焼き肉の日に家族のドラマが網の上で踊りだす!“ジュウ~”の音に心を溶かす夜

[ 8月の記事 ]

はじめに…一皿のカルビに宿る物語

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焼き肉って、なんであんなにテンションが上がるんでしょう。

網の上でジュウジュウと音を立てるお肉に、人はつい黙ってしまう。

じっと焼け具合を見つめて、絶妙なタイミングでひっくり返し、誰かにそっと差し出す。

──あれはもう料理じゃなくて、コミュニケーションです。

そして、年に一度やってくる“肉の日”、つまり八月二九日。

やきにく、ですよ。

語呂合わせ?はい、それだけです。

でもなぜか納得しちゃう。

むしろ「それでいい!」って思わせるこの包容力。

夏の終わり、疲れた心と胃袋に、焼き肉はじんわりとしみてきます。

この物語の主人公は、ちょっぴり生意気で、でもどこか達観した小学三年生の女の子。

彼女の視点で描かれる、ある家族の焼き肉ナイト。

タン塩を一番に頼むのは誰?

カルビが先か、ハラミが先か。

ご飯派とビール派の争い、焼き奉行と呼ばれる父の孤独、そしてばぁばが語る七輪とホルモンの昔話……。

気がつけば、ただのお肉が人生の味に変わっていく。

焼き肉は、家族のドラマを焼く舞台でもあるのです。

さあ、ジュウジュウと音を立てながら、あなたも焼き網の向こう側へ。

物語の煙にまみれて、忘れられない夜をご一緒に──🩷。

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第1章…タン塩から始まる小三の人生観


焼き肉屋に入ったとたん、小学三年生の彼女はメニューも見ずにこう言った。

「タン塩、絶対頼んでね」。

まるで“人生の正解”を知ってる人の顔だった。

いやいや、タン塩っていちばん渋いスタートじゃない?

カルビとか、ハラミとか、もっと子どもらしく肉肉したものを選びそうなもんだ。

でも彼女にとって焼き肉は、すでに“通”の世界だった。

彼女の口ぐせは「タンは最初。口をリセットするの」。

あのさ、それってワインのソムリエが言うやつじゃない?と思いつつ、結局家族全員がその流れに乗せられて「まずはタン塩からお願いします」となった。

レモンを絞って、焼きすぎず、ほんのりピンク色のままお箸でつまむ。

ふぅっと息を吐いてから、ひとくち。

「あ~、これこれ」と言う表情が、もうおっさん。

いや、違うな。

グルメ漫画の美食家だ。

焼き網の向こうで、パパがカルビを焼きながらそっと言った。

「あの子、タン塩だけは譲らないんだよな…」。

ちょっと誇らしげで、でもどこか勝てない感がにじんでいる。

焼き肉って、どの順で食べるかで性格が出る。

タン派は慎重で計画的、カルビ派は本能型、ハラミ派は調整型、ロース派は優等生……と勝手に焼き肉占いを始める彼女に、家族は笑うしかない。

「パパは全部まとめて焼いちゃうでしょ?あれダメだよ。順番って大事なの」

とダメ出しまでついてくる。父の焼き肉哲学、完全に否定された瞬間だった。

それでも誰よりも早く皿に手を伸ばすのは彼女だし、結局は焼けたお肉をパパが取り分けてあげる。

タン塩をきっかけに始まった小さな舌のこだわりは、ちゃっかり家族を焼き肉のリズムに引き込んでいた。

食べる順番にうるさいけど、焼くのは他人任せ。

誰かが焼いたものを“ちょうどいい”タイミングでさらっていく。

これって…ある意味、才能じゃない?

