介護現場でこっそり育てる物語のプロ眼~2本目と3本目の仕事を仕込む生存戦略~

[ 介護現場の流儀 ]

はじめに…使い捨てにならないための“物語トライアングル”という考え方

介護の仕事をしていると、「このままここで年齢を重ねていって、本当に大丈夫なんだろうか…」と、ふと足が止まる瞬間がありませんか。忙しさと人手不足で、毎日がアッという間に過ぎていく。上から降ってくる指示はどんどん際限なく細かく増えていくのに、逆に現場の声は届いているのか分からない。そんな空気の中で、「自分だけは消耗して終わりたくない」と心のどこかで感じている人はきっと少なくないはずです。

かといって、今すぐ仕事を辞めて別の世界に飛び込める人ばかりではありません。生活もあるし、利用者さんへの責任もあるし、家族の事情もある。だからこそ、この場所に立ちながら、心の中ではいつでも別ルートへ歩き出せる準備をしておきたい。今回のテーマは、そんな“静かな生存戦略”の話です。

前に、鼻歌やちょっとしたマジックを持ち込むことで、介護の現場にほんの少しの驚きや笑いを足す、という話を書きました。あれはあれで、極めれば歌やマジックの本当の世界に進むことも出来るし、「いつでも退くことが出来る自分」を育てる1つの道標でした。今回はその発想を、もう少し“言葉の世界”に寄せてみます。

介護の仕事を続けながら、こっそり育てておきたいのが「物語のプロ眼」です。利用者さんの人生を丁寧に聴き取る眼。聴いた話を小さな物語としてまとめる眼。そして、その物語を声で優しく届ける眼。

この3つを合わせて、ここでは“物語トライアングル”と呼ぶことにします。どれも、いかにも特別な勉強をしているようには見えません。周りから見れば「よく話を聴いてくれる職員」「記録が分かりやすい職員」「説明が聞き取りやすい職員」でしかないかもしれません。けれど中身は、インタビュアー、ライター、朗読やナレーションといった世界へ繋がる、本格的な入口になり得る力です。

大切なのは、今の仕事に抗い、投げ出すことではなく、「本職の介護」という1本の軸を持ちながら、そのすぐ傍に2本目・3本目の軸をそっと立てておくことだと思います。もし職場の方針や体制がどうしても合わなくなった時、別の場所でも生きていける自分でいられるかどうか。その安心感は、実は今ここで利用者さんと向き合う姿勢にも、じんわりと反映されていきます。

この「はじめに」では、少しだけ空気の重い話も混ざりましたが、本文はもっと具体的で、実務の中に自然に紛れ込ませられる小さな工夫を中心にお届けしていきます。あなたが毎日のケアの中で、ただの“記録係”でも“作業係”でもなく、「物語を紡ぐ人」としての眼を1つ増やせますように。そんな願いを込めて、“物語トライアングル”の世界へ、一緒に足を踏み入れていきましょう。

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第1章…介護の仕事は1本だけじゃない~本職のまま“2本目・3本目”を仕込む理由~

介護の仕事をしていると、自分の人生が1本のレールに乗せられてしまったような感覚になることがあります。気が付けばシフトと夜勤に生活が振り回され、腰や膝の痛みと付き合いながら、毎日を回すだけで精一杯。ふと立ち止まった時、会社から理不尽な解雇宣告を受けた時とか「このまま年齢だけ重ねていったら、いざという時にどこにも行けないのでは」と、不安が胸の奥で静かに膨らんでいくことがあります。

一方で、現場を日々弛まずに動かし続けているはずの介護職が、職場全体の中ではとても弱い立場に置かれていることも、肌で感じます。上の階層では適当な思い付き会議や書類作りが進み、現場には「新しいルール」と「増えたチェック表」だけが降りてくる。人員配置は常にギリギリかマイナスか不正、急な欠勤が出ても補充されない。そんな状態が当たり前になってしまうと、「自分はこの施設の歯車の1つで、替えが効く存在なのかもしれない」と心が冷えてしまう瞬間がどうしても出てきます。

