血は叫ばず流せばいい!?〜デモより献血で怒りよりやさしさかも?

[ 8月の記事 ]

はじめに…怒ってるヒマがあったら血ぃ抜かれてこい

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8月21日が何の日か知ってる?そう、「献血の日」。

え、初耳?そりゃそうだよね。

お祭りもセールもないし、ケーキも出ない。

だけど実はこの日、日本が“血を売る”制度をやめて、“善意で差し出す”という方針に大きく舵を切った、静かな革命記念日なんだよ。

そんな話を聞いて、ふと考えた。

「いま、怒ってる人、多くない?」って。

ニュースを見れば裏金〇〇億円。

米がない。

物価は上がってるのに給料は上がらない。

叫びたいのは分かる。

でもね、叫んでも変わらないことがある。

投票しても、街頭で叫んでも、なぜか何も動かない。

そんなとき、「血でも抜いてもらおうかな」って思ったんだ。

いや、別に破滅的な意味じゃなくて、もっとやさしめのやつね。

献血って、よく考えたらすごい行為だよ。

政治が信用ならなくても、制度がグラグラでも、目の前の命は待ったなし。

血がなければ手術はできないし、輸血がなければ助からない人がいる。

そんな人に、黙って血を差し出す。

これって一番静かで、でも一番“効く”社会貢献なんじゃないかなって。

「献血は社会への静かなデモ」──このフレーズが浮かんだとき、なんだか自分がちょっとかっこよく思えてさ。

怒りのエネルギーを、誰かの命に変える行動。

これ、実はすごく気持ちいいかもしれないよ?

というわけで今回は、8月21日の「献血の日」にちなんで、血の価値とその裏側、そしてちょっぴり笑えてやさしくなれる話をお届けします🩷。

難しいことは抜き。血は抜くけどね。

さあ、始めようか。

赤い液体に託す、ちょっと不思議で、ちょっとかっこいい物語を。

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第1章…昔の血は金の味がした


「血ぃ売って小遣い稼いできた」──そんなセリフが冗談でもなく本当にあった時代があったなんて、今の若者にはちょっと信じられないかもしれない。

実際、昭和のころ、日本では“売血”が普通に存在していて、まさに血は「売れる資源」だった。

コンビニバイトもフードデリバリーもない時代、貧しい人々にとっては、血が最速の現金化アイテムだったわけだ。

でもそれが問題だった。

売るために頻繁に血を抜かれる人たちは、栄養も追いつかないし、赤血球も足りない。

その結果、血の見た目が薄くて黄色っぽくなる──当時、それは「黄色い血」と呼ばれて、輸血しても効果がなく、時には受けた人が体調を崩したり、肝炎なんかの感染症を引き起こすこともあった。

そう、血を売る社会は、命を削って社会を回す危うさを孕んでいたのだ。

そして昭和39年8月21日、政府はようやく気づく。

「これはマズい」と。

そこで打ち出されたのが“献血の推進”。

つまり、金で血を集めるのをやめて、善意でもらおうという方針への大転換。

ここに「売血から献血へ」の大きな流れが生まれた。

ちなみに当時は、暴力団が人を連れてきて無理やり血を売らせていたなんて話もあったらしい。

まるで裏カジノのように、裏献血ルームがあったとか、なかったとか。

お金が絡むと、どうしてもダークな香りが漂い出す。

人間って、血の匂いよりお金の匂いに敏感らしい。

そんなこんなで、血はタダで提供してもらう方が平和だという結論に至ったわけだけど、もちろんそれで全部がキレイになったわけじゃない。

でも少なくとも、誰かが無理やり血を抜かれて、それが回り回って誰かの命を危うくするってことは、かなり減った。

善意で流れる血は、やっぱり温かいし、安全だし、ちょっと誇らしい🩷。

そういうわけで、「昔の血は金の味がしたけど、今の血はたぶんカツカレーの味」と信じたい。

いや、さすがに味見はしないけどね。

きっとあのころの人たちも、今の献血ルームのドリンクバー見たら「え、血じゃなくてジュース取りに来たのかよ」って言うに違いない。

第2章…血液という名の“公認モノポリー”


さて、あなたの大切な400mℓの赤い液体──それ、どこに行くか知ってる?

