1年に1度くらい最高のおもてなしを~全介助の高齢者さんと味わう年越し蕎麦~

[ 12月の記事 ]

はじめに…効率もコストも忘れてその人だけの一杯を考えてみる夜

大晦日の夜、テレビからは特番の笑い声が聞こえ、窓の外では冷たい風が街を撫でていきます。そんな中でフワリと立ち昇る出汁の香りは、「今年もここまで来たね」とそっと肩を叩いてくれるような存在かもしれません。年越し蕎麦は、日本人にとってただの麺料理ではなく、1年を静かに振り返り、次の1年に小さな願いを託すための「儀式の一杯」でもあります。

けれど、介護の現場や在宅で全介助が必要な高齢者さんにとって、この一杯は少し事情が違ってきます。自分の手で丼を持ち上げることも、箸で麺をすくうことも、熱々をフウフウと冷ますこともできません。コロナ以降は、介助者が息を吹きかけて冷ますことも難しくなり、マスク越しに温度を計る感覚も当てになりにくくなりました。「熱過ぎても危ない、冷まし過ぎれば伸びてしまう、時間をかければ疲れてしまう」――そんな綱渡りのような一杯になってしまいがちです。

だからこそ現場では、どうしても「安全」「効率」「人手」という現実に押されてしまいます。軽くて割れないプラスチックの器、洗いやすい金属スプーン、必要最小限の盛り付けと介助。命を守るという意味では正しい選択なのかもしれませんが、「1年に1度のご馳走」という視点で見ると、どこか物足りなさが残るのも事実です。「本当は、もっと素敵な一杯を用意してあげたいのに」と、胸のどこかでため息をついたことがある介護者さんも多いのではないでしょうか。

この文章では、敢えてその「本当はこうしたい」を真ん中に据えてみます。コストも効率も一度だけ横に置き、「最低限度」ではなく「最高のおもてなし」を目指す年越し蕎麦を、思い切り理想寄りに描いてみるのが今回のテーマです。華やかな陶器の器、手に馴染む箸、温もりのあるテーブルクロス。そこに、フウフウの代わりにそっと寄り添うスティック型の料理用温度計という新しい味方を加えて、「熱々フウフウ」は失われても、境界ギリギリまで安全に攻める一杯を一緒に考えていきます。

もちろん、現実には人員配置や予算の壁があり、「全部はとても真似できない」と感じる部分も出てくるはずです。それでも、どこか一か所でも「これならうちでも取り入れられそうだ」と思える工夫が見つかれば、その瞬間から年越しの景色は少しだけ変わります。全介助の高齢者さんにも、「今年も、ちゃんと自分のために用意された特別な一杯がある」と感じてもらえるような時間を作るために――そんな願いを込めて、理想に少しだけ寄り添った年越し蕎麦の世界を、ここから一緒に覗いていきましょう。

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第1章…熱々フウフウが封じられた時代に年越し蕎麦はどこまで攻めて良いのか

かつての年越し蕎麦は、「ちょっと熱いね」と笑いながら、家族や職員がフウフウと息を吹きかけてくれる一杯でした。湯気の向こうに見える顔が、少し赤くなっているのも含めてご馳走の内。熱さと香りと、周りの人の温もりがセットになった時間だったと言っても良いかもしれません。

しかし、感染対策が当たり前になった今、その風景はすっかり様変わりしました。マスク越しに味見をすることは避けたい、同じスプーンを何度も使うのも控えたい、もちろん息を吹きかけて冷ますことも出来ない。気がつけば、介助をする側は「触ってみて何となく」「利用者さんの表情を見て」温度を判断せざるを得ない場面が増えています。本当はもう少し熱い方が美味しいはず、でも熱傷や咽込みが怖いから、どうしても控えめの温度に落ち着いてしまう。そんな葛藤を覚えたことのある人も、多いのではないでしょうか。

さらに、配慮が必要な高齢者さんの年越し蕎麦では、ツユにトロミをつけることも少なくありません。トロミがあることで飲み込みやすくなる一方で、熱がこもりやすく、いったん誤った場所に入ってしまうとダメージが大きくなるという怖さも抱えています。中華あんかけの熱さに悶絶したことは皆さん一度はあるでしょう?「熱過ぎても危ない、温過ぎたら今度は伸びてしまう、その上、掴みにくい麺に全介助で時間もかかる」――この三つ巴の中で、介助者はいつもギリギリのところを歩かされています。