だからといって、今すぐ介護を手放したいかと言えば、決してそうではないのがややこしいところです。利用者さんの笑顔に救われる日もあるし、「あの時、自分が傍にいて良かった」と心から思える場面もある。現場が好きなのに、環境に振り回されているだけ。多くの人は、その矛盾した気持ちを胸の内にしまったまま、今日もユニフォームのボタンを留めているのではないでしょうか?

ここで必要になってくるのが、「介護職だからといって、人生のレールは1本だけではない」という発想です。本職としての介護の腕を磨きつつ、そのすぐ横に“2本目・3本目”の細いレールをそっと並べておく。今はまだ細くて頼りないけれど、毎日の中で少しずつ踏み固めていけば、いざという時には、そこを伝って別の場所へ歩き出せる。そんな準備を静かに進めておくことが、これからの時代の介護職にとって、心身を支える大事な自衛手段になっていくように思うのです。

鼻歌やマジックのように、極めればまったく別の仕事に繋がる技術もありますが、今回はもう少し「日常のケアと自然に混ぜて高められる力」に目を向けます。何故なら、現場の人手不足や忙しさを考えると、行き詰るほど狡猾で過酷な環境システムの施設ほど「これをやるために新しい時間を取る」こと自体が難しいからです。休憩時間や自宅でこっそり練習することはあっても、基本はあくまで業務の一部として紛れ込ませる。そのくらいのささやかでなければ、心も体もすぐに擦り減ってしまいます。

もう1つ大切なのは、上の人たちに「新しい取り組み」として大々的に報告しない、という点かもしれません。残念ながら、良さそうな工夫を前面に出した瞬間、「じゃあそれを標準にしましょう」「他のフロアでもやってください」と、アッという間にノルマ化されてしまうことがあります。そうなると、周囲からの視線の圧力であったり、自分の学びや楽しみとして始めたことが、いつの間にか「ただの過激な負担」に変わってしまいかねません。

だからこそ、“2本目・3本目”の力は、まず自分の中に育てるものだと位置付けておく方が安全です。周りから見れば、単に「話をよく聴いてくれる人」「記録が読みやすい人」「説明が分かりやすい人」に見えるだけでいい。利用者さんと家族にとってはプラスになり、自分の将来にとっては大きな財産になる。そのくらいの距離感で育てていくのが、現場で疲れ切らないための知恵なのだと思います。

そして、ここで育てていく“物語のプロ眼”は、実は介護という仕事そのものとも深く結び付いています。利用者さんの人生を聴き取り、小さな物語として心に残していくこと。日々の出来事を言葉にしてチームに伝えていくこと。ケアの場面を、優しい声で案内していくこと。これらは全て、介護の質を支える大事な仕事でありながら、そのままインタビューやライティング、朗読やナレーションといった別の世界にも繋がっていく力です。

介護という1本目の軸をしっかり握りながら、そのすぐ傍に“物語トライアングル”という2本目・3本目の軸をそっと立てて意識しておくこと。これが、今日のテーマの出発点です。次の章からは、その三つの角を1つずつ取り上げて、現場の中でどう紛れ込ませ、どうやって未来の道に繋げていけるのかを、具体的に見ていきましょう。


第2章…利用者さんの人生を“聞き出す”眼~傾聴とミニインタビューで材料を集める~

“物語トライアングル”の最初の角は、「聞き出す眼」です。介護の現場では、声を掛けたり、体調を尋ねたり、毎日たくさんの会話をします。でも、その会話が「今日のご飯は食べられそうですか」「トイレに行きましょうか」という定型文のような連絡だけで終わってしまうと、せっかくの時間が勿体ないのです。同じ1分を使うなら、その人の人生が少しだけ見えてくるような問い掛けに変えてみる。ここから、“物語の材料集め”が静かに始まります。

