目次
🎻BGMをご用意しました。お好みで▷ボタンでお楽しみください。
最近、何を食べても「ふーん」で終わる。
お寿司?
あ、うん、まあまあ。
ラーメン?
うーん、前より薄くなった気がするけど気のせいかな…。
大好きだったプリンですら、どこか他人行儀に感じるこの頃。
まるで味覚が人間不信に陥ったみたいだ。
思わずスマホで「味覚異常 コロナ後遺症」とか「老化 味覚変化」とか検索しちゃう。
そして開いたページにこう書かれている。
「ストレス、自律神経の乱れ、加齢、亜鉛不足、コロナ後遺症」――やめてください、心当たりしかないです。
でもちょっと待って?
もしかして悪いのは私じゃなくて、そっち(食品)のほうじゃないの?
だってあのソーセージ、昔より味がしない。
ジュースは甘いだけで、果実どこ行った?
インスタント麺はスープを変えたのか、私が変わったのか…。
もしかするとこれは単なる“体調のせい”じゃなくて、時代の味覚が静かに壊れていく音かもしれない。
そう思った私は、もう一度「本当の味」に向き合うことにした🩷。
味覚が迷子になったとき、頼るべきは病院の診断書より、素材のひとかけら。
大げさかもしれないけど、舌が「おいしい」と言ってくれる日は、ちょっとだけ心も元気になれる気がするのだ。
体温は平熱、心は冷め気味。
味覚の迷子が今日もひとり。
ある朝、目が覚めて、ふと台所に立った。
ご飯を炊いて、味噌汁をよそって、お漬物をひとつ…。
口に入れた瞬間、ぬるっと広がる違和感。
いつもの味が、遠い。
美味しいとも、不味いとも言えない。
何かが足りない。
でも、それが何か分からない。
おかしいな、体温は平熱。
お腹も壊してない。
朝から元気に洗濯もしたし、買い物にも行った。
仕事も、いつも通りこなした。
なのに――「美味しくない」だけが取り残される。
まさか…これは噂のコロナ後遺症?
あるいは、味覚の老化?
季節の変わり目?
ストレス?
加齢?
SNS疲れ?
もういっそ呪いか何か?
頭の中をぐるぐる回る「可能性リスト」は、だんだん医学書というより占いのようになっていく。
病気じゃないなら気のせいかもしれない。
気のせいなら放っておいても治るかもしれない。
でも治らなかったら?
このまま“味気ない人生”が続いていくのかと思うと、それはそれでちょっと悲しい。
「ちゃんと感じたい」って、実はすごく人間らしい願いなんだと思う🩷。
誰かの優しさも、風の心地よさも、美味しさも――ちゃんと感じたい。感じられないことが一番のストレスだ。
味覚の異常って、実は身体よりも心のセンサーがバグってるのかもしれないね。
だから、まずは自分に言ってあげよう。「不安になるのも当然だよ」って。
焦らず、今日のごはんを静かに一口。
もしかしたら、その“なんとも言えなさ”こそが、今のあなたの味覚かもしれないんだから。
食べられるけど、喜べない。
お腹はふくれても、心は空っぽ。
今日も一日、ちゃんとこなした。
朝はバタバタしながらも、トーストとコーヒー。
昼はお弁当を詰め込んで、夜はコンビニのパスタにチンしたスープ。
そう、私はちゃんと食べている。
カロリーも足りてる。
栄養もまぁ、パッケージを見る限りバランスは取れている。
なのに、どこか満たされない。
何が足りないんだろう。
たぶん、「うまっ!」っていう、あの一言が心の中に湧いてこないからだ。
かつての私は、好物を前にするとテンションが上がった。
小躍りしたくなるほどの焼き芋、鼻から抜ける香りがご褒美だった味噌汁、口の中でとろける卵焼き。
ひと口で「生きててよかった」と思えた瞬間。
ところが今は…どれも「まあまあ」止まり。
記憶の中の味と、現実の味がまるで別人のようになってしまった。
どうしてこうなったのかと首をひねる。
体調が悪いわけでもない。
疲れすぎてもいない。
機嫌だってそこそこ悪くない。
なのに、美味しさだけが置き去りになってる。
食べることはできるのに、食べた気がしないというこの不思議。
お腹はしっかり満たされてるはずなのに、何かが足りない。
この感じ、まるで「あいさつだけはしてるけど心は通ってない人間関係」に似ている。
なんていうか…食べ物と心が、もう“目を合わせてくれない”。
そんなとき、つい手が伸びるのはスナック菓子や濃い味のラーメン。
けれど、それで一瞬「味がした」と思っても、あとには虚しさが残るだけ。
結局それって、舌に刺激をあげただけで、心には何も届いてないんだよね。
もしかしたら、私たちは今、「感じる力」をそっと失ってるのかもしれない。
忙しさに追われて、味わうことさえ忘れて、ただ生きるために“摂取”している日々。
でも――それじゃあ、せっかくのごはんがかわいそうじゃない?
