病院にも施設にも入れない透析・難病~在宅しか選べない家族の凌ぎ方~
目次
はじめに…どこにも長くいられない人たちと在宅の現実
家族が重い病気を抱えた時、多くの人は「いざとなれば病院や施設がどうにかしてくれる」と、どこかで信じています。ところが現実には、病院にも長くは入院できず、特養や老健などの施設にも「うちでは難しい」と断られ、気がつけば在宅しか選べない人たちがいます。通院は欠かせないのに専門の病院は限られ、医療的なケアも必要なのに、暮らしそのものは家族の肩にズッシリ乗ってくる。そんな「どこにも長くいられない」人たちの存在は、表に出にくいだけで、決して珍しい話ではありません。
透析を続けながら暮らしている人や、進行性の難病と向き合っている人などは、その代表的な例です。命を繋ぐための治療は欠かせないのに、一般病院では長期入院が難しく、透析専門のクリニックはあくまで通院が前提。介護施設の側からは、「医療の負担が大きい」「夜間の急変が心配」と敬遠されることもあります。その結果、「ご家族と相談して在宅でお願いします」と、静かに在宅介護のコースへ押し戻されていくのです。
家の中では、生活と医療と介護がごちゃ混ぜになりながら、休む間もなく時間が流れていきます。日中は通院やリハビリ、夜は体位変換やトイレ介助、急な発熱や呼吸苦があれば救急車を呼ぶかどうか迷い続ける。家族は「本当なら、どこか安心して預けられる場所があって欲しい」と願いながらも、現実には「ここしか居場所がないのだから、何とかやるしかない」と、自宅を小さな病室のように使い続けることになります。
そんな在宅の現場では、誰かが倒れてしまってもおかしくない綱渡りの毎日が続きます。介護をされる側も、介護をする側も、ギリギリのところで踏ん張っているのに、周囲からは「ちゃんとサービスを使っているから大丈夫でしょう」と見えてしまうことさえあります。制度の枠組みの中では「在宅で対応可能」と判断されても、実際に耐えているのは家族の体力と気力です。そのギャップが、「誰にも分かってもらえない」という孤立感や、救急搬送と自宅への蜻蛉返りをくり返す悪循環に繋がっていきます。
この文章では、透析や難病を抱えた人たちを中心に、「病院にも施設にも長くいられず、在宅しか選べない」という状況がなぜ生まれるのかを、出来るだけ分かりやすい言葉にしていきます。その上で、家の中で起こりやすい小さな「ミニ救急」との付き合い方、限界を感じた時に叩けるドア、そして介護を一人で背負い込まないための考え方を、現場の感覚に寄り添いながら整理してみます。出口の見えないように感じる在宅の毎日に、少しでも「こう凌げるかもしれない」というヒントを届けられたら嬉しいです。
[広告]第1章…病院にも施設にも残れない~「難ケース」が生まれる仕組み~
在宅しか選べない家族の物語は、ある日突然始まることが多いように見えます。けれど実際には、「どこにも長くいられない人」が生まれる土台は、ずっと前から静かに積み重なっています。家族が悪いわけでも、本人が我儘なわけでもありません。医療と介護の仕組みの隙間に、一部の人たちがポトリと落ちてしまう。その結果として、「困難事例ケース」と呼ばれる状況が出来上がってしまうのです。
まず、病院の側から見てみます。病院は、命に関わる病気や怪我を治す場所として作られています。ベッドの数には限りがあり、入院が必要な人が次々と運ばれてきます。そのため、「今まさに治療が必要な人」を優先し、治療が落ち着いた人には「そろそろ家に帰りましょう」「ここから先は在宅や施設で」と声をかけざるを得ません。本当はまだ家族の準備が整っていなくても、「医学的には安定しています」というたったひと言で、退院の方向へ話が進んでしまうことがあります。透析や難病の人たちは、命を繋ぐ治療は続いているのに、「急性期ではない」という理由で、長くベッドを確保しにくい立場になりやすいのです。
一方、介護施設にも、それぞれ得意とする利用者像や受け入れ条件があります。特養は長く暮らせる場所として期待されがちですが、重い医療行為には対応し切れないことも多く、夜間の急変や頻繁な通院が見込まれる人については、「うちでは難しい」と慎重になりがちです。老健は「リハビリをして家に帰る」ことが目的とされているため、ずっと住み続ける場所ではありません。医療と介護の両方が濃く必要な人ほど、「ここに来てほしい」と言ってくれる施設は限られてしまいます。表向きは「利用者本位」と言われても、現場レベルでは、病院も施設も「自分たちが支え切れる範囲の人」を選ばざるを得ないのが本音です。