傾聴という言葉は有名ですが、実際の現場では「頷きながら話を聞くこと」だけだと思われがちです。本当はそれだけでなく、「どんな質問を投げかけるか」「どこで黙って待つか」「どこで共感の一言をそっと添えるか」という、細かな技がたくさん詰まっています。大袈裟なものではなくて大丈夫です。毎日のケアの中に、“ミニインタビュー”を1つ混ぜてみる。その積み重ねこそが、プロに近づくための静かな練習になります。

例えば、歩行介助をしながら「今日は寒いですね」と言うだけで終わらせる代わりに、「こんな寒い日は、若い頃はどんな服装をしていましたか」と尋ねてみる。食事前に「お腹が空きましたか」と聞く代わりに、「昔、一番好きだったご馳走は何でしたか」と一歩踏み込んだ質問にしてみる。聞いている内容は、身体の状態ではなく“その人の記憶”です。だからこそ、表情がフッと和らいだり、目の奥の光が少し強くなったり、普段とは違う反応が返ってきます。

ここで大事なのは、立て続けに質問攻めにしないことです。ミニインタビューはあくまで“ミニ”であることがポイントです。1回のケアにつき、深く聞く問いはせいぜい1つから2つまで。後は相手のペースに合わせて、頷きながら、時々「へえ、それは凄いですね」「その頃は忙しかったでしょうね」など、感情に寄り添う一言を添えていきます。そうすることで、利用者さんは「話を引き出される」のではなく「自然に話したくなる」状態になっていきます。

また、質問の形にも少し工夫が必要です。「はい・いいえ」で終わる問い掛けだけでは、そこから先の物語が広がりません。「若い頃は働いていましたか」ではなく、「若い頃は、どんな場所で、どんな仕事をしていましたか」と尋ねると、答えが一気に膨らみます。もし話が止まってしまったら、「その仕事で一番大変だったことは何でしたか」「仕事仲間とはどんな話をしていましたか」など、角度を変えてもう一歩だけ聞いてみる。この“もう一歩”をどこまで出すかは、相手の表情を見ながら調整していくことになります。

もちろん、全ての人が過去を楽しく語れるわけではありません。思い出したくないこと、今は触れて欲しくない部分に、うっかり踏み込んでしまうこともあります。その時はすぐに深追いをやめて、「教えてくださってありがとうございます」「今はこれくらいにしておきましょうか」と引き下がる勇気も大切です。聞き出す眼は、どこまで聞くかを判断するブレーキとセットで育てていく必要があります。

こうして集まった話の断片は、その場限りで消えていくように見えますが、実は介護の仕事にとっても大事な情報です。「この方はこういう時代を生きてきた」「こういう価値観で働いてきた」「こういう家族との関係があった」という背景が分かると、ケアの組み立て方や声のかけ方も自然と変わってきます。同じ入浴介助でも、元・職人さんには「今日は浴槽をピカピカに磨いておきましたよ」と言ってみたり、元・教師の方には「今日の一番の頑張りを、後で点数つけてもらおうかな」と冗談を交えてみたり、さりげない一言がその人らしさに寄り添った形に変わっていきます。

もしプライバシーに気をつけながら、自分だけのノートに短いメモを残せる環境があれば、印象に残った言葉だけを書き留めておくのも良い方法です。「元トラック運転手」「海が見える道が好きだった」「信号待ちの時間も人生だ、が口癖」など、キーワードだけでも構いません。名前をイニシャルにしたり、細かな地名をぼかしたりすれば、個人が特定されない形で、自分の中に物語の素材を貯めていくことが出来ます。後から読み返すと、「あの人にはこんな一面もあったな」と、姿がありありと浮かんでくるはずです。

