ろうごの日に三世代の通訳係~祖母と娘の間で見つけた家族の知恵~

[ 家族の四季と作法 ]

はじめに…6月5日は老後より先に「真ん中世代」が忙しい

6月5日は「ろうごの日」。老後と聞けば、まだずっと先の話だと思う人もいれば、そろそろ現実味を帯びてきたと感じる人もいるでしょう。けれど家族を見渡してみると、自分の老後を考えるより先に、親のこれからと子どものこれからを同時に気にしている世代がいます。

祖母は「昔はこうしたものよ」と、長年の暮らしで身につけた知恵を惜しげもなく話す。一方、若い娘はスマートフォンを片手に「それ、今も必要なの?」と首を傾げる。どちらも間違ってはいないのに、話が何故か半歩ずつズレていく。三者三様とはよく言ったもので、その真ん中にいる人は、気づけば家族専属の通訳係です。

「おばあちゃんが言いたいのはね」と娘に説明し、「あの子は嫌がっているんじゃなくてね」と祖母にも説明する。……私、いつから人事部に配属されたのでしょう。しかも給料は出ません。家族という職場、なかなか手強いものです。

それでも、古い知恵を笑って終わらせず、若い感覚を我儘と決めつけず、両方の気持ちを知っている人が間にいるからこそ、家族の時間は繋がっていきます。老後を考えることは、年を取った自分だけを見ることではなく、今、傍にいる世代とどう繋がるかを考えることでもあります。

6月5日は、未来を心配するだけの日ではありません。祖母から受け取ったものを眺め、娘へ渡せるものを探しながら、今を生きる自分の立ち位置に気づく日。そう思えば、「真ん中世代」も悪い役ではなさそうです。

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第1章…祖母の昔話は古い?~暮らしの知恵を令和語に変換せよ~

朝の台所で味噌汁の湯気が立つと、祖母の話も一緒に温まり始めます。「朝に味噌汁を飲むと体が目を覚ますのよ」「ご飯は炊き方で味が変わる」「食べ物は最後まで大切にするもの」。本人にしてみれば日常生活で身につけた、ごく普通の知恵なのでしょう。

ところが若い世代が聞くと、その反応は少し違います。「それって本当に意味があるの?」「今なら別の方法もあるよね」。悪気はありません。昔の常識と今の常識では、暮らしの道具も情報量も違います。祖母は長年の経験から話し、娘は自分が知っている新しい暮らしを基準に考える。世代交代とは、知識を丸ごと入れ替えることではなく、こうした小さな違いが食卓に顔を出すところから始まるのかもしれません。

そこで真ん中世代の出番です。「昔は食べ物を無駄にしない工夫が生活そのものだったんだよ」と少し説明すると、娘の表情が変わることがあります。「それって今のエコみたいな感じ?」と聞かれれば、祖母も「名前は知らないけど、もったいないってことなら昔からやってるよ」と笑える。はい、通訳成功。心の中で小さくガッツポーズです。

昔ながらの知恵には、科学的に確かめられたものもあれば、地域や家庭ごとの習慣として残ってきたものもあります。全部をそのまま正解にする必要はありません。それでも「何故、そんなことをしていたのだろう」と考えてみると、限られた食材を使い切る工夫や、家族の体調を気遣う気持ち、物を長く大切にする姿勢が見えてきます。そこには質実剛健というほど堅苦しくなくても、暮らしを守ろうとする生活の知恵があります。

古い知恵は、そのまま渡すより「何を大切にしていたのか」まで伝えると、次の世代に届きやすくなります。

とはいえ、祖母の話が始まるたびに毎回、綺麗な解説を添える必要もありません。「昔はね」の続きを聞きながら、「それはいつ頃の話?」と1つ質問するだけでも十分です。そこから昔の台所、家族の食卓、買い物の仕方まで話が広がれば、一石二鳥。知恵を知るだけでなく、その人が生きてきた時間まで少し見えてきます。

