腕のセンサーと食卓の自由~糖尿病と長く付き合う時代の話~

[ 家族の四季と作法 ]

はじめに…散歩道でふと考えた糖尿病と機械のこと

近所を歩いているとき、最近ふと気づくことがあります。腕に小さな丸いセンサーを貼り、もう片方の手には細長い端末やスマートウォッチをつけているご高齢の方が、ゆっくりと散歩をしている光景です。パッと見ただけでは分かりませんが、それは糖尿病と付き合うための新しい道具かもしれません。

少し前まで、糖尿病と言えば「指先を針で刺して血糖を測る」「決まった単位のインスリンを自分で注射する」というイメージが強かったように思います。病院では管理表と食事の指導が配られ、冷蔵庫の扉に貼って、それを守ることが「頑張ること」だと教えられてきました。好きな物を前に、迷いながら量を減らしたり諦めたりしてきた人も少なくありません。

ところが今は、腕に貼ったセンサーが1日中、血糖の変化を記録し、診察の時には医師のパソコン画面にグラフがズラリと並ぶ時代になりました。手首のスマートウォッチは心拍や歩数、睡眠時間まで教えてくれます。道具の進歩だけを見ると、まるで未来の物語のようです。

それでも、生活している本人の気持ちはどうでしょうか。長い年月、食事療法の指導を守り続けてきた人ほど、「これは食べてはいけない」「この調理法でないとだめ」と、自分を縛るルールが心の中に染み込んでいます。高齢になると体の吸収力や筋力は落ちていくのに、若い頃の厳しい管理表だけが、いつまでも変わらず目の前に貼られたままということもあります。

技術は進んでいるのに、食卓の自由はどれくらい取り戻せているのか。命を守るための制限と、その人らしい楽しみとの折り合いは、どこでつければいいのか。そして、便利な機械を使えるかどうかが、お金や情報の差で決まってしまう現実を、このまま見過ごして良いのか。

この文章では、腕のセンサーやスマートウォッチといった新しい道具の話と、長年続いてきた食事療法の歴史を、ゆっくり振り返りながら整理してみます。糖尿病と長く付き合う時代に、「血糖を下げること」だけではなく、「どんな風に生きていきたいか」という視点を、もう一度真ん中に置いてみたいのです。

医療者として関わる人も、家族として支える人も、当事者として暮らしている人も。誰か一人の物語ではなく、「こんな見方もあるのか」と肩の力が少し抜ける切っ掛けになれば嬉しいです

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第1章…40年続く管理表と飽食の時代のちぐはぐ

糖尿病の食事療法というと、多くの人が思い浮かべるのは「管理表」ではないでしょうか。一日のエネルギー量、主食の量、副菜の回数、油の使い方、間食のルール。びっしりと書き込まれた紙を渡されて、「この通りに頑張りましょうね」と言われる。冷蔵庫の扉にマグネットで貼られて、家族全員がその紙を意識しながら食卓を囲む。そんな風景は、ここ数十年、日本のあちこちで繰り返されてきました。

ところが現代は、テレビを点けても、スマホを開いても、美味しそうな食べ物の映像や写真が溢れています。コンビニに行けば、新作スイーツや期間限定の味が並び、スーパーには世界各国の加工品やお惣菜が山ほど並びます。外食チェーンは24時間いつでも開いていて、デリバリーなら家から一歩も出ずにこってりしたメニューを注文できます。まさに「選び放題」「食べ放題」と言いたくなる時代です。

そんな中で、「あなたはこの表の中の食材、この調理法、この量で頑張ってください」と言われる。頭では分かっていても、心のどこかで「自分だけ別世界に生きているみたいだ」と感じてしまう人もいると思います。家族が目の前で好きな物を頬張っているのを見ながら、自分は管理表のマス目とにらめっこをする。その繰り返しが、年単位ではなく、何十年も続くこともあります。