「焼き肉ってね、焼く音が一番おいしいんだよ」

そう言って耳をすます彼女は、まだ小学三年生。

でもその瞳には、“焼き肉を極めし者”の輝きがあった🩷。

第2章…パパは焼き奉行!焼きすぎ地獄の守護神


焼き肉を食べに行くと、なぜか無言でトングを握る男がひとり現れる。

そう、彼こそが“焼き奉行”。

この家ではパパだ。

座って一分、誰に頼まれたわけでもなく網の中央に牛脂を塗りはじめ、勝手に肉を並べる。

顔は真剣。

もはや焼き肉ではなく、戦っている。

「この網は俺のステージだからな」とでも言いたげな背中。

家族がカルビの焼き加減をチラ見しても、「まだだ」と静かに制止する。

トングをひと振り、ひと返し。

その様子はもはや茶道に通じる何かがある。

なのに、である。

焼き加減が絶妙に失敗するのだ。

焦げるか、生焼けか、なぜか“ちょうどいい”が存在しない。

しかも焼いた本人は食べない。

「みんなに先に」なんて言ってるうちに、網の上の肉は無慈悲に固くなっていく。

「パパ、食べないの?」と娘が聞くと、「うん、みんなが喜べばそれで…」と遠くを見る。

いやいや、あなた今、豚トロを鉄板で干物にしてましたよ。

喜べるのは歯の強い人だけです。

しかし不思議と誰も文句を言わない。

というより、文句を言うとパパの焼きテンションが下がる。

それがこの家の“暗黙のタレ”。

多少焦げてようが、脂が落ちすぎていようが、「さすがパパ!」とひとこと言えば、次のロースはちょっとだけマシになる。

焼き奉行は孤独だ。

みんなの笑顔のために焼き続ける。

けれど一口も口に入らないまま、気づけば冷麺タイムが始まっている。

「あれ、俺まだカルビ食べてなかったんだけど…」という小声が網の向こうから聞こえるが、誰も振り返らない。

だからこそ、パパは焼くのだ。

焼きすぎるのだ。

自分の肉は後回し、でも焼きは止めない。

トングを持ったその姿は、まるで肉を焼くことで家族を守ろうとする“焼き肉の侍🩷”。

その背中に、七輪の煙ではなく人生の湯気が立ち昇っていた。

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第3章…ばぁばとホルモンと七輪の記憶と煙の向こう側


娘がタン塩を語り、パパが肉を焼き続けるなかで、ばぁばは静かにホルモンを見つめていた。

皿の上で小さくうねるミノに、何か懐かしいものを感じているような目。

やがて一言、「昔は七輪だったのよ」と、ポツリ。

あの頃、家で焼き肉なんて言ったら、ご近所中に煙の便りが届く時代。

七輪の上に網を置き、新聞紙で火をあおぎ、汗だくになりながら焼く。

「煙が目に染みて泣いたんじゃないの、玉ねぎのせいなのよ」と笑うばぁばに、孫がぽかんと口をあける。

ばぁばが初めてホルモンを食べたのは、学生時代に連れて行かれた路地裏の屋台だったという。

「なんの肉かわからないけど、とにかく安くてお腹いっぱいになって、すっごく元気が出たの」

ホルモンという言葉に、“放るもん(捨てるもん)”という意味があったことなんて、当時のばぁばは知る由もなかった。

ただ、そのぷりぷりした食感と濃い味が、暑さにやられた体に染み込んでいくのを感じたという。

「でね、あのころは“上ミノ”なんて言葉なかったの。みんな“これはミノか?胃袋か?知らんけど焼こう!”ってね」

ホルモンの正体があいまいでも、笑って食べて元気になる。

そういう時代があったのだ。

焼き肉店のタッチパネルに迷わず“ホルモン”を選ぶばぁばの指先には、長年の経験と愛着がにじんでいる。

そして網の上で踊るように焼けるホルモンを見ながら、孫にそっと言った。

「これはね、噛んでるうちに思い出が出てくるのよ」

