君は二人だけの子じゃないよ30人分の『幸せになってね』を纏って生まれた君へ~

[ 家族の四季と作法 ]

はじめに…普通の子じゃなくて家中の真ん中にいる君へ

君はきっと、自分のことを「ただの子ども」だと思っているかもしれないね。朝は眠いし、時々元気が出ない日もあるし、大人の言うことにイラっとする時だってある。泣きたい日もあるし、一人にして欲しい日もある。それってすごく普通のことだよね。どこにでもいる子、って思うかもしれない。

でもね、本当は君は「どこにでもいる子」なんかじゃない。君は家中の真ん中に立っている、たった一人の大事な人なんだよ。君の周りには、お父さんとお母さんがいる。おじいちゃんとおばあちゃんがいる。ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんがいる。その上の世代まで目を登らせていくと、君が生まれるまでに関わった大人は、ざっと数えても30人分くらいいると言われることがある。これは「30人が同じことを言う」という意味じゃなくて、「30人それぞれが、自分だけの願いを君に届けようとしている」という意味なんだ。

その想いはね、「元気でいなさい」だけじゃないんだよ。「よく食べて欲しい」「寂しくないでいてほしい」「自分を嫌いにならないで欲しい」「自分の歩き方で生きてほしい」。どれも少しずつ中身が違う。そして驚くことに、その1つ1つは、けっして軽いものじゃないんだ。特に年上の世代になればなるほど、言葉にしないで胸に仕舞ってあることが多い。普段は多くを語らないひいおじいちゃんやひいおばあちゃんでも、君と会った日のことをずっと覚えていたりする。「あの子が私の手を握ってくれた」「『おいしいね』って笑った」。そういう小さな一場面を宝物みたいに抱えて、何年経っても忘れないで生きている人がいるんだよ。

たとえ年をとって、顔や名前がすぐには出てこなくなったとしても、心の奥では、その子を大切に思った温かさだけは生きている、と信じている人たちがいる。君の手の温もりや、ほっぺの柔らかさや、「大好きだよ」と伝えた時の安心した顔。その記憶は、頭で整理する記録ではなくて、体ごと残る感情として続いていく。そういう愛し方をする人も、この世界にはちゃんといる。君には、そういう愛も流れてきている。

でも、ここで1つだけ難しいことが生まれるんだ。人がたくさんいればいるほど、想いの数も膨らむよね。お父さんとお母さんにはお父さんとお母さんの想いがある。おじいちゃんとおばあちゃんにはまた別の願いがある。ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんにはさらに違う祈りがある。そしてその人たちは、君だけを見ているわけじゃなくて、兄弟、従妹、またその子どもたち……と、どんどん人が増えていく。すると、つい比べたくなってしまう。「あの子はよく気がきく」「この子はとても元気」「あの子は頭がいい」。そういう言い方は、言っている方は褒めているつもりでも、聞いている方の胸には、スッと冷たいものが入ってしまうことがあるんだ。まるで見えない小さな刃物みたいに。

本当はね、君は「誰かと比べるための子」じゃない。君は、君だけの顔、君だけの声、君だけの歩き方を持って生まれてきた、一人の人なんだよ。だから本当は、大人が君に渡す言葉は「〇〇ちゃんは~なのに」ではなくて、「今日の君はこんな風に頑張っていたね」「今日の君の笑顔、私好きだったよ」という風に、君だけに向けた温かいものの方がいい。たとえ短いひと言でもいいから、たとえ上手く言えない形でもいいから、その瞬間の君だけを見つめて手渡していく言葉が、一番最後まで心に残る。

今回ののお話は、何も大人だけのために書いているわけじゃない。これを読んでいる君に知って欲しいことがある。君の周りには、黙って見守る人、心配し過ぎて口が強くなる人、褒めたりはしゃいだりするのが大好きな人……いろんな大人がいるよね。その人たち全員の声がときどき入りまじって、耳がつかれる日もあると思う。でもそれは「君がわるいから」じゃない。むしろ逆で、それくらいたくさんの心が、君ひとりに向かって流れこんでいるということなんだ。

これから続くお話では、その1つ1つの想いを、そっと分けて見ていくよ。一番上の世代の温もり。毎日の小さな触れ方に込められる願い。比べられることで生まれる寂しさ。そして、「今この瞬間の君」をちゃんと見ようとする力のこと。最後には1つ、大事な約束を伝えたい。君は30人分の期待を、ぜんぶ引き受けなくていいんだよ。これは、君の心を守るための約束なんだ。

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第1章…名前が出てこなくなっても愛は消えない~一番上の世代が胸に抱き続ける温かさ~

ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん。もっと上の世代も含めて、家の一番古いところからゆっくりと流れてくる気持ちは、とても静かで、でもすごく深いものです。普段は大きな声では言いませんし、「〇〇しなさい」「こうあるべきだ」なんて細かいことを言わない人も多いかもしれません。だから、外から見ていると「緩い」「何も考えてないのかな」と思われがちです。

