高齢者と子どもは意外と似ている~家族みんなで育てたい暮らしのリズム~

[ 家族の四季と作法 ]

はじめに…離れているようで近い?~高齢者と子どもの暮らしにある不思議な共通点~

子どもと高齢者は、見た目も歩く速さも、好きな話題も十人十色なのに、暮らしの土台では不思議なくらい似たところがあります。朝は少しゆっくり体を起こしたい日があり、知らない場所では不安になり、安心できる声掛け1つで表情がフワっと和らぐ。年の差は大きいのに、心と体が求めるものには、ちゃんと重なる場所があるのです。

元気いっぱいに見える子どもでも、急に眠くなったり、お腹が空いて機嫌が萎んだりします。高齢者もまた、昨日は平気だったことが今日は少ししんどい、そんな一進一退の日があります。家族はそのたびに「えっ、さっきまで大丈夫だったのに?」と小さく驚くのですが、暮らしとは案外そういうもの。毎日が同じ調子で進まないからこそ、無理のないリズムと、ホッと出来る関係が大事になります。

そしてもう1つ、子どもも高齢者も、誰かに大切にされるだけでは足りません。自分も誰かの役に立てた、ちゃんと居場所がある、そう感じられる時間が心を明るくします。教えてもらうばかりでもなく、守られるばかりでもなく、笑ったり伝えたりしながら関わることが、家の空気を優しく変えていきます。食卓で昔話を1つ聞くだけでも、散歩の途中で子どもの発見にみんなで立ち止まるだけでも十分です。派手ではないけれど、こういう積み重ねが家族の底力になります。

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第1章…高齢者と子どもはどうして似て見えるのか?~体と心の変化を優しく見つめる~

子どもと高齢者は、人生の端と端にいるようで、暮らしの中では思いのほか似た動きを見せます。高齢者は年齢を重ねるにつれて体力や脳の働きが少しずつ緩やかに変わっていき、子どもはその反対に、毎日のように出来ることを増やしていきます。その向きは逆でも、途中にはちゃんと重なる時間があります。歩く速さ、疲れやすさ、気分の波、知らないことへの戸惑い。そうした場面を見ると、「あれ、この二人ちょっと似てるな」と家族が感じるのも無理はありません。

たった昨日まで平気だったことが今日はしんどい。さっきまでご機嫌だったのに急にしょんぼりする。そんな一進一退は、子どもにも高齢者にもよくあることです。大人の側はつい「この前できたよね?」と言いたくなるのですが、そこは胸の内でそっと回収したいところです。人の調子は、家電の電池残量みたいに数字で出てくれません。出てくれたら便利過ぎて、たぶん家族会議が一気に近未来です。けれど実際の暮らしは、顔色や声の張り、食欲や目の動きから感じ取っていく、なかなかの職人技だったりします。

体だけではありません。認知機能(考えたり覚えたりする力)や注意力も、子どもと高齢者では揺れ方こそ違っても、周囲の関わり方次第で安心感が大きく変わります。急かされると固まりやすく、穏やかに待ってもらえると力が出やすい。これもまた共通点の1つです。早くさせることより、安心して動ける空気を作ることの方が、遠回りに見えて近道になります。急がせて失敗が増えると、見ている側も「あぁ…もう」となりますし、本人も「やっぱり無理かも…」と気持ちが縮みます。そこは悪循環。和顔愛語で支える方が、家の空気まで柔らかくなります。

もう1つ見落としたくないのは、子どもも高齢者も「守られるだけ」では元気が続き難いことです。自分で選べた、自分でやれた、ちゃんと伝わった。そんな小さな成功が心を支えます。靴を揃える、お茶を運ぶ、花に水をやる、テレビのリモコン係になる。ほんの少しの役割でも、暮らしの中では立派な主役です。年齢を理由に何でも取り上げず、出来ることを残す。そこに家族の知恵が光ります。千差万別の毎日だからこそ、その人らしいペースを見つけていきたいものです。


第2章…教える人と教わる人では終わらない~祖父母と親と子で育てる学びの輪~

家族の中で起きる学びは、学校の授業みたいに「先生はこちら、聞く人はこちら」ときっちり分かれていません。祖父母は長い年月で身につけた知恵や教訓を持っていますし、子どもは新しい感覚や今の時代の空気をスッと吸い込む力を持っています。どちらかだけが与える側になるのではなく、行ったり来たりしながら育っていくところが、三世代の面白さです。試行錯誤しながらでも、言葉を交わす時間が増えるほど、家の中には静かな活気が戻ってきます。