答えはカンタン、日本赤十字社。

略して“日赤”。

あ、ヒトラーとかじゃないよ。

純日本産の公益法人。

すべての献血は、ここが一括で回収・検査・加工して、日本中の病院へと送り出している。

完全なる“命の物流センター”ってわけ。

なんかこう書くと「命の流通が国に守られてて安心だな~」って思うかもしれないけど、ちょっと待った。

その裏にはなかなか複雑な仕組みがうごめいている。

だってね、善意でタダで集められた血が、医療機関には2万~3万円くらいで届くわけ。

ジュース1本で抜いた血が、まるでブランドバッグばりのプレミア価格で流通してるっていう不思議。

誰も「それっておかしくない?」って大声で言わないけど、たぶんみんな心のどこかで「え、マジで!?」って思ってる。

もちろん、加工や検査や冷蔵保存にもお金がかかるよ。

人件費だってあるし、配送費もバカにならない。

でもさ、ちょっとした感覚で言うと「タダでもらった材料を加工して有料で提供してる構造」って、これ、普通のビジネスなら“立派な利益モデル”って言われるよね。

しかもここ、日本では血の製剤化を日赤が完全独占。

ライバル会社はなし。

つまり、これは“善意と制度の名を借りた、国公認のモノポリー”とも言えるわけで。

で、その仕組みがしれっと「医療費」として保険に組み込まれてるから、患者も病院もあんまりツッコミ入れない。

でもこれってさ、「やさしい顔したラスボスが、国の後ろにしれっと立ってる」って構図にちょっと似てない?

いや、日赤が悪いって話じゃないんだよ。

ただ、「それって誰が本当に得してるの?」って問いは、やっぱり一回くらい投げておいた方が健全じゃないかなって思うの🩷。

ちなみに、日赤の活動自体は災害救助やら戦地支援やら、もう拍手喝采レベルで立派。

でもこの“血”に関しては、ちょっとだけ「見えにくい仕組み」が張り巡らされてて、気づいた人だけが「ん?なんか変だぞ」って立ち止まる。

それでも仕組みは止まらず、今日もどこかで、誰かの善意の血が、加工され、冷やされ、運ばれていく。

そう、まるでサイレント・トレード。

言葉もなく、取引も見えず、でも着実に回ってる。

血は叫ばないけど、社会の構造を透かして見せてくれる。

…ジュースとチョコ1個で、そんな壮大な回路に参加できるって、逆にすごい話じゃない?

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第3章…大学病院はボロいままでなぜか誇らしげ


外観はコンクリートむき出し、エレベーターは「開」ボタン押しっぱなしじゃないと途中で止まりそう、駐車場はどこに停めたか分からなくなるレベルのミステリーダンジョン──これ、どこの廃墟かって?

…いえいえ、日本を代表する大学病院です。

一見して「なんでここだけ昭和から時が止まってるの…?」と感じるこの光景。

けれど、医師や職員はなぜか誇らしげ。

いや、誇りがあるのは素晴らしい。

でも、その天井に今にも落ちそうな配線は、もはや誇りというよりホコリの領域じゃない?と思うのは、私だけじゃないはず。

これ、実は構造的な理由がある。

大学病院って、ただの病院じゃない。

教育、研究、そして高度医療の拠点という“国家的三本柱”を背負った、いわば“医療の国会議事堂”みたいな存在なんだよね。

だからそこには、厚生労働省、文部科学省、学会、製薬企業…いろんなものが絡んでて、建物1つ建て替えるにも許可やら手続きやら会議やらで、建て替える頃には患者より先に建物の寿命が尽きそうな勢いだったりする。

さらに追い打ちをかけるのが、「伝統」という名の呪文。

100年の歴史ある〇〇大学医学部附属病院──なんて看板があると、壊すのも憚られる。

なんかこう…廊下のヒビすら歴史の一部っぽく見えてきて、誰もツッコめない空気感が完成しちゃってる。

それでも患者は来る。

だって「ここにしかできない治療」があるから。

医師も集まる。

研修医たちは寝る間も惜しんで階段を駆け上がる(エレベーターが遅いから)。

そしてその舞台裏では、あの日赤から届いた血液パックが大切に保管されている──それが一袋2万〜3万円って思うと、タイルの剥がれた床で滑って転びそうになる。

なのに、建て替えられない。

広い敷地があるはずなのに、なぜか拡張しても“複雑化”しかしない。

来た時に入った棟と、帰る時に出る棟が違うなんてこともある。

迷路か。

そう、大学病院ってのは、「病気より先に自分を見失う」可能性がある場所なのだ。

でも、そんな“見失いそうな構造”の中にこそ、医療の本気があるとも言える。

最新機器と昭和の階段が共存してるからこそ、「命っていつの時代でも変わらず尊いんだな…」なんて思えたりしてね🩷。

血液の流通も、患者の命も、建物の謎構造も、すべてが重なって医療は動いている。

誰かの善意の血が、ボロいけど誇り高い病院で、誰かの未来を救ってる。

ちょっと感慨深くなってきた?