でも本当は違います。あの世代の愛の出し方って、賑やかな言葉ではなくて、心の底にそっとしまっている火みたいなものなんです。

例えば、こういう場面があります。年を重ねて物忘れが増えて、目の前の人の名前がすぐに出てこなくなることがあります。「この子は……ええと、誰だったかな?」と首を傾げることもあるでしょう。周りにいる大人は少し切なくなるし、子どもはびっくりしてしまうかもしれません。

でもね、そこで終わりではありません。その人の中には「この子を大事に思っている」という気持ちそのものが、ちゃんと残っていることがよくあります。名前が言えなくても、手は温かく君の手を包もうとする。ほっぺを見て、撫でたいような顔になる。目尻が優しく下がる。「よく来たねぇ」と声の調子がフワッと柔らかくなる。あの柔らかさは、作り物ではありません。

つまり、頭の中にしまってある情報が少しずつこぼれていっても、「この子は大切だ」という感情そのものは、体に沁み込んだ灯りみたいに残ることがあるんです。君と手を繋いだ感覚。君の重さを膝に乗せた時の安心。君が笑ってこちらを見た瞬間の嬉しさ。そういうものは、ただの記録ではなくて、その人自身の生きる力と混ざり合って残ります。これは「覚えている」というより「感じている」に近いものです。

そして、その「感じている」は、実は片側だけでは生まれません。君が手を握ったこと。君が「また来るね」と言ったこと。君が小さな声で「大丈夫?」と聞いたこと。そういう小さな触れ合いが、何度も少しずつ積み上がることで、温かい感情は燃え続けます。

こまめに会うことが気持ちを起こす

人と人の間の温もりは、1回会っただけではなかなか形になりません。時々顔を見せる。季節が変わるたびに声を聞かせる。短い時間でも傍に座る。その積み重ねが、心を呼びさます切っ掛けになります。

「〇月に一緒におやつを食べた」「〇月に一緒に散歩した」「〇月に肩を擦ってくれた」。そういう“いつも”の場面は、写真みたいにたくさん並んでいきます。そして、その1枚1枚が、上の世代の胸の中にそっと貼られていくんです。

この「貼られた写真」は、実はとても長持ちします。何年経っても、「この子はあの時、私の手をギュッとしてくれた子だ」「私のことを見て笑ってくれた子だ」という安心の灯りとして残ります。だから「また来てくれた」というだけで、その人の顔が一気に綻ぶのです。体がしんどい日でも、その一瞬だけは嬉しそうになることがあります。それは、ただ礼儀として笑っているのではなくて、ちゃんと心が動いている証拠なんです。

「可愛いね」の中にある祈り

一番上の世代が口にしやすい言葉ってすごくシンプルです。「可愛いね」「元気かい」「大きくなったね」。たったこれだけの言葉のために、わざわざ足を動かして、腰を上げて、ゆっくり立ち上がって、君の顔を覗き込みにくることがあります。

これは、ただ成長を眺めて楽しんでいるだけではありません。「この子は今日も生きて目の前にいる、ああ良かった」という安心。「どうか明日も温かく過ごせますように」という祈り。それが短い言葉に丸ごと詰まっているから、言葉は短いのに、とても重いのです。

ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんの世代にとって、「無事でいてくれること」はそれだけで既にご褒美です。難しい勉強ができるとか、偉いことをする、とかではなくて、ただ今日ここにいてくれる。それだけで「ありがとう」と思っているのです。ここには、長い人生で見てきたいろいろな別れや、さみしさや、耐えてきた時代の記憶が静かに影のように重なっています。だからこそ「無事でいてくれるだけでうれしい」という言い方になるんです。

ひいじいちゃんはねとかひいばあちゃんはねと語りたがる理由

君と会った後、上の世代の人が周りの大人に同じ話を何度もすることがあります。「今日はあの子がね、ちゃんと“おいしい?”って聞いてくれたんだよ」「手ぇ温かかったよ」。それを、何回も、何回も。

これは自慢とは少し違います。自分の中に生まれた温かさを、ちゃんと誰かに残したいからなんです。「私はこの子を大切に思っているよ」という証明を、周りの人に手渡しておきたい。そうやって、気持ちを未来にバトンみたいに繋ごうとしているのです。

面白いのは、そのバトンが、君に直接届くこともあるところです。後になってから、大人が君にこう言う瞬間があります。「ひいおばあちゃんね、あなたのこと、いっつも話してたんだよ」。その一言を聞いた時、君はきっと知るはずです。自分は見守られていたんだ、と。ちゃんと大事にされていたんだ、と。

つまり、一番上の世代の想いは、まっすぐ1本線で届くこともあるし、ゆっくり遠回りして別の大人から届くこともあるんです。どちらにせよ、その想いは、確かに存在しています。