もしかしたら、焼き肉の煙は“時間を焼き戻す”効果があるのかもしれない。

ひとつの部位が、ただの食べ物を越えて、記憶を呼び覚ます装置になるなんて──焼き肉って、奥が深い。

娘が「あっ、ばぁばのミノ焦げてる!」と叫ぶ。

でもばぁばは笑っていた。

あれくらいが好きなのよ、と言って、パリッとしたミノを噛みしめた。

その表情は、ちょっと昔を旅してきた人の顔だった🩷。

第4章…焼き肉の日ってなんなの?語呂合わせと社会貢献の深焼き事情


八月二九日──やきにく。

語呂合わせと聞いて笑う人もいるけれど、日本人の語呂合わせ力は世界でもトップクラスだと思う。

スイカの日だって語呂合わせ。

パンツの日も語呂合わせ。

そんな中でも、この「焼き肉の日」は何やらジューシーな存在感を放っている。

この記念日、実は一九九三年に全国焼肉協会という団体が制定したらしい。

いや、そんな団体あるんだ?と思いつつ、よく見ると彼らの活動が本気だった。

焼き肉を食べよう!だけでは終わらない。

なんと、この日を中心に、福祉施設のお年寄りや子どもたちを焼き肉に招待するなど、あちこちで“お肉による地域交流”が行われているというのだ。

なんという、優しさのミディアムレア。

肉と共に人の心も焼き上げようというその姿勢に、思わずパパが一言つぶやいた。

「おれもな……老人ホーム行くなら、焼き肉出るとこがいいな」

「まだ三〇年は早いよ」と娘に笑われつつ、でもその気持ちはちょっとわかる。

それにしても、夏バテ気味な時期にスタミナをつけてもらおうと八月二九日に設定したというその配慮、見事である。

まるでカレンダーにこっそり書かれた“元気補給日”。

うなぎで乗り切る「土用の丑の日」、油で元気を取り戻す「天ぷらの日」、そしてたんぱく質の王者・焼き肉で仕上げるこの「焼き肉の日」。

三段構えの夏の救世主として、じつは頼れる存在だったのだ。

家庭では、こうしてワイワイ言いながら網を囲む焼き肉も、どこかの施設では、久しぶりに外出して食べる焼き肉が“生きる実感”になっていたりする。

じぃじがポツリとつぶやいた。「昔、施設の子どもたちに焼き肉ごちそうしたら、みんな、口に入れる前に匂いだけで笑ってたよ」

それを聞いたばぁばが「わかるわ~、煙とタレの匂いって、それだけで幸せになるのよね」と頷く。

焼き肉とは、五感のうち“におい”で勝ってしまう、数少ない料理なのかもしれない。

煙たくてもいい。

ちょっと油が跳ねてもいい。

焼き肉の日は、肉だけじゃなく、人の気持ちも炙り出してくれる。

焼き網をはさんで笑い合える関係があるなら、それだけでこの記念日は大成功🩷。

いや、言い直そう。

大盛り成功である。

第5章…白ごはんvsビール戦争〜焼き肉サイドメニュー戦国時代〜


焼き肉屋に入った瞬間、誰よりも先に口を開いたのは、じぃじだった。

「生ビール、ジョッキで」。

この時点で、娘(小三)の眉毛がピクリと動いたのを、ばぁばだけが見逃さなかった。

「焼き肉にはやっぱり白ごはんでしょう」

主張するのは、あのタン塩通の小学生である。

彼女は焼き肉に対して真摯であり、白ごはんとの調和を至高と信じて疑わない。

タレをまとったカルビを、あつあつの白ごはんの上にのせ、ほんのり肉汁がごはんにしみた瞬間──それをスプーンのようにお箸で持ち上げて、頬張る。

この一連の流れにこそ、彼女の中では“焼き肉道”の真髄があるのだ。

「ごはんを頼むのは、敗北じゃない」

娘は力強く言った。

「むしろ、ごはんの上に肉を置いた時が、勝利の瞬間なの」

その台詞に、パパは口を開けたまま動かなくなり、ビールを片手にじぃじが苦笑する。

「昔はな、焼き肉はビールで流しこむのが男の流儀って決まっててな…」

「いや、胃に流すんじゃないの。タレを米に染み込ませて“育てる”んだよ」

