おむすびは手の平の旅人~時代と世界と家族を結ぶ味~

[ 季節と行事 ]

はじめに…一粒のご飯が人の時間を結ぶ

炊飯器のふたを開けた瞬間、フワッと湯気が上がる。茶碗によそう前に少しだけ手を伸ばして、塩をつけた手の平でご飯を包む。三角でも丸でも、少しくらい形が曲がっていても構いません。おにぎりは不思議なもので、整い過ぎていない方が「誰かが作ってくれた感じ」が残ったりします。

梅干しを入れる人もいれば、鮭を選ぶ人もいる。何も入れずに塩だけで勝負する人もいるでしょう。冷蔵庫を開けて「具になるもの……ないな…」と数秒固まり、最終的に昆布の佃煮へ着地する朝もあります。これも立派な臨機応変。おにぎり界は、意外に懐が深いのです。

けれど、この小さなご飯の塊が抱えているのは、味だけではありません。昔の人が食べた米の記憶があり、困った時に誰かへ手渡されたぬくもりがあり、海を渡ればその土地らしい味へ姿を変え、家の台所では親から子へ、祖父母から孫へと作り方まで渡っていきます。おむすびは、お腹を満たしながら、人と人の時間までそっと結んでくれる食べ物です。

難しい料理なら「ちゃんと作らなきゃ」と肩に力が入りますが、おむすびなら少しくらい不格好でも笑い話になります。「これ三角?」「いや、たぶん山」「山にしては低くない?」――そんな会話まで一緒に出来上がるのです。老若男女、誰かと手を動かして食べる時間には、一期一会の楽しさがあります。

一粒のご飯から始まって、時代を越え、世界を巡り、最後はまた誰かの手の平へ帰ってくる。そんな小さな旅人を追いかけてみると、いつものおにぎりが、今日だけ少し愛おしく見えてくるかもしれません。

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第1章…6月と1月に残るおにぎりとおむすびの記憶

「おにぎり」と「おむすび」。呼び方は違っても、手の平に載るご飯を思い浮かべれば、だいたい同じ姿に辿り着きます。それなのに、日本には6月18日の「おにぎりの日」と、1月17日の「おむすびの日」があります。同じ食べ物なのに記念日が2つ。ご飯界、なかなか主役の座をどちらにも譲りません。

6月18日の「おにぎりの日」には、遠い時代の食卓を思わせる物語があります。石川県の旧鹿西町で、弥生時代のものとされる黒く炭化したおにぎり状の米が出土したことが由来となり、「ろくせい」の「ろく」と、毎月18日の米食の日が結びついて6月18日となりました。

何千年も前の誰かが手にしたかもしれないごはんが、時を越えて現代の記念日に繋がっている。そう考えると、昼食のおにぎりを見つめる目も少し変わります。「あなた、随分と歴史ある家系だったのね」と話しかけたくなりますが、返事はありません。海苔がしんなりするだけです。

そして1月17日の「おむすびの日」には、もう1つの大切な記憶があります。1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。その被災地で炊き出しとして届けられたおむすびと、人々の助け合いを忘れないための日です。寒さや不安の中で差し出された温かなご飯には、相互扶助(互いに助け合って支えること)という言葉だけでは収まりきらない、人のぬくもりがありました。

豪華な料理でなくても良い。皿も箸も十分に揃わない時、おむすびは手渡しやすく、受け取った人はそのまま食べられます。米と水と塩という質実剛健な姿でありながら、そこへ「食べてね」「大丈夫?」という気持ちまで一緒に包めるところが、この食べ物の底力なのでしょう。

6月のおにぎりは遠い時代の暮らしを伝え、1月のおむすびは人が人を支えた記憶を伝えています。同じように見える小さなご飯の中に、片方には歴史が、もう片方には助け合いの記憶が残っている。記念日が2つあるのも、こうして眺めると少しも欲張りには見えません。

今日のお昼におにぎりを1つ食べたなら、それは昔から続いてきた食文化の続きを食べているのかもしれません。そして誰かのために1つ多く握ったなら、その瞬間から今度は自分が「結ぶ側」です。おにぎりの歴史は博物館の中だけではなく、今日も台所の湯気の中で続いています。


第2章…海を越えれば具も形も自由自在!~世界を旅するにぎりご飯~

日本のおにぎりを頭に浮かべると、白いご飯に梅干しや鮭、外側には海苔という姿が思い浮かびます。ところが海を越えてみると、米をまとめて具を包んだり巻いたりする食べ方は千差万別。見慣れた三角形から少し離れただけで、「そこまで入れちゃいます?」と聞きたくなるほど自由な世界が広がっています。

韓国には、三角形に包まれたキンパがあります。中にはキムチや肉、ツナなど様々な具が入り、日本のおにぎりを知っている人なら、売り場で見かけた瞬間にちょっとした親近感を覚える姿です。国境を越えた途端に別人になったというより、「親戚のお兄さん、味付けが随分と元気になりましたね」というくらいの距離感でしょうか。

