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6月26日は世界格闘技の日!殴る蹴るだけじゃない心をつなぐ格闘技の物語

はじめに…

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6月26日。

世界がまだ梅雨のしずくに濡れているこの季節に、なぜか叫びたくなる日がやってくる。

その名も「世界格闘技の日」!思わずコブシを突き上げたくなるような熱い名前に、背筋がピンと伸びる…かと思いきや、実際はクーラーの風に負けてブランケットにくるまっている、そんなあなたにも朗報だ。

格闘技って、殴る蹴るだけじゃないんだ。

汗を流して鍛えることも、試合を観て心を熱くすることも、ひいては遠い昔のおじいちゃんおばあちゃんの思い出まで繋がっている、意外としみじみとした世界なのだ。

この「格闘技の日」、1976年にアントニオ猪木とモハメド・アリが繰り広げた、あの伝説の異種格闘技戦が元ネタだという。

でも、今回語りたいのはリング上の汗とパンチじゃない。

もっと静かに、もっと熱く、格闘技が私たちの心にどう根を張っているか、そこに目を向けたい。

世界には300以上もの格闘技が存在し、打撃も組技も武器術も、どれもこれも人間の「生きるぞ」という本能の証だった。

健康のために学ぶ人もいれば、護身のために技を身につける人もいる。

そして、テレビの向こうで力士たちが土俵を舞う姿に、箸を止めて熱狂した祖父母たちの笑顔もまた、格闘技文化のひとつだったのだ。

今日という日は、ただ強い者が勝つ世界を祝う日じゃない。

戦う強さ、逃げる勇気、支える優しさ、そして応援する温かさ🩷。

すべてを抱きしめながら、そっと言おう。

「がんばれ、世界中の闘う心たち!」と。

さぁ、ゴングは鳴った。

拳を握るもよし、リモコンを握るもよし。

今日だけは、心の中でそっと、ファイティングポーズをとってみようじゃないか

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第1章…なぜ人は格闘技を学びたくなるのか?~逃げるが勝ちの哲学~