すかさず反論する娘。

焼き肉の主張でここまで世代が分かれるとは。

おしぼりの温度よりも、席順よりも、はるかに深い溝がここにあった。

パパが仲裁に入る。

「まぁまぁ、どっちも正義だよ。肉がうまけりゃ、何と食べてもいいってことさ」

しかし、それを言った瞬間、娘の目が光る。

「それは、焼き方を極めてから言って」

……静かにパパが沈黙する音が、網の上のハラミの焦げる音と重なった。

ばぁばはそんな一幕を見ながら、「昔はごはんに焼き肉をのせるのが贅沢だったわよ」と懐かしそうに言う。

「焼いたホルモンをひときれ、ごはんにのせて、ゆっくり食べるの。もう、それだけでごちそうだったの」

その言葉に、じぃじが「ホルモンとビールの二刀流こそ正解だった」とボソリ。

そして結局、テーブルにはごはんとビールの両方がずらりと並び、家族それぞれの“焼き肉観”が、湯気とともに漂っていた。

もしかすると、焼き肉って“お肉の選び方”じゃなくて、“何と合わせて食べるか”が、その人の哲学をあらわすのかもしれない。

一見なんでもアリのようでいて、そこには家庭ごとのルールと、世代ごとの矜持がある。

白ごはんとビール──その戦いに終止符が打たれる日は、きっと来ない🩷。

けれど今夜だけは、どちらにも、勝利の肉を焼いてあげようじゃないか。

第6章…焼肉奉行と呼ばれたくない男たちへ


「おれ、奉行じゃないからね」

焼き網の前に座ったとたん、パパがそう言い訳めいたひと言を口にした。

誰もまだ何も言っていないのに。

いや、言われる前に身を守っておきたかったのだろう。

“焼肉奉行”──それは誉め言葉のようでいて、責任と緊張がこびりついた称号だ。

かつては堂々とそのトングを握りしめ、中央に陣取っては肉を並べ、ひっくり返し、焼き上げ、他人の皿に肉をスッと差し出す。

そのたびに「いい焼き具合だね~」とヨイショされていたが、それがいつしか「まだ焼けてないのに取ったでしょ」と睨まれたり、「勝手に焼きすぎ」と文句を言われたり、肉より心が焦げるような展開が増えてきた。

だからこそ、焼く。でも“奉行”ではないと言い張る。

たとえるなら、かつて町を仕切っていたが、今はただの通りすがりの元締めのような顔で、静かに焼く。

それでも、ついつい焼き網の中心に肉を置いてしまうのが、パパという生き物なのだ。

「トング持ってる時点で奉行じゃん」と娘にツッコまれ、ばぁばが「奉行っていうか、もう将軍よね」と重ねる。

笑いが起きる。だがパパの手元は、焼き加減の確認を怠っていない。

そして、そっと自分の皿には1枚も乗せない。

それが奉行魂――いや、奉行じゃないって言ってるのに。

そう、焼肉奉行と呼ばれたくない男たちは、“気配りの化身”である。

焼くタイミング、タレの好み、子どもたちのペース……すべてを把握して、まるで舞台裏の大道具さんのように網を操っている。

そして誰よりも早く「冷麺、そろそろ頼む?」と聞く。

流れを読んでいるのだ。

奉行じゃないけど。

でも、本当はちょっとだけ、自分が焼いた肉を「おいしい」って言ってもらいたい。

ほんのり焦げたロースに、「パパの焼き方が好き」とか言われたら、そりゃあもう、顔に出さないように頑張ってニヤける🩷。

焼き肉の鉄則は、“上手に焼く”より“美味しそうに焼いて見せる”こと。

奉行じゃない男たちは、その微妙なポジションで今日も焼き続ける。

「奉行なんて、だれが名乗るもんか」

そう言いながら、結局トングを離せないのは――

誰よりも、焼き肉が好きだからだ。

第7章…カルビは日本語じゃない?焼き肉の言葉と起源の異世界旅行


「カルビって、なんの肉?」

小学三年生の問いに、家族全員が一瞬フリーズした。

あれ、カルビって……なんだっけ?