このようなミニインタビューを続けていると、「話を聞き出す」という行為そのものが、だんだんと楽しくなってきます。最初は「何を聞いたらいいか分からない」と戸惑っていた人でも、経験を重ねるうちに、「ここでこう聞いたら、この人はきっと面白い話をしてくれる」という感覚が育っていきます。この直感は、雑誌や動画で人に話を聞くプロたちが、長年かけて身に着けてきたものと同じです。相手が利用者さんであれ、著名人であれ、「目の前の人の物語を丁寧にすくい上げる」という仕事の本質は変わりません。

介護の現場で育てる“聞き出す眼”は、すぐに派手な成果として表に出るものではありません。でも、利用者さんの表情やチーム内のコミュニケーションの雰囲気は、少しずつ確実に変わっていきます。何より、自分自身の中に「どこへ行っても通用する聞き方」という力が蓄えられていきます。次の章では、こうして集めた物語の材料を、どうやって小さな文章やストーリーにまとめていくのか、その手順を見ていきましょう。ここから、“物語トライアングル”の2つ目の一角が立ち上がってきます。


第3章…聞いた話を小さな物語に変える力~ストーリーテリングと文章の筋を整える~

第2章で集めたのは、利用者さん一人一人の人生の欠片でした。仕事の話、家族の話、若い頃の恋の話、戦争や貧しさを潜り抜けてきた話。どれも大切なエピソードですが、そのままだと「その場で消えていく口頭の思い出」に留まりがちです。ここから一歩だけ踏み込んで、聞いた話を小さな物語としてまとめてみる。これが、“物語トライアングル”の2つ目の角です。

物語と聞くと、小説家の仕事のように感じてしまうかもしれませんが、ここで目指すのは、立派な作品ではなく「誰かに伝わる形に並べ直す」ことです。例えば、自分の頭の中だけに仕舞っていた利用者さんの印象を、3行ほどの文章にしてみる。会議やカンファレンスで共有する時に、一文だけ「物語の芯」を添えてみる。そんな小さな積み重ねが、知らないうちにストーリーテリングの筋肉を育ててくれます。

イメージしやすいように、1つ具体例を考えてみましょう。元トラック運転手のAさんがいたとします。いつもは寡黙で、必要最低限のことしか話さない。でも、ある日、歩行訓練をしながら昔の仕事の話をしてくれた。長距離を走り続けたこと、夜明けの高速道路に一人で向き合っていたこと、信号待ちの時間がほっとするひと息だったこと。これらの断片をそのまま頭に置いておくのではなく、短い文章にしてみるのです。

「Aさんは、若い頃、長距離トラックで全国を走り回っていた。夜明け前の高速道路が一番好きで、『信号待ちの時間も人生だ』と笑いながら話してくれた。今は歩行器だけれど、窓の外を眺める時の横顔は、あの頃の運転席と同じ眼差しに見えてくる。」

このくらいの長さなら、ノートにも日誌にも書けますし、家でこっそりメモすることも出来ます。大事なのは、事実をただ並べるのではなく、「どんな人か」が伝わるように組み立て直すことです。仕事の内容、本人の口癖、その人らしい仕草や表情などを、3つほど選んで1つのまとまりにする。これだけで、読み手の頭の中には、Aさんの姿が立ち上がってきます。

文章を作る時のコツは、新語や難しい技術用語よりも「順番」と「焦点」に気を配ることです。順番というのは、どこから書き始めるか、どこで一度区切るか、どの部分を最後に持ってくるかということ。先ほどの例では、「何をしていた人なのか」➡「その人の好きだった瞬間」➡「今の姿との繋がり」という流れにしています。この順番が決まると、文章全体にまとまりが生まれます。

焦点というのは、「この物語で一番伝えたい一言は何か」を決めることです。元トラック運転手なら、「信号待ちの時間も人生だ」というフレーズがそれに当たるかもしれません。元教師なら、「テストの点より、休み時間の笑顔を大事にしていた」といった言葉かもしれません。その一言を中心に置き、その周りに事実やエピソードをそっと並べる。そうすると、短い文章でも、芯の通った物語になります。