祖父母が伝えられることは、昔話だけではありません。人との付き合い方、続けることの大切さ、我慢のしどころ、季節の感じ方、物を大事にする手つき。そういうものは教科書に載っていなくても、暮らしの中でジワっと効いてきます。しかも孫に話すとなると、「あれ?これって本当に今も合ってるかな」と自分の考えを見直すキッカケにもなります。子に教え、孫に伝える頃には、知恵も少し丸くなっているものです。人に話しているつもりが、自分も育て直されていた。そんなこと、けっこうあります。湯のみ片手に人生談義のはずが、気づけば自分が学び直しているのですから、暮らしは油断できません。

けれど、知恵なら何でもそのまま渡せば良いわけではありません。昔は当たり前でも、今の子どもには合わないこともありますし、反対に今だからこそ大事にしたい考え方もあります。そこに入るのが親世代です。親は、祖父母の経験と子どもの今を繋ぐ通訳役のような存在です。厳し過ぎず、甘やかし過ぎず、古過ぎず、軽過ぎず。この匙加減がなかなか難しい。けれど、そのひと手間があるだけで、家族の学びは相乗効果を生みます。祖父母の知恵と子どもの感性を、親が上手く繋げた時、家族はただの同居人ではなく“育ち合う仲間”になります。

子どもは祖父母から教わるばかりではありません。スマートフォンの使い方を教えたり、新しい言葉を笑いながら伝えたり、「今日はこんなことがあった」と目をキラキラさせて話したりするだけでも、立派な贈り物です。高齢者にとっては、孫の話がそのまま今の社会との接点になることもあります。切磋琢磨というと少し大袈裟に聞こえるかもしれませんが、年齢差のある者同士が互いに刺激を受ける光景は、家庭の中でちゃんと起きています。教える人と教わる人を固定しない。それだけで、家族の会話は随分と豊かになります。

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第3章…良かれと思ってが擦れ違う日~家族に必要なのは会話とほど良い距離感~

家族の中で一番ややこしいのは、悪気のない親切だったりします。高齢者は孫が可愛いからこそ、転ばないように、失敗しないように、危ない目に遭わないようにと先回りしやすくなります。親世代も子どもを守りたい気持ちは同じです。みんな大事に思っているのに、立場が違うだけで見える景色が少しずつズレていく。これが、家の中の小さな擦れ違いの始まりです。

特に高齢者は、経験をたくさん積んでいる分、「こうした方が安全だ」という感覚がしっかりしています。そこは頼もしい反面、子どもの挑戦まで止めてしまうこともあります。木に登ろうとすれば「危ない!」、水たまりに近づけば「やめなさい!」、少し遠くまで歩こうとすれば「疲れるからやめておこう」。気づけば安全第一が前に出過ぎて、子どもの好奇心まで玄関で靴を脱がされることがあります。いや、好奇心は靴下ではないので脱げませんが、萎みやすいのは本当です。

親世代から見ると、「そこまで止めなくても」と感じる日もありますし、祖父母から見ると、「そんなに自由で大丈夫かしら?」と不安になる日もあります。どちらも間違いとは言い切れません。大切なのは、正しい人を決めることではなく、どうすればその子に合う関わり方になるかを話し合うことです。育児の中心は親にあり、その上で祖父母が寄り添う形が整うと、家の空気はグッと穏やかになります。親しき仲にも礼儀あり、とはよく言ったものです。家族だから何を言ってもいい、ではなく、家族だからこそ言い方に気をつけたい場面があります。

会話のコツは、いきなり結論をぶつけないことです。「それは違う」ではなく、「こうすると安心かもね」と置いてみる。「前はこうだった」ではなく、「今はこんな考え方もあるみたい」と柔らかく渡す。たったそれだけで、受け取り方は随分と変わります。家族の会話は、勝ち負けを決める場ではなく、暮らしを気持ちよく回すための“擦り合わせ”で十分なのです。以心伝心を期待し過ぎると、大抵どこかで「あれ、そんなつもりじゃ…」が起きます。ならば最初から、少しだけ丁寧に言葉を渡した方が早いのです。

高齢者にとっても、学び続ける姿勢はとても大切です。年を重ねたから終わりではなく、生涯現役の気持ちで新しい考え方を少しずつ取り入れていく。その柔らかさがあると、子どもとも親世代とも気持ちよく繋がれます。子どもは守るだけでは育たず、放っておくだけでも育ちません。その間にある“ちょうど良さ”を探すには、日々の対話が一番の近道です。和気藹々とまではいかない日があっても大丈夫。言葉を交わす回数が、家族の距離を少しずつ整えてくれます。


