慎重にしか仕入れられなくなるからです。店頭に並ぶのは、予約で確実に行き先が決まっている分と、少しだけ上乗せした予備程度。見切り品コーナーに溢れていたパックも、グッと少なくなるかもしれません。
もちろん、1g100円、200円という数字は、現実に当てはめればお店が数日で倒れてしまうほどの厳しさです。それでも、敢えてわざと極端な設定で考えてみると、普段は見えにくかったものが浮かび上がってきます。今の仕組みは、作り過ぎて捨ててしまっても、「もったいないね」で終わってしまいがちです。廃棄に本気の「痛み」が伴うとしたら、どれだけの量を減らそうとするか。売り方はどれだけ工夫されるか。妄想の世界だからこそ、思い切って考えられる視点です。
実際の社会では、既に食品ロスを減らすための法律や取り組みが動き始めています。事業者に対して、どれくらい食べ物を捨てているかを把握し、再利用やリサイクルに努めるよう求める仕組みがあり、大きなスーパーや外食チェーンは、数字を報告し、改善を続けることが求められています。海外では、規模の大きなスーパーに「売れ残りを捨てずに寄付すること」を義務付けたり、寄付した分だけ税金を軽くする国もあります。罰金で叩くというより、「捨てない方がお得になるように」ルールを整える流れが生まれつつあるのです。
この辺り、病院でも施設でも大量の廃棄が出ますよね。全員から3食分のお金をもらい定食を出すという世界も歪みがあるかもしれません。体調や体格に応じて摂取しやすいメニューと量と価格を変動させて提供することが大事かもしれません。一律一括管理、大量消費と大量廃棄を終える時代は近いかもしれません。
話を戻しますね、私たちが日々の買い物で出来ることは何でしょうか。派手な制度を動かすことは難しくても、買う側の行動は、ゆっくりと売り場を変えていく力を持っています。例えば、年末年始の買い物で「これは必ず買う」「これは様子を見て、どうしても食べたい時だけ買う」と、自分なりの優先順位をはっきりさせておく。値引きシールに引かれてつい手を伸ばしたくなる時も、「本当に今日中に食べ切れる量かどうか」を一度立ち止まって考える。少し面倒に思えても、予約や事前注文を活用して、「必要な分だけきちんと確保する」方向にシフトしていく。そんな小さな工夫は、長い目で見れば「たくさん作らなくても売り切れる」という安心感をお店側に伝えるサインになっていきます。
お店の方も、もし廃棄に重い負担がかかる世界だったなら、おそらく売り方を大きく変えてくるでしょう。詰め込み過ぎのパーティーセットではなく、少人数用の小さめパックを増やす。見栄え優先の豪華な盛り合わせではなく、家庭の冷蔵庫や胃袋のサイズに合った量を基本にする。予約と組み合わせて、「作り置きしなくても回せる仕組み」を整える。そんな工夫は、極端な廃棄税が導入されなくても、これからの時代に求められていく方向ではないでしょうか。
年末年始のご馳走文化そのものを否定したいわけではありません。クリスマスのチキンやケーキ、お正月のおせちや寿司、鍋を囲む時間は、多くの家庭にとって一年を締めくくる大切な思い出です。ただ、その裏側で静かに増えていくゴミ袋の山を思い浮かべた時、「ちょっと作り過ぎ、買い過ぎかもしれない」と、そっとブレーキを踏む感覚も持っていたい。派手な税金で脅かすのではなく、「勿体ない」という感覚と、「必要な分だけ」の感覚を、買う側と売る側が少しずつ共有していけたら理想的です。
私たち一人一人が出来るのは、世界を変えるような大きな一歩ではなく、カゴの中身を一回分だけ見直すような、小さな一歩かもしれません。それでも、年末年始という同じ時期に、多くの人がその小さな一歩を踏み出せば、山積みだった棚の風景は、いつか少しずつ変わっていくはずです。最後のまとめでは、「ここだけは贅沢しても良し」「ここは日常のままで十分」という、自分なりのラインをどう決めていくかを改めて考えながら、年末のスーパーとの付き合い方をもう一度振り返ってみたいと思います。
[広告]まとめ…仕組みを知って「ここだけは贅沢」「ここは日常で十分」を決めよう