こうして見ると、一番上の世代の温かさは、賑やかではないし、教科書みたいに分かりやすい形でもありません。でも、ものすごく深いところで君を抱きしめています。「この子がここにいてくれることが、ありがたい」。その気持ちは、名前を言い間違える日が来ても、忘れたフリをしなければいけないくらい体が辛い日が来ても、それでも消えないで残ることがあるんです。

その静かな灯りは、まさに家そのものの土台みたいなものです。君は、その土台の上に立っているんだよ。


第2章…愛は1回の言葉じゃ足りない~こまめな振舞いが君の心に残るということ~

大好きだよ、と1回言ってもらうことは、とても嬉しいことです。でも、人の心に本当に残るものは、1回の大きな言葉よりも、普段の小さな振舞いの方です。よく顔を見ること。短い時間でも傍にいること。寒くないかと上着を掛けてくれること。「ご飯、ちゃんと食べた?」と声を掛けてくれること。そういう、少しずつの積み重ねが、ゆっくり、ゆっくり、その人の「本気」を形にしていきます。

この「こまめさ」は、とても正直です。嘘がつけません。だからこそ、温かい積み重ねは、安心の記憶として君の中に残りますし、逆に冷たい積み重ねは、寂しさとして残ってしまうこともあります。

やさしさは繰り返しの形をしている

人は、たまに思いきり優しくなることができます。例えば誕生日、入学の日、特別なお祝い。大きいプレゼント、大きい言葉、「君は家族の宝なんだよ」という真っ直ぐなメッセージ。もちろんそれも大切です。その1日は一生覚えていたりもします。

でも、実は心の奥に一番効いてくるのは「普通の日のこと」です。何もない夕方に「おかえり」と言われたこと。テレビを見ながら肩を揉んでもらったこと。こぼしたジュースを一緒に噴いてくれたこと。泣いた時、話を最後まで遮らず聞いてくれたこと。こういう“普通”が、何回も、何十回も重なっていくと、子どもは「私はここにいていいんだ」と心から思えるようになります。

「私はここにいていいんだ」と感じられること。これは、どんなご褒美よりも強い支えになります。明日ちょっとぶつかったくらいでは折れない、しなやかな土台になります。

やさしさって、ドラマチックな1回ではなくて、繰り返しの形をしているんです。

ため息のくり返しもちゃんと伝わってしまう

ここで、少し耳の痛い話もしておきたいです。大人が「本気で大切に思っている」つもりでも、毎日の振舞いの方が、子どもにはそのまま届きます。

例えば、かけられる言葉がいつも注意とダメ出しだけ。「なんでそんなことするの」「また散らかしたの」「ちゃんとしなさい」。目が合うたびに困った顔をされる。声を掛けるたびに深いため息。そういう小さな反応のくり返しもまた、子どもの胸に積もります。

その積もり方はとても静かで、誰も気づきにくいのですが、確実に形になります。「私は迷惑なのかな」「喜ばれてないのかな」という気持ちとして、ゆっくり沈んでいくのです。

ここで大切なのは、「大人が悪い」と言いたいのではない、ということです。大人にも、疲れる夜があります。忙しい日があります。仕事でくたくたになって、家ではもう元気がなくて、笑顔どころじゃない日だってあります。もちろんあります。人間だから当然です。

ただ、子どもはそこまで想像できない。大人のくたびれを、自分のせいにしてしまうんです。「私がいるから疲れてるのかな」と、何も悪いことをしていなくても思ってしまう。これは、大人が思っている以上に、よく起きます。

つまり、なんでもない日の繰り返しは、優しさとしても、寂しさとしても、両方そのまま心に溜まっていく、ということです。

こまめに気にするという愛し方

ここでとても大事な考え方があります。「完璧に優しい人になる」ことは、誰にもできません。でも「こまめに気にする」ことは、誰にでも少しずつできます。

「おかえり」「ただいま」の一言を、今日は声に出してみる。
「寒くない?」と膝掛けをちょんと渡してみる。
「今日、頑張ったこと1個教えて」と聞いてみる。

そういう、すぐ終わる短い触れ合いは、実はとても強い絆になります。大きな説教でもなく、長いお説教でもなく、ただ「あなたの今日をちゃんと見たい」という、合図です。

この合図をこまめに出すことは、君の心に「私はちゃんと見てもらえている」という感覚を作ります。そしてこの感覚は、年齢が上がっても残ります。小学生の時に感じたあの安心感が、中学生、高校生、大人になっても、なぜか芯のところに残っていることがあります。それくらい、こまめさは強いのです。

触れない日があってもやり直しは何回でもできる

さらに、ここは声を大にして言いたいのですが、うまくできない日があっても大丈夫です。今日はイライラしてしまった。つい強い声を出してしまった。顔も見ずに「後にして」と言ってしまった。そんな日はいくらでもあります。

その後で、「さっきはごめんね。疲れててさ。でもあなたのことは大好きだよ」と言い直すことは、何回やってもいいんです。後からでもいいんです。やり直しは、繰り返していいんです。

