思い出はみんなで決めるほど温かい~家族と介護の場に“後から楽しい”を増やす話~
目次
はじめに…同じ一日なのに心に残る場面はとんでもなく違う
同じ一日を過ごしたはずなのに、後で話してみると覚えている場面がまるで違う。そんなこと、家族でも介護の現場でも案外よくあります。運動会に行った日を振り返っても、走った本人は胸がドキドキしたことを覚えていて、パパはカメラ越しの背中を覚えていて、ママはお弁当箱のフタがちゃんと閉まったかを覚えている。そこかい、と自分でツッコミたくなるほど、思い出の残り方は十人十色です。
けれども、そのズレを「誰かが間違っている」で片付けてしまうと、せっかくの思い出話が急にしょんぼりします。反対に、「そんなふうに見えていたんだね」と持ち寄ることが出来ると、同じ出来事がもう一度大きく膨らみます。思い出は、正確な記録というより、立場や気持ちや役割が混ざって育っていくものなのかもしれません。百人百様とはよく言ったもので、同じ景色を見ても心のアルバムには別々の切り取りが貼られていくようです。
しかも、大きな行事なら自然に心に残るかというと、そう単純でもありません。学校や施設や地域で用意された行事は、賑やかで立派に見える分、当日はそれぞれが自分の持ち場で手一杯になりがちです。気がつけば、主役も応援する人も見守る人も、みんなそれぞれが別のものを見ていた。賑やかなのに、記憶の中では少しずつ別行動。人の集まりとは、掘り下げてみればなかなかに味わい深いものなのです。
そこで大事になるのが、「後で楽しく話せる種」を日々の中に仕込んでおくことです。誰かが決めた流れに乗るだけでなく、その日その場の人たちが小さくても一緒に決める。何をするか、何を見るか、何を楽しみにするか。そんな共同作業が少し入るだけで、その時間は受け身の予定から、みんなで作る思い出へと少しずつ変わっていきます。私はこれを勝手に「思い出の核」と呼びたくなります。呼びたくなるだけで、辞書にはまだ載っていませんが、気持ちはかなり載っています。
介護の現場でも同じです。忘れてしまうことがあるから無理、と早めに線を引いてしまう対応は、もったいない。見るだけ、聞くだけ、頷くだけの参加でも、残るものはありますし、周りの明るい表情や言葉が、その日の楽しさをそっと支えてくれることもあります。ただし、それを周囲が勝手に話をまとめることとは意味が全く違います。その人の感じ方を置いていかず、みんなで楽しさの入口を増やしていく。そんな関わり方が、これからますます大切になっていく気がしています。
この記事では、思い出がどうしてズレるのかを責めるのではなく、ズレがあるからこそ見えてくるものを辿っていきます。そして、家族でも介護の現場でも、「後で話すと少し嬉しい」が増える関わり方を探していきます。読んだ後に、今度はこれを一緒に決めてみようかな、と肩の力を抜いて思っていただけたら嬉しいです。
[広告]第1章…思い出がズレるのは仲が悪いからではなく持ち場が違うから
同じ出来事を一緒に過ごしたのに、後で話すと話が噛み合わない。これは家族でも、親族でも、介護の場でも、案外、日常的に普通に起こります。しかも、そのズレは必ずしも険悪の種ではありません。むしろ、人がそれぞれの場所でちゃんと生きていた証拠とも言えます。見ていた向きが違えば、残る場面が違う。何とも森羅万象、今も昔も人の記憶は綺麗に整列してくれません。
運動会のような行事を思い浮かべると分かりやすいです。走る本人は、自分の順番と合図と足のもつれそうな一瞬に全神経を向けています。パパは写真や動画を撮ることに夢中で、気づけば我が子を追っていたつもりが隣の列の帽子まで撮っていることもあります。あれ、誰だこの子、となるのも行事あるあるです。ママは応援をしながら、荷物と水筒と暑さと周囲への気配りを同時進行しているかもしれません。兄弟は兄弟で、競技より校庭の隅の遊べる世界が気になって仕方ない。友だちとしゃべり、石を拾い、時々だけ拍手する。みんな同じ場所にいたはずなのに、過ごしていた時間の中身は見事に別々です。