この時、個人情報の扱いには十分注意が必要です。本名や具体的な地名、家族構成など、外に出ると困る部分は、ぼかしたり省略したりして構いません。「大きな街の工場」「海の近くの町」「地方の小さな学校」など、イメージが伝わる程度の表現にしておくと、安全と臨場感のバランスを取りやすくなります。自分だけが見るノートであっても、「もし誰かに見られてしまったら」と想像して、守るべき線を引いておく習慣はとても大事です。特に個人情報保護法や退職時の施設とのトラブルにならないように常からの心掛けが大事なのです。つい、ポロっと…なんて笑えない世界になってしまいかねません。

こうして小さな物語を書き続けていると、「文章を書くのが苦手」と思っていた人でも、少しずつ筆が軽くなっていきます。最初はぎこちなくても、続けているうちに、自分なりのリズムや言葉の癖が見えてきます。上手く書けなかった日があっても、「今日の自分には、この形が精一杯だったんだな」と受け止めて、翌日にまた新しい物語を書いてみれば良いのです。長さも、無理に揃える必要はありません。どうしてもまとまらない日は、一行だけでも立派な一歩です。

この作業は、介護の仕事にも直接役立ちます。チームカンファレンスで、「Aさんは夜になると不安が強くなります」と伝えるのと、「Aさんは、全盛期は夜の高速道路を一人で走っていた人なので、今は静かな夜が逆に落ち着かないのかもしれません」と言うのとでは、聞く側の印象がまったく違います。後者の方が、その人の背景を想像しやすく、ケアの工夫も生まれやすくなります。つまり、小さな物語は、感傷的な飾りではなく、チームの理解を深めるための道具でもあるのです。

そしてこの「物語にまとめる力」は、施設の外に出ても活かせるものです。利用者さんの物語をまとめる経験は、そのままインタビュー記事やコラムを書く力に繋がりますし、自分自身の体験を文章にして発信していく土台にもなります。どこか別の仕事に移る時、「人の話を聞き取り、分かりやすく伝えることが出来ます」と胸を張って言えるかどうか。その裏付けになるのが、日々書き貯めた小さな物語たちなのです。

もちろん、ここで書いた物語を世の中に出すかどうかは、また別の問題です。大半は、自分の中だけにそっとしまっておく宝物でも良いと思います。大切なのは、物語を書くという行為そのものが、自分自身の感受性を守り、育てる時間になっていることです。忙しい日々の中で、ただ流されていくのではなく、「今日はこんな出来事があった」「この一言は、きっと一生忘れない」という印を残していく。それは、介護職としての自分の歴史を刻むことにもなります。

第3章では、聞き取ったエピソードを小さな物語へと組み立てる流れを見てきました。次の第4章では、その物語を声に乗せて届ける力について考えていきます。文章としてまとめた内容を、どのように話し、どのような声色で伝えるか。そこには、読み聞かせやナレーションの世界へと繋がる、3つ目の角が隠れています。


第4章…声で物語を届ける技術~読み聞かせと説明の仕方をこっそり磨く~

“物語トライアングル”の最後の角は、「声で届ける力」です。利用者さんから話を聞き、小さな物語としてまとめても、それが相手の心に届かなければもったいないですよね。文章として書く力が「形を作る技術」だとしたら、声で伝える力は「命を吹き込む技術」です。そしてこの技術もまた、介護の仕事のど真ん中に紛れ込ませながら、静かに鍛えていくことが出来ます。

