鬼は外で食卓は春へ~恵方巻きだけで終わらない節分ご飯の楽しみ方~
目次
はじめに…節分の夜は太巻きの向こうに春がいる
2月の食卓に、ドン、と太巻きが置かれる。
家族がそれぞれ手に取り、決められた方角を向き、何故か急に無言になる。さっきまで「醤油どこ?」「お茶いる?」と、賑やかだったのに、太巻きを持った瞬間、食卓が小さな修行場になるのだから、日本の行事はなかなか油断できません。
もちろん、恵方巻きは楽しいものです。具材がギュっと巻かれていて、ひと口ごとにちょっとしたご馳走感があります。ただ、節分の食卓をそれだけで終わらせてしまうのは、少しもったいない気もします。豆まきの豆、温かい汁物、香ばしい鰯、節分蕎麦、福茶。そこには、冬を越して春へ向かうための、昔ながらの知恵がたっぷり詰まっています。
節分は、ただ鬼を追い払う日ではありません。立春(暦の上で春が始まる日)の前に、家の中と心の中を少し整えて、「さあ、春を迎えましょう」と声をかけるような日です。難しく考えなくても大丈夫。豆をまく手が少し雑でも、年の数を数え間違えても、誰かが途中で笑ってしまっても、それもまた一家団欒。鬼より先に、こちらの肩の力が外へ出ていくかもしれません。
節分の食卓は、厄払いの行事でありながら、家族が春を待つための小さなご馳走時間でもあります。
昔ながらの風習には、一石二鳥の良さがあります。縁起を担ぎながら、お腹も満たせる。春を待ちながら、今夜の会話も増える。さらに「笑う門には福来る」と言うように、少し笑える食卓には、それだけで福が入りやすくなる気がします。
鬼を本気で追いかけ回す必要はありません。家の中で豆を踏んで「あ、痛っ」となるくらいが、ちょうど良い節分の味わいです。
[広告]第1章…豆まきは春を迎える小さな年越し行事
豆まきの豆を手にすると、何故か少しだけ気合いが入ります。
小さな豆なのに、手の平に載せた瞬間、「よし、今年もやるか!」という顔になってしまう。相手は鬼です。しかも目に見えない厄や不安まで相手にするのですから、こちらも丸腰ではいられません。……いや、武器が豆という時点で、既に日本らしい平和さが滲んでいます。
節分(季節を分ける節目の日)は、立春の前日に行われる行事として知られています。今の感覚では2月の寒い日ですが、暦の上では春の入口。昔の人にとっては、冬の終わりに家の中を清め、新しい季節を迎える大切な境目でした。
豆を撒くのは、ただ賑やかに声を出すためではありません。豆には、災いを払う力があると考えられてきました。さらに「マメに暮らす」という語呂も重なり、無病息災を願う食べ物としても親しまれてきました。小さな豆に、健康、安心、家族の笑顔まで背負わせるのですから、豆からすれば「ちょっと荷が重くないですか?」と言いたいところかもしれません。
それでも、豆まきには不思議な力があります。
玄関に向かって「鬼は外」と声を出すと、心の中にたまっていた小さなモヤモヤまで外へ出ていくような気がします。部屋の中へ「福は内」と呼び込むと、まだ寒い家の空気に、ほんの少し春の色が差し込むようです。豆撒きは、家の中を賑やかにしながら、気持ちの向きを冬から春へ変えてくれる行事です。
大人だけで暮らしている家でも、豆撒きはできます。大声を出すのが恥ずかしければ、小さな声でも十分です。高齢の方がいる家なら、床に豆が散らばり過ぎないよう、袋入りの豆を使うのも良い工夫です。子どもがいる家なら、鬼役の人が張り切り過ぎて泣かせないことも大切です。鬼が本気を出し過ぎると、行事ではなく家庭内事件になります。ほどほどが平和です。
節分は、古い暦の感覚で見ると、小さな年越しのような日でもあります。年末の大掃除ほど大掛かりでなくても、豆をまき、食卓を囲み、明日からの春に向けて気持ちを整える。それだけで、家の空気は少し変わります。
鬼を追う声の奥には、「今年も家族みんなで元気に過ごせますように」という素朴な願いがあります。節分の豆は、派手ではありません。けれど、一粒一粒に春を待つ心がこもっています。冬来たりなば春遠からじ。寒い夜に撒く豆の音は、春が近づいてくる足音にも聞こえてくるのです。
第2章…恵方巻きの沈黙タイムと食卓の笑い
節分の夜、恵方巻きを手にした瞬間、食卓にスッと静けさが降りてきます。