その背景には、お金の決まり方の違いもあります。病院は医療の制度で、施設は介護の制度で動いており、それぞれに細かいルールや採算のラインがあります。重いケアが必要な人ほど、手間も人手もお金もかかりますが、その負担を誰がどこまで引き受けるのかが、いつもくっきりとは決まっていません。「ここまでなら医療の仕事」「ここから先は介護の仕事」と線を引きたい気持ちと、「本当は全部を見るのは難しい」という現実の間で、病院も施設も揺れているのです。その揺れの結果として、一番大変な人たちが、在宅に押し戻されやすくなってしまっています。
こうして、「まだ自宅で見られるでしょう」「家族が通院を支えてくれれば大丈夫です」と言われた人たちが、在宅のスタートラインに立たされます。ですが、家族にとってみれば、その言葉は「あなたたちなら何とかやれるはず」という励ましではなく、「他に行き場所がないから、家で頑張ってください」という宣告に聞こえることもあります。行政の書類の上では「在宅生活継続」と前向きに書かれていても、実際の暮らしの中身は、昼夜を問わないケアと、いつ救急を呼ぶか迷い続ける日々かもしれません。
このようにして、「病院にも長くはいられない」「施設にも入れない」「在宅しか選べない」という三つの条件が重なった時、その人と家族は「困難事例ケース」と呼ばれる立場に置かれます。本来なら、医療と介護が横に手を繋いで支えるべき人たちなのに、どちらの制度にもすっぽりとは当てはまらない。はみ出した部分を、在宅の家族が自分たちの力で埋めているのが現実です。
次の章では、その中でも代表的な存在である「透析の人」と「難病の人」に焦点を当てていきます。なぜ彼らが在宅一択になりやすいのか。どんな場面で「行き場のなさ」を感じやすいのか。実際の暮らしを思い浮かべながら、その姿をもう少し具体的に辿ってみます。
第2章…析と難病の人たち~なぜ在宅一択になりやすいのか~
第1章で、「どこにも長くいられない人たち」が制度の隙間に落ちてしまう仕組みを辿りました。その中でも、特に在宅一択になりやすい代表が、透析をしている人と、進行性の難病を抱えた人たちです。どちらも命を繋ぐ医療が欠かせないのに、病院にも施設にも「長くは置いてもらえない」という矛盾を抱えています。
透析のある暮らしを思い浮かべてみると、まず通院の負担が大きくのしかかります。週に数回、1回辺り数時間という決まったペースで、専用の機械に繋がれて血液を綺麗にしてもらう必要があります。そのたびに家から病院やクリニックまで移動し、治療中はベッドに横になり、終わった後は怠さや血圧の変動と付き合いながら帰宅する。車椅子や介助が必要な人なら、家族や送迎車の助け無しでは通えません。生活のリズムそのものが透析を中心に回るため、「通える範囲」「決まった時間に通院出来るかどうか」が、暮らし方を大きく左右します。
ところが、透析を行っている医療機関が、必ずしも長期入院を受け入れられるとは限りません。透析専門のクリニックは通院に特化していて、一般病棟を持っていないところも少なくありません。逆に、一般病院の中に透析室があっても、「急性期の治療」が終われば、ベッドを空ける必要があります。そのため、家族としては「透析もしているし、体力的にも不安だから、しばらく入院させてほしい」と願っても、病院側からは「治療としては落ち着いているので退院を」と言われてしまうことが多いのです。
では介護施設はどうでしょうか。長く暮らせる場所として期待される特養であっても、透析の人を受け入れるには、夜間の急変への備えや、通院の付き添い、体調管理など、普段以上の負担がかかります。職員の人数や医療との連携体制に余裕がない施設では、「対応し切れないかもしれない」という不安から、どうしても慎重な姿勢になりがちです。老健のように「いずれ家に帰ること」を前提にした施設ではなおさら、「長く暮らす場所」としては想定されていません。紙の上では「受け入れ可能」と書かれていても、実際には「透析の方は難しいです」と断られる場面が、現場では珍しくないのが実情です。