若い頃であれば、「子どもを育てなきゃ」「仕事もあるし、倒れるわけにはいかない」と、自分を奮い立たせてルールを守る原動力がまだ残っています。自分の将来のために、家族のために、長く元気でいたいという気持ちも強い時期です。「今だけ我慢すれば、きっと良いことがある」という希望も持ちやすいでしょう。

しかし、これが40代から始まり、60代、70代、80代と、何十年も続いていくとどうでしょうか。周りの人は退職して自由な時間を楽しみ、旅先でご当地グルメを味わったり、孫と一緒に甘い物を食べたりしている。その一方で自分は、「そのメニューは控えた方が良いですよ」と何度も言われ、習慣付けられてきた管理表が頭から離れない。気がつけば、食卓を前にした時の最初の感情が「楽しみ」ではなく「数字」と「計算」になっている。

さらに難しいのは、この管理表が多くの場合、「一般的な成人」をモデルに作られていることです。それをそのまま、体力が落ちてきた高齢期にまで引き伸ばしてしまうと、体にとってはきつくなることがあります。体の吸収力や筋肉量は、年齢と共にどうしても落ちていきます。少し食べなかっただけで体重が落ちてしまったり、ちょっとした動きでふらつきや疲れを感じたり。そんな変化が出てきているのに、若い頃と同じ線引きのまま「これ以上は食べてはいけません」と言われ続ければ、低血糖や栄養不足の危険も高まってしまいます。

もちろん、医療者が「意地悪をしたくて制限をかけている」わけではありません。血管や神経、目や腎臓を守るために、血糖を出来るだけ安定させたい。合併症で苦しむ人を一人でも減らしたい。そう願っているからこその管理表です。それでも、紙の上で整理された「理想の数字」や「標準的な一日」が、そのまま一人一人の日常にぴったり当てはまるとは限りません。

本当は、その人の暮らし振りや体調、仕事や介護の負担、経済的な事情、住んでいる地域の食材事情まで含めて、「あなたの場合はこうしましょう」と調整していく必要があります。ところが現場はいつも忙しく、外来でゆっくり話せる時間は限られています。結果として、「多くの人にとって安全そうな最低ライン」をプリントにして配り、「守ってくださいね」で終わってしまうことも少なくありません。

飽食の時代に、画一的な管理表を片手に何十年も頑張ってきた人たちは、ある意味とても強く、真面目で、忍耐強い人たちです。その頑張りのおかげで、合併症の進行を遅らせてこられた面もたくさんあります。でも同時に、「ここまでよく頑張ってきたから、そろそろルールの方を体に合わせてあげても良いのではないか」という視点が、もっと語られても良いのではないでしょうか。

この章では、「40年続く管理表」と「何でも手に入る今の食環境」という、2つの現実の間にあるちぐはぐさを見つめ直しました。次の章では、指先を刺していた時代から、腕のセンサーや機械が登場してきた今までの流れをたどりながら、「道具の進歩」がこのちぐはぐをどこまで埋めてくれるのか、そして埋めきれていない部分はどこに残っているのかを考えてみたいと思います。


第2章…指先のチクチクから腕のセンサーへ~血糖管理の今~

糖尿病と言えば、まず思い浮かぶのが「指先のチクチク」かもしれません。小さな針で指を刺して、滲んだ血を小さな紙にのせ、測定器に差し込む。数字が表示されるのを息をのんで待つ。日々の暮らしの中で、そんな場面を何度も繰り返してきた人は少なくないはずです。

この自己血糖測定は、登場した当時は大きな進歩でした。それまでは病院で採血しなければ血糖の変化が分からず、「診察の日だけの数字」で治療方針を決めるしかありませんでした。それが自宅でいつでも測れるようになったことで、「朝は高め」「夜は低め」「このお菓子を食べるとグッと上がる」といった、その人ならではの癖が見えるようになりました。数字が見えることで、食事や運動の工夫もしやすくなり、多くの人の助けになってきました。