むしろそのやり直しこそが、「あなたは大事」という確かなメッセージになります。これは、子どもの心の中に、「大人も失敗するけど、それでも私を大切にしてる」という現実として残ります。1つの安心の塊として、後から思い出せるものになります。

ここまで読んできて、君はもしかしたらこう思ったかもしれません。「私、そんなに大切にされてる感じがしない時もあるよ」と。正直な気持ちだと思います。それも本当だよね。大人の側も、こう思っている人がいるはずです。「私、ちゃんと出来てる自信がない」と。

でもね、ここで伝えたいのは、“愛というのは、毎日ちょっとずつ続けるものだよ”というだけじゃありません。“毎日のちょっとずつは、後からちゃんと形になるよ”ということなんです。

君がふとした時に思い出す「あの人はいつも私に毛布かけてくれたな」「あの人はちゃんと話を最後まで聞いてくれたな」という記憶。それは、君がこれから先、何度躓いても立ち上がろうとする時の足場になります。静かで、見えないけれど、強い足場です。

つまり、こまめな振舞いは、その場だけのものではなくて、君の未来の心にまで届く力を持っているんです。これは、お金でも賞状でも置き替えられない、とても大切な贈り物です。


第3章…比べっこはナイフになる~あの子との違いより君だけに渡したい言葉を選びたい~

子どもは一人一人違うのに、家の中にはたくさんの子どもがいます。兄弟、従妹、ハトコ。曾孫まで見える世代になると、その人数はあっという間に膨らみます。上の世代、例えばおじいちゃん・おばあちゃん、ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃんにとっては、それぞれの子どもたちは「みんな可愛い」です。皆、自分の宝です。それは間違いありません。

ただ、ここでこっそり生まれてしまう問題があります。人数が増えるほど人は自然に比べてしまうということです。

「あの子は元気いっぱいで、人見知りしないんだよ」
「こっちの子は頭の回転が早くてね」
「こっちの子は優しいから助かるんだよ」

言っている方は、褒めているつもりなんです。「他所の子より上だ」と言っているわけじゃなくて、「私にはこう見えて、とても愛しい」という気持ちを話しているだけの場合も多いんです。特におじいちゃん・おばあちゃん世代は、この言い方が本当に多い。「あの子はこういう子でねぇ」と、うれしそうに語る。あれは本気の悦びです。

でもその言葉は本人の胸にまっすぐ刺さることがある

その場に、比べられている子ども本人がいたとしたら、どう聞こえるでしょうか。

「あなたは“やさしい子”だから助かる」
この一言は、やさしく聞こえる半面、「私はずっと優しくしていないと喜ばれないのかな」という重さにもなりえます。

「この子は頭がいいんだよ」
これは、褒め言葉のつもりでも、「じゃあ、テストで間違えたらもうがっかりされるのかな」という不安に変わることがあります。

「この子はよく手伝ってくれるの。偉いよ」
これも、「わたしが手伝わなかった日は、もう偉くないの?」という小さなトゲになることがあります。

子どもは、大人が思うよりもずっと真面目です。大人が軽い気持ちで言ったことを、「これが私の役目なんだ」「これが出来ない日は、私はダメなんだ」と、真っ直ぐ受けとってしまうことがあります。言葉がやさしい顔をしていても、その形の尖り方次第では、心の内側をスッと切ってしまうことがあるんです。まさに小さな刃物のように。

そしてもう1つ、もっと厄介なことがあります。比べる言葉は、世代を跨いで残るということです。

「〇〇ちゃんは小さい頃から気が利く良い子だったよ」
この思い出話が十年経ってからも語られると、今度は次の世代の子どもがそのお話を聞くことになります。「その子と比べて、自分はどうなんだろう」と勝手に背筋を伸ばしてしまう。まだ何も比べられていないのに、自分で自分を比べ始めてしまう。

つまり、1つの言葉が長い時間を歩いて、まだ小さな子のところに届くことがあるんです。褒めたつもりの言葉なのに、それが他の子には「頑張らなきゃ」「負けちゃいけない」「私はこれがない」と聞こえてしまうことがある。これがとても怖いところです。言葉は空気みたいにどこまでも行くから、言った人の目の前にいない子にも影響してしまうんです。

家族の中の役割りは本当はいらない

比べる場面で、よく一緒に出てくるのが「役割り」です。家族の世界の中で、子どもにラベルを貼ってしまうことがあります。「しっかり者」「ムードメーカー」「頭脳派」「癒し担当」。まるでグループのメンバー紹介みたいに、キャッチコピーで整理してしまう。

一度ラベルがつくと、その子はそこからはみ出し難くなります。疲れてしっかり出来ない日があっても、「らしくないね」と言われる。泣きたい日があっても、「明るい方でしょ、笑ってよ」と求められる。これは、優しい形に見えて、実は「今日はしんどい」という大事なサインを消してしまう危険があります。