進行性の難病を抱えた人たちも、似たような行き場の無さを抱えています。筋力が少しずつ落ちていく病気や、呼吸や嚥下に障害が出てくる病気では、ある時期から、吸引や人工呼吸器、経管栄養などの医療的ケアが必要になります。医師の診察や検査、リハビリは欠かせませんが、ずっと病院のベッドを占有し続けることは難しく、「状態が安定しているので一度帰りましょう」と言われることが増えていきます。ところが、普通の介護施設では、複雑な医療機器や吸引に24時間対応することは簡単ではありません。結局、「医療的には在宅でいけます」「介護サービスを組み合わせれば大丈夫です」と言われ、家に戻ることになります。
透析も難病も、「医療」と「生活」がきつく結びついているという点で共通しています。治療を中断すれば命に関わる一方で、その治療を受けるまでの移動や、治療後の怠さ、日常生活での息切れや疲労感は、全て「暮らし」の中で家族が引き受けることになります。医療側から見ると、「治療はきちんと提供している」「後は在宅や介護保険で」という整理になりやすく、介護側から見ると、「これは医療の範囲ではないか」と躊躇う部分も多い。その狭間で、どうしてもサポートの手が薄くなってしまうのです。
こうして、「病院にも長くはいられない」「施設にも入りにくい」「専門機関は通院前提」という三つの条件が揃った時、透析や難病の人たちは、選んだというより「在宅しか残らなかった」という状況に追い込まれます。家族から見れば、「自宅で看ることに決めた」というより、「気づけば自宅しか選べなかった」という感覚に近いかもしれません。在宅医や訪問看護、訪問介護などの支えがあれば、まだ凌ぎようがありますが、それらが十分に揃っていない地域では、家族だけが最前線に立たされてしまうこともあります。
次の章では、こうして在宅一択になった家の中で、実際にどんな「ミニ救急」が起こりやすいのかを辿っていきます。救急車を呼ぶかどうか迷う場面、何度も搬送されてはすぐに自宅へ戻されるくり返し、その中で家族がどんな風に凌いでいるのか。日常の中で起こる小さな危機に目を向けながら、「在宅しか選べない家族」が少しでも呼吸しやすくなるヒントを探していきます。
第3章…在宅しか選べない家で起こる「ミニ救急」と家族の凌ぎ方
在宅しか選べない暮らしの中では、いきなり命の危険を感じるような大きな救急だけでなく、その手前の「どうしよう、これって救急車レベルなのかな」と迷う場面が、何度も何度も顔を出します。はっきりと重症と言い切れないけれど、いつもの状態からは明らかに外れている。そんな中途半端な不調を、ここでは「ミニ救急」と呼んでみます。
例えば、夜になってからの発熱です。透析の日の夜に、急に寒気と熱が出て、「これは単なる疲れなのか、感染なのか」と家族が判断に迷う場面があります。呼吸が浅く早くなって、胸を苦しそうに押さえている姿を前に、「今すぐ救急車を呼ぶべきか、朝まで様子を見ても大丈夫なのか」と時計ばかり見てしまう夜もあります。シャントの辺りがいつもより赤く腫れているように見えたり、むくみが強くなって体重も急に増えていたりする日には、「また透析で調整してもらえる範囲なのか、それとも緊急の対応が必要なのか」と不安が胸をよぎります。
難病を抱えている人では、呼吸の浅さや痰の絡み、飲み込みの悪さが少しずつ変化していくことが多く、その変化のどこからを「今すぐ対応が必要」と考えるのかが、とても分かりにくいのが現実です。声をかけても反応が鈍い、いつもよりぼんやりしている、立ち上がろうとしてふらつきが強い、といった「いつもと違うけれど、言葉にしにくい違和感」が続くと、家族は心の中で何度も「救急車」という選択肢を出したり引っ込めたりしながら、その場を凌いでいます。
こうしたミニ救急が繰り返されると、家族の側には二種類の辛さが溜まっていきます。1つは、身体的な疲労です。夜中のたびに起こされ、様子を見て、冷やしたり温めたり、水分を勧めたり、トイレに付き添ったりしているうちに、自分の睡眠時間が細切れになっていきます。もう1つは、心理的な負担です。「こんなことで救急車を呼んでいいのか」「また“様子を見てください”と言われるだけではないか」という迷いと、「もし我慢している間に急変したらどうしよう」という恐怖の間で揺れ続けるのは、想像以上に心をすり減らすものです。