ここで大切なのは、「誰の記憶が正しいか」を決めることではありません。そもそも、思い出は議事録ではないのです。記録は揃えるものですが、思い出は持ち寄るもの。立場、感情、役割、体調、その日の気分まで混ざって残るのが自然です。役割分担が違う分、心に引っかかる場面もズレて当然です。むしろ全員が同じ感想だけを持って帰る方が、少し不思議なくらいでしょう。
家族の中だけでも、この違いはかなりはっきり出ます。祖父母世代は「みんなが集まってくれたこと」が心に残りやすい。親世代は「ちゃんと回せたか」「無事に終わったか」が印象に残りやすい。子どもは「転んだ」「勝った」「お菓子を食べた」「友だちが笑った」など、感情の波が大きかったところをよく覚えています。どれもその人にとって本物の出来事です。ここを雑にひとまとめにすると、せっかくの会話が平板になります。反対に、「ああ、その人はそこを見ていたのか」と受け取ると、思い出話に奥行きが出てきます。
しかも厄介で、かつ面白いのは、人の記憶は後からも育つことです。あの日は楽しかった、と今なら言えることもあれば、当日はとことんしんどかった、と後から分かることもあります。逆に、当時は何とも思わなかった場面が、何年も経ってから急に大切に見えてくることもある。記憶には再構成(後から意味付けし直すこと)が起こりやすいので、その時々の思いに引っぱられて中身が少し変わってしまうことも珍しくありません。人の心はなかなか器用で、同時にかなり勝手です。ここは、ありがたいのか、手強いのか、ちょっと判断に迷うところではあります。
けれども、この「後から変わる」という性質を悪者にし過ぎる必要もありません。思い出は、冷蔵庫の奥でじっと保存される作り置き料理ではなく、会話のたびに温め直される汁物のようなものです。少し味が変わる日もあるし、昨日よりまろやかになる日もある。たまに塩気が強い日もありますが、それもまたその日の心の天気次第。だからこそ、思い出話には人柄が出ますし、世代の違いも滲み出るのです。
ここで気をつけたいのは、ズレを見つけた瞬間に「ほら、違うじゃん」と勝負を始めないことです。家族の会話は、つい小さな法廷になりがちです。いや、あの時そう言った。いや、言ってない。先に帰った。最後まで帰ってない。証人はお菓子の包み紙だけ。そこまで行くと、もう楽しい回想ではなく家庭内の小さな審判です。もちろん、笑いながらなら、それも味ですが、毎回それでは疲れます。思い出話を豊かにするのは、正解の確定より、違いの発見が大事なのです。
むしろ、ズレがあるからこそ見えてくるものがあります。親が必死に段取りをしていたことを、子どもが大人になってから知ることもあります。祖父母が賑やかな一日をどれほど大事に抱えていたかを、後になって気づくこともあります。子どもが小さな失敗を大事件のように感じていたと知って、大人がハッとすることもある。千差万別の記憶を持ち寄る時間は、過去をなぞるだけでなく、その人の見ていた世界を少し借りる時間でもあるのです。
ここで、もう1つ加えておきたい視点があります。思い出がズレるのは、感受性の問題だけではありません。関わり方の濃さにも差があるからです。その場の中心で決めたり動いたりした人は、記憶の芯を持ちやすい。反対に、流れに乗るだけだった人は、輪郭がぼやけやすいことがあります。同じ行事でも、当事者として関わったか、見学者に近かったかで、残り方が変わるわけです。この違いは後の章で大事になってきます。思い出は自然に生まれるだけではなく、関わり方次第で育ち方も変わるからです。
まず第1章では、ここを押さえておきたいのです。思い出のズレは、関係の失敗そのものではない。立場が違えば、見えるものが違う。それぞれの持ち場で懸命に過ごした結果、残る場面がズレるのは、ごく自然なことです。その自然さを知っているだけで、思い出話の空気は少し和らぎます。話が食い違った時も、「そんな見え方だったのか」とひと呼吸おける。そこから先の会話は、随分と明るくなるはずです。
第2章…大きな行事ほどバラバラになりやすい~だから“後で語れる種”を仕込んでおきたい~