そして娘の側にも、「今ならこうするよ」という知恵があります。祖母が教えるだけ、若い人が教わるだけではなく、お互いに「そんな方法もあるのか…」と交換できれば、昔話はグッと生きた会話になります。世代が違えば話が噛み合わない日もありますが、それも家族の面白さ。味噌汁一杯から時代を跨ぐ話が始まる家なら、朝の食卓もなかなか捨てたものではありません。


第2章…「心配」と「重い」の擦れ違い~やさしさにも通訳がいる~

「今日は冷えるから、暖かくして行きなさいよ」。祖母がそう声をかければ、言った本人にあるのは心配する気持ちだけです。風邪をひかないでほしい、元気に帰ってきてほしい。ただそれだけなのに、娘から返ってくるのは「分かってるって」「ちょっと心配し過ぎじゃない?」という反応だったりします。

祖母はきょとん。娘は少しムッとする。そして真ん中にいる私は、「はいはい、ただいま感情の交通整理中です」と心の中で腕まくり。家族の会話は不思議なもので、同じ日本語を使っているのに、時々、同時通訳が必要になります。

「もっと食べなさい」は、祖母にとって「元気でいてね」でも、言われた側には「食べ方まで口を出された」と届くかもしれません。「ちゃんと帰ってきなさいよ」も、言う側には愛情しかなくても、受け取る側が「行動を管理されている」と感じることがあります。これは誰かが冷たいわけでも、思いやりが足りないわけでもありません。世代によって、心地良い距離や言葉の受け止め方が違うのです。

こうした食い違いを放っておくと、些細な一言が疑心暗鬼の入口になることがあります。「折角、心配しているのに」「どうして私を信用してくれないの?」。両方とも自分の気持ちから見れば筋が通っているため、少し厄介です。家族だから何でも分かるはず、という期待まで加わると、話はさらにこんがらがります。

そこで役に立つのが、言葉そのものより「その奥にある気持ち」を拾うことです。「おばあちゃんは寒さが心配なんだと思うよ」「あの子は自分で決めたいだけで、心配してもらうのが嫌なわけじゃないよ」。ほんの一言を添えるだけで、刺さっていた言葉の角が少し丸くなることがあります。家族のやさしさは、正しく言うことより、相手に届く形に整えることで生きてきます。

スマートフォンのメッセージになると、さらに難易度が上がります。「気をつけてね」の短い一文も、送り手には温かい見送りでも、受け取る側の気分次第では「また言われた」と感じることがある。顔も声色も見えない分、文字だけが先に歩いてしまうのです。絵文字を3つ付ければ解決するかというと、そう簡単でもありません。付け過ぎれば今度は「どうしたの、急に」となります。家族の通信事情、絶妙です。

それでも、以心伝心を期待し過ぎない方が家族は楽になります。「言わなくても分かるでしょう」ではなく、「私はこういう気持ちで言ったよ」と少しだけ言葉を足す。受け取る側も、「うるさい」で閉じずに「心配してくれているのは分かるよ」と返せれば、お互いの立つ場所が見えてきます。

ことわざに「親しき仲にも礼儀あり」とあります。家族に必要な礼儀は、よそよそしくすることではなく、相手にも自分とは違う感じ方があると認めることなのかもしれません。祖母の心配も、娘の自由も、どちらかを消す必要はありません。その間に少し余白を作れば、家族の会話は意外なほど穏やかになります。

そして今日も私は、2人の間でひと言ずつ意味を足しながら、気づけば夕飯の支度まで担当しています。何故、通訳係が最後に台所へ着地するのか。その謎だけは、三世代揃ってまだ解けていません。

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第3章…梅干しひと粒で気づく~受け継ぐものは言葉だけじゃない~

夕方、冷蔵庫の奥を探していると、少し年季の入った梅干しの瓶が出てきました。祖母が漬けたもので、フタを開ければ、見ただけで口の中が酸っぱくなりそうな立派な梅干しです。「これ、まだ食べられる?」と聞けば、祖母は平然とした顔で「大丈夫よ。酸っぱいけどね」と返す。その「けどね」の軽さが、こちらには少々、怖いのですが。