声で届けると言うと、大きな声ではっきり話すことだと思われがちですが、本当に大事なのは「大きさ」よりも「伝わり方」です。例えば、体操の前に一言声を掛ける場面を思い浮かべてみてください。「はい、体操しますよ」と事務的に言うのと、「これから体を温めていきますね。今日も一緒にゆっくり動かしていきましょう」と、少しゆっくりした優しい調子で言うのとでは、耳に入ってくる印象がまったく違います。同じ内容でも、声の速度とトーン、間の取り方1つで、利用者さんの表情が変わっていきます。

読み聞かせも、声を磨くのにぴったりの練習になります。大袈裟な絵本会を開く必要はありません。回覧のお知らせを読む時、掲示物の内容を共同スペースで伝える時、短い物語や詩を一緒に味わう時。そんな日常の一場面で、「文字をただ読み上げる」のではなく、「誰かに聴かせるつもりで読む」ことを意識してみるのです。句読点でしっかり一度止まること。大事な言葉の前に一拍おくこと。嬉しい場面ではほんの少し声を明るくし、しんみりした場面では少しトーンを落とすこと。これだけでも、読み聞かせの空気はガラリと変わります。

説明の仕方も同じです。お風呂介助の前に「今から入浴です」とだけ告げるのではなく、「今から、体を温めに行きましょうね。足元からゆっくり温かくしていきますよ」と、少し情景が浮かぶ言葉に言い換えてみる。お薬を飲んでもらう時に、「薬です」ではなく、「これを飲むと、夜の咳がラクになると思いますよ」と、目的を1つ添えてみる。言葉の選び方と声のトーンが合わさることで、利用者さんの不安が和らいだり、納得感が増したりします。

この時、自分の声を“演じすぎない”ことも大切です。プロの朗読家のようにドラマチックな読み方を目指す必要はありません。むしろ介護の現場では、過度な演技は却って落ち着かない空気を生んでしまうことがあります。目指したいのは、「いつもの自分より、ほんの少し丁寧な声」です。少しゆっくり、少し柔らかく、少しだけ感情を乗せる。その「少し」を毎日の中で繰り返していくことが、結果として大きな差になっていきます。

声の練習は、こっそりやりやすいところも魅力です。通勤の車の中や、自宅で洗い物をしている時、今日あった出来事を独り言のように話してみる。エア読み聞かせをしてみる。鏡の前で、挨拶の一言だけ大事に発してみる。こうした時間は、誰にも邪魔されず、評価もされず、ただ自分の声と向き合える貴重な瞬間です。日々の介護で使う言葉を、そのまま練習素材にすることも出来ます。「本日はこれでお終いです」「ありがとうございました、また明日もよろしくお願いします」といった定番のフレーズに、心を込めて少し変化をつけてみるのです。

やがて、声で物語を届ける感覚が身についてくると、利用者さんの反応も少しずつ変わっていきます。いつもは聞き流されていた説明に、ちゃんと目を向けてくれるようになる。体操の案内のひと言で、何人かがフッと笑顔を見せてくれるようになる。歌が苦手でも、声が通るタイプでなくても、「この人が話すと安心する」と感じてもらえる場面が増えていくはずです。それは、介護職としての信頼にも繋がりますし、“声を扱う仕事”への手応えにもなっていきます。

この「声で届ける技術」は、施設の外に広げれば、いろいろな可能性を持っています。朗読会や読み聞かせボランティア、ラジオのような音声配信、動画のナレーション、研修や講座の講師など。どれも、特別な資格が必要なわけではなく、「人に伝わる話し方」の積み重ねがそのまま活きる世界です。介護の現場で磨いた声の感覚は、そのまま別の舞台に持ち出すことが出来ますし、もし別の仕事へと舵を切る時にも、大きな武器になってくれます。

もちろん、そうした未来を今すぐ目指さなくても構いません。「いつかそういう道もあるかもしれない」と頭の片隅に置きながら、今ここで目の前の利用者さんに語りかける。その姿勢が、日々のケアを少しずつ豊かにしていきます。聞き出す眼で人生の欠片を受け取り、小さな物語としてまとめ、それを声に乗せてやさしく届ける。介護の仕事の中で、ごく自然に行っていること1つ1つが、実は“物語のプロ”へ続く階段になっているのだと気付けた時、自分の中の視界も少し変わってくるはずです。