バラ肉の脂が多いとこ……だよね?

「そうそう、アバラのへん」とパパが言えば、「でも“カルビ”って日本語じゃないのよ」とばぁばがさりげなく訂正する。

そう、カルビは日本語じゃない。これは韓国語の“갈비(カルビ)”=アバラ骨から来たものなのだ。

そもそも焼き肉の世界、知ってるようで知らない“外来語だらけのメニュー表”で成り立っている。

ロース?

あれは英語の“roast(焼く)”に由来してるっていう説もあるけれど、日本では実際には「肩ロース」「リブロース」みたいな部位をまとめて“ロース”と呼んでる。

もはやジャンルじゃない、略称と化した世界だ。

ハラミ?

あれは横隔膜。

内臓扱いなのに、赤身肉っぽくて人気。

部位としての名前だけど、由来は“腹の身”という日本語説が有力。

ミノ?

牛の胃袋の第一番。

名前の響きだけは可愛いけど、実際は“内臓王国”の門番的存在。

「じゃあ、ホルモンって?」

この質問に、じぃじがゆっくり口を開く。

「それはな……“放るもん”から来とる」

放る=捨てる、つまり昔は捨てられていた部位。

だけど、それを拾って焼いた人がいた。

そして、それがうまかった。

貧しさの中から生まれたごちそう。

味付けも工夫された。

タレに漬け込んで臭みを消し、噛めば噛むほど味が出る。

いつしか“ホルモン”は、焼き肉メニューの花形に昇格した。

焼き肉って、異国の言葉とローカルな知恵が混ざり合ってできた“食の交差点”だと思う。

外国語の部位名に、日本式の味付けと網焼きスタイル。

さらには鉄板、七輪、焼き網、無煙ロースターといった道具の進化も含めて、焼き肉はどんどん多国籍になっていった。

それでも“焼いて食べる”というシンプルな行為の中に、言葉の旅路が詰まっているのが面白い。

語源を知っても、結局「うまけりゃいい」ってなるんだけど。

でも、次にカルビを焼くとき、ちょっとだけ頭の中で“갈비”とつぶやいてみてほしい。

いつもの肉が、ちょっとだけ“世界旅行中のごちそう🩷”に感じられるかもしれない。

「ねぇ、わたし“갈비”もう一枚食べたい」

娘が得意げに言う。

その瞬間だけは、焼き肉屋が小さな国際空港みたいに見えた。

第8章…焼く音は五感のオーケストラ〜脳がときめく理由〜


「ほら、聞いて。焼ける音が鳴ってきた」

小学三年生の娘が小声でそう言うと、みんなピタッと会話を止めた。

網の上で脂がはじける、あの“ジュウ〜〜ッ”という音。

誰もが耳をそばだて、思わずごくりと唾をのむ。

この音を聞くだけでお腹がすいてしまうのは、もはや条件反射レベルだ。

「この音、学校のチャイムより大事だよね」と娘がつぶやいたとき、誰もがうなずいていた。

まさに、五感が総立ちする瞬間。

香りが鼻腔をつき抜け、目の前で焦げ目がつき、音が食欲を煽り、トングを持つ手が自然と動く。

この現象、科学的にもきちんと説明がつくそうだ。

音と香りが“視覚以外の食欲スイッチ”を押すらしい。

ばぁばが言う。

「昔はこの音が聞こえると、子どもたちが勝手に集まってきたのよ。七輪の煙の向こうから“なんか焼いてる?”ってね」

つまり焼き肉は、視覚よりもまず“聴覚で始まるごちそう”だったのかもしれない。

見た目がどれだけ豪華でも、音が鳴らなければ、焼き肉じゃない。

じゅうじゅうと脂がはじけるあの一瞬に、肉はただの食材から“主役”へと昇格する。

パパがしみじみと語る。

「焼き肉ってさ、シタタル感で腹が減るんだよな」

汁したたる感。

そう、それこそがジュウ〜の正体。

焼ける音が肉の旨味を宣伝し、香りが理性を崩壊させる。

気がつけば、会話なんてどうでもよくなる。

肉と音しか見えない、聞こえない。

娘が、「この音、録音して目覚ましにできないかなぁ」と言い出した。

それを聞いて、ばぁばが爆笑する。

「それじゃ朝から焼き肉になるわよ!」

でも……想像すると、なんだか悪くない。

目覚まし時計からジュウ〜と聞こえてきて、「カルビが焼けてます」とアナウンスされたら、飛び起きる自信がある。

焼き肉とは、舌で味わう前に、耳と鼻で恋に落ちる食べ物。

「味」だけじゃ説明できない魅力がそこにある。

そしてその音は、ただの肉を“待ち遠しい時間”に変えてくれる。

焼けるのを待ちながら、家族が無言で耳を澄ます。

その沈黙すら、もうすでにおいしい🩷。

第9章…冷麺はじめました〜なぜ最後に冷たい麺を求めるのか〜


肉が焼けて、脂がはじけて、白ごはんもおかわりした。

ハラミにタレを絡めてもう一枚……なんて言いながら、そろそろお腹も満ちてきた頃。

そこに、ふと登場するのが、あの存在。

「冷麺、ひとつください」

この瞬間の空気が変わる感じ、なんとも言えない。

炭火の熱で火照った体と、タレの濃さに染まった舌が「そろそろ水をくれ…」と静かに訴えかけるなかで、あのキンと冷えたスープとコシの強い麺が、全身をスーッと駆け抜ける。