だから私は、まず“感じたい”と願うことにした。
美味しいって思いたい。
思えないときは、「今日はそんな日」とそっと受け止めて、明日に期待してみる。
もしかしたら、心のどこかで小さな食欲が目を覚ますかもしれないから🩷。
あの味を返してくれ!名前だけ残った“ソレジャナイ”食品たち。
「好きだったはずなんだけどなぁ…」
そう思いながら、いつものソーセージにかぶりついたある日のこと。
あれ?こんなに味、薄かったっけ?
なんか…弾力だけで、旨味が遠くに逃げたまま帰ってこない。
続いてジュース。
昔は一口で果実が飛び込んできたのに、今はなんかこう…果汁の影武者?って感じ。
インスタント麺もスープが薄い。
コクより塩分が前に出てて、喉だけが頑張っている。
これ、もしかして私の味覚が壊れたんじゃなくて、中身の方が変わってない?
名前は昔と同じなのに、まるで別人みたいな味。
ソーセージは“ソーセージ風の棒”になり、ジュースは“フルーツっぽい香りの液体”に。これはもう食卓版の「偽装大賞」じゃないかと思うほど。
誰もが気づかないふりをしてるけど、加工食品の世界ではひっそりと“すり替え”が進行中なのかもしれない。
大豆を少なくして水でふくらませた豆腐。
お肉の代わりに植物性のたんぱく質をこっそり足されたハンバーグ。
少しずつ、少しずつ、“あの味”は遠ざかっていく。
それなのに、パッケージは昔と同じ笑顔で微笑んでくる。
しかも値段は上がっている。
どういうこと?
「量が減って味も落ちたけど、あなたが変わったんじゃない?」みたいな顔をされて、こちらとしては「え、私が悪いの!?」と内心修羅場。
こうなってくると、自分の味覚を疑うよりも、商品の変化に目を向けた方が正解なのかもしれない。
だってさ、私の舌は、昔は確かに「美味しい!」って叫んでたんだよ?
なら今、美味しくないと感じるのは、私のせいだけじゃない。
かつての“美味しい”は、時間をかけて丁寧に作られていた。
今は効率と価格の都合で、“それっぽく見える”何かになってしまった。
気づけば「心が喜ぶごはん」から、「とりあえず口に入る何か」へ🩵。
なんだか悲しいけど、これが現実。
それでも私は言いたい。
「名前だけ残されても、心は満たされないんだよ」と。
だからこそ次に向かうのは、本物の味を、もう一度思い出す旅なのだ。
味のタイムマシンは、塩と素材だけで動く。
再起動、準備よーし!