本当は、家族の中で「あなたは〇〇係」という役割りは、いらないんです。家族っていうのは、本来チームではあるけれど、仕事のチームじゃない。誰も「担当」を持たなくていい。今日は静かでいたい子は静かでいていいし、今日は頑張れない子は頑張らなくていい。家族はそういう空間であって欲しいんです。

役割りがいらないということは、こういうことでもあります。君は、元気な日もあれば、元気じゃない日もあっていい。優しくできる日もあれば、ちょっとトゲトゲしてしまう日があってもいい。それでも「君は君のままでいい」と受け留めてもらえる場所が、本当の安心になります。

比べないことは難しいけど聞かせないことは出来る

ここまで読むと、「じゃあ、比べちゃいけないの?」と感じる大人もいると思います。正直に言うと、人が心の中で比べてしまうのは止められません。おじいちゃんやおばあちゃんが「あの子はよく気がつく、本当に助かる」「この子は明るくて和む」と溢すことは、とても自然なことです。むしろそれは、その子どもたちそれぞれをちゃんと見てきた証でもあります。

大事なのは、その言葉をどこに置くか、です。

本人の耳の前に置くのか。
それとも、大人同士のお茶の時間にそっと置くのか。

人と比べる言い方は、本人の前で言うと、とても鋭い形で届くことがあります。だからこそ、そこだけは気をつけたい。比べることで生まれた「褒めたい気持ち」は、子どもたち全員の目の前で同時に言うのではなくて、その子だけにそっと手渡す形に変えてあげたいのです。

「あなただけに言うけど、今日あなたが『大丈夫?』って聞いてくれたの、私本当に嬉しかったよ」

こういう渡し方だと、比較ではなく、ただの“ありがとう”になる。ラベルではなく、“今日のあなたの大事な1場面”になる。その子だけの宝物として渡せる。

これはとても小さいことのように見えますが、実は家の空気を大きく変えます。「私は、あの子と比べられて選ばれたんじゃない。私自身として見てもらえたんだ」という安心を、その子の心の底に置いてあげることが出来るからです。

そしてもう1つ大事なこと。それは、こういう言葉は世代を越えて受け継がれていく、ということです。優しい言葉もまた、遠くまで届きます。遠い世代のひいおばあちゃんが「あの子はね、周りをよく見ていてやさしい子だったんだよ」と話してくれていたことが、後になって大人から君に伝わる日が来るかもしれない。その瞬間、君は「ああ、私はちゃんと見られていたんだ」と知ることができます。

つまり、大人がどんな言葉を残すかは、今、傍にいる子どもだけじゃなく、まだ小さな子、これから生まれてくる子にまで届く、ということなんです。だからこそ、冷たい比べっこではなく、温かい「君だけの話」を未来に渡したい。そういう選び方が必要なんです。

この第3章で伝えたいのは、とても単純なことです。君は誰かの代わりではないし、誰かのコピーでもないということ。君は、家族の中で「〇〇担当」として置かれるために生まれたわけではないということ。君は、君として抱きしめられるべきなんだ、ということ。

そしてそれは、今、傍にいる大人の言葉1つで、ちゃんと守れるということなんです。


第4章…いつか立派よりも今君はどう感じてる?~目の前の気持ちを掬い上げる力~

大人はつい、「この子には将来こうなって欲しい」という言い方をします。しっかりした人になって欲しい。強い人になって欲しい。優しい人になって欲しい。真っ直ぐ生きていける人になって欲しい。どれも悪い願いではありません。むしろ真っ当で、愛ゆえの言葉です。

でも、その「いつか立派に」という気持ちは、時々、今の君の気持ちを置き去りにしてしまうことがあります。大人は未来を見て話しているのに、君は“今”を生きている。その少しのズレが、心の中に静かなしこりを作ることがあります。

「泣かないで頑張ろうね」
「負けちゃダメだよ」
「いつか役に立つから今は耐えなさい」

こういう言い方は、聞く側からすると「今の自分の気持ちは、我慢して上に蓋をしなさい」という意味に聞こえてしまうことがあります。つまり「今の涙は、後でお話ししましょうね」と横にどけられてしまう。その積み重ねは、子どもにとって「自分の今の気持ちはあまり大事じゃないのかな」という誤解に繋がることがあります。

本当はそうじゃないはずなのに…です。大人の本音は「苦しい顔をさせたくない」なのに、伝わり方は「苦しいって言わないで」になってしまう。ここが擦れ違いの一番辛いところです。

「強い子でいなさい」の裏側には「辛い顔を見るのが苦しいんだよ」という本音がある

大人は、子どもに強くあって欲しいとよく言います。でも実は強い子でいなさいという言葉の裏には「あなたが泣いているのを見ると、どう助けたらいいか分からなくて私も辛い」という本音が隠れていることがよくあります。

「泣かないで」は、「泣くな」ではなくて、「あなたが泣くほど辛い世界なんて本当は嫌なんだよ」という叫びです。心からの防波堤です。「そこまで辛い思いをさせたくない」という願いなんです。

