目次
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父の日が来るたびに、私はひとつだけ悩むのだ。
何を贈ろうか、ではない。
この父に一体、何を贈れば「足りる」のかという問題である。
うちの父は、もう80歳。
高齢者、と言えばたしかにそうなのだが、畑へ向かうその背中は、誰よりしゃんとしているし、自転車に電動がついているとはいえ、風を切って走る姿は、ちょっとカッコいい。
朝から夕方まで、好きな野菜を育てる日々。
コーヒーセットを持参して、畑仲間とちょっとしたカフェタイム。
猪除けの電気柵を張った時には、「お前も張ってみろ、難しいぞ」と言って笑った。
正直、私よりもはるかに活動的で、人生を楽しんでいるように見える。
そんな父を、私は50歳になった今、尊敬のまなざしで見つめている。
そしてその裏で、ケアマネとして1,000人以上の高齢者と向き合ってきた私は、ほんの少しの変化にも、つい目がいってしまう。
笑顔で繰り返す同じ話。
昔より少し、ぼんやりと柔らかくなった表情。
会話の流れの変化に、あれ…?と立ち止まる自分もいる。
職業病かもしれない。
でもそれは、「気づいてしまう」息子の業だ。
父はまだ元気だ。
でも、いつまでもそうとは限らない。
だから私は考える。
この父に、どんな“父の日”を贈れば、心から喜んでもらえるのだろう🩷。
ありがとね。
がんばってるね。
——そんな言葉ではきっと追いつかない。
今年の父の日、私はちょっと本気を出すことにした。
そう、この父にふさわしい、“盛大な感謝と未来の贈り物”を届けたいと毎年振り返る…。
父は毎朝、電動自転車にまたがり、まだ少し冷たい空気のなかを颯爽と走っていく。
ヘルメットこそ被らないけれど、背筋はピンと伸びて、まるで老舗の配達員のような風格。
「行ってくるぞ」の声とともに飛び出していく姿に、こちらが「いってらっしゃい」と返すタイミングを逃すこともしばしばである。
向かう先は、父が長年愛してきた畑だ。
季節ごとに色を変えるその畑には、スーパーでは見かけないような野菜たちが並ぶ。
名前を聞いてもピンとこないものもあるし、「これ、食べられるの?」と一瞬疑ってしまうようなビジュアルのものもある。
だが、それらがまた…驚くほど、うまい。
その畑には、父の人生が詰まっている。
土をいじるその手には、誰にも真似できない熟練のリズムがあって、収穫した野菜は、まるで宝物のように大切に扱われる。
「これ、今日できたばっかりや」
どこか誇らしげに、でも自然体で話す父の横顔に、私はつい見とれてしまう。
一通りの作業が終わると、父は自前の湯沸かしセットを取り出して、ゆっくりお湯を沸かす。
そこまでして飲むのかと思うくらい丁寧に準備して、コーヒーを淹れる。
インスタントではない、本気のやつだ。
畑の片隅で、香ばしい香りがふわっと漂い、それを目当てにぽつぽつと集まる“畑仲間”たち。
そこに椅子が並び、おしゃべりがはじまり、まるで青空喫茶店のような時間が始まる。
そんな父の畑からは、毎日たっぷりの野菜が生まれる。
家ではもちろん、それだけで食卓が豊かになるし、近所の人たちにも「どうぞどうぞ」と配られていく。
もらう人はみな笑顔で、「お父さん、いつもありがとう」と声をかけてくれる。
父も「またできたら持っていくよ」と笑いながら返す。
この自然なやりとりが、どれだけ心をあたたかくしてくれることか。
さらに驚くべきは、最近ついに猪避けの電気柵まで導入し、それを自力で張り巡らせたことである。
説明書を読みながら、脚立に登り、線を引き、金具を打ち、電源をつなぐ父の姿は、もう「80歳」の概念を大幅に覆してくれる🩷。
畑に猪が来ることはもうほとんどないが、万が一やって来たときには、父の仕掛けがピカッと光る予定である。
こうして、父の一日は続く。
夕方、満足げな顔で帰ってくると、母から「お風呂入って!」とすかさず声が飛ぶ。
汗と土と陽射しの香りをまとったまま、父は「はいはい」と笑いながら風呂へ直行する。
その姿を見ながら、私は思う。
父って、すごいな。
まるで、老いなんてどこにもないような、“今”という時間を精一杯生きている人なのだと。
父は元気だ。
誰が見てもそうだと言うだろうし、私だってそう思っている。
ただ、元気な人が“老いない”わけじゃないことを、私は仕事を通して知っている。
それに、私の目はもう、普通の目じゃない。
1,000人以上の高齢者をケアし、看取りもたくさん経験してきた。
自慢でも何でもなくて、そういう目を持ってしまったのだ。
だからこそ、父に会うと、つい見てしまう。
つい気づいてしまう。
これまでと、ほんの少し違うところを。
久しぶりに帰省して顔を合わせたとき、父の顔に“何か”が乗っていた。
しわじゃない。
疲れでもない。
ただ、全体がふわっとしたような、茫洋とした雰囲気がある。
顔の輪郭も、眼差しも、どこか柔らかくなっていて、まるで、霧が少しだけまとわりついているような…。
きっと誰も気づかない程度の、けれど私には見える変化。
そして会話のなかで、ふと気づく。
あれ、この話…前にも聞いたな。
いや、昨日も聞いたかもしれない。