ひと粒を崩しておにぎりに入れ、娘に渡してみました。ひと口かじった瞬間、顔がキュッとなる。「酸っぱ!」。ほら来た、と身構えていると、もうひと口食べて「でも、美味しい」と続きました。

その言葉を聞いた瞬間、梅干しとは関係のない昔の景色まで、フッと戻ってきます。自分が体調を崩した日に祖母が作ってくれたおかゆ。食欲がないと言いながら、梅干しだけは少しずつ口に運んだこと。子どもの頃には当たり前過ぎて何とも思わなかった味が、何十年か経って娘の口へ渡っている。冷蔵庫の前で、時間が1本に繋がったような気がしました。

こうした記憶には、自伝的記憶(自分が経験した出来事についての記憶)も関わります。昔の出来事は、年号や説明だけで残るとは限りません。味や香り、手触り、その時、交わした言葉などがキッカケになって、1つの場面ごと戻ってくることがあります。梅干しを見ただけなのに、おかゆの湯気まで思い出す。人間の記憶というものは、なかなか芸達者です。

そして、もう1つ気づきます。祖母から受け取ったのは、梅干しの作り方だけではありません。「食べられるものを粗末にしない」「体調が悪い人には食べられるものを用意する」「家にあるもので工夫する」。そんな日常茶飯の振る舞いが、いつの間にか自分の中にも住み着いています。

昔は聞き流していた言葉を、自分が娘に言っていることもあります。「食べ過ぎないくらいがちょうど良いよ」「それ、まだ使えるんじゃない?」と言った直後に、心の中でハッとする。「今の、祖母がよく言ってたやつだ」。本人から正式な引き継ぎ式を受けた覚えはありません。印鑑も押していません。それなのに、業務だけは見事に継承されています。

家族から受け継ぐものは、教えられた瞬間より、自分が同じことをした瞬間に気づくことがあります。

受け継ぐと聞くと、家宝や伝統料理、立派な教訓のようなものを想像しがちです。けれど実際には、もっと小さなものなのかもしれません。ご飯の炊き方、誰かを気遣うひと言、物を捨てる前にもう一度見る癖、季節になると食べたくなる味。そうした名もない習慣が、家族の中を行ったり来たりしながら残っていきます。

娘には今、祖母の言葉の意味が全部は分からなくても構いません。梅干しを「酸っぱいけど、美味しい」と食べたように、まず何か1つ心に引っかかれば良い。その小さな記憶が何年も眠った後、ある日の台所で突然目を覚ますことがあります。

その頃には娘も、自分の家族に同じ味を渡しているかもしれません。そして「これ、誰から教わったんだっけ?」と首を傾げる。たぶん、それくらい自然に残るものこそ、家族からもらった宝物なのでしょう。


第4章…三世代の真ん中は板挟みではなく家族の橋になれる

祖母と娘が話しているのを少し離れたところから眺めていると、「この二人、随分と違うなぁ」と思うことがあります。祖母は経験から話し、娘は今の感覚で答える。片方が「昔はね」と始めれば、もう片方は「今はね」と返す。その間に立つ私は、右を向いて頷き、左を向いて説明し、気づけば首の運動だけは十分です。

けれど、真ん中の世代が何もかも仲裁しなければならないわけではありません。祖母の考えを娘に納得させることも、娘の考えを祖母に理解させ切ることも、本当の役目ではないのでしょう。家族は全員が同じ価値観になる必要がなく、違ったまま一緒に暮らすことも出来ます。十人十色という言葉の通り、三世代なら三通りの正しさがあって当然です。

真ん中にいるからこそ見えるものもあります。祖母が「最近の若い子は」とこぼした時、その言葉の裏に少し寂しさがあることに気づく。娘が「おばあちゃん、また同じ話してる」と苦笑した時も、本気で嫌っているわけではないと分かる。二人の言葉をそのままぶつけ合わせず、「たぶん、こういう気持ちなんじゃないかな?」と小さな橋を1本かける。それだけで、険悪になりかけた空気がフッと緩むことがあります。