焼き肉という炎の祭りのあとに訪れる、氷のプリンス。それが冷麺なのだ。

小学三年生の娘が「なにこれ、ラーメンの親戚?」と首をかしげると、ばぁばがうれしそうに教えてくれる。

「これはね、焼き肉の締めくくりの儀式みたいなもんなのよ」

その言葉に、娘はますます混乱する。だって、焼いた肉のあとに“冷たい麺”って、なんか反対っぽい。

だが、実際に一口すすれば、考えは一変する。

「えっ、なにこれ…つるつるなのにシャキシャキ!」

そう、あの独特の麺の食感と、冷たいスープの清涼感は、焼き肉で戦った者たちだけに許されるご褒美。

脂まみれだった舌がリセットされ、胃袋が「まだイケる」と錯覚し、気がつけば、スープまで飲み干している。

「これ、デザートじゃないの?」と娘が言うと、パパが笑いながら答えた。

「いや、これはリセットボタンだな」

家族みんながうなずく。

熱の残るテーブルに、冷麺の器が置かれると、まるで風が通り抜けるような静けさが生まれる。

肉の余韻に、氷がカランと鳴る。

その音に、焼き網のジュウ〜もどこか懐かしく聞こえる。

ばぁばがそっと言った。

「冷麺はね、“ごちそうさま”を言う前にする深呼吸みたいなものよ」

娘はその意味がよくわからないながらも、うんと頷いて麺をすすった🩷。

焼き肉の物語が、冷麺という静かなエピローグで幕を閉じようとしていた。

第10章…煙まみれの正義〜臭いと服と戦う焼き肉戦士たち〜


焼き肉は戦いである。

肉と脂と網の熱、そして…煙。

忘れた頃にやってくるのが、この“香りの刺客”である。

会話も終盤、冷麺の器にスプーンが沈みかけたそのとき、娘がひと言、「わたし、ちょっと焼き肉のにおいする?」

それを聞いた瞬間、パパとママとじぃじとばぁばが一斉に自分の服をくんくんし始めた。

誰もが口に出さないけれど、**“ああ…やっぱりついてる”**という絶望的な気配が漂う。

パパのシャツは、焼いたカルビの証言者のように煙の記憶を握りしめ、ママの髪には、なぜかミノの脂の残り香がしぶとく絡みついていた。

「えー!この服、明日着ようと思ってたのに~!」と叫ぶ娘に、ばぁばがニヤリと笑う。

「それが焼き肉の洗礼よ🩷。ようこそ、こっち側へ」

じぃじが昔話を始めた。

「若いころな、デートの前日に焼き肉行って、服のにおいが抜けなくて振られたことがある」

「それ絶対、においだけじゃないよ」とパパがぼそっと突っ込むと、家族全員が爆笑した。

笑いながらも、みんな心の中では「帰ったら即洗濯」「消臭スプレー出動」とシミュレーションを始めていた。

煙は、焼き肉の勲章ともいえる。

でもその勲章、次の日の電車の中でふんわり香ったら話は別だ。

「あの人、昨日焼き肉行ったな…」と周囲にささやかれるその恥ずかしさ。

そして焼き肉の記憶が、布と髪とバッグにねっとりと残る。