けれど私は、それを指摘するようなことはしない。
ニコニコとうなずいて、驚いて、笑って、何度でも聞く。
だって私は“息子”で、そして、父がどんなに同じ話を繰り返しても、その話をする父の目が、誇らしそうだから。
繰り返す言葉のなかには、同じことを言いたいわけじゃなくて、ただ誰かに伝えたい想いが、何度も溢れてくるだけなんだと私は知っている。
それが例え、昨日と同じ言葉であっても、今日の父の気分と風と光は違うのだ。
だから、話す意味も、きっと違う。
でも…正直に言えば、やっぱり寂しい。
強く、たくましく、どこか手の届かない存在だった父が、少しずつ、やわらかく、近づいてくるような気がして。
嬉しいような、心細いような、説明しきれない気持ちになる。
だけど私は、ケアマネとして生きてきた人間でもある。
老いとは、消えていくものではなく、育っていくものだということを知っている。
父も、そして私自身も、老いていく。
だからこそ、ただ黙って受け入れるんじゃなく、この“気づき”を、何かに活かしたいと思った。
父が老いていくことを、悲しむのではなく、今という時間を、もっと味わえるようにするための準備として。
そして、そう考えたとき、今年の父の日が、ちょっと特別な意味を持つように思えた🩷。
さて、父の日である。
世の中のお父さんたちがネクタイやシャツやビールをもらっているその日、私は今年、ちょっと違う贈り物を用意しようと思っている。
なぜなら、うちの父は“普通のお父さん”ではない。
猪を相手に柵を張る80歳である。
電動とはいえ自転車で毎日往復する体力を持ち、その上、畑でお湯を沸かしてコーヒーを淹れ、青空の下で仲間と談笑し、夕方にはお風呂へ直行するという、もはや神話の領域に入りつつある生活を送っている。
そんな父に、ありきたりなプレゼントでは失礼というものだ。
そもそも、物なんて必要としていない。
どちらかといえば、**“時間”と“役割”と“記憶”**のほうを大切にしている気がする。
だから私は、今年の父の日に、父の畑を一冊の本にしようと思っている。
名付けて「父の畑の一年」だ。
収穫した野菜の写真と、何月に何を植えたか、どんなふうに育ったか、そして父がぽつぽつと語ってくれる、土との会話。
それを、録音して、文字にして、写真に添える。
何がどうしてこうなったか分からないけれど、父の話は繰り返しが多い分だけ、名言も多い。
「スイカは、あまやかすとダメになる」とか、「土も、人間も、雨に当たらんと腐る」とか、そのへんの自己啓発本より、ずっと奥が深い。
それらをまとめて、ひとつの記録として贈る。
これはもう、プレゼントというよりも、**共に作る“人生の記録”**だ。
そしてもうひとつ。
香りと触感のプレゼントも添えたい。
いつも父が飲んでいるコーヒー豆に、私が選んだ別の豆を混ぜて、ちょっと違う香りを足してみる。
「なんか違うなぁ」と言いながら飲んで、「でも、これも悪くないな」と言ってくれたら、それでいい。
さらに、畑に置く“父専用のベンチ”を作ろうかとも思っている。
もちろん、木工のセンスはゼロに等しいので、プロに頼むけれど。
父の名前を彫って、座面にはちょっとした防水クッション付き。
畑仲間とのコーヒータイムが、ますます楽しくなるように🩷。
父はまだまだ元気だ。
でも、その元気がある“今”だからこそ、この時間を記録し、価値に変えていくことが大切だと思っている。
「ありがとう」だけじゃ、きっと足りない。
父の今と、これからの人生に、“これからも一緒にいるよ”という気持ちを贈りたい。
気がつけば、私も50歳を越えた。
若い頃には「親父みたいにはなりたくない」なんて思っていた時期もあったけれど、いざこうして年を重ねてみると、父の背中が、なんだかどんどん大きく見えてくる。
80歳の父が、畑で汗を流し、仲間と笑い、コーヒーを淹れている。
猪を相手に策を張り巡らせ、夕方には母に命じられてお風呂へ直行し、夜にはその日の野菜とともに、いつもの話をもう一度語ってくれる。
それはまるで、絵本のような時間だ。
父の日というイベントは、ただの「ありがとう」を伝える日じゃない気がしてきた。
むしろ、「これからも一緒に生きていこうね」とそっと手を重ねるような、そんな未来の約束の日にしても、いいんじゃないかと思う。
私は、父の老いに気づいている。
でも、それを「終わりのサイン」だなんて、絶対に思いたくない。
老いは、静かに進んでいくものだけれど、それは決して“失うこと”ではなくて、時間の味わいが深くなっていく過程なんだと、父が教えてくれた気がする。
今年の父の日は、ちょっと盛大にしてみようと思う。
豪華な食事もいい。
ちょっと照れくさいけど、思いきって手紙もいい。
でも一番の贈り物は、**「今日の父を、きちんと見つめて、記録して、共に笑うこと」**なのかもしれない。
父の背中が、いつか静かに止まるその日まで、私はずっと、息子でいたい。
そして、父の“今”を、愛おしく大切にしながら生きていきたい🩷。
ありがとう、お父さん。
だけど今年は、それだけじゃ終わらないよ。
これからも、よろしく。
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