賑やかな行事は、それだけで思い出が深く残りそうに見えます。けれども実際には、規模が大きいほど人の体験は散りやすいものです。学校行事、地域のお祭り、家族の集まり、施設のイベント。どれも表向きは「みんなで同じ時間を過ごした日」なのに、内側ではそれぞれが別のレールを走っています。表向きは和気藹々と、思い出の中身はなかなかの縮小化とバラバラな個別運転です。
行事というものは、元々、誰かが枠組みを作っています。日程があり、進行があり、役割があり、会場の都合もあります。参加する側は、その流れに合わせて動きます。ここに行事の頼もしさもありますが、同時に少し落とし穴もあります。用意された時間は共有しやすい反面、「自分たちで作った時間」にはなり難いのです。気づけば、集まったのに別々、盛り上がったのに思い出の中身は分散、そんなことも珍しくありません。
運動会を思い返してみてもそうです。兄は本番の演技に集中し、パパは撮影係として腕を上げたり下げたり忙しい。ママは水分と応援と近くの人への気配りで大忙し。妹は妹で、校庭の端で友だちと別の大冒険を始めているかもしれません。祖父母は「元気そうで良かった」と目を細める。その場にいる全員がちゃんと参加しているのに、体験の中心は見事なまでにバラけています。人間の同時参加とは、たいへん器用で、少し笑えるような仕組みでもあるのです。
ここで見落としやすいのは、行事が大きいほど「共有された気分」だけが残りやすいことです。楽しかった、賑やかだった、忙しかった。こうした全体の空気は残ります。けれども、その日の芯になる細部は人によって違う。誰かにとっては開会式の空、誰かにとっては帰り道のアイス、誰かにとっては帽子を忘れかけて慌てた朝の5分かもしれません。思い出は大きな看板ではなく、案外こういう細い糸で繋がっています。
だからこそ、行事を本当に“後で語れる思い出”に育てたいなら、当日の盛り上がりに全部を任せない方が良いのです。必要なのは、後から話したくなる小さな手掛かりを仕込んでおくこと。私はこれを「思い出の種」と呼びたいところです。大袈裟な仕掛けではありません。ほんの少しで良いのです。何を楽しみにするか、終わったら何を食べるか、今日の合言葉を何にするか、写真を撮るならどの場面にするか。そんな共同で決めた過程があるだけで、その日は“用意された行事”から“自分たちが関わった出来事”へ近付きます。
ここで大事なのは、規模の大きさではなく、共同決定(みんなで決めること)の有無です。大きなイベントでも、小さな共同決定が入ると記憶の芯が生まれやすい。反対に、どれほど立派な催しでも、ただ流れに乗るだけだと受け身で終わりやすい。参加したのに、心の中では見学席。これでは少しもったいないのです。
しかも、この「一緒に決める」は何も壮大でなくて構いません。今日は何色の服を着ていくか。どこで拍手するか。帰りに何の飲み物を買うか。終わった後、誰が最初に今日の感想を言うか。そんな小さなことでも、グッと変わります。人は自分で選んだもの、自分が関わったもの、自分が言葉にしたものほど残りやすいからです。行事の全体設計を変えるのは難しくても、個人や家族や小さな集まりの中で決める余白は、意外とあちこちにあるものです。
ここで、少し新しい見方を置いておきたいのです。大きな行事が思い出になるのではなく、行事の前後にある“擦り合わせ時間”が思い出を育てる、という見方です。当日の本番より、前に何を楽しみにしていたか、後で何を語ったか、その往復の方が記憶に残ることがあるのです。人の心は本番だけで動いているわけではありません。待っている時間、振り返る時間、その少し手前と少し後ろが、意外と美味しいところを持っていきます。
家族で「今日はどこを見る?」と決めた一言。施設で「どの歌から始めましょうか」と皆で選んだ数分。地域の集まりで「帰りにこれを食べよう」と笑った約束。そうした前後のやり取りがあると、行事が多角的かつ立体的になります。単なる通過点ではなく、会話で繋がる出来事になる。ここに、後で話したくなる理由が生まれます。