現場の空気が「とにかく安全側に寄せておこう」となっていくのは、ある意味では自然な流れです。熱々を避ける、麺の量を減らす、早めに切り上げる。どれも命を守るためには大切な判断ですが、その積み重ねの先に、「年越し蕎麦って、本当にまだご馳走と言えるのかな……」という寂しさが、ジワリと残ってしまうこともあります。最低限の栄養と水分は摂れている、事故も起こしていない、それでも「1年の締め括りとしては、どこか物足りない」という感覚が消えないのです。

では、今の時代において、年越し蕎麦はどこまで攻めて良いのでしょうか。熱々フウフウはもう戻らないとしても、香り立つ湯気や、器の手触りや、舌の上でフワッとほどける麺の感触を、出来るだけ損なわずに届けることは出来ないのか。コストや効率から一端離れて、「年に1度くらいは、この方のためだけの最高の一杯を目指してもいいのではないか」と、あえて問い直してみる必要がありそうです。

この章で見つめたいのは、「危ないから辞める」と「危ないのを承知で無理をする」のどちらでもない、第三の道です。温度を感覚ではなく道具で確かめること、伸び切る前に口に運べるように介助の流れそのものを工夫すること、そして何より、全介助であっても「自分のために用意された特別な一杯だ」と感じてもらえるように、器や箸、テーブルの景色まで含めて整えていくこと。その可能性を探るために、次の章から、晴れの膳としての年越し蕎麦を、もう一度ゼロから組み立てていきます。


第2章…1年に1度の晴れの膳~器と箸とテーブルを本気で選び直す~

年越し蕎麦というと、多くの施設や在宅介護の場面では、まず「割れないこと」「軽いこと」「片付けやすいこと」が優先されがちです。プラスチックの丼に、ステンレスのスプーンやフォーク。介護用の滑り止め付きのお箸が添えられ、トロミの付いたツユが丁寧に注がれていく。安全性や業務効率を考えれば、とても理にかなった選択ですし、日常の食事としては何も間違ってはいません。

ただ、大晦日という特別な日の年越し蕎麦を前にした時、その景色はどうでしょうか。テレビでは華やかな歌番組やカウントダウンが流れ、家族や職員は「いよいよ今年も終わりだね」と笑い合っている。その横で、全介助の高齢者さんだけが、いつものプラ食器と金属スプーンで「とりあえず安全な一杯」を差し出されているとしたら、どこか置き去りにされたような寂しさが滲んでしまうかもしれません。本当は、その人だって「自分のために選ばれた晴れの膳」を前にしたいはずなのです。

そこで敢えて、年に1度だけは発想をひっくり返してみます。割れにくさやコストではなく、「この方にとって、口当たりが一番やさしく、見た瞬間に心が華やぐ器はどれだろう」と本気で考えるのです。重みのある陶器の丼は、手に持つことは出来なくても、テーブルの上でしっかり見目として安定してくれます。縁に指をそっと添えると、ほんのりとした熱が伝わり、「ここにちゃんと温かい料理がある」という安心感が生まれます。木地の温もりが残るお椀や、穏やかな色の釉薬がかかった器なら、それだけで年越しの舞台が一段明るくなります。

箸も同じです。先端がザラザラした「掴みやすさ優先」の箸は、日常使いとしては頼もしい道具ですが、口に入った時の違和感や、舌に当たるざらつきが気になる方もいます。年越しだけは、滑らかな塗り箸や、木の温もりが感じられる箸を選んでみるのも一つの贅沢です。自分で持てない方であっても、介助者の手を通して、箸先が口に触れる瞬間の感触は確かに伝わります。金属スプーンのひやりとした冷たさではなく、木のスプーンの柔らかさが、口元の緊張をすっと和らげてくれることも少なくありません。

テーブルの景色も、晴れの膳作りには欠かせない要素です。いつものビニールマットのままでも食事は出来ますが、ここに一枚、落ち着いた色味のテーブルクロスやランチョンマットが敷かれるだけで、空気がガラリと変わります。お正月を先取りするような柄でも、無地でさりげなく季節の色を取り入れたものでも構いません。箸袋に小さな模様が入っていたり、可愛い箸置き、蕎麦猪口の隣に小さな薬味皿が添えられていたりすると、「自分だけの席」がそこに用意されたような喜びが生まれます。

もちろん、病院や施設で器や箸、クロスを一人一人専用で揃えるとなれば、現実にはコストや保管場所の問題が顔を出します。それでも、全てを一度に変える必要はありません。例えば、「この方は今年、初めて施設で年越しを迎えるから」「いつも麺類を楽しみにしてくださるから」といった理由で、まずはお一人だけの“記念のセット”を用意してみるのも良いでしょう。その経験が職員の心に残れば、翌年以降、少しずつ輪が広がっていくかもしれません。