中国の上海周辺では、もち米で具を包むファントゥアンという食べ方があります。揚げパンや肉そぼろなどを巻き込むこともあり、日本の小ぶりなおにぎりと比べるとなかなか豪快です。朝からこれを手にしたら、こちらも「今日は働きますか…」と背筋を伸ばしたくなりそうですが、お腹だけ先に準備万端になる可能性もあります。

さらにハワイでは、ご飯の上に肉の加工品を載せ、海苔でまとめた「スパムむすび」が親しまれています。日本から渡った食文化との繋がりも語られ、見た目には和と洋が同じご飯の上で握手したような面白さがあります。海苔は海を越えても仕事をしている。しかも、しっかり巻いて離さない辺りが頼もしいところです。

東南アジアまで目を向ければ、ココナッツの風味を生かした甘い米料理も登場します。日本では「ご飯に甘い味?」と少し驚くかもしれませんが、もち米と甘味の組み合わせそのものは決して遠い存在ではありません。おはぎを思い浮かべれば、急にこちら側も胸を張れます。「うちにも甘い米、いました」と。

こうして眺めると面白いのは、おにぎりに似た食べ物が世界中で同じ姿になるのではなく、その土地の食材や好みに合わせて百花繚乱に変わっていくことです。米は形を決めつけないからこそ、その土地の文化を包み込める食材なのかもしれません。中身が変わり、形が変わり、食べる場面が変わっても、「持ちやすくして、美味しく食べたい」という気持ちはどこか似ています。

遠い国の料理を知ることは、珍しい食べ物を集めることだけではありません。「この国の人は、こうやって米を楽しむんだ」と気づけば、いつもの食卓から世界へ小さな窓が開きます。明日のおにぎりに少し変わった具を入れてみるだけでも、台所から始まる小旅行には十分です。飛行機代はかかりません。問題があるとすれば、具を欲張り過ぎると閉じなくなることくらいでしょう。

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第3章…コロコロ転がれば物語が動く~昔話でおむすびが愛される理由~

昔話のおむすびは、どういうわけかじっとしてくれません。お弁当箱の中で行儀よく待っていれば話は平和に終わるのに、コロコロ転がり、穴へ落ち、人や動物を巻き込み、気づけば物語そのものを動かしています。『おむすびころりん』では、お爺さんのおむすびが転がったことから、ネズミたちの世界へ続く不思議な出来事が始まります。

ここが、おむすびという食べ物の面白いところです。宝石なら落とした瞬間に「大変だ!」となりますが、おむすびなら「おっとっと」と追いかけられる。日用品でも武器でもなく、誰もが知っている食べ物だからこそ、奇想天外な出来事へ入っていく入口として親しみやすいのでしょう。コロコロ、ポトン。その2つの音だけで、起承転結の「転」が勝手に走り出します。

昔話を見渡すと、おむすびや食べ物は人の性格を映す道具にもなります。『さるかに合戦』では、食べ物の交換から欲や駆け引きが動き始め、『三枚のおふだ』のような逃走劇では、食べ物が時間や知恵と結びつく場面もあります。 豪華な宝物より、ごく普通の食べ物を使った方が、「自分にも起こりそう」という近さが生まれるのかもしれません。

もし現代のおむすびが昔話へ迷い込んだら、少々困ったことになりそうです。穴へ落ちた鮭むすびを追いかけたら、地下でネズミたちが「次はツナマヨ希望です!」と注文表を持って待っているかもしれません。鬼が追いかけてきても、梅、昆布、明太子と順番に置いて逃げれば、途中から鬼の目的が追跡なのか食べ比べなのか分からなくなるでしょう。昔話という舞台は、少しくらい話が暴走した方が元気です。

それでも、おむすびが物語の中で愛される理由は、笑えるからだけではありません。誰かが作り、誰かが食べるという当たり前の営みがあるから、そこへ欲張りな人、親切な人、困っている人が現れた時、それぞれの心が分かりやすく見えてきます。小さなおむすび1つでも、誰がどう扱うかによって、その人の優しさや欲張りまで物語になってしまうのです。

子どもの頃には「おむすびが転がって面白い話」として笑い、大人になれば「あのお爺さん、追いかけ過ぎでは?」と別のところが気になり、さらに年を重ねると、食べ物を分け合う場面の温かさが心に残る。同じ昔話なのに、読む年齢で味が変わります。おむすびとよく似ています。梅干しが苦手だった子どもが、いつの間にか「やっぱり梅だな」と言い始めるように、物語の味わいも人生と一緒に育っていくのでしょう。