ただ、この方法にはどうしても限界があります。1つは、指先を刺すという負担です。1日に何回も針を刺していると、指の腹が固くなって痛みが続いたり、どうしても「今日はもういいか」と測定をさぼりたくなる日も出てきます。もう1つは、「測った瞬間」しか分からないという点です。朝と寝る前に測って数字が安定していても、日中に上がり過ぎていたり、夜中にひっそり下がり過ぎていたりしても、その時間帯に測らなければ見えないままです。

そんな背景があって登場したのが、腕に貼って使うタイプの持続血糖測定システムです。上腕の外側などに小さな円盤型のセンサーを貼りつけると、皮膚の下の間質液の糖の濃さを、数分おきに自動で測り続けてくれます。リーダーやスマートフォンをかざせば、その時の値だけでなく、1日中の上がり下がりをグラフで見ることが出来ます。診察の時に医師のパソコンにデータを取り込めば、「この時間帯にいつも上がっている」「夜中に何度も下がっている」といったパターンもひと目で分かるようになりました。

これによって、指先の自己測定だけでは見えなかった世界が見えてきました。例えば、「朝ご飯を軽めにしているのに、午前中の血糖が高い」「夕食後に少し歩いただけで思った以上に下がっている」「夜間に何度もギリギリのラインまで落ちている」といった動きです。こうした細かな変化は、その人の生活スタイルや体質、筋肉量、使っている薬の種類によっても違います。腕のセンサーは、その違いを絵のように見せてくれる道具と言えます。

そこに最近は、手首のスマートウォッチや活動量計も加わりました。心拍数や歩数、消費したエネルギー量、睡眠時間や睡眠の質まで教えてくれる機種も増えています。これらの情報と血糖のグラフを重ねて眺めると、「いつもよりよく歩いた日は、ここで少し下がりやすい」「夜更かしが続いた日の翌日は全体的に高め」といった繋がりが見えてくることもあります。体の中で起こっていることが、「気のせい」ではなく、数字やグラフとして確認できるのは、大きな安心に繋がります。

一方で、こうした機械には「持つ人」と「持てない人」が生まれてしまうという側面もあります。センサー本体は医療保険の対象になる場合もありますが、条件が決まっていて、誰でも同じように使えるわけではありません。自己負担の割合によっては、毎月の費用がかなりの負担になることもあります。そもそも、こうした機械の存在を知らないまま、これまで通り指先の自己測定だけでやりくりしている人もたくさんいます。病院ごと、医師ごとに積極度も全く違うため、「同じ街に住んでいるのに、受けられる選択肢がまるで違う」ということも起こり得ます。

海外に目を向けると、機械の使われ方にもまた違った特徴があります。腕のセンサーとインスリンポンプを組み合わせて、自動的にインスリンの量を細かく調整してくれる仕組みが普及しつつある国もあります。一方で、医療費が高く、保険に入っていない人はそもそもそうした機器に手が届かないという現実もあります。機械としてはとても高度であっても、使える人と使えない人の差が広がるほど、同じ病気を抱えた人同士の間に、新しい別の不公平が生まれてしまいます。

日本でも同じように、「指先のチクチク」から「腕のセンサー」へと道具は進歩してきましたが、その恩恵をどこまで広く届けられるかはまだ途上です。便利な機械があるからこそ、「これを使えるかどうかはあなたのお財布次第」という空気になってしまうと、本来の目的から離れてしまいます。血糖管理のための道具は、誰かを選別するためのものではなく、患者の一人一人の暮らし、人生や楽しみ、尊厳を守るためのもののはずです。

指先の測定も、腕のセンサーも、どちらも糖尿病と付き合うための大切な相棒です。大切なのは、「どちらが正しいか」を決めつけることではなく、その人の生活、年齢、体力、家族の支え方などに合わせて、現実的に続けられる方法を一緒に探すことではないでしょうか。機械が見せてくれる数字やグラフは、患者と医療者の間の対話を深めるための材料であって、頑張りを評価するための点数表ではないはずです。