もはやファッションではない。“焼き肉の亡霊”とでも呼ぶべきか。

そこで娘が「焼き肉用の服があればいいのに」と言い出した。

「煙をはじく、においを寄せつけない、しかも可愛い服」

そのアイデアに、ママが目を輝かせる。

「あら、それ売れるんじゃない?」

焼き肉とファッションの融合。それは新しい産業革命かもしれない。

それでも、焼き肉の煙はやっぱりどこか愛しい。

服についたにおいすら、「あー昨日は焼き肉だったな」と思い出させてくれる。

においは迷惑、でもちょっとだけ幸せのしるし。

「また行こうね」と言いたくなる残り香。

焼き肉とは、胃袋だけじゃなく、クローゼットにまで爪痕を残す存在なのだ。


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まとめ…焼けば焼くほど家族になる


焼き肉の煙にまみれながら、笑って、つっこんで、黙って、焼いて。

トングをめぐる攻防、タン塩をめぐる主導権争い、冷麺で締める静かな団結――

気がつけば、ひとつのテーブルの上で、まるで人生をぐつぐつ煮込んだような時間が流れていた。

焼き肉は、決してただの“食事”ではない。

お皿に並んだ肉の部位以上に、そこには人それぞれのこだわりがあり、記憶があり、役割がある。

小学三年生の少女が見つめる焼き網の世界は、ちいさな哲学の宝庫だった。

焼く順番にうるさいのも、タン塩をリスペクトするのも、ロースを焦がすパパに軽くため息をつくのも――

すべては家族というチームの中で、笑って受け入れられていく。

そしてそのチームを支えるのが、焼き肉の“ジュウ〜”という音だ。

あの音が鳴るだけで、人は一瞬、争いを忘れて焼き加減を見つめる。

肉が焼けていく様子は、どこかで誰かの気持ちも焼き直してくれているようだ。

ばぁばのミノには昭和の風景が詰まっていて、じぃじのビールには青春の苦味が泡立っていた。

ママのサラダはこっそり肉の脂を中和し、娘のひと言が焼き加減の全てを支配していた。

そしてパパは、奉行と呼ばれたくない奉行として、黙ってトングを握っていた。

焼き肉は、網の上のドラマだ。

焦がしたハラミも、焼きすぎたロースも、妙に冷えた冷麺も――

全部まとめて、「おいしかったね」と笑い合えるのが、家族という焼き肉劇場の魅力。

香ばしさは、幸せの証。

服にしみついたにおいすら、ちょっと名残惜しくなるのが焼き肉の日🩷。

八月二九日、やきにく。

語呂合わせから始まったこの記念日が、こんなにも温かく、笑いに満ちた夜になるとは思わなかった。

肉が焼けるたび、家族の関係も少しずつ焼きほぐれていく。

焼けば焼くほど、味が出る。

焼けば焼くほど、家族になる。

そんな焼き肉の夜を、またいつか、同じ席で。

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