さっきまでテレビの話をしていた人も、お茶を注いでいた人も、何故か同じ方向を向いて、太巻きと真剣勝負。いつもの食卓なら「それ、ひと口ちょうだい」と言えそうな空気なのに、この時ばかりは無言がルールです。家族が並んで黙々と食べる姿は、ちょっとした団体競技にも見えます。競技名は、たぶん「太巻き無言完走」。実況が入らないのが残念です。
恵方巻きの「恵方」は、その年の福を司る神様がいるとされる方角のことです。そこへ向かって願い事を思い浮かべながら、巻き寿司を切らずに食べる。切らないのは、縁や福を切らないという願いに繋がります。巻き寿司の中に具材をギュっと包む姿も、福を巻き込むようで、なかなか風情があります。
ただし、現実の食卓は予定調和とはいきません。
小さな子どもは、太巻きの大きさに目を丸くします。おじいちゃんは、黙って食べているつもりで「うん、美味い」と小声で言ってしまう。お母さんは笑いをこらえ、お父さんは何故か誰よりも真面目な顔で前だけを見ています。静かなのに、空気だけは妙に賑やか。これぞ和気藹々です。
恵方巻きの良さは、決まりを守ることだけでなく、家族それぞれの表情が食卓に残ることです。
もちろん、無理をする必要はありません。大きな太巻きを丸ごと食べるのが大変なら、細巻きにしてもいい。噛む力や飲み込む力が心配な方がいるなら、食べやすい大きさにして、願いだけはまっすぐ込めれば十分です。嚥下(飲み込む力)に不安がある場合は、海苔が喉に張りつかないよう、やわらかい具材や小さめの形にする配慮も大切です。
縁起ものの食べ方は、暮らしを苦しくするためにあるのではなく、今日の食卓を少し楽しくするためにあります。型を大切にしつつ、家族の体調や年齢に合わせて無理なく整える。それが、明朗快活な節分ご飯の作り方ではないでしょうか。
恵方巻きは、食べる人を少し黙らせます。けれど、食べ終わった後には「途中で笑いそうになった」「具が多くて大変だった」と、会話の種を置いていきます。無言の時間が、後から笑い声に変わる。そこに、節分らしい小さな福があるのだと思います。
[広告]第3章…蕎麦とこんにゃくとけんちん汁でお腹から厄払い
節分の食卓は、恵方巻きだけで満席にしてしまうには惜しいほど、味わい深い役者が揃っています。
湯気の立つお椀、つるりとした蕎麦、ぷるんと揺れるこんにゃく。どれも派手なご馳走顔はしていませんが、冬の終わりの体には、こういう素朴なものがじんわり効きます。台所から出汁の香りが漂ってくると、それだけで「今日は家にいて良かった」と思えるから不思議です。
節分蕎麦は、冬から春へ移る節目に食べる縁起ものとして親しまれてきました。蕎麦は細く長いことから長寿を願い、切れやすいことから厄を断つとも考えられています。温かい蕎麦を啜れば、冷えた体がほぐれ、気持ちまで少し落ち着きます。無病息災を願いながら食べるには、ぴったりの一杯です。
ただ、蕎麦をすする時は油断できません。静かに味わうつもりが、湯気で眼鏡が白くなり、七味を少し入れたつもりが思ったより出て、「あ、やった…」となる。節分の鬼より先に、自分の手元の勢いを払いたくなる瞬間です。それでも、熱々のツユをひと口飲むと、まあ良いかと思えてしまう。食卓の平和は、出汁の力に支えられています。
こんにゃくも、節分の食卓では良い働きをしてくれます。食物繊維(お腹の動きを助ける成分)を含み、昔から体の中をすっきり整える食材として親しまれてきました。煮物に入れても、田楽にしても、味噌と合わせてもよく馴染みます。主役を奪うタイプではありませんが、いつの間にか皿の中で存在感を出してくる。縁の下の力持ちとは、こういう食材のことかもしれません。
節分ご飯は、鬼を外へ追うだけでなく、お腹の中から春を迎える準備をする時間でもあります。
そして、けんちん汁です。大根、にんじん、ごぼう、里いも、豆腐。根菜がゴロゴロ入った汁物は、見ているだけで頼もしいものがあります。寒い夜にお椀を両手で包むと、指先からホッとしてきます。質実剛健な顔をしながら、実はとてもやさしい料理です。具材が多いので、冷蔵庫の半端な野菜を受け止めてくれる懐の深さもあります。ありがたい。台所の救世主です。
高齢の方や小さな子どもと食べる時は、具材を少し小さめに切ると安心です。噛む力が弱い方には、根菜をやわらかめに煮るだけで、食べやすさがグッと変わります。豆腐は崩れやすいので、最後にそっと入れると綺麗に仕上がります。そっと入れるつもりが勢いよく落として汁が跳ねることもありますが、それも台所あるある。服に飛んだ一滴まで、節分の思い出です。