第4章…冒険と安心を一緒に連れていく~思い出が増える家族時間の作り方~

高齢者と子どもに共通して似合う時間は何だろうと考えると、答えは割と身近なところにあります。大袈裟な挑戦でなくても構いません。少し外へ出る、見たことのない景色に触れる、いつもと違う空気を吸う。そんな小さな冒険です。旅行と聞くと身構える方もいますが、泊まりがけでなくても十分です。近所よりほんの少し遠い公園、季節の花が見える道、電車に少しだけ乗る外出でも、子どもには探検になり、高齢者には気分転換になります。日常の枠が少し広がるだけで、家族の会話は驚くほど増えていきます。

子どもは新しい景色を見ると、目が先に走ります。あれは何、これはどうして、あっちへ行きたい。好奇心旺盛とはまさにこのことです。一方の高齢者は、昔の記憶や経験と今の景色を結びつけながら歩くことができます。「昔はこうだったよ」「この花はね」と語れる人が横にいるだけで、外出はただの移動ではなくなります。孫は発見を持ち帰り、祖父母は思い出を手渡す。こういう時間は、一石二鳥どころか、家族の絆まで育ててくれるのでなかなか侮れません。気づけば親世代が写真係になっていて、あとで見返したら自分だけ全然写っていない。あれもまた、家族あるあるです。

ただし、楽しい時間ほど準備は丁寧にしておきたいものです。高齢者に無理をさせないこと、親世代と予定や考え方をきちんと合わせておくこと、子どもに何でも買い与え過ぎないこと。この辺りは大切な土台です。思い出作りが目的なのに、帰り道がぐったり大会になってしまっては本末転倒です。余裕のある予定、休める場所、飲み物、羽織るもの。そういう地味な支えがあると、外出は安心して楽しめます。家族時間を長続きさせるコツは、派手さよりも“無理なく笑って帰れること”にあります。冒険心と安全配慮、この両方を連れていくくらいがちょうど良いのです。

そして何より、こうした外出は「何をしたか」だけでなく、「誰とどう過ごしたか」が残ります。豪華絢爛な予定がなくても、ベンチで食べたおにぎりが妙に美味しかったり、道に迷って笑ったり、子どもの一言に高齢者が吹き出したり、そういう瞬間が家族の宝物になります。日々の暮らしに少しだけ風を通すこと。高齢者には前向きな刺激となり、子どもには心の栄養になります。遠くまで行ける日もあれば、玄関先の花を見るだけの日もあるでしょう。それでも良いのです。動ける範囲で、笑える範囲で、一緒に景色を増やしていく。その積み重ねが、家族をじんわり明るくしてくれます。

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まとめ…元気も知恵も分け合える~三世代で暮らしを少しずつ明るくするヒント~

高齢者と子どもは、年齢も立場も大きく違うのに、安心したい気持ちや、自分でやってみたい思い、誰かと笑い合いたい願いには、よく似たところがあります。守ることも大切、任せることも大切。その間で試行錯誤しながら、家族がちょうど良い距離を探していくと、暮らしは少しずつ柔らかくなります。完璧な関わり方を目指さなくても大丈夫です。昨日よりひと言多く話せた、今日は少し気持ちよく出かけられた、その積み重ねが家族の景色を変えていきます。

祖父母の知恵、親の判断、子どものまっすぐな感性。この3つが上手く重なると、家の中には和気藹々とした空気が生まれます。もちろん、毎日が綺麗にまとまるわけではありません。時には気を遣い過ぎて空回りし、時には優しさが少しズレて、「あれれ?」となる日もあります。けれど、そのたびに言葉を交わして、少し直して、また笑えたら十分です。家族は完成品ではなく、暮らしながら少しずつ育っていくチームなのだと思います。

外へ出る日も、家で過ごす日も、心が動く時間はちゃんと作れます。季節の風を感じること、食卓で会話を繋ぐこと、昔話に耳を傾けること、子どもの発見に一緒に驚くこと。そういう日々は、派手ではなくても確かなぬくもりを残します。日々是好日という言葉のように、何気ない一日にも育つものはあります。高齢者にも子どもにも、その人らしい元気の育ち方があり、家族にはそれを見守る楽しさがあります。明日もまた、ほんの少しだけ暮らしに風を通してみたくなる。そんな関係が続いていけば、もうそれだけで十分に素敵です。
(内部リンク候補:『親子って難しいけど終わりはないもんだ~距離と制度の話~』)

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