次の章では、「体の年齢」が進んだ時に、どんなリスクが高まるのか、そして高齢期の糖尿病では本来どのような“緩さ”が必要なのかを見ていきます。血糖の数字だけでは測れない、暮らし全体のバランスについて、一度立ち止まって考えてみたいと思います。


第3章…高齢になった体と低血糖~それでも続く一律の食事指導~

若い頃に糖尿病と診断され、40代から食事療法を続けてきた人が、そのまま70代、80代になっていく。体の中では、ゆっくりと、しかし確実に変化が進んでいます。ところが、机の上に置かれた管理表や、最初に教わったルールだけは、ほとんど姿を変えずに目の前に残り続けることがあります。そこに、高齢期の糖尿病ならではの難しさが潜んでいます。

年齢を重ねると、まず変わってくるのが「食べる量」と「吸収の力」です。若い頃は、多少食べ過ぎても翌日に動いて調整できたかもしれません。ところが70代を過ぎると、そもそもお腹が空き難くなり、小食になっていきます。胃腸の動きもゆっくりになり、同じ量を食べても、栄養として取り込める割合が少しずつ落ちていきます。筋肉の量も減っていくため、同じ体重に見えても、体の中身はすっかり違ってきます。

それでも、若い頃に配られた管理表のイメージが強い人ほど、「ごはんはこれ以上増やしてはいけない」「おかずはこのくらいにしておかないと」と、自分で自分にブレーキをかけ続けてしまうことがあります。血糖を上げてはいけない、という意識が強いあまり、「少なめ、控えめ」を選ぶことが癖になっているのです。そうすると今度は、血糖が下がり過ぎる「低血糖」の危険が、じわじわと大きくなってきます。

低血糖は、数字だけを見ると「一時的に下がっただけ」と感じられるかもしれませんが、高齢の体にとっては深刻な出来事になることがあります。ふらついて転びやすくなったり、夜間に意識がぼんやりしてトイレで転倒したり。記憶力や判断力に一時的な影響が出て、「何となく元気がない日」が増えたりすることもあります。こうした小さなトラブルが重なって、自立した暮らしを手放さざるを得なくなる人もいます。

本来であれば、年齢が上がるほど、「血糖を下げ過ぎないこと」「低血糖を防ぐこと」を大切にする方向に、治療の目標を少しずつ調整していく必要があります。実際、多くの専門家向けの考え方では、高齢者では若い人ほど厳しい数値を目指さなくてもよい、とされています。合併症の状態や、一人で暮らしているのか、家族が傍にいるのか、といった生活背景も含めて、「その人にとって一番安全なライン」を探すことが勧められています。

ところが現場では、この「目標の切り替え」がうまく伝わっていないことが少なくありません。長年通っている外来では、患者の側も医療者の側も、お互いの「頑張り」をよく知っているからこそ、「ここまでしっかり続けてこられましたね。これからも今の調子で」と声を掛けてしまいがちです。患者の側も、「今さら緩めてくださいなんて言ったら先生に申し訳ない」「自分がサボったと思われるのでは」と心のどこかで感じてしまい、「若い頃のまま」の目標を抱え続けてしまうのです。

食事指導も同じです。本当は、高齢期の食事指導は、「血糖を上げない工夫」だけでなく、「きちんと栄養をとって、痩せ過ぎや筋力低下を防ぐ工夫」とセットで考える必要があります。にもかかわらず、一度刷り込まれた「これはダメ」「これは控える」というメッセージだけが強く残り、「年をとって食が細くなったのに、食べる内容までずっと制限されたまま」という状態が続いていることがあります。

例えば、若い頃は「油ものは控えめに」「甘い物は出来るだけ我慢して」と指導されてきた人が、80代になっても同じように自分を縛っているとします。体は痩せてきて、階段を上がるのもやっと、という状態なのに、それでも「ケーキを食べたいと言ったら家族に怒られる気がする」「外食に誘われても、頭の中で管理表がちらついて楽しめない」と感じてしまう。これは、数字の上では「良好なコントロール」に見えても、暮らしという面ではとても窮屈です。