蕎麦で厄を断ち、こんにゃくで内側を整え、けんちん汁で体を温める。三位一体の節分ご飯は、派手さよりも安心感で勝負する食卓です。食べ終わる頃には、外の寒さはまだ残っていても、家の中には春を待つやわらかな空気が生まれています。
第4章…福茶と柊鰯で玄関まで春支度
節分の食卓がひと段落したら、最後に飲みたいものがあります。
それが福茶(梅、豆、昆布を入れて縁起を願うお茶)です。湯呑みの中に、梅干し、豆、昆布を入れて、熱いお茶やお湯を注ぐ。見た目はとても素朴なのに、込められた願いはなかなか豪華です。梅はおめでたさ、豆はマメに元気で暮らす願い、昆布はよろこぶに通じる縁起もの。小さな湯呑みの中で、福の三人組が静かに集合しているようです。
豆まきで外へ向かって声を出し、食卓でお腹を満たし、最後に福茶を啜る。これだけで、節分の夜がスッと締まります。お茶の湯気が顔に当たると、先ほどまでの賑やかさが少し落ち着き、気持ちが穏やかになります。梅の酸っぱさに「うっ」となりながらも、体の中に春支度の合図が入る感じです。酸っぱいのにありがたい。梅干し、なかなかの名脇役です。
福茶は、節分の賑やかさをやさしく落ち着かせ、福を体の内側へ迎える一杯です。
そして、節分には玄関周りにも昔ながらの知恵があります。柊鰯(柊の枝に焼いた鰯の頭を刺す鬼よけ飾り)です。柊の葉はトゲトゲしていて、鰯は焼くと独特のニオイが出ます。そのトゲとニオイで、鬼が家に入りにくくなると考えられてきました。
現代の感覚で見ると、「玄関に魚の頭?」と一瞬立ち止まりたくなります。来客があれば、説明する前に目線がそこへ吸い寄せられるかもしれません。しかも、宅配の方まで少し緊張するかもしれない。鬼避けの前に人避けになっていないか、少し心配です。
けれど、柊鰯に込められた発想は、とても分かりやすいものです。家の入口は、福も厄も入ってくる場所。だから、玄関を整え、悪いものを遠ざけ、良いものを迎える。用意周到な暮らしの知恵として見ると、ただの飾りではなく、家を守る小さな合図に見えてきます。
もちろん、今の暮らしにそのまま取り入れにくい場合もあります。そんな時は、柊を小さく飾る、節分らしい花や小物を置く、玄関を掃いてスッキリさせる。それだけでも十分です。大切なのは、形を無理に守ることではなく、「この家に福を迎えたい」という気持ちを置くことです。無病息災を願う気持ちは、昔も今も変わりません。
節分は、豆を撒いて終わりではありません。湯呑みの中にも、玄関先にも、春を迎える小さな準備があります。家の内側と外側、その両方を少しだけ整えると、寒い夜の中にも、ふわりと明るい空気が入り込んできます。
[広告]まとめ…鬼を追うよりも福を迎える食卓へ
節分の夜は、豆を撒き、太巻きを食べ、蕎麦を啜り、汁物で温まり、福茶でホッと息をつく。そこに柊鰯のような玄関の知恵まで加わると、家の中にも外にも、春を迎える準備が静かに整っていきます。
鬼を追い払う行事と聞くと、少し勇ましい印象があります。けれど、本当の主役は、家族の笑い声や、湯気の立つ食卓や、「今年も元気でいたいね」と願う気持ちなのかもしれません。豆が床に転がって行方不明になり、数日後に家具の下から発見される。そんな小さな珍事件まで含めて、節分は暮らしの味になります。豆も長旅、ご苦労様です。
恵方巻きを食べる時に少し笑ってしまっても、福茶の梅干しが酸っぱくて顔がキュっとなっても、けんちん汁の具が多過ぎてお椀が小さな山盛りになっても、それで良いのです。完璧な作法より、家族が無理なく楽しめること。和気藹々とした時間こそ、節分らしい福の入口です。
節分は、鬼を怖がる日ではなく、春を迎えるために暮らしを少し明るくする日です。
年中行事は、形を守るだけのものではありません。今の家族の人数、年齢、体調、食べやすさに合わせて、少しずつ姿を変えながら続いていくものです。豆まきは袋入りでもいい。太巻きは細くしてもいい。福茶は飲みやすく整えてもいい。無病息災を願う気持ちがあれば、そこにはちゃんと節分の心が残ります。
寒い夜の向こうには、春が待っています。鬼を外へ送り出した後は、家の中に福を迎えて、湯気のある食卓でひと息つきましょう。節分のご飯は、冬の終わりにそっと灯る、小さな春の合図です。
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