真ん中世代の役目は、家族を同じ考えに揃えることではなく、違うままでも繋がれる場所を作ることなのだと思います。

そして橋をかけたら、時には自分がそこから降りても良いのです。何でも先回りして説明していると、祖母と娘が直接分かり合う機会まで奪ってしまいます。「それ、おばあちゃんに聞いてみたら?」「その話、娘に教えてもらったら?」とボールを渡してみる。最初は会話がぎこちなくても、いつの間にか2人だけで笑っていることがあります。

そんな光景を見ると、「あれ、私いらない?」と少々複雑な気分にもなります。でも、それで成功です。仲介役が忙しく働き続けなければ成立しない関係より、本人同士で話せる関係の方がずっと軽やかです。家族の中間管理職としては仕事を失った気分ですが、円満退職なら歓迎したいところでしょう。

三世代の暮らしには、昔の常識と今の感覚が同居しています。食べ物の好みも、連絡の仕方も、お金の使い方も、休日の過ごし方も違うでしょう。それでも同じ食卓を囲み、「それ知らない」「そんなことするの?」と驚き合えること自体が、世代を越えて暮らす面白さです。和気藹々の日ばかりではなくても、違いがあるから会話の種が生まれます。

そして真ん中世代も、いつまでも真ん中ではありません。今は祖母の言葉を娘へ渡していても、何十年かすれば自分が「昔はね」と話す側になる。その時、娘が苦笑しながら誰かに意味を伝えていたら、家族の橋は次の世代へ架け替えられたということなのでしょう。

そう考えると、板挟みに見えた場所も少し違って見えてきます。前の世代から受け取ったものを抱えながら、次の世代が歩きやすいところへそっと渡す。その途中に立てる時期は、人生の中でも意外に短いものです。忙しい真ん中世代には、それなりに面白くて大切な特等席が用意されているのかもしれません。

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まとめ…老後を考える日は「今の自分」を育てる日でもある

6月5日の「ろうごの日」と聞くと、老後資金や健康、介護といった少し先の暮らしへ意識が向きやすいものです。けれど家族の中に目を向ければ、老後は未来に突然やって来るものではありません。祖母が積み重ねてきた時間を聞き、娘がこれから歩いていく時間を眺め、その間で暮らしている今もまた、自分の人生の大切な途中です。

祖母の昔話に「また始まった」と思う日もあれば、娘の新しい感覚についていけず、「それは何語ですか」と聞きたくなる日もあるでしょう。それでも、食卓で同じ味を囲んだり、言葉の行き違いを少しほぐしたりするうちに、三世代の間には目に見えない道ができます。順風満帆な家族でなくても構いません。少しズレて、たまにムッとして、それでも翌日には同じ冷蔵庫を開けている。そのくらいの距離が、家族にはちょうど良いこともあります。

若い頃には気づかなかった親や祖父母の言葉が、年齢を重ねてから急に分かることがあります。そして、自分が何気なく口にした言葉を、いつか子どもが思い出すこともあるでしょう。受け継ぐものは、大切に箱へしまって手渡すものばかりではありません。味や習慣、気遣い、笑い話まで、日々の暮らしの中に混ざりながら次へ進んでいきます。

老後を考えることは、遠い未来を心配することだけではなく、今日をどう生きて次の世代へ何を残すかを考えることでもあります。

そう思えば、真ん中世代の忙しさも少し見え方が変わります。上の世代を気にかけ、下の世代に振り回され、自分のことまで考えれば大忙し。それでも右往左往しながら笑っていられるなら、なかなか立派な毎日です。家族の中間管理職には辞令も手当もありませんが、「いてくれて良かった」と思われる瞬間くらいは、こっそり受け取っても良いでしょう。

6月5日は、自分が何歳になったかを数える日ではなく、これまで誰から何を受け取り、これから誰へ何を渡していくのかを考える日にしても良さそうです。老後はまだ遠くても、人生は今日もしっかり進行中。祖母と娘の間に立つその場所から見える景色も、きっと今しか味わえない家族の風景なのです。

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今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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