でも油断してると出口が見つからないから、最後は受付で「こっちです」って案内されるやつ。

…なんで医療の最前線って、いつも一歩手前で迷子になりかけるんだろうね。

第4章…デモより献血!革命より静脈注射


日本の献血といえば、だいたいジュースとチョコとサランラップ。

それか、季節限定の記念品で歯磨き粉とか、クリアファイルとか。

あまりに身近すぎて、もう“自治会の景品感”すら漂う献血の世界だけど──ふと気になった。

「これって、世界ではどうなってるのさ?」って。

まずドイツ。

あの真面目で効率的な国では、献血したら…もらえるんですよ、現金が。

はい、ストレートにユーロが手渡されるスタイル。

ざっくり30ユーロ、日本円にして約5000円。

これはもう、ジュースどころかビール付きのソーセージセットいけちゃう金額。

まさに「命の対価はちゃんと払いますよ」という、合理主義国家のお手本のような姿勢。

真面目っていうか、割り切り方がプロ。

アメリカはもっとすごい。

血漿(けっしょう)だけを抜いて、お金をもらうビジネスモデルが完全に成立している。

大学生が「今月ちょっとピンチなんだよね~」って言って、カフェバイトじゃなく“血液センターに通う”なんていう、資本主義の極まった世界がリアルにある。

1回あたり60ドルくらい。

週2で通えば、月400ドル超え。

もはや血が通う身体が、経済資源。

人間じゃなくて、歩く自動献血機。

一方、イギリス。

ここはまったく逆。

どこまでもクラシックでジェントル。

報酬?

もちろんありませんわ。

献血後に出るのは、紅茶とビスケット。

それでも多くの市民が「わたくし、本日献血をして参りましたの」って感じで普通に参加する。

感謝よりも誇り、対価よりも意志。

まるで“英国紳士の嗜み”のような美学がそこにはある。

血まで気品にあふれているとは…ちょっと嫉妬。

で、日本は?

そう、ジュースとチョコと…なぜかラップ。

善意におにぎり包んじゃうタイプの国民性。

決して報酬ではないけれど、「なんとなく行って、なんとなく人を助けられる」っていう、不思議な温度感がある。

過剰な誇りもなければ、徹底した合理性もない。ちょっとやさしくて、ちょっと抜けてて、でもちゃんと血が届く。

その“ちょうどよさ”こそ、日本らしさなんだろう。

世界を見渡せば、献血は文化。

価値観の投影だ。

お金で流すか、誇りで流すか、紅茶で流すか。

どれが正しいってわけじゃないけど──思うのは、「やっぱり血は人を写す鏡」ってこと。

制度を通して、その国の“やさしさのかたち”が見えてくる。

さて。

次の章では、その“やさしさ”を武器にして、制度ごと揺らしてみようじゃないか──というお話🩷。

やさしさは、時にもっとも賢く、したたかな反抗になるのだから。

第5章…政治家の裏金問題や財務省問題でデモするよりも献血いかない?


ニュースを見れば、裏金〇〇億円。

米が庶民に届かないと米騒動…。

国会では誰も責任を取らず、財務省では“忖度ドリブル”が華麗に決まり続け、国民は「またか」と呟きながら、コンビニのレシートだけ黙って増やしてる。

そんな世の中で、「デモに行こう」なんて言われても、正直ちょっと疲れるよね。

声を上げても、届かない。

叫んでも、変わらない。

シュプレヒコールも、プラカードも、今じゃ画面の中でスクロールされるだけ。

そう、デモの熱量が、国の制度に届くには、少々遠回りすぎるのだ。

だったら、いっそ逆をやってみない?

怒りを抱えたまま、駅前の献血バスに並ぶ。

静かに受付票を書いて、400mℓ、さらりと流す。

社会への最大のカウンター、それが“無償で血を差し出す行為”だとしたら…?