反対に、行事の後にズレやすれ違いが起きるのも自然なことです。誰かは楽しかったと言い、誰かは忙しかったと言い、誰かはあまり覚えていないと言う。そのたびに「ほら、分かってない」と責めたくなる気持ちも分からなくはありません。けれども、そこですぐに勝敗をつけると会話が萎みます。むしろ、「そんな場面を見ていたのか」と拾っていく方が、ずっと実りがあります。記憶の食い違いは、仲の悪さの証拠ではなく、持ち場の違いが表に出ただけかもしれないからです。
行事は、みんなで同じことをする日ではあっても、みんなが同じものを受け取る日ではありません。この当たり前を知っておくだけで、思い出に対する構えが変わります。大切なのは、大きな場に全員を並べることだけではなく、その日の中に小さな共通点を育てることです。写真でも、合言葉でも、帰り道の寄り道でも良い。後で「あれ、楽しかったね」と言える種があれば、その日の記憶は少し繋がりやすくなります。
そして、この“種”は多いほど良いのです。特別な行事を年に数回だけ待つより、今月はこれ、次の休みはこれ、と小さな経験を重ねていく方が、思い出の土台は豊かになります。単発の感動に全てを託すと、ズレた時のがっかりも大きい。けれども、小さな共通体験がいくつもあると、どこかで話を繋ぎ直せます。今日はあまり合わなくても、先月のあの話なら笑える。あの日は覚えていなくても、この前の歌は覚えている。そうやって思い出は、一本の太い綱というより、何本もの細い糸で編まれていきます。千載一遇の大舞台より、日々の小さな仕込みが物を言う場面は、意外と多いのです。
大きな行事を否定する必要はありません。賑やかさには賑やかさの良さがあります。ただ、そこに全部を任せ過ぎないこと。行事が終わった後、「何が印象に残った?」と話せるように、当日の前後に小さな手掛かりを入れておくこと。その一手間が、後からじんわり効いてきます。思い出は派手な打ち上げ花火だけで出来るわけではありません。むしろ、帰り道にポケットへ入れておけるくらいの小さな種の方が、長持ちすることがあるのです。
[広告]第3章…思い出は待つより作る~みんなで決める時間が記憶の芯になる~
思い出は、起きた出来事の後に自動で残るもの。そう考えたくなる気持ちはあります。けれども実際には、思い出は「待っていれば育つ」というより、「関わり方次第で育ち方が変わる」ものです。ここが、この話の要です。賑やかな日をただ通り過ぎるだけでは、印象はあっても芯が残り難い。反対に、小さくても自分たちで決めた時間があると、その日には不思議と輪郭が出てきます。思い出は受け身のままでも生まれますが、当事者としてひと匙、中に入ると、グッと意味深長になります。
大きな行事が薄くなりやすいのは、そこに「用意された定番の流れ」があるからです。もちろん、用意されていること自体は悪くありません。学校も施設も地域も、誰かが組み立ててくれるから場が整います。ただ、そのまま乗るだけだと、参加はしていても、心のどこかが傍観席のままになりやすいのです。拍手もするし笑顔もある。けれども、後で振り返ると「楽しかった気はするが、何が残っているのかは少し曖昧」。この感じ、案外多いものです。
そこで大事になるのが、「一緒に決める」という過程です。何をするか、何を選ぶか、何を楽しみにするか。ほんの少しでも当事者同士で決める時間が入ると、その出来事は急に“自分ごと”になります。決めると言っても、大掛かりな会議は要りません。今日はどの歌から始めるか。散歩の順番をどうするか。飾りは赤と青のどちらが良いか。おやつの前に何を話すか。終わった後、どの場面を思い出として残したいか。そんな小さな共同決定で十分です。
ここで新しく足したい視点があります。思い出の質を左右するのは、出来事の大きさよりも、選択の痕跡ではないかという視点です。人は、自分が選んだもの、自分の声が少しでも入ったもの、自分の手で動かしたものを覚えやすい。逆に、立派でも流れていった時間は、思いの他、薄くなります。行事の豪華さではなく、選んだ跡が残っているか。ここを見ると、思い出の育ち方がかなり見えてきます。