全介助の高齢者さんは、自分で器を選ぶことも、お店で箸を手に取ることも出来ません。その代わりに、私たちが「どんな器と箸なら、この一杯を心から誇れるだろう」と想像し、選び取ることが出来ます。年に1度の年越し蕎麦だからこそ、最低限ではなく「これ以上はない」と言える晴れの膳を目指してもいいのではないでしょうか。そうして整えられた器とテーブルの上に、次の章で登場する一つの小さな道具――料理用のスティック型温度計がそっと加わることで、「見た目も中身も攻めながら安全を守る一杯」が、少しずつ現実のものになっていきます。


第3章…温度計が作る攻めても安心の境界線~トロミ付き年越し蕎麦の新ルール~

器と箸とテーブルを晴れの舞台として整えたら、次に向き合いたいのが「熱さ」との付き合い方です。トロミのついた年越し蕎麦は、見た目には湯気も落ち着き、「そろそろ大丈夫かな」と感じても、ひと口、口に含んでみると想像以上に熱かった、ということが少なくありません。しかも、全介助の高齢者さんの場合、自分のタイミングで器を持ち上げたり、フウフウと息を吹きかけて調整したりすることはできません。口元に運ばれてきたひと口を、そのまま信頼して受け取るしかないのです。

コロナ以降、介助をする側も、以前のように自分の息で冷ますことや、同じスプーンで味見をすることが難しくなりました。湯気の見た目の感覚や、手の平で触った温度だけを頼りに「きっとこれくらいなら大丈夫」と判断せざるを得ない場面も増えています。その結果、怖さが先に立ってしまい、必要以上にぬるくしてしまったり、逆に見た目にだまされて熱いまま口元へ運んでしまったりと、どちらに転んでも納得しきれない一杯になりがちです。

そこで小さくても頼もしい味方になってくれるのが、料理用のスティック型デジタル温度計です。先が細い金属の棒になっているタイプで、丼の中央にそっと差し入れれば、とろみのついたツユの「中心温度」を教えてくれます。麺は自然と下に沈みやすく、上だけを見ても具合は分かりません。だからこそ、非接触の表面温度だけを測る器具ではなく、「中までしっかり届く」この形が向いているのです。

理想を語る今回の記事では、この温度計をフロアやユニットで一本きりの共有品にするのではなく、「その人専用で一本」という世界を思い切って描いてみます。年に一度の晴れの膳には、その人だけの器と箸、そしてその人の一杯だけを測る温度計がそっと添えられている。介助者は配膳の前に、まずその方の丼の中心に温度計を差し入れ、「今日はこの辺りの温度が、この方にとって一番安心して美味しく食べられるラインだね」と、数字を共通言語として確認し合うのです。

もちろん、具体的に何度が正解かは、人によっても施設によっても少しずつ違ってくると思います。トロミの有無、飲み込みの状態、これまでの経験などによって、「ここを越えると危ない」「ここまで冷ますと今度は美味しさが半減してしまう」という境界線は変わってきます。だからこそ大切なのは、「何度にしなければならない」と一方的に決めつけることではなく、「この方にとってのちょうど良い温度帯」を、看護職や言語聴覚士、介護スタッフたちが話し合いながら見つけていく姿勢です。

温度計は、その話し合いを支える「物差し」の役割を果たします。感覚だけに頼っていた頃は、「まだ熱そう」「いや、もうぬるいんじゃないか」と、職員同士の意見がぶつかることも少なくありませんでした。ところが、数字が一つ入るだけで、「先ほどと同じくらいまで冷ましてから介助を始めましょう」「この方は他の方より少し低めを目指そう」と、落ち着いて共有出来るようになります。フウフウの息の代わりに、温度計の数字が「そろそろ一口いきましょう」と合図を送ってくれるイメージです。

また、トロミ付きの年越し蕎麦では、温度をほんの少し低めに意識しておくことも大切なポイントです。トロミがある分だけ熱が逃げにくく、いったん喉の奥に入り過ぎてしまうと、火傷や誤嚥のダメージが大きくなりがちです。最初の一口を「少し物足りないかな」と感じるくらいの温度から始めて、表情や飲み込みの様子を見ながら、適切なペースと量を探っていく。その判断を支えてくれるのも、テーブルの端に控えめに置かれた小さな温度計なのです。