けれど、この本音はほとんど表に出ません。代わりに「我慢して」「強くなって」「負けないで」という形だけが前に出る。そうすると、君の耳には「弱いところ、見せちゃいけないんだな」と聞こえてしまう。

これは、どちらが悪いという話ではなくて、気持ちがうまく重ならないまま、擦れ違ってしまうという現象なんです。

だからこそ、本当はもう少し別の声の掛け方が必要になります。未来だけを見た言葉ではなく、「今」に触れる言葉です。

「今、どう感じてる?」と尋ねることはものすごく大きな支えになる

「今、どんな気持ち?」「今、しんどい?」「今、何が一番嫌?」
この声掛けは、どんなアドバイスよりも先にあるべきものです。

何故ならこの問いは、「あなたが感じている気持ちは今話して良いし、今名前を付けて良いし、今大人と分け合っていい」という許可になるからです。

人は、自分の気持ちに名前がついていないと、モヤモヤだけが体に残ってしまいます。でも「それは悲しいんだね」「それは悔しいんだね」「それは怖いんだね」と言葉を当ててもらうと、その気持ちは自分の外に少しずつ出ていきます。「これは怖さなんだ」「これは寂しさなんだ」と分かっただけで、息がしやすくなることもある。

子どもはまだ、心の痛みをうまく言葉にできない日がたくさんあります。だから大人の「今、どう感じてる?」は、気持ちを耳に掬い上げてあげる行為なんです。それは「アドバイス」でも「お説教」でもない。ただの受け止めです。包帯を巻く前に、まず傷がどこにあるか見る、ということです。

この受け止めは、年齢に関係なく大きな安心になります。小さい子にとっても、小学生にとっても、中学生にとっても、さらには大人になった後で思い出しても、支えになります。「あの時、私は“今”を聞いてもらえた」という経験は、後に自分で自分を助ける力の第一歩になるんです。

今を見てくれる人がいるだけで未来は勝手に強くなる

ここで1つ、よく誤解されることがあります。「今の気持ちを聞いてあげるだけでは、その子は甘えるだけになってしまわない?」という心配です。

むしろ逆です。

「今の自分は、ちゃんと大事にしてもらえる」と分かっている子は、未来に向かって歩きやすくなります。我慢ばかり押しつけられた子よりも、先のことを自分で考え始めやすいんです。

安心して泣ける子は、泣いた後に前を向く力が戻りやすい。
辛いと言えた子は、「じゃあどうしようか」を一緒に考える準備ができます。
「大丈夫?」と聞かれて本当に「大丈夫じゃない」と言っても怒られなかった子は、次に困ったときも助けを求められます。

逆に、「今泣くな」「後で役に立つから我慢しろ」だけを重ねてしまうと、子どもは気持ちをしまいこむ癖がつきます。その癖は、一度つくと、後から外すのが難しい。大人になっても「助けて」と言うのが下手なまま生きてしまうことがあります。

未来を強くするのは、厳しい声ではなく、「今」を味方してくれる人の存在なんです。

ちゃんと見てるよと伝えることは躾でも教育でもなくて安心の宣言

時々でいいんです。長い言葉じゃなくてもいいんです。ただ「今の君をちゃんと見てるよ」と、そのままを伝える時間があれば、それは心の土台になります。

「さっき、泣きそうな顔してたから気になったんだよ」
「今日は頑張ったね。顔がちょっと疲れてる。ちゃんと分かるよ」
「今日は元気一杯なんだね。嬉しそうだね。いい顔してる」

こういう声は、アドバイスじゃありません。何かを直させるためでもありません。「あなたはここにいていい」という宣言です。

そしてこの宣言は、短いひと言でも、君の側には長く残ります。後から思い出した時、「あの時の私は、分かってもらえた」という事実になります。この「分かってもらえた」という記憶は、何年経っても、心の奥で温かさとして生き続けます。

この第4章で伝えたいのは、とても優しい一文に纏められます。

それは「将来ちゃんとする子になりなさい」より先に「今の君は大事なんだよ」と伝えて欲しいということ

君は、これから大きくなる間に、いろんな顔を持つでしょう。元気な日も、疲れた日も、気持ちが動かない日も、思い切り笑える日も。そのどれもが君で、そのどれもがパズルの1ピースみたいに大切なんです。

だから、今の気持ちを真っ直ぐに掬ってもらえることは甘やかしではありません。それは、君が君のままで生きていくための基礎工事なんです。


第5章…君は全部背負わなくていい~30人分の願いを一人で抱えなくて大丈夫~

ここまで読んできて、もしかしたら君はちょっとだけ不安になっているかもしれません。「私ってそんなにたくさんの人から見られてるの?」「そんなにたくさんの気持ちを、ちゃんと受け止めなくちゃいけないの?」って。もしそう思ってくれたなら、とても真面目で優しい心をしているんだと思います。でもね、ここで一番大事なことを伝えたいんです。君は、全部に応えなくていい。本当に、いいんです。