誰だって一度は憧れる。

「格闘技を習ったら、俺も世界最強になれるんじゃないか」なんて、甘い幻想を。

だが現実はというと、キックひとつで自分の体が悲鳴を上げ、シャドーボクシングでさえ三分も続かない有様。

結果、筋肉痛とともに強くなるのは、もっぱら心だけ。

だが、それでいい。

強さとは、何も相手を倒すことだけじゃないのだ。

もともと格闘技というのは、汗を流して自分の体と心を鍛えるための道だった。

ストレッチから始まる静かな時間、パンチミットに当てた時のパァン!という爽快な音、汗が頬をつたうあの瞬間。

これらすべてが、日々のストレスをぶっ飛ばしてくれる心の洗濯でもある。

世界中で格闘技が愛される理由は、試合に勝つためでも、誰かをねじ伏せるためでもない。

ただ「昨日よりちょっとだけいい自分」に出会うためなのだ。

それに最近では、健康目的で格闘技を始める人が増えている。

ダイエットにいい、肩こりに効く、バランス感覚が鍛えられる…そんなキャッチコピーが飛び交うくらいだ。

でも、もう一つ忘れてはならない大切な理由がある。

それは「逃げるための力」をつけること。

護身術、つまり自分の身を守るための小さな勇気。

逃げるという選択肢を、体に刻み込んでおくために、私たちは今日もジャブを打つ。

高齢者でも、車いすでも、寝たきりでも、護身の基本は変わらない。

倒されない体幹、かわすための反射、握られた手首をそっと外すコツ🩷。

派手な技は必要ない。

派手なスピンキックより、地味な押し返しの練習こそが、いざという時の命綱になる。

人生、逃げるが勝ちだ。

闘う覚悟よりも、逃げる勇気を。

格闘技とは、決して戦うことを強いるものではない。

平和に笑って生きるための、ささやかな準備運動なのだ。

さぁ、今日も軽くストレッチをして、深呼吸をひとつ。

逃げるための足腰を鍛える、それこそが、最高にカッコいいファイティングポーズなのである。

第2章…試合を見れば心も熱くなる?~祖父母とテレビと小さな拳~


格闘技を自分でやるのはちょっと…というあなたも、観るだけならきっと心当たりがあるはずだ。

そう、リビングに響き渡るテレビの音声、そしてその前に仁王立ちする祖父母の姿。

妙に力が入った声で「押せ押せ!」「いけーっ!」と叫び、気がつけば畳を叩いていたあの日。

こちらは夕飯のおかずをつまみながら、「そんなに熱くならなくても」と思っていたが、今なら少しわかる。

あれは単なる勝ち負けの応援ではなかったのだ。

戦後の日本。

多くを失い、傷ついた人たちが、心のどこかで「もう一度、立ち上がりたい」と願っていた時代。

そんな中、土俵に立つ力士たちや、拳を突き上げるボクサーたちに、誰もが自分を重ねた。

転んでも、押されても、顔を腫らしても、最後まであきらめない。

彼らの姿は、あの日々の希望そのものだったのだ。

祖父母が拳を握りしめたのは、単なるスポーツ観戦じゃない。

自分たちの人生そのものを、もう一度応援していたのである。

そしてまた、あの時代にはテレビも特別だった。

今みたいに一人一台スマホで観る時代じゃない。

家に一台しかないテレビを囲み、家族も近所も一緒になって笑い、叫び、泣いた。

格闘技観戦は、まるで即席の町内運動会のようだったのだ。

汗と笑いと、たまにビールの匂いが混ざる、あの濃密な空気。

今思えば、あれこそが「生きる力」を補給する時間だったのかもしれない。

だから、たとえ今の私たちが「むさ苦しい…」と感じてしまったとしても、それは無理もない。

でも、あの時代を生き抜いた人たちにとっては、暑苦しいもむさ苦しいもすべてひっくるめて、かけがえのない「勝ち負けじゃない、心の格闘技」だったのだ。

そう思うと、今日もどこかの施設で「よっしゃ!」と叫ぶおじいちゃんがいたって、ちょっと許せる気がしてくる。

いや、できれば拍手を送りたいくらいだ。

テレビの前で、そっと小さな拳を握る。

あの日の祖父母も、きっと今の私たちを見守っているに違いない。

頑張れよ、人生という名のリングで、と🩷。

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第3章…文化を守るってなんだろう?~相撲茶漬けに涙した夜~