クリスマスが近づき、お正月が見えてくる頃、同じスーパーなのに値段も並びも空気もガラリと変わってしまう不思議さ。ブランド地のチキン、立派なかまぼこ、大きな寿司盛りと焼肉セット。そして、その陰でひっそりと姿を消す「いつもの定番」。あの違和感の正体をたどってみると、そこには、短い期間に集中する需要、上がり続ける原料と人件費、売れ残りの不安、そして「年に一度くらいは」という私たちの気持ちが、複雑に絡み合っていることが見えてきました。
おせちの後に押し寄せてくる寿司や刺身、鍋セットの山。最初は美味しそうだったネタのツヤが少しずつ消え、巻き寿司は箸で摘まむとバラバラに崩れてしまう。節分の恵方巻きでもよく見る「大量生産の限界」が、年末年始の売り場にもそのまま持ち込まれている現実は、どこか切なさを伴います。たくさん作って、たくさん並べて、その一部は値引きされ、それでも残った分は静かに廃棄されていく。楽しいはずのごちそうの裏側で、ごみ袋が重くなっていく光景を思い浮かべると、心のどこかがチクリとするのは自然な感覚かもしれません。
「いっそ、捨てた食品1gごとに高い税金をかけたらいいのに」という妄想ルールも、現実に導入するには極端過ぎますが、敢えて考えてみることで、今の仕組みの緩さや危うさが浮かび上がってきます。もしかしたら、一般家庭向けにはゴミ袋代が高騰していくという形かもしれません。廃棄に本気の痛みが伴う世界だったら、お店の売り方はきっと大きく変わるでしょう。山のような見栄え優先の盛り合わせから、少人数向けの小さめパックへ。「とりあえず並べておく」発想から、「ちゃんと行き先の決まった分だけ作る」方向へ。そんな未来の売り場を想像すると、今の光景が少しだけ古い物にも見えてきます。
とはいえ、大きな制度を一気に変えることは簡単ではありません。だからこそ、日々の買い物をする私たち一人一人の「選び方」が、ゆっくりと風景を変えていく力を持ちます。年末の売り場で、全部を拒否するのではなく、「ここだけは贅沢しても良い」「ここはいつもの日常で十分」という自分なりのラインを決めておく。例えば、クリスマスはチキンだけは少し良いものを買うけれど、オードブルは手作りやいつもの惣菜で工夫する。お正月は、かまぼこだけは好きなブランドを選び、後は家族が本当に食べ切れる量に抑える。そんな小さなルールを、家ごとに持っておくイメージです。
値引きシールに出会ったときも、「安いからたくさん買う」ではなく、「今日中に無理なく食べ切れるかどうか」をそっと自分に問いかけてみる。予約や事前注文を上手く使って、「必要な分だけはきちんと確保しつつ、余計な買い足しは控える」ようにしてみる。それだけでも、「作り過ぎなくても大丈夫」というサインが、少しずつお店側に伝わっていきます。年末年始の買い物は、ただの消費行動ではなく、「どんな売り場が続いてほしいか」を静かに伝えるメッセージでもあるのです。
クリスマスやお正月のご馳走は、多くの家庭にとって、家族の笑顔と重なる大切な時間です。一方で、その笑顔の陰で増えていく食品ロスや、ゴミ袋の重さに目をつぶり続けるのも、そろそろしんどい時代になってきました。だからこそ、イベントそのものを否定するのではなく、「ちょっと控えめに、でもちゃんと楽しむ」という新しいバランス感覚が求められているのかもしれません。
「年末のスーパーおかしくない?」という小さな違和感から始まったこの話は、気づけば、食べ物との付き合い方や、これからの暮らし方を考える切っ掛けにもなります。次にクリスマスソングが流れる店内でカゴを押す時、門松柄のパッケージが並ぶ棚の前に立つ時、今日のことをふと思い出してみてください。そして、家族や自分自身にとっての「ここだけは贅沢」と「ここは日常で十分」のラインを、そっと心の中で引き直してみる。その一歩が、無理のない家計と、少し優しい年末の風景の、どちらにも繋がっていくはずです。
今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
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