君の周りには、親の想いがある。おじいちゃんとおばあちゃんの願いがある。ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんの祈りがまだそっと続いていることもある。それぞれの人が「こうなってほしい」「こうであってほしい」と願うと、その数はあっという間に膨らみます。気がつけば30人分くらいの「幸せになってね」が、君の周りをクルクル回っていることさえある。

この時、大人はちゃんと分かっていなきゃいけないことがあります。それは、「その30人分の気持ちを全部まとめて肩に載せられるような子どもなんて、どこにもいない」ということです。そんな人間は、この世界にいません。だから、できないのが普通なんです。

それでも君は、頑張り屋だから、こんな風に考えてしまうことがあります。「ちゃんと笑っていないと心配させるのかな」「頑張らないとガッカリさせちゃうのかな」「泣いたら嫌われちゃうのかな」。これをはっきりと言い切ります。それは違うよ。

例えば、お父さんやお母さんは、君がちゃんと立っていける未来を思って「頑張れ」と言うことがあります。でもそれは、「今すぐ完璧でいなさい」という意味ではありません。本当は「あなたが一人きりで困らないように私は力を置いていきたい」という気持ちなんです。だから、その言葉全部を今日1日で抱え込む必要はないんです。

おじいちゃんやおばあちゃんは、君の良いところを皆に言いたくてたまらないことがあります。「あの子は本当に優しいんだよ」「ちゃんと挨拶出来るんだよ」と、人に話したくなる。そこには「私はこの子が大切で、大事に思っている」という気持ちが入ってる。でも、それを聞いた君が「ずっと優しくいなきゃいけないのかな」「失敗したらダメなのかな」とまで思いこむ必要はありません。優しい日もあれば、しんどい日もある。それでいいんです。

さらに、もっと上の世代は、君が目の前に立ってくれるだけでホッとします。「今日も来てくれた」「今日も元気そうだった」「それだけでありがたい」。そこにあるのは、君の“存在そのもの”を抱きしめるような温かさです。つまりその人たちは、君が何かをしてくれるから好きなんじゃない。君が“いるから”安心しているんです。だから、何か特別な役を果たそうと無理に構えなくてもいいんです。

ここで、とても大切なことをもう1つ伝えます。大人たちの願いというのは、本当は「君のため」という形をしていながら、半分くらいは「自分のため」でもある、ということ。お父さんやお母さんは、「この子がきちんと生きていけるようにしたい」という気持ちと一緒に、「ちゃんと育てられたと胸を張りたい」という不安も抱えています。おじいちゃんやおばあちゃんは、「この子が礼儀正しいと安心する」という思いと一緒に、「自分の家はちゃんとしていると信じたい」という気持ちも重ねています。ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんは、「生きて会えた。ありがとう」という温もりを通して、「私の生きてきた道は間違いじゃなかった」とやっと思えることもあります。

つまり、そこにある願いは、全部が全部君だけの荷物ではないんです。大人たち自身の心を守るためのお願いや祈りも、たくさん混ざっているんです。本来それは、大人が自分で持つべき重さでもあります。全部を子どもに背負わせるのは違います。

だから、君は頑張り過ぎなくていい。優しくできない日があってもいい。怒ってしまう日があってもいい。泣きながら「今日はきつい」と言ってもいい。うまく笑えない日があったら、それは「ちゃんとしろ」というサインじゃなくて、「今日は休む日だよ」というサインかもしれません。君はロボットではないから、同じ顔で同じ元気を毎日出しつづける必要なんて、どこにもないんです。

ここで、すごく大事なイメージを1つ置いておきたいです。家の真ん中に、君が立っています。君の周りには30人分の「大事だよ」がフワッと輪になって立っています。時々その声は重なって煩く感じる時もあるし、ぶつかって押し合っているように聞こえることもある。でも本当は、それは君に「命令」している輪ではありません。君を囲む「風よけ」のようなものなんです。外から冷たい風や辛い出来事が吹き込んできた時、君の体に直接あたらないように、少しでも弱くして受け止めたい。そのために大人たちは、勝手に集まってグルッと囲んでいるんです。

つまり君は、30人分の期待の下に押し潰される存在ではなくて、30人分の愛の真ん中に守られている存在なんです。ここを取り違えなくていい。君は、守られるために立っていていいんです。強さを見せ続けるためだけに立っているんじゃないんです。

だから、1つお願いがあります。しんどいときは「しんどい」と言ってください。悲しいときは「悲しい」と言ってください。だってそれは、「まだあなたの声は届くんだよ」「まだ私たちはあなたの味方でいたいんだよ」という証明になるからです。君が何も言わなかったら、大人たちは「大丈夫なんだろう」と思って、心配を押し入れの奥にしまい込んでしまいます。でも君が言葉にしてくれたら、そこに手を伸ばすことができます。助けに入るチャンスが生まれます。