腕のセンサーやスマートウォッチのような新しい道具は、本来こうしたズレを見つける手助けにもなり得ます。例えば、日によって歩いた距離が違う人なら、「よく動いた日はここで血糖が下がりやすい」「しんどくて一日中、横になっていた日は、ここであまり下がっていない」といった傾向がグラフで見えてきます。夜間の低血糖が多い人なら、「夕食をもう少し増やしていいのでは」「寝る前のおやつを調整した方が安全では」といった具体的な相談も出来るようになります。

ただし、この道具を使うかどうかが、お金や情報の有無で決まってしまう現状では、「個別の調整」が出来る人と、「昔ながらの一律のルール」の中で頑張り続ける人の差が広がる心配もあります。本当は、特別な機械がなくても、「最近食が細くなってきた」「体重が減ってきた」「ふらつきやぼんやりが増えた」といった変化があれば、それだけでも食事と薬のバランスを見直すサインのはずです。

高齢期の糖尿病では、「きちんと守る」だけでなく、「状況に合わせてゆるめる勇気」も大切になります。緩めることは、決して投げ出すことではなく、「これからの体に合わせた作戦変更」です。長い年月、真面目に頑張ってきた人ほど、本当は、誰よりもそのくらいのご褒美を受け取っていいのではないでしょうか。

次の章では、機械やお金、情報の格差が広がる中で、それでも日々の生活の楽しみをどう守っていくかを考えていきます。血糖の数字だけでは測れない「暮らしの豊かさ」と、医療の進歩との付き合い方について、もう少し踏み込んでみたいと思います。


第4章…機械とお金と情報格差~それでも守りたい生活の楽しみ~

腕のセンサーやスマートウォッチ、インスリンポンプや高価な薬。糖尿病の世界には、ここ数年で一気に“機械と技術”が流れ込んできました。血糖のグラフは細かく描かれ、歩数や心拍、睡眠まで数字で見えるようになりました。雑誌やインターネットでは、「これを使えば毎日の管理がぐっと楽に」といった紹介も増えています。

けれども、ふと立ち止まって周りを見渡すと、誰もが同じようにそれらを使えているわけではありません。同じ診断名でも、最新の機械を腕につけている人もいれば、今も指先の自己測定と古い管理表だけで頑張っている人もいます。通っている病院や、担当医の考え方、保険の条件、家計の余裕、家族の理解。様々な要素が重なって、「使える人」と「使えない人」の線が、いつの間にか引かれてしまうのです。

例えば、腕のセンサー。条件を満たせば医療保険の対象になることもありますが、対象外の人は自費での利用になります。自己負担が3割であっても、毎月のセンサー代は決して小さくありません。そこに診察料や薬代、通院の交通費まで加わると、年金生活の家計にとっては重い数字になります。一方で、「せっかく便利な物があるのだから」と迷わず導入できる人もいます。同じ街に住んでいても、見えている風景がまるで違うのです。

情報の差も、静かに影響を及ぼしています。糖尿病について調べることに慣れている人は、新しい薬や機械、食事の考え方が変わりつつあることを早めに知ることが出来ます。相談しやすい家族や、医療者との繋がりがあれば、「自分の場合も使えるか」「今の治療に合うかどうか」といった具体的な話題に進むこともできます。けれども、情報に触れる機会が少ない人は、今もなお「昔教わったルール」だけを頼りに、一人で頑張り続けていることがあります。

こうした格差は、誰か一人の努力不足で生まれるものではありません。医療費をどう配分するかという国全体の仕組み、病院ごとの方針、地域の医療資源の多さ、生活を支える社会保障の厚さ。様々な要因が絡み合って、「ここまでなら公的に支えます」「ここから先は自分で頑張ってください」という見えないラインが決まっていきます。現場で支える医療者も、その中で出来る限りの工夫をしながら、現実との折り合いをつけています。