救急搬送をくり返した経験のある家族の中には、「病院に運ばれても、点滴をして検査をして『命に別状はありません、家で様子を見てください』と戻されることが多い」と感じている人もいます。そのたびに「また呼んでしまった」「迷惑だったかもしれない」と自分を責める気持ちが芽生え、「今度はよほどでなければ呼ばないでおこう」と踏み留まってしまうこともあります。その一方で、「あの時、我慢せずに呼んでいれば」と悔やむ経験をした人もいて、どちらの記憶も次の判断を重たくしてしまいます。
完全な正解を誰かが教えてくれるわけではない中で、在宅しか選べない家族が出来る凌ぎ方の1つは、「自分たちの家の緊急連絡の筋道を、事前に細くてもいいから作っておくこと」です。例えば、主治医や透析クリニック、在宅医、訪問看護師などに、「どんな症状が出たらまず電話をしていいのか」「夜間や休日の連絡はどこに繋ぐのか」を前もって確認しておくことが挙げられます。具体的な基準や手順は地域や病状によって異なりますが、「迷った時に最初に相談する先」を家族と医療側で共有しておくだけでも、真夜中に一人で抱え込む不安は少し和らぎます。
もう1つ大切なのは、日頃から「いつ、どんな症状が出て、どのくらい続いたのか」「その時どんな対応をしたのか」を、簡単で良いのでメモに残しておくことです。体温や血圧、呼吸の様子、顔色、食事量や尿量など、気になる変化をざっくり書き留めておくと、翌日の受診や訪問時に医師や看護師に状況を具体的に伝えやすくなります。これは、次に同じようなミニ救急が起こった時、「前回はこのくらいで受診してこう言われた」という判断の材料にもなり、家族の迷いを少し減らしてくれます。
家族の中での役割分担も、凌ぎ方の1つです。体調が悪化した本人の傍に付き添う人、電話や連絡を引き受ける人、必要な物品や着替えを準備する人、といった役割を、ざっくりでも良いので共有しておくと、「誰が何をするのか」でバタバタする時間を減らせます。一人が全てを背負うのではなく、「何かあった時は、まずあなたが電話、私は傍についているからね」と声をかけ合えるだけでも、心の負担は変わってきます。
そして何より、「命の危険を強く感じた時は、迷い過ぎないこと」も、とても大切です。胸の痛みや強い呼吸苦、急な意識の低下など、普段と明らかに違う状態を前にした時には、「呼び過ぎかもしれない」という遠慮よりも、「手遅れにしたくない」という直感を優先して良い場面があります。この記事では具体的な医学的判断を示すことは出来ませんが、普段から主治医や地域の相談窓口と話を重ねながら、「これはすぐに救急に」と言えるラインを、一緒に探しておくことが望ましいでしょう。
ミニ救急は、完全に防ぐことは出来ません。それでも、事前の準備や連絡の筋道、家族同士の役割分担、日々の記録と振り返りによって、「毎回ゼロから慌てる」状態から、「前より少し落ち着いて動ける」状態へと、ジワジワと変えていくことは出来ます。次の章では、そうして凌いできた中で、「もう限界かもしれない」と感じた時に、どのドアを叩き、どんな人たちと繋がっていけば良いのかを考えていきます。選択肢が少ない状況でも、「ここに相談していい」という場所が1つ見えてくるだけで、在宅の夜は少しだけ明るくなります。
第4章…限界を感じたときに叩くドア~医療・行政・地域資源との繋がり方~
在宅しか選べない暮らしの中で、「もう無理かもしれない」と感じる瞬間は、何度か波のようにやってきます。体調が不安定な日が続いたり、ミニ救急のような出来事が重なったり、家族の睡眠や仕事がボロボロになりかけたり。そんな時に一番辛いのは、「誰に、どこまで相談していいのか分からない」という感覚かもしれません。ここでは、限界を感じ始めた時に叩いて良いドアについて、少し丁寧に言葉にしてみます。