君の涙や弱音は、負けではありません。我儘でもありません。周りの大人に「今お願いね」とバトンを渡す合図なんです。そのバトンは、元々大人が持つべきものです。大人の手に戻していいんです。

そしてもう1つ。これは大人に向けた話でもあります。もし君の周りにいる誰かが、この章を心のどこかで読んでくれるなら、こんな風に伝えたい。「どうか、あなたの願いを、その子の“義務”として置かないでください」と。「あなたがいてくれるだけで十分だったんだよ」という一文を、ちゃんとその子にわかる形で、今のうちに渡してあげてください」と。

君は、完璧である必要はありません。予定通り育つ必要もありません。30人分の期待を一人でまとめて、綺麗な“正解の子”になる必要なんて、まったくありません。

君はもう、ここにいます。それだけで、何人もの人生の希望は、とっくに叶っているんです。

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まとめ…君はもう誰かの願いを叶えている存在なんだ

君は自分のことを「普通の子」と思っているかもしれません。特別な才能があるわけでもないし、いつも元気なわけでもないし、偉いことなんてしていない。ただ生きて、朝起きて、食べて、学校に行って、何となく1日を終える。それだけだよ、って思っているかもしれません。

でもね、それはちがうんだよ、と静かに伝えたいんです。

君の周りには、たくさんの大人の気持ちが集まっています。おとうさんとおかあさん。おじいちゃんとおばあちゃん。ひいおじいちゃんとひいおばあちゃん。そのまた上の世代にいた人たちまで含めると、君が今ここに存在しているということは、何十年分、いいえ何百年分の「生きてほしい」「幸せでいてほしい」という祈りが繋がってきた結果です。大袈裟じゃなくて、本当にそうなんです。

中には、たくさんは会えない人もいます。もう名前をすらっと言えない人もいます。それでも、手を重ねた時の温もり、ほっぺの柔らかさ、笑ってくれたことの嬉しさは、確かに残っています。君がそこに立ってくれるだけで、「ああ、会えた」「ありがたい」と心から思ってくれる人がいるんです。その気持ちは、今でも生きています。

また、おじいちゃんやおばあちゃん世代は、君のいいところをすぐ見つけて、誇らしそうに話します。「あの子はやさしいんだよ」「あの子はよく人のことを見てるんだよ」と、繰り返し語ります。それは、比べて勝った負けたを言いたいのではなくて、「この子は大切なんだよ。ちゃんと見てるよ」という宣言なんです。君のことを忘れないための、心のお守りなんです。

おとうさんとおかあさんは、君の明日と明後日とその先のことまで、びっくりするくらい本気で考えています。時々、言葉が強くなるのは、君を脅かしたいからではありません。「一人で辛い思いをさせたくない」という気持ちが溢れすぎて、表し方が下手になる日があるだけなんです。本当はずっと、「何があっても味方でいたい」と思っています。

ただ、ここで大事なことがあります。これら全ての想いは、君の荷物にしていいものではありません。君が抱えるためのリュックではありません。君が自分を我慢で覆い隠す理由でもありません。

むしろ逆です。これらの想いは、君を縛りつけるロープではなく、君を取り巻いて風除けになろうとする壁みたいなものです。冷たいもの、辛いもの、怖いものが君にぶつかる前に、少しでも和らげたい。そのために大人たちは君の周りに立っているんです。君に命令するためじゃなくて、守りたいからそこにいるんです。

だから君は、頑張り過ぎなくていいんです。今日泣きたかったら泣いていい。疲れていたら「疲れた」と言っていい。静かにしていたい日は静かでいていい。カッコいい顔ばかり見せなくていい。いつも「いい子」でいようとしなくていい。むしろ、そのままの気持ちを伝えてくれることこそ、周りの大人たちがずっと願っていることなんです。

だってね、君が「しんどい」と言ってくれるということは、「まだ頼ってくれる場所がある」と信じてくれているということだから。それは、大人にとってはご褒美なんです。「ああ、まだ手を出せるんだ」「まだ味方でいられるんだ」と思えるからです。

この世には「強くなれ」という声がたくさんあります。でも本当に大切なのは、「強いフリをしなくてもここにいていいよ」と言ってもらえた経験なんです。その経験を持っている人は、ゆっくりだけど、ちゃんと立ち上がれるようになります。倒れても、また起き上がれるようになります。一人ぼっちではない、と体で知っているから。

これだけは覚えていてください。君はまだ何も凄いことをしていない、と自分では思っているかもしれないけど、本当はもうとっくに誰かの願いを叶えています。君の「おはよう」で安心する人がいます。君の「また来るね」で生きる力をもらった人がいます。君がそこにいるだけで、今日を生きて良かったと思えた人がいます。

君は、もう、ちゃんと役目を果たしています。十分です。無理にもっと立派にならなくていいんです。誰かと比べて、自分の価値を並べ直す必要もありません。

そのままの君でいてくれること。それが一番の「ありがとう」なんだよ。

⭐ 今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m 💖


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