例えば家族の休日でもそうです。親が全部決めて、子どもは連れていかれるだけだと、行き先は覚えていても中身がぼんやりすることがあります。けれども、「今日は何を見たい?」「帰りに何を食べたい?」「写真を撮るならどこにする?」と、子どもが少しでも選ぶ場面があると、その日の景色が違って見えます。自分が決めたことは、ただの予定から自分の出来事へ変わるからです。ここでのポイントは、正解を選ぶことではありません。選んだこと自体が、思い出の芯になるのです。
これは介護の場でも変わりません。高齢者の方でも、入居者さんでも、患者さんでも、全部を自分で決めるのが難しい日があります。体調の波もあるし、疲れもある。認知機能(考えたり思い出したりする働き)に揺らぎがあることもあります。けれども、それと「一緒に決められないこと」は同じ立場ではありません。今日はどちらの色にするか。最初にどの席にするか。どの歌なら耳を傾けたいか。飾りをどこに置くか。見る、選ぶ、頷く、指差す。そのどれもが参加です。参加の形は1つではないのに、つい「全部できるか、出来ないか」で考えたくなる。人間って、すぐ二択に寄りたがるので困ります。そんなに簡単なら、靴下の片方も毎朝すぐ見つかるはずです。
しかも、「一緒に決める」は記憶そのものだけでなく、関係の空気も変えます。誰かが全部決める場では、他の人は受け手になりやすい。受け手でいる時間が長いと、その場は安全でも、当事者の手触りは薄くなります。反対に、ほんの少しでも「どうしますか」「どちらが良いですか」「これでいきましょうか」と声を渡し合うと、場に居場所が生まれます。決める過程には、その人の好みや癖や気分が滲むので、思い出の前にまず“その人らしさ”が立ち上がります。これが後で効いてくるのです。
さらに大事なのは、「数を仕込む」という発想です。大きな感動を年に数回待つより、小さな共同決定を日常の中にたくさん置いておく方が、思い出の土台は安定します。今月はこれを一緒に決める。次の休みはこれを選ぶ。来週はこの話題を持ち寄る。そんなふうに、日々の中へ小さな共通体験を散りばめていく。私はこういう積み重ねを「繋がり貯金」と呼びたいです。お金は入っていませんが、心はかなり豊かです。
ここで効いてくるのが継続性です。単発の行事は、良くも悪くもその日の出来次第で印象が揺れます。天気が崩れた、体調がいまひとつだった、思っていたより疲れた。そんなこともあります。けれども、小さな共通体験がいくつもあると、1つの不発で全体が萎みません。今日は静かでも、前回の話がある。今は覚えていなくても、先月の歌がある。1つずつの出来事は小さくても、積み重なると関係の中に温故知新の回路が出来上がります。前の楽しさが今の会話を助け、今の一言が次の楽しみに繋がる。こうなると、思い出は点ではなく線になっていきます。
ここで誤解して欲しくないのは、「一緒に決める」が、全員を同じ方向へ揃えることではないという点です。多数の記憶で誰かの感覚を押し流すことでもありません。大切なのは、みんなの気持ちを同じ形にすることではなく、それぞれの感じ方がありながら、共通の入口を持てるようにすることです。色を選ぶなら、選んだ理由が違っていても良い。歌を決めるなら、懐かしさでも、リズムでも、隣の人が笑ったからでも良い。入り口が同じなら、受け取り方は違っていても会話が続きます。
この視点を持てると、介護職にも家族にも見える景色が変わります。何か立派なことを考える前に、今日、一緒に何を決められるか、と考えられるようになるからです。行事を成功させることだけが目標ではありません。後で少し話せるようにすること。次の楽しみに橋をかけること。そのための小さな選択を置いておくこと。思い出は、終わった出来事ではなく、次の会話の入口でもあるのです。
思い出を作る、という言い方には少し照れがあります。そんなに上手に作れるものでもないし、張り切り過ぎると空回りもします。けれども、待っているだけより、日常に小さな共同決定を入れていく方が、関係が温かく育ちやすいのは確かです。誰かに用意された時間を受け取るだけでなく、自分たちの声を少し混ぜる。その積み重ねが、後になって「そういえば、あれ楽しかったね」と言える場面を増やしてくれます。思い出は、大事件の後に降ってくるものだけではありません。今日の中にそっと仕込める、小さな種でもあるのです。芽吹きが楽しみになるでしょう?