年に一度の豪華な年越し蕎麦というと、つい具材の豪華さや器の美しさに目が行きがちですが、「安心して口を開けられる温度」が守られていることこそが、最高のおもてなしの土台になります。全介助の高齢者さんは、自分で熱さを確かめることも、「ちょっと待って」と手で制止することも難しい場合があります。その代わりに、介助をする私たちが温度計を手に取り、「今日はこのラインまでしっかり冷まして、一番おいしいタイミングで口腔に届けよう」と意識することで、熱々フウフウの時代とは違う形の信頼関係が生まれていきます。

器と箸とテーブルクロスで目に見える景色を整え、料理用温度計で目には見えない安心の境界線を描く。そうやって外側と内側の両方から支えられた一杯だからこそ、「安全に時短して達成する」年越し蕎麦が実現していきます。次の章では、この一杯を実際に口元へ運ぶ瞬間――全介助ならではの介助の流れや声かけを通して、「最高のおもてなし」がどのような形で完成していくのかを、もう少し具体的にたどっていきます。


第4章…全介助だからこそ出来る最高のおもてなし~時間を奪わず安全に攻める介助~

ここまで整えてきた年越し蕎麦の舞台に、最後に乗せたい主役があります。麺が噛めない方、啜れない方、普段からペースト食やゼリー食を召し上がっている方のための「特別な一皿」です。どんなに器や箸、温度が完璧でも、当の本人が麺そのものを食べられないのであれば、「いい匂いだけを眺めて終わり」という、少し切ない年越しになってしまいます。そこで4章では、あえて“麺の形”にこだわるのをやめて、「蕎麦の香りと出汁の旨味を、別の形で丸ごと味わってもらう」発想に踏み出してみます。

ヒントになるのは、日本に昔からあるそばがきや、世界のテリーヌ文化です。そばがきは、そば粉を熱湯で練り上げた、柔らかい団子のような料理で、元々、噛む力がそれほど強くなくても楽しめる一品でした。テリーヌは、具材をなめらかにして型に詰め、冷やし固めた料理で、ナイフでそっと切り分けると、味や色の層が美しく現れます。この2つの発想を年越し蕎麦に重ねると、「噛めなくても啜れなくても、香りや余韻まで楽しめるペースト食」が、グッと現実に近づいてきます。

例えば、こんな一皿が考えられます。そば粉と出汁を使って、なめらかなそばがき風のペーストを作ります。舌で軽く潰せるくらいの柔らかさに整え、器の中央にふわりと盛り付けます。その周りを囲むように、トロミをつけた温かい蕎麦ツユを、少しだけ深さのある器に注ぎます。上には、海老天やかまぼこ、ほうれん草などの年越し蕎麦らしい具材を、それぞれ別々に裏ごししたペーストで小さくあしらいます。口に入れると、最初に蕎麦の香り、その後で出汁と醤油のうま味、最後に天ぷらや野菜の風味がじんわりと広がる――そんな「啜らない年越し蕎麦」があっても良いのではないでしょうか。

もう一つは、ゼリー食の方に向けた「年越しそばジュレ」という発想です。よく冷ました蕎麦ツユに、適切な量の葛粉を加えて固め、スプーンで崩して食べられる軟らかいジュレに仕立てます。その上に、そば粉を使ったごく柔らかいムースを少量のせ、さらに別の小さな器には、柚子の香りを移した透明なジュレを添えます。一口ごとに、蕎麦の香りの層、出汁の層、柑橘の香りの層が少しずつ混ざり合い、「ああ、これは紛れもなく年越し蕎麦の味だ」と感じてもらえる組み立てです。麺の形こそ無くなっても、香りと余韻はしっかりとそこに残ります。

大切なのは、「ペーストだから」「ゼリーだから」とあきらめて、何もかもを1つに混ぜてしまわないことです。確かに、その方の嚥下状態によっては、完全に均一にしなければならない場合もありますが、それでも工夫の余地はあります。味を一種類だけにせず、出汁の部分、蕎麦の部分、具材の部分と、香りや色合いを可能な範囲で分けておく。それぞれを少しずつスプーンですくいながら、「今度は海老のところにいきますね」「ここはお葱の香りがしますよ」と声をかけていくだけでも、味わいの世界はグンと豊かになります。

そして何より忘れてはならないのが、蕎麦アレルギーへの配慮です。蕎麦を使った料理は、麺であってもペーストであっても、アレルギーのある方には絶対に避けなければなりません。その場合は、うどんや素麺、あるいは大豆や野菜を使った別のペースト料理に、「年越し」を感じる出汁や盛りつけを載せてあげるのも一つの道です。大晦日の特別感を支えているのは、実は麺の種類ではなく、「今年もあなたのために、特別な一皿を用意しましたよ」という気持ちそのものだからです。