第4章…孫とにぎれば世代も結ぶ~台所から始まる小さなレクリエーション~

家で作るおむすびには、時々、レシピに書けない味が混ざります。塩の量でも具の種類でもなく、「この人が握った」という味です。祖父母のおむすびが妙に美味しく感じるのも、長年の経験だけではないのでしょう。昨日の煮物を刻んで入れたり、余った豆ご飯を迷いなく握ったり、冷蔵庫の中身と相談しながら即興で仕上げる。質実剛健なのに、何故か家庭ごとの個性がきちんと残ります。

そこへ孫がやって来ると、おむすび作りは料理から遊びへ少し姿を変えます。「手に塩をつけて、フワッと握るんだよ」と教えた傍から、出てきたのは三角でも丸でもない謎の物体。「これは……おむすび?」「うん!」「そうか、ならおむすびだ」。この潔さが家庭料理には必要です。形を採点する大会ではありませんから、本人が嬉しそうなら合格でしょう。

力加減も面白いところです。小さな手は一生懸命になり過ぎて、ご飯をギュウギュウ押してしまうことがあります。そこで祖父母の出番。「そんなに頑張らなくて良いよ」と手を添える。その一言には、おむすびの握り方だけではない、暮らしの知恵まで少し混ざっているように感じます。

上手なおむすびを作ることより、一緒に手を動かして笑った時間の方が、ずっと長く心に残ります。世代を越えて同じことをする時間には、以心伝心のような瞬間があります。言葉で細かく説明しなくても、手の動きを見て真似をする。少し崩れたら直してもらう。そして出来上がったら一緒に食べる。それだけで、教える側と教わる側が途中から同じ仲間になっていきます。

高齢者施設でも、この「一緒に作る」という発想はレクリエーションに繋がります。手袋を使い、安全や衛生に気を配りながら、好きな具を選んだり、昔よく作ったおむすびの話を聞いたりする。調理そのものが難しい人でも、「梅が好き」「昔は俵型だった」と話すだけで立派な参加です。レクリエーションは、全員が同じ動きをする時間ではなく、それぞれが自分なりの出番を持てる時間であって良いのです。

さらに面白いのは、おむすびには正解がほとんどないことです。三角、丸、俵型。海苔を巻く人、巻かない人。具を真ん中へ入れる人、ご飯全体へ混ぜる人。祖父母と孫で作れば、「うちはこうだった」「今はこんなのもあるよ」と新旧交代ではなく新旧共演になります。昔の知恵を残しながら、新しい味も受け入れられる。その柔らかさこそ、おむすびが長く家庭に残ってきた理由の1つなのでしょう。

食べ終われば、お皿の上には何も残らないかもしれません。それでも「あの時、一緒に作ったね」という記憶は残ります。おむすびは保存食ではありませんが、思い出の保存にはなかなか優秀です。次に孫が来た日、「また作ろうか」と声をかけられたなら、その台所ではもう次の物語が始まっています。

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まとめ…手のぬくもりは未来へ渡していける味になる

おむすびは、米を握っただけの素朴な食べ物です。それでも長い時間を生き残り、災害の時には人を支え、海を越えれば土地の味をまとい、昔話ではコロコロ転がって物語まで動かしてきました。そして最後に戻ってくるのは、やはり誰かの手の平です。

梅が好きな人もいれば、鮭が良い人もいる。丸く握る家もあれば、三角が定番の家もあります。十人十色のおむすびがあって良いのは、食べ物として完成する場所が台所ではなく、「どうぞ」と誰かへ渡す瞬間だからかもしれません。少し形が崩れていても、「私が握った」と胸を張れば立派な1個です。受け取った側も、そこは細かく採点しないのが平和というものです。

「腹が減っては戦はできぬ」と昔から言いますが、おむすびは空腹を満たすだけでなく、その場の空気まで少し柔らかくしてくれます。親が子へ、祖父母が孫へ、友人から友人へ。言葉にすると少し照れくさい「食べてね」「元気でね」「また一緒に食べよう」が、ご飯と一緒なら自然に渡せます。

おむすびの味は舌で覚えますが、誰と食べたかという記憶は心に残ります。だから何年経っても、「あの人が握ってくれたおむすび」が突然に甦るのでしょう。具が何だったかは忘れているのに、台所の湯気や手渡された時の声だけ覚えている。人の記憶とは、なかなか面白いものです。

これから食卓の形がどれほど変わっても、手の平でご飯をむすぶ風景には残って欲しいものがあります。上手に作る必要はありません。家族で和気藹々と握って、少しくらい不格好なら笑って、そのまま一緒に食べれば十分です。今日の一個が、いつか誰かの「懐かしい味」になるかもしれません。

おむすびは食べればなくなります。でも、結ばれた時間まではなくなりません。次に炊きたてのご飯を見た時は、1つだけ余分に握ってみてはいかがでしょう?渡す相手の顔を思い浮かべた瞬間から、その小さなおむすびには、もう新しい物語が始まっています。

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