第4章では、「声で届ける」という最後の角を見てきました。ここまでくると、“物語トライアングル”は1つの形としてはっきりしてきます。最後のまとめでは、この三つの力をどう束ねていくのか、そしてそれが何故、現場で働く自分自身の生き方を守ることに繋がるのかを、改めて振り返っていきたいと思います。

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まとめ…いつでも別ルートへ歩き出せる自分に~介護現場から広がる“物語のプロ”の未来~

ここまで読んでくださって、あなたの中には、いつもの仕事風景とは少し違う介護現場のイメージが浮かんでいるかもしれません。身体を支え、生活を整え、命を守るという大切な役割を担いながら、そのすぐ傍で、利用者さんの人生をそっとすくい上げる人。何気ない会話から生まれた言葉を小さな物語としてまとめ、それをやさしい声にのせて届けていく人。その姿こそが、この文章で描いてきた“物語トライアングル”を活用して生きる介護職の姿です。

現場の状況は、すぐには変わらないかもしれません。人手不足や書類の多さに追われ、上からの指示に振り回される日も続くでしょう。けれど、どんなに環境が厳しくても、「自分の中にだけは、別の道へ繋がる力を育てておく」という選択と実行する権利は、誰にも奪うことは出来ません。利用者さんの話を丁寧に聞き出す眼。聞いたことを小さな物語としてまとめる力。そして、それを声でやさしく届ける技術。これらは全て、今いる場所の中で、こっそりと、しかし確実に磨いていける力です。

鼻歌やマジックが、気づかれないうちに心をほぐし、極めればまったく別の世界へと繋がっていくように、物語の力もまた、静かに人生の可能性を広げていきます。利用者さんの物語を聞く練習は、いつか誰かのインタビューを任される下地になるかもしれません。3行の物語を書く習慣は、将来の文章の仕事や発信活動を支える土台になるかもしれません。日々のケアの中で声の届け方を工夫することは、朗読や講師といった新しい舞台への扉が開かれるかもしれません。

もちろん、「将来は必ずこの道で独立する」と力む必要はありません。そんなに構えなくても、「もし今の職場を離れたくなった時、ここまで育ててきた物語の力があれば、きっとどこかで役に立つはずだ」と、心のどこかで思えているだけで、毎日の重さは少しずつ変わってきます。逃げ道を複数持っているからこそ、今ここで利用者さんと向き合う時にほんの少しだけ心に余裕が生まれる。その余裕が、笑顔や気遣いとなって目の前の人に返っていくのだと思います。

大切なのは、「介護しか出来ない自分」と諦めてしまわないことです。介護を本職として続けることも立派な選択ですが、それを「1本切りの道」と決めつける必要はありません。本職のケアのすぐ横に、物語を扱う2本目・3本目の軸をそっと立てておく。その静かな準備が、いつか自分を守る盾になり、同時に、利用者さんと家族にとっての贈り物にもなっていきます。

あなたが明日、いつも通りのシフトに入る時、「今日は誰の物語を、1つだけ聞いてみようか」「どの場面を、3行だけ書き留めておこうか」「どの言葉を、少しだけ丁寧な声で伝えてみようか」と、ほんの少しだけ意識してみてください。その一歩一歩が、静かに積み重なっていった先に、“介護職でありながら物語のプロでもある自分”という新しい姿が、きっと待っています。

現場で戦い続けるあなたの毎日が、ただ消耗して終わるのではなく、1つ1つの出来事が物語として積み重なっていきますように。いつでも別ルートへ歩き出せる自分を胸の内に抱えながら、今日もまた、目の前の人生にそっと耳を澄ませていきましょう。

今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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