第4章…忘れることを前提にあきらめない~介護の場にも“一緒に決める余白”は作れる~
介護の場で思い出を考える時、一番先に見直したいのは「どうせ忘れてしまうから」という空気かもしれません。高齢者の方、特に要介護度(介助の必要さの目安)が高い方や、認知症(記憶や判断の働きに揺らぎが出る状態)のある方に対して、この前提はあまりにも早く前に出されがちです。けれども、忘れることがあるのと、思い出が作れないことは同じではありません。ここをひとまとめにしてしまうと、暮らしの中の大事な火種まで消えやすくなります。
介護現場は安全第一です。そこは揺らぎません。転倒予防(転ばないための工夫)も、服薬管理(薬を安全に飲むための確認)も、感染対策(うつらないようにする工夫)も欠かせません。加えて、時間は限られ、人手も限られ、予定も待ってくれません。現場で働く人ほど、「決める時間を作るより、早く進めた方が回る」と感じる場面があるはずです。それは怠けではありませんが、日々の現実の1つです。けれども、その現実に押されるほど、生活の場から“当事者でいる感じ”が少しずつ抜けていく、あるいは貧しい生活に陥っていることがあります。暮らしているはずなのに、参加の手触りが薄くなる。そこに、じわじわとした寂しさが生まれます。
ここで思い出したいのが、専門職の土台として学ぶバイスティックの7原則です。個別化、意図的な感情表出、統制された情緒的関与、受容、非審判的態度、自己決定、秘密保持。どれも大切で、どれも必要です。けれども、字面だけで並ぶと少し固い。読む側も、受け取る側も、つい背筋が伸び過ぎます。固い言葉は、守るには役立ちますが、暮らしを温める言葉にはなり難いことがあります。ここに、現場で感じる物足りなさを感じる原点の1つがあるのではないでしょうか?