だからこそ、忘れたくない視点があります。それは、「機械や数字のために生きているのではなく、暮らしを続けるために道具を使っている」という、ごく当たり前の前提です。腕のセンサーも、スマートウォッチも、本来は食卓の楽しみや外出の安心を支えるための手段です。もしその導入が、お金の不安や心の重荷ばかりを増やしてしまうなら、「今の自分に本当に必要な使い方はどこまでなのか」と一度立ち止まって考えてみても良いのかもしれません。

生活の楽しみを守る、という視点で見てみると、選択肢は機械だけではありません。例えば、おやつの時間を一日おきにして、その代わり「食べる日はとことん味わう」と決める人もいます。外食の日は、前後の食事を少し軽めにして、当日は「今日はここを楽しむ日」と割り切る人もいます。散歩や体操を日課にして、「この時間を確保できているから、ここまでなら食べても大丈夫」と、自分なりのバランスを探っている人もいます。数字だけを追いかけるのではなく、「このくらいなら、自分の人生の中で納得できる」と思える線を見つけることも、大切な工夫の1つです。

医療者との対話も、生活の楽しみを守る上で欠かせません。「最近、食が細くなってきました」「体重が減ってきて心配です」「低血糖が怖くて、夜が不安です」といった素直な気持ちを伝えることは、決して我儘ではありません。「若い頃と同じように頑張らないと」と一人で背負い込むのではなく、「年齢や暮らしが変わってきたから、目標の数字も調整してもらえませんか」と相談することも、本来はごく自然な権利です。そこから、「ではこれくらいの幅で見ていきましょう」「この時間帯にもう少し食べても大丈夫そうですね」といった、具体的な話し合いが始まります。

もし周りに、長年糖尿病と付き合っている家族や利用者さんがいるなら、生活の楽しみに目を向ける声掛けも意識してみたいところです。「それ、たまには一緒に食べてもいいんじゃないですか」「このくらい歩けたなら、今日はよく頑張りましたね」といったひと言が、「制限だらけの人生」という感覚を少しだけ緩めてくれます。数字だけでは測れない満足感や達成感は、体だけでなく心の栄養にもなります。

機械の進歩は、これからも続いていくでしょう。腕に貼るセンサーは小さくなり、電池は長持ちし、グラフはますます綺麗に描かれていくかもしれません。その一方で、「その道具に手が届くかどうか」が、お金や情報の差で決まってしまう状況は、簡単には消えないかもしれません。それでも、「どんな道具を使っても使わなくても、暮らしの中に小さな楽しみを残しておく」という姿勢だけは、忘れずにいたいところです。

糖尿病と共に生きるということは、単に血糖を管理することではなく、「自分らしい毎日を守る工夫を続けること」でもあります。機械も情報も、そのために使えるなら心強い味方ですし、使えない時には別の工夫を探すこともできます。大切なのは、「数字のために我慢する人生」ではなく、「数字と相談しながら、自分なりの楽しみを残していく人生」を選び取っていく視点ではないでしょうか。

最後の章では、ここまで見てきた管理表の歴史や機械の進歩、年齢とともに変わる体のことを振り返りながら、「長く生きる時代の糖尿病ケアに、本当に欲しい物は何か」をあらためて考えてみたいと思います。

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まとめ…長く生きる時代の糖尿病ケアに本当にほしいもの

糖尿病との付き合い方は、この数十年で大きく姿を変えてきました。かつては、指先を刺して血糖を測り、紙の管理表とにらめっこしながら食事を決めていくしかありませんでした。今は、腕のセンサーやスマートウォッチが登場し、1日の血糖の動きや体の状態を、グラフや数字で細かく追いかけることが出来るようになっています。技術という面だけを見れば、まさに別世界と言ってもいい進歩です。