夕暮れ時、キッチンから漂ってくるのは温かいご飯の匂い。

そしてテレビの向こうでは、まわし一丁の力士たちがドスン、ドスンと土俵を踏み鳴らしている。

そんな光景に、どこか懐かしさを覚えたことはないだろうか。

私はある。

というか、忘れたくても忘れられない。

あの頃、祖父母の家では夕飯時に相撲中継が流れるのが当たり前だった。

力士たちのたくましい背中を眺めながら、茶碗を片手に食べるお茶漬けの、あの妙な取り合わせ。

味なんて、よくわからなかった。

ただ、熱気と汗と塩の香りに包まれた食卓が、なぜかすごく、幸せだった。

だが時は流れ、今では施設では食事中にテレビを消すのが一般的になった。

誤嚥リスクがどうの、食事に集中できないからだのと、もっともらしい理由はたくさん並べられる。

でも、私は思うのだ。

たった一杯のお茶漬けをすすりながら、勝負の行方に一喜一憂する、そのささやかな時間こそが、生きる力になっていたのではないかと。

あの食卓には、理屈では測れない温もりがあった。

汗だくの力士を見ながら食べるご飯は、確かに暑苦しかった。

だがそれも含めて、あの時代の家族の形だったのだ。

文化とは、合理性だけでは測れない。

合理的に考えれば、相撲なんて危険の塊かもしれない。

何百キロもの体重をぶつけ合い、土俵下に転がり落ちる。

医療的にはヒヤヒヤものだろう。

けれど、それでも続いているのは、そこに魂を震わせる何かがあるからだ。

人が人を応援する、その無償のエネルギーが、時代を超えて引き継がれているからだ。

お茶漬けの熱さにむせながら、祖父がつぶやいたあの日の言葉が、ふと耳に蘇る。

「どんなに負けても、最後まで頑張ったら勝ちや」。

勝ち負けを超えたところにある、人間の格闘技。

私たちはそれを、無意識のうちに受け継いでいるのかもしれない。

文化を守るとは、単に昔の形をなぞることではない。

その時代その時代の空気を吸いながら、心の中に、小さな相撲茶漬けを持ち続けることなのだ。

今日もどこかで、力士たちが土俵を蹴立てる音が響いている。

あの音に、ふと心を重ねることができたら。

それだけで十分、文化はちゃんと生きている🩷。

第4章…施設運営に必要なのは「配慮」か「愛」か?~相撲タイムの奇跡を信じて~


高齢者施設に勤めると、最初に叩き込まれるのは「安全第一」という言葉だ。

食事中はテレビを消しましょう、嚥下リスクがありますから、はい消します、パチン。

これが日常になっている。

でも、ふと立ち止まって考える。

安全って、そんなに単純なものだろうか?

食事中にテレビを消したからって、本当にみんなが幸せになっているんだろうか?

静かな食堂に広がるのは、箸の音と、ほんの少しの寂しさだったりしないだろうか?

ある日、職員たちは思い切った。

夕方五時、いつもより早めに夕食を終え、全員で食後の「相撲タイム」を開催したのだ。

車いすを並べて、テレビの前に小さな観戦席を作る。

大きな声は禁止だけど、拍手と笑顔は大歓迎。

画面の中で土俵入りが始まると、普段は無表情だったおばあちゃんが、そっと手を合わせた。

隣ではおじいちゃんが、孫に教えるみたいに「この力士はな、若いころから頑張っとるんや」と、熱弁を振るう。

結果はどうだったか?

食後の誤嚥リスクはゼロ。

その代わりに、笑顔があふれた。

心拍数も、血流も、もしかしたら記憶の中の大切な景色さえも、ふっと蘇ったかもしれない。

配慮も大事だ。

でも、もっと大事なのは、彼らの人生を肯定する愛情だと思う。

戦後を生き抜いた人たちが、テレビの前で拳を握ったあの時代。

彼らにとって格闘技観戦は、たったひとつの娯楽であり、生きる喜びであり、明日への活力だった。

その記憶に、施設のルールごときで土足で踏み込んでいいわけがない。

安全のためにすべてを禁止するのは、実はとても簡単なことだ。

何もしなければ、誰も怒らないし、誰も傷つかない。

でも、心も同時に凍りついてしまうのだ。

施設運営に本当に必要なのは、完璧なマニュアルでも、堅苦しいリスク管理でもない。

目の前の人が、今この瞬間を、少しでも楽しく過ごせるために、そっと手を差し伸べる勇気だ。

だから私は、信じている。

相撲タイムの奇跡を🩷。

そして、たとえ体が弱っても、心はいつだって力士みたいに、力強く土俵に立っているということを。


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まとめ…格闘技は勝敗を超えた優しさだった。


気がつけば、拳を握りしめながらページをスクロールしていたあなた。

格闘技という言葉に、かつてないほど心を寄せた今日、この日。

勝つために殴り合うのではない。

強さを誇示するためでもない。

格闘技とは、もっと静かで、もっと優しいものだったと気づかされる。

逃げる力を養うために、ストレッチをする。

心を温めるために、テレビの向こうで誰かを応援する。

失われた思い出を取り戻すために、そっと拳を握る。

どれもこれも、勝ち負けとは無縁の、あたたかな格闘技だ。

世界には300を超える格闘技があるという。

パンチ、キック、投げ、かわし、握り返し、離し、抱きしめる。

どれも形は違うけれど、その根っこにあるのはただ一つ。

生きようとする心だ。

だからこそ、高齢者施設だろうと、病院だろうと、街角だろうと、今日もどこかで小さな格闘技が行われている。

そっと手を伸ばす優しさも、諦めずに立ち上がる勇気も、すべてが見えないリングの上で輝いている。

6月26日、世界格闘技の日。

どこにも行かなくていい。

グローブも道着もいらない。

ただ、自分の心に、そっとファイティングポーズを取ってみよう🩷。

拳を握らずとも、きっと感じるはずだ。あなたの中にも、強くて優しい闘志が、ちゃんと息づいていることを。

さぁ、今日も元気に、逃げるが勝ちで。

そして、笑顔で――

「押忍!」

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