今、日本赤十字社の献血事業は、年間スケジュール制で管理されている。

どこにいつ、何人分の血液が必要か、すでに“予定表”がある。

つまり、計画通りに血液を集め、計画通りに出荷して、医療費の中で「赤い液体の価格」がピタッと組み込まれている。

それって…ものすごく立派な制度。

でも、逆に言えば──“それ以上は集まらない前提”で出来ている。

じゃあ、もしこのスケジュールを壊してしまったらどうなる?

駅前に長蛇の列ができて、血液センターが「処理が追いつきません!」って言い始めたら?

溢れそうになった血液を、なんとか使う方法を考えなきゃいけなくなったら?

在庫が増えたら、病院への供給価格を見直す話にもなるかもしれない。

輸血コストが下がれば、医療費の一部が軽くなる。

患者が払うお金が、ほんの少しでも減る。

そうなると、誰が困る?

…そう、“予定通り”にしか回したくない人たちだ。

でも、誰が喜ぶ?

…医療を受ける患者も、過酷な現場の看護師も、すべての命の現場だ。

つまりこれ、善意の圧力で、制度の歪みを正す一撃になる。

怒ってる?

うん、わかる。

でも、その怒りをそのまま叫んでも、社会の耳はもう慣れてしまってる。

だったらいっそ、静脈から流すように届けよう。

制度が動かないなら、血をあふれさせるしかない。善意で。

本気で献血に人が殺到したら、年間計画は崩れる。

供給バランスは見直され、処理のために設備や人材の再配備が必要になる。

それでも血液が溢れたら──次に起きるのは、価格の再考。

コストの圧縮。

そして、現場への再分配。

そう、これは制度設計に善意の“乱数”を突きつける作戦なんだよ。

多ければ献血車がこっそり休む?それもコスト削減だよね🩷。

浮いたお金はどうなる?

デモは無意味?