真っ先に思い浮かべて欲しいのは、主治医や透析クリニック、難病を診てくれている専門医です。診察室ではつい症状の話だけに終始してしまいがちですが、本当は「家でこういうことで困っています」「夜間の不安が強くて、救急車を呼ぶラインが分かりません」といった暮らしの困りごとも、遠慮せず伝えて構いません。医師そのものがすぐに全てを解決してくれるわけではなくても、「在宅医の利用を考えてみませんか」「訪問看護を入れましょう」「病院の相談員に繋ぎますね」と、次のドアを紹介してくれることがあります。医療側にとっても、家でどれだけ綱渡りをしているかを知ることは、今後の治療方針や通院の仕方を考える上で大切な情報になります。
訪問看護や在宅医療のチームに繋がっている場合は、そこも大事な窓口です。日々の様子を近い距離で見てくれている分、「あの人から見て今の状況はどう見えるのか」を聞いてみることが出来ます。「このまま在宅で続けるには、どんな支えを足したら安全だと思いますか」「限界だと感じた時には、どこに相談すれば良いですか」と、こちらの気持ちも含めて話してみましょう。看護師や在宅医は、医療の視点だけでなく、「この地域では、こういう支え方が出来ますよ」という情報も持っていることが多く、行政の窓口やほかの専門職に繋いでくれる役割も担っています。
医療とは別のルートとして、地域包括支援センターや市町村の高齢福祉・障害福祉の窓口も、限界を感じた時に叩いて良いドアです。「うちのケースなんて、もっと大変な人はたくさんいるはず」と遠慮してしまいがちですが、「在宅で支えるのが難しくなってきたと感じています」と一度声を上げることが、支援に繋がる第一歩になります。状況を聞き取った上で、ケアマネージャーの再調整、短期入所やレスパイトの活用、必要に応じて成年後見制度や福祉サービスの見直しなど、いくつかの選択肢を一緒に探してくれることがあります。
病院の中にも、「医療ソーシャルワーカー」「相談員」とよばれる専門職がいます。透析クリニックや難病の専門外来には、医師や看護師とは別に、生活やお金、制度の相談を担当している人がいることもあります。入院中はもちろん、外来の通院中でも、「今後の暮らし方が不安です」と受付でひと言伝えると、こうした相談員に繋いでもらえる場合があります。住宅改修や福祉用具の相談、転院や施設探しが必要になった時の情報提供、行政とのやりとりのサポートなど、家族だけでは手が回らない部分を一緒に考えてくれる存在です。
それでも、「もう家では支えきれない」と感じた時には、その気持ちを誰かに正直に言葉にして良いのだ、ということも忘れないでいて欲しいところです。「在宅で頑張りましょう」と励まされ続けると、まるでそれ以外の選択肢を考えてはいけないような気持ちになるかもしれません。しかし、本当に限界が近づいている時には、「在宅継続」か「どこかに預けるか」という二択ではなく、「取り敢えず数日間だけ休む方法」「一時的に医療側に重心を移す方法」など、中間の選択肢が役立つことがあります。短期入所や医療機関でのレスパイト入院は、その代表です。すぐに見つからないこともありますが、「介護者が疲れ切っている」という事実そのものも、調整の必要な事情として、きちんと伝えて良い情報です。
また、同じような立場の人たちが集まる家族会や当事者会、オンラインの交流の場も、心の限界を少し引き戻してくれることがあります。「うちだけじゃないんだ」と感じられること、「こういうとき、うちはこう凌いだよ」という生の声を聞けることは、専門職からの説明とは別の力を持っています。そこで得た具体的な工夫が、直接自分の家に当てはまらなくても、「この状況を言葉にしてもいい」「弱音を吐いてもいい」と思えるだけで、気持ちの支えになることがあります。
大事なのは、「このくらいで相談してはいけない」と、自分で線を引き過ぎないことかもしれません。制度の側は、どうしても「書類に載った困りごと」を起点に動きます。逆に言えば、家族が声を上げなければ、外からは何も見えないまま時間だけが過ぎていきます。「本当はもう限界に近い」「いつ倒れてもおかしくない」と感じているなら、その感覚こそが、どこかのドアを叩いて良いサインです。うまく言葉にできなくても、「とにかく一度話を聞いて欲しい」と伝えることから始めて構いません。
選択肢が少ない現実は、一夜にして変わるものではありません。それでも、医療・行政・地域の中に何本か細い糸を伸ばしておくことで、在宅の重さは少しずつ変わっていきます。最後のまとめでは、「どこにも入れないから在宅しかない」という状況の中でも、介護を一人で抱え込まないための心構えについて、もう一度全体を振り返りながら整理してみます。