食べ物に心が動かない。
味の記憶がどこかへ行ってしまった。
ならば、取り戻しに行こうじゃないか。時を超える味の旅――
その切符は、意外にもキッチンの片隅にあった。
そう、素材と塩である。
どんなに立派なレストランのコース料理でも、究極の一皿は「素材+塩」に勝てない。
トマトにひとつまみの塩。
ゆでたじゃがいもにほんのひとかけら。
豆腐をそのまま、冷たく。
これが驚くほど美味しく感じたら、あなたの味覚はまだまだ現役だ。
もちろん、素材も塩も選びたいところ。
そこらの白くてツーンとしたやつじゃなくて、ちゃんと海から来た天然のやつ。
ちょっとミネラルの香りがして、舌にピリッとくるけど、あと味がじんわり優しい。
そんな塩があれば、もう料理はシンプルでいい。
素材そのものが主役になってくれる。
でも注意点もある。
いきなり完璧を目指して、無味無調整の素材をボリボリ食べ始めると、途中で「え、修行?」ってなる。
大事なのは“感じようとする心”であって、“ストイックに我慢する心”じゃない。
たとえば、朝の一口はおにぎりでもいい。
塩むすびひとつ。
ただし、お米はちゃんと炊いてね。炊飯器任せでもいいけど、水加減だけはちょっと気にしてほしい。
それだけで、ひと口目に「あっ…」って声が出るかもしれない。
その「あっ…」こそが、味覚の再起動ボタンなんだから。
大切なのは、「素材ってこんな味だったんだ」と思い出すこと。
大げさに言えば、忘れていた自分と再会するようなもんだ。
舌だけじゃなく、記憶や感情まで動き出すから不思議🩷。
塩と素材。
たったそれだけで、“今ここ”の味が甦る。
さあ、味のタイムマシンはもう発車オーライ。
次の駅は――「懐かしいけど、なんか新しい」あの味でございます。
おばあちゃんの味は、科学調味料じゃ作れない。
舌と心に灯をともそう。
「最近の味はなんだか物足りないねぇ」
そうつぶやくおばあちゃんに、「そうかな?普通だよ?」と返した私。
でもその後で、自分も「あれ、なんか味がしない…」と気づくことになるとは。
高齢者さんの味覚って、実はとても繊細。
そしてとっても記憶深い。
あの頃の味噌汁の香り、梅干しの酸っぱさ、七輪で焼いた魚の匂い――
味覚って、舌じゃなくて、記憶で感じてるところもある。
だからこそ、最近の“うす味健康食”や“ゼロ添加食品”が正解とは限らない。
「これは体にいいからね」と言われて出された食事が、心にまったく響かないこともあるのだ。
栄養バランスよりも、“魂のバランス”が崩れてしまっては意味がない。
じゃあどうするか?
塩が控えめなら、香りやだしで勝負だ!
煮干しと昆布を一晩つけるだけで、味覚に魔法がかかる。
昔ながらのぬか漬けも、ぬか床が元気なら、食べる人もつられて元気になる。
そこに柚子の皮なんかをちょっと添えてみると、あら不思議。
香りで昔がよみがえる。
気がつけば「おいしいねぇ」のひと言がぽろり。
発酵食品も名脇役。
ほんの少しの味噌や甘酒、ちょっとした塩麹で、味わいにぐっと深みが出る。
しかも、どこかほっとする。この「ほっと」が大事。
舌で感じる前に、心で安心するのだ。
それにね、高齢者さんって、味には厳しいけど、心にはとても優しい。
「あら、これ手作りかい?」「昔の味に似てるねぇ」
そんな言葉が返ってきたら、こっちの味覚まで少し回復してくるような気がする。
本当の“美味しい”は、舌と心が両方でうなずく味。
そしてそれを一緒に分かち合えることが、なによりの調味料になるんだろうね🩷。
いつからだろう、「いただきます」がただの習慣になっていたのは。
食べるって、本当はもっと感動的な行為だったはずなのに、気がつけば「カロリー」と「価格」と「時短」に追われて、“味わう”ことを忘れていた。
でも、何を食べても美味しくないと感じた時は、ちょっとだけ立ち止まってみるチャンスかもしれない。
それは味覚が壊れたんじゃなくて、あなたがちゃんと気づいたから。
味が変わった、心が反応しない、記憶の味と違う――
それはすべて、「本物の美味しさを知っているからこそ」なんだよね。
だから、まずは深呼吸。
素材の味を塩で感じてみる。
トマトの酸味、豆腐の甘み、お米のうま味。
それだけで、舌も心も「おかえり」と言ってくれるかもしれない🩷。
そして、思い出の中にある“あの味”を、少しずつ探しに行こう。
おばあちゃんの煮物、子どもの頃に食べた夏のすいか、冬のこたつで食べたみかん。
そういう小さな記憶の破片が、今のあなたの味覚をもう一度目覚めさせてくれる。
美味しさって、豪華さじゃない。
手間の数でもない。
誰かと笑いながら食べたとか、自分のために丁寧に作ったとか、そこにほんの少しの“気持ち”があるかどうか。
それが、味覚の再起動スイッチなんだと思う。
さあ、次の食事は、ちょっとだけ“心も一緒に食卓に座らせて”みてね。
今日も、生きてるって、おいしい。
[ ⭐ 今日も閲覧ありがとう 💖 ]
読み込み中…読み込み中…読み込み中…読み込み中…😌来場された皆様、今日という日の来訪、誠にありがとうございます
お気づきのご感想を是非、お気軽にお寄せくださいましたら幸いです
😌2つも参加して欲張りですが、是非、ポチっと応援をよろしくお願いします