うん、そうかもしれない。

でも、やっぱり「じゃあ何もできない」とは、言いたくない。

だったら私は、今日も献血に行く。

ジュースとチョコで笑いながら、400mℓで社会を揺らす。

だってこれが、わたしの静かなるやさしい革命なんだから。

叫ばずに、流せばいい。

それが今、一番効く反抗かもしれないよ。

第6章…行きたくても行けない人がいるから


ここまで散々「献血で制度を揺らせ!」なんて勢いよく語ってきたけれど──

ふと立ち止まって、気づくことがある。

それは、「献血したくてもできない人がいる」ということ。

例えば、毎日欠かさず薬を飲んでいる人。

「これ、病気じゃないし!」って元気に言ったところで、問診票に書いた薬の名前でピタッと止まる。

アムロジピン──聞いたこともある人が多いかもしれない。高血圧に使われる有名な薬だ。

これを飲んでいても、体調が安定していれば献血OKになることもある。

でも、それもケースバイケース。結局、当日の問診で判断される。

薬を飲んでること自体がアウト、というよりも「この血を誰かの体に入れても大丈夫か」がすべての基準になる。

そしてもうひとつ、過去の病歴。

「尿管結石?そんなの昔にやっただけで、今は健康そのものだけど?」

……うん、気持ちはよく分かる。

だけど、たった一度の“結石”の記録も、判断材料になる。

それが「安全かどうか」のラインであれば、仕方ないよね。

それに、体重が足りない、貧血気味、あるいは献血が怖いって人もいる。

あるいは、献血会場の雰囲気が苦手。注射が怖くて行けない。

……そういう気持ち、たぶん一度でも献血に行ったことのある人なら分かると思う。

だからこそ、大切なのは「できる人が無理なく続ける」ことなんだ。

誰かができないことを責めるんじゃなくて、「できる時に、できる人が、やる」。

そんなやさしい世界の方が、ずっと長持ちするし、ちゃんと血も届く。

献血は、ヒーローじゃない。

でも、あなたの一滴が誰かの“今日”を支えることは、本当にある🩷。

だから、できる人が静かに差し出せばいい。

できない人は、そっと応援すればいい。

そのやさしさが、制度の芯を、少しずつ温めていく。

「行けるときに、行こう。」

その一歩が、誰かの体の中で、今日も脈を打ってるかもしれない。

そんな血の巡りこそが、社会の“いのちの環”なんだと思う。

第7章…今日も誰かがあなたの血を待っている


朝、目が覚めて、洗濯機を回して、冷蔵庫の野菜室からしなしなレタスを取り出す。

それが、あの人の“いつも”の朝だった。

でも、その“いつも”はある日、病気や事故で、あっという間に崩れてしまう。

点滴がつながり、酸素マスクがのせられ、「輸血の準備を」──そう声が飛び交う時、必要なのは、最新機器でも、神の手でもない。

たった一つ、**どこかの誰かの“血”**なのだ。

それは、名前も顔も知らないあなたかもしれない。

献血会場でちょっと緊張しながら、「ちょっとチクッとしますよ~」に笑ってうなずいて、400mℓを流した“あの日”のあなた。

そんな見知らぬ誰かの血が、別の誰かの命の中で、「体温を保ち」「酸素を運び」「戦う力を支えている」。

──それって、ちょっとした奇跡じゃない?

献血はボランティアじゃない。

偽善でもない。

それは、ものすごく静かで、でも確かな“誰かへの約束”。

無理せず、焦らず、でも機会があれば、あなたの血、流してあげてほしい。

制度を変えるには、たぶん叫び声より、血流の方が早い。

政治家の裏金も、財務省のややこしさも、転売ヤーの企みも…世界の歪みも、ほんの少しだけ、あなたのやさしさで溶かせるかもしれない🩷。

だって、今日も誰かが、あなたの血を待っている。

それだけは、揺るぎない事実なのだから。

第8章…それでも“信じられる仕組み”を作るために


人は、いちど裏切られると簡単には信じられなくなる。

政治家が50億円の裏金を持っていたって聞けば、誰だって「もう誰も信用できない」って思う。

それでも──病院で自分や大切な人が手術を受けるとき、私たちはきっと、医師を、看護師を、輸血されたその血液の出どころを信じようとする。

信じたいんだ。

本当は、誰もがずっと信じていたい。

「この国には、まっすぐな仕組みがあって、自分の善意がどこかで届くはずだ」って。

でもその“信じられる仕組み”は、誰かが作ってくれるものじゃない。

ちょっとした違和感に気づいた人が、声をあげたり、怒りを持った誰かが、あえて叫ばずに静かに“行動”を選んだり、そんな小さな“信じようとする行為”の積み重ねが、仕組みを育てていく🩷。

献血は、その行為の最前線にあるのかもしれない。

搾取じゃない。

誰かの指示でもない。

自分で決めて、自分の血を預ける行為。

その流れに不信感があれば、ちゃんと目を向けて問い直すこともできる。

「あの建物ボロいけど、大丈夫?」でもいい。

「輸血コストって、どうやって決まってるの?」でもいい。

そうやって、信じようとするからこそ、仕組みが透明に近づいていく。

日本赤十字社や医大病院が、すべて完璧なんて誰も言わない。

でも、あなたがそこに差し出す善意が、そのまま「信じられる社会」への一歩になるかもしれない。

誰かが得をするかもしれない。損をするかもしれない。

それでも、やさしさが「制度になる」未来を信じたい。

そう思える国であってほしい。

血は叫ばずに流せばいい。

でもその流れが、どこにつながってるのか。

これからは、私たちが“見ていく側”でもあるんだよね。


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まとめ…わたしの血はわたしの意思で流すもの


怒りたくなる時代だ。

ニュースを見れば、ため息が出るような出来事ばかり。

「なんでこんな国に…」って思うこともある。

でも、そんな中でも、私たちは静かに、優しく、“何かを変える方法”をちゃんと持っている。

それが「献血」だなんて、ちょっと意外に聞こえるかもしれないけど、これほど“確実に誰かを助ける行動”って、実はなかなかないんだ。

怒って叫ぶより、デモに行くより、ひとり静かに献血に向かう──それだけで、誰かの命の流れに加わることができる。

もちろん、献血は万能じゃない。

献血できない人もいるし、制度そのものも完璧じゃない。

でも、それでもやってみようと思える優しさは、この社会にとって“とても貴重な血管”みたいなものなんだ。

輸血が必要な人がいる限り、どこかで、誰かの血が必要とされている🩷。

そして今日も、誰かが「行ける時に行こう」と小さく勇気を出して、あのバスの階段を登っている。

それでいいんだ。

それだけで、きっと何かが変わっていく。

叫ぶよりも、流そう。

怒りよりも、優しさを。

見えないところで、社会の体温を上げるのは、そんなあたたかい血の巡りなのかもしれない。

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