[広告]まとめ…選択肢がなくても介護を一人で抱え込まないために
病院にも長くはいられない。施設にも「難しい」と言われる。気がつけば、自宅だけが残された場所になっている。そんな状況は、本来なら誰かに「おめでとう」と言われるような在宅生活ではなく、「ここしかないから選ぶしかなかった」と感じる在宅かもしれません。その中でも透析や難病を抱えた人たちは、医療と生活の両方が濃く必要になる分、一番、皺寄せを受けやすい立場に置かれています。
家の中では、生活のリズムも、家族の予定も、本人の体調を中心に回ります。通院の日に合わせて仕事を調整し、夜のミニ救急に備えて浅い眠りを続け、いつ体調が崩れても動けるように、心のどこかでずっと緊張をほどかずにいる。そんな毎日を続けていれば、「もう限界かもしれない」と感じるのは当然のことです。それでも、多くの家族は「周りにはもっと大変な人がいる」「これくらいで弱音を吐いてはいけない」と自分を叱咤しながら、ギリギリの綱渡りを続けてしまいます。
この文章で何度も出てきたように、「在宅しか選べない」状況は、家族の努力不足から生まれるものではありません。医療と介護の制度が綺麗に重なり切らない隙間に、一部の人たちが落ちてしまう。その人たちを支える仕組みがまだ十分とは言えない中で、結果として在宅が最前線になっている。それが現実です。本来であれば、病院と施設と在宅が横に繋がり、透析や難病の人たちも自然に行き来することが出来る環境が望ましいはずです。それが整い切っていないからこそ、「在宅を選んだ家族」の肩に、必要以上の重さが乗ってしまっています。
だからこそ、在宅を続ける家族にとって大切なのは、「一人で背負い込まないこと」を、自分に許してあげることかもしれません。主治医や透析クリニック、在宅医や訪問看護、地域包括支援センターや病院の相談員、自治体の窓口、家族会や当事者会。完璧な答えを持っている人はどこにもいないかもしれませんが、「ここに困っている」「これ以上は家族だけでは難しい」と伝えることで、少しずつ支えの糸が増えていきます。何度も断られたり、すぐには解決策が見つからなかったりすることもあるでしょう。それでも、「相談していい相手がいる」という事実そのものが、在宅の重さを少し軽くしてくれます。
また、家の中でのミニ救急との付き合い方を、家族なりに言葉にしていくことも、小さな防波堤になります。「このくらいならまず電話で相談する」「この様子ならすぐに救急を呼ぶ」といった感覚を、主治医や看護師と一緒に確認しておくことで、真夜中に一人で判断を背負う負担は和らぎます。毎日の体調の変化を簡単にメモしておくことは、同じような不調が起きた時に、「前はこう動いて大丈夫だった」という目安にもなり、心の中の迷いを少し減らしてくれます。
在宅しか選べない現実は、すぐには変わらないかもしれません。それでも、その中でどんな風に凌いでいくか、どこに助けを求めて良いのかを知っているかどうかで、見える景色は変わってきます。「うちにはもう在宅しかない」と感じる時こそ、「在宅だからこそ出来る工夫」や「在宅だからこそ繋がれる人たち」に目を向けてみて欲しいと思います。
透析や難病を抱えた家族を支えるということは、長い長いマラソンのようなものです。全力疾走を続ければ、どこかで倒れてしまいます。時々は立ち止まり、誰かに水をもらい、少しだけ荷物を持ってもらいながら進んでも良いのです。選択肢が少ないことは、その家族の責任ではありません。制度や仕組みの隙間の中で懸命に踏ん張っている自分たちに、「良くやっている」と静かに声を掛けながら、必要な時には遠慮なくドアを叩ける自分でいて欲しい。そんな願いを込めて、この文章を締め括りたいと思います。
今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
[ 応援リンク ]
[ ゲーム ]
作者のitch.io(作品一覧)
[ 広告 ]
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。