特に「受容」という言葉は象徴的です。受け入れる。否定しない。そう言われれば、その通りです。けれども、人間社会はそんなに静かではありません。「受け入れました」で終わる関係なら、家族も友人も職場も、もう少し平和だったことでしょう。実際には、相手の気持ちや記憶を受け取るには、もう1つ先が要ります。関心を向けること、近づこうとすること、分からないままでも一緒に過ごせる形を探すこと。受容とは、ただ黙って認めるだけでなく、その人の世界へ一歩前へ出る姿勢まで含んでいるのだと思います。ここに、人間らしさとも言える想いと良心が入ります。
思い出の話で考えると、この違いはよく見えます。
「そうなんですね、良かったですね」
この返しは、一見、優しそうに見えます。もちろん悪いわけではありません。けれども、それだけではその人の思い出に寄り添ったことにはなりませんよね。本当に必要なのは、「その日、どこが良かったのですか?」「誰と一緒だったのですか?」「またそんな時間が作れそうですか?」と、少し前へ出ることです。思い出に触れるとは、内容を正確に当てることではなく、その人の気持ちの入口を一緒に探すことなのかもしれません。
介護の場では、ここで諦めが入りやすいのです。
どうせ忘れる。
どうせ続かない。
どうせ決めても覚えていない。
でも、その“どうせ”が増えるほど、その人は暮らしの中で受け身になります。見るだけ、聞くだけ、運ばれるだけ。もちろん、そういう日もあります。体調が優れない日もあります。けれども、毎回そこへ落ち着いてしまうというのは違います。忘れることがあるなら、忘れても残りやすい関わり方を考えた方が良い。この記事で発想を変えていただきたいポイントです。
その鍵になるのが、「一緒に決める余白」です。大きなことではなくて構いません。今日の席はどちらにするか。どの歌から始めるか。壁の飾りは高い位置が良いか、目の前が良いか。温かい飲み物にするか、冷たいものにするか。見学するか、一言だけ参加するか。こうした小さな共同決定が入るだけで、その時間は単なる介助や進行から、少しだけ“自分も入って参加している時間”に変わります。人は、自分が関わったもの、自分が選んだもの、自分の気持ちが少しでも乗ったものを記憶に残しやすいからです。
ここで大事なのは、「全部できるかどうか」で見ないことです。介護の場の参加は十人十色です。元気に話せる人もいれば、目で追う人もいる。頷く人もいれば、後から一言だけこぼす人もいる。笑うだけの日、黙って聞いているだけの日もあります。そのどれもが参加です。参加とは、立ち上がって拍手できることだけではありません。表情が動く、目が向く、指が止まる、息が緩む。その変化も、立派な当事者の動きです。ここを見落とすと、現場は“出来た人だけが参加者”のようになってしまいます。それは、少し寂しい眺めです。
そして、忘れることがあるからこそ、介護の場には集団の良さがあります。ただし、ここは誤解してはいけません。多数で正解を決める話ではありません。周囲の記憶で本人の感じ方を上書きすることでもない。そうではなく、一人では持ちきれない手掛かりを、周囲が優しく支えられるという意味です。本人が細かな流れを覚えていなくても、その場にいた人が明るく話してくれる。飾りが残っている。写真がある。あの時の歌がまた流れる。誰かの笑顔が入口になる。そうすると、記憶を無理に取り戻さなくても、楽しさに近づく道が出来ます。覚えている人が偉いのではなく、みんなで楽しさの入口を残しておく。ここが本当の支え合いです。
介護職にとって、もう1つ外せない視点があります。現場での関わり方は、仕事の時間だけで綺麗に切り分けられないということです。相手の話を分かったフリで受け流す。共感したふうで通り過ぎる。優しい顔はしているけれど、心は半歩も寄っていない。こうした関わりが習慣になると、家庭や友人関係にも滲みやすくなります。人は職場の人格と私生活の人格を、毎日ピタリと入れ替えられるほど器用ではありません。公私のどこかで続けた軽い誤魔化しは、別の場所で少しずつ歪みます。これは少し重い話ですが、案外、その通りになります。時差がある分、罪悪感が適切に表面化しないだけです。
反対に、職員自身が私生活の中で「良かった」「楽しかった」「また話したい」と思える多角的で複数の経験を持っていると、現場の発想は豊かになります。家族と一緒に決めた休日の過ごし方。友人と相談して選んだ食事会の場所。子どもと考えた小さな約束。そんな自分の生活の中の嬉しさがあると、「この感じ、入居者さんとも作れるかもしれない」と想像しやすくなります。ここで言いたいのは、私情を何でも職場へ持ち込もうということではありません。自分の中に本物の喜びがある人ほど、他者の暮らしにも生きた工夫を置きやすい、ということです。人にとって嬉しいことを、自分も少しは知っている。その実感は、現場でかなり効きます。
介護職は、真面目な仕事です。責任も重い。だからこそ、その真面目さに、生活者としての感性を足して欲しいのです。自分も誰かと擦れ違い、自分も思い出のズレを味わい、自分も小さな共同決定で嬉しくなる。その実感を持った人は、高齢者の生活を“支援対象”としてだけでなく、“続いている暮らし”として見やすくなります。寝たきりでも、病床でも、入居中でも、生活は続いています。続いているなら、そこには選ぶ余白も、語る余白もあります。立場が違っても、人は生活者です。ここを忘れないことが、思い出を作る入口になります。
では、何から始めれば良いのでしょうか。
大きな理想より、小さな実践です。
今日は何を一緒に決められるか?