それでも尚、40年近く同じ管理表を守り続けている人がいます。飽食の時代に、テレビや店先には美味しそうな食べ物が溢れ、周りの人は「たまにはいいじゃないか」と笑い合いながら好きな物を楽しんでいる。その中で、自分だけは若い頃に教わったルールを背中に背負い続ける。年を重ねて食も細くなり、吸収の力や筋肉も落ちているのに、食事の量と内容だけは「昔と同じ線引き」のまま、という人も少なくありません。

一方で、腕のセンサーや高価な薬、最新の機械を使いこなしている人もいます。血糖の波が色分けされたグラフとなって画面に並び、医師と一緒に「ここをもう少しなだらかにしよう」「この時間帯に注意しよう」と具体的な作戦会議ができるようになりました。そのおかげで、夜間の低血糖に気づけたり、意外な時間帯の高血糖が見つかったりと、合併症を遠ざける工夫がしやすくなった面もたくさんあります。

しかし、そこにはお金と情報の壁も存在します。条件を満たせば保険で使える機器もありますが、対象から外れる人や自己負担が重く感じられる人にとっては、夢のような話で終わってしまうこともあります。新しい道具の存在を知る機会が少ないまま、昔ながらの自己測定と管理表だけで黙々と頑張っている人もいます。同じ糖尿病という名前でも、手に届く選択肢は人によって大きく違ってしまう。その現実は、決して綺麗ごとだけでは語れません。

だからこそ、今いちど立ち止まって考えたいのは、「何のために血糖管理を続けているのか」という問いです。数字を整えるためだけなら、厳しい制限と強い薬を積み重ねる方法もあるかもしれません。でも、長く生きるということは、日々の食卓で小さな楽しみを見つけたり、散歩に出て季節の移ろいを味わったり、誰かと一緒に笑ったりしながら時間を重ねていくことでもあります。その土台を支えるのが治療であって、治療のために暮らしをすべて削り取ってしまうのでは、本末転倒になってしまいます。

高齢になった体にとって大切なのは、「厳しさ」を積み増すことだけではありません。低血糖や栄養不足で転倒や寝込みが増えれば、せっかく守ってきたはずの生活を手放さざるを得ない場面も出てきます。食事の量が目に見えて減ってきた時、体重がどんどん落ちてきた時、「ここまでよく頑張ってこられましたね。これからは少し作戦を変えましょう」と声をかけてもらえるかどうか。そこで初めて、「守るべき数字」と「緩めてよい数字」の境界が、その人の年齢や暮らしに合わせて引き直されていきます。

腕のセンサーやスマートウォッチは、その作戦変更を考えるうえで頼もしい道具です。でも、それが使えるかどうかに関わらず、「最近こんな変化が出てきました」「このくらいの楽しみは残したいです」と医療者に伝えることは、誰にでも出来る大切な一歩です。家族や介護職の立場にいる人なら、「昔からずっと制限ばかりでしたよね」「今の体に合う緩め方を一緒に考えてもらいましょうか」と、そっと背中を押す役割も担えます。

これからの糖尿病ケアに本当に欲しいのは、最新の機械だけではないのかもしれません。長く頑張ってきた人の歴史に敬意を払いながら、「今の体」と「これからの時間」に合わせて、治療の目標と生活の楽しみのバランスを一緒に調整してくれる視点。その人が、糖尿病という病名に縛られすぎることなく、「自分の人生を自分の言葉で語れるようにする」ための伴走役。そうした関わりが少しずつ増えていけば、管理表も機械も、今よりもう少し優しい顔をして見えてくるのではないでしょうか。

数字を整えることと、日々を味わうこと。そのどちらも諦めない道を探していくことこそ、長く生きる時代の糖尿病と付き合う上で、一番大切なテーマなのだと思います。

最後に新納からもう1つ。今回のような機械化の先、現状の特別養護老人ホームでは入所できない方が量産されていくことになります。透析患者さんが入所できないように糖尿病の方も機器と衛生管理、頻繁な交換受診のために入所を断られる理由になる可能性があると新納は危機感を感じています。

今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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