噛める人には麺を、啜れる人には丼を。そうでない人には、蕎麦粉や出汁、具材の香りをテリーヌやジュレのように組み替えた一皿を。誰に対しても、「あなたのための年越し蕎麦は、ちゃんとここにあります」と言えるようにすること。それが、見栄えを整え、温度を測り、危険を避けながらも、「年に1度の最高のおもてなし」を本気で目指すということなのかもしれません。次のまとめでは、この三本立ての年越し蕎麦の世界を振り返りながら、「最低限度保障」ではなく「ご褒美の一杯(あるいは一皿)」という視点で、改めて大晦日の食卓をまとめ直してみたいと思います。

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まとめ…最低限ではなくご褒美の一杯を~年越しだけは夢を見る権利がある~

大晦日の年越し蕎麦は、日本中の食卓にそれぞれの物語を連れてきます。家族揃ってテレビを見ながらズズッとすする人もいれば、仕事帰りに立ち食い蕎麦でサッと年を越す人もいるでしょう。そして、介護の現場や在宅で全介助を受けて暮らす高齢者さんにとっても、本来は同じように「自分だけの一杯」があっていいはずです。

けれど現実には、「安全」「効率」「人手」という事情の中で、どうしても年越し蕎麦が“特別”ではなく“いつもの延長”になってしまいがちです。熱過ぎると危ないから、麺は少なめに、ツユはぬるめに。器は割れないプラスチック、道具は金属スプーン。命を守るという意味ではとても大切な配慮ですが、「今年もよく頑張りました」と称える晴れの膳として見ると、どこか物足りなさが残ってしまうことも否めません。

そこで今回は、敢えてコストや手間を一度わきに置き、「もし制限を外せるなら、どこまで最高のおもてなしを目指せるだろう」という視点で年越し蕎麦を組み立ててきました。1章では、感染対策やトロミの問題によって、従来の熱々フウフウが封じられた今の状況と、その中でどこまで攻めて良いのかという問いを見つめ直しました。2章では、プラ食器と金属スプーンから一歩踏み出し、華やかな陶器の丼や木の箸、季節感のあるテーブルクロスで、「晴れの膳」としての見栄えと手触りを整える道を描きました。

3章では、小さな料理用スティック温度計を新しい味方として迎え、「熱過ぎても、ぬる過ぎても残念」というジレンマを、数字という物差しで支える発想を紹介しました。フロア共有の一本ではなく、「その人専用で一本」という理想の世界を敢えて言葉にしながら、具体的な温度の数字よりも、「この方にとってのちょうど良い温度帯を、チームで話し合って決めていく」あり方を大切にしたいという思いを込めました。フウフウ出来ない時代だからこそ、温度計が静かに「そろそろ一口いきましょう」と合図してくれる年越し蕎麦があっても良いのではないでしょうか。

そして4章では、麺が噛めない方、啜れない方、ペースト食やゼリー食が日常の方にも、きちんと年越し蕎麦の席を用意するための新しい料理案を考えました。そば粉と出汁で作る滑らかなそばがき風ペーストに、具材ごとのペーストを添えた一皿。出汁のジュレとそばムース、ゆず香る透明ゼリーを重ねた「年越し蕎麦ジュレ」。麺の形は失われても、蕎麦の香りや出汁の余韻、具材の表情を、出来る限り多彩に残そうとする試みです。条件によっては完全なペースト一択になる方もいますが、それでも「一色のベタっとした味」で終わらせず、可能な範囲で味や香りの層を分けてあげることで、「自分なりの年越し蕎麦」を楽しんでもらえる余地はきっと残されています。

もちろん、ここに書いたことの多くは、すぐに全ての現場で実行できる魔法のレシピではありません。器を揃えるにも、専用の温度計を用意するにも、ペーストの工夫を重ねるにも、時間と費用と人の手がいります。それでも、理想を一度きちんと言葉にしておくことで、「この一部ならうちでも出来そうだ」「来年は、あの方だけでも特別セットを用意してみよう」といった、小さなチャレンジが生まれてくるかもしれません。

年に一度の大晦日くらいは、「最低限食べられれば良い」というラインではなく、「この一杯(この一皿)を用意出来て良かった」と介助する側も胸を張れるような年越し蕎麦を目指してみたいものです。麺を啜る人にも、ペーストを口に含む人にも、ゼリーを少しずつ味わう人にも、「今年も自分のための年越しが、ちゃんとここにあった」と感じてもらえるように。そんな願いをこめて、あなたの現場やご家庭なりの“最高のおもてなし年越し蕎麦”を、少しずつ形にしていってもらえたら嬉しく思います。

今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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