終わったあと、何を一言だけ話せそうか?
職員同士の場で、私生活の「良かったこと」を少し持ち寄れるか?
その感覚を、入居者さんや患者さんとの時間にそっと置けるか?
このくらいで十分です。大改革より、日々の一手。ここが現場向きです。
思い出は、忘れない人だけのものではありません。忘れることがあっても、一緒に決めたことは、その場の表情や空気や周囲の明るさの中に残ります。見るだけでも、聞くだけでも、残るものはある。選んだ色、指さした歌、ふと笑った一瞬、そのどれもが小さな火になります。介護の場にも“一緒に決める余白”は作れます。受容とは、ただ静かに認めることではなく、その人と一緒に過ごせる形を探し続けることでもあります。そこに少しの積極性と少しの想いが入るだけで、現場の景色は随分と変わります。固い原則は大事です。けれども、原則だけでは暮らしは温まりません。人の暮らしを温めるのは、原則の上に乗る人間らしいひと手間なのだと思います。
[広告]まとめ…同じ記憶でなくていい~違うまま楽しく話せる関わりを育てたい~
思い出は、同じ出来事を同じように覚えていることではありません。家族でも、介護の場でも、人はそれぞれ違う持ち場でその日を生きています。見ていた場所が違えば、残る場面も違う。後から気持ちに引っ張られて、記憶の色合いが少し変わることもあります。それでも、そのズレ自体が悪いわけではないのだと、この記事では何度も辿ってきました。むしろそこには、その人がどこに心を置いていたかが滲みます。思い出話の面白さは、千差万別の心の置きどころが見えてくるところにあるのかもしれません。
大きな行事は華やかですが、それだけで深い思い出になるとは限りません。賑やかな場ほど、人はそれぞれの役割に散っていきます。だからこそ、後で話したくなる小さな種が大事でした。一緒に決めたこと。少しでも選んだこと。終わった後に振り返れる一言。そうした小さな共同作業が、受け身の時間を“自分たちの時間”へ変えてくれます。大きな感動を待つより、日々の中へ小さな共通体験を重ねていく方が、案外、温かい土台になります。
介護の場でも同じです。忘れることがあるから無理、と早く結論を出してしまうのではなく、忘れても近付ける楽しさの入口を残しておく。見るだけでも、聞くだけでも、選ぶことは出来ます。頷くこと、表情がほどけること、指さすこと、そのどれもが参加です。受容という言葉も、ただ黙って認めるだけでは少し足りないのだと思います。その人と一緒に過ごせる形を探し続けること、ここに人らしい温度があります。温厚篤実というほど立派に構えなくても、今日一緒に何を決められるかを1つ考えるだけで、景色は少し変わります。
思い出は、完璧に揃った記憶でなくて構いません。
違うまま話せること。
違うまま笑えること。
違うままでも、また次を一緒に決められること。
そこに、暮らしの豊かさがあります。
家族でも、職場でも、介護の現場でも、日々は気づけば流れていきます。けれども、その流れの中に小さな「一緒に決める」を置いていくと、時間は少しずつ表情を持ち始めます。立派なことをしなくても大丈夫です。今日のお茶、今日の歌、今日の席、今日の一言。そのくらいが、却って長持ちします。大袈裟でない思い出ほど、後からじんわり効くものです。人の心は、案外そういう作りなのだと思います。
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