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6月26日は、ちょっと不思議な記念日。
「露天風呂の日」。
湯けむりの向こうに何が見える?それは、空だったり、山だったり、星だったり、時にはまだ見ぬ誰かの笑顔だったりする。
裸足で風を踏みしめ、肩まで湯に沈めたその瞬間、心と身体はじわじわとほどけていく。
露天風呂って、不思議だ。
お湯に浸かっているのに、顔はひんやり風に撫でられる。
寒い季節には鼻先が赤くなり、暑い季節には、そよぐ風がごちそうみたいになる。
湯のぬくもりと外気の涼しさ、その絶妙なギャップが、どうにも心地いい。
のぼせにくいのも、露天風呂ならではの特権だ。
けれど、露天風呂はただ気持ちいいだけじゃない。
そこには、何百年もかけて日本人が育んできた、温泉文化の知恵と、世界各地の人たちがそれぞれに見つけた「湯あそび」の物語が詰まっている。
今日はそんな湯けむりに誘われて、日本と世界をまたいで、ちょっとした温泉旅行に出かけてみよう。
タオル片手に、心はすでに湯気まみれ。
さあ、湯けむりの向こう側へ🩷。
裸で風と仲良しだった時代があったらしい。
そんな話を聞くと、現代人の私たちはちょっと顔を赤らめるかもしれない。
でも、昔の日本人にとって、お風呂とは「裸で自然と一緒になる」ごく当たり前の日常だった。
推古天皇が京都から和歌山まで湯治に訪れたという話も、武田信玄が負傷兵や病人たちを温泉地に送り込んでいたという逸話も、実はそんなおおらかな文化を物語っている。
江戸時代には、町中の湯屋、つまり今で言う銭湯も、男女一緒の混浴が当たり前だった。
男も女も子どももおじいちゃんも、みんなで裸になって、桶でチャプチャプ体を流し、湯船でふうっと一息つく。
そこに羞恥心なんてなかった。
むしろ、裸になったら誰もが平等。
貧富も肩書きも脱ぎ捨てて、ほっこり湯気の中で交わす挨拶が、何より温かかったらしい。
けれど時代は移ろう。
明治時代に入り、日本が西洋文化を意識しはじめると、裸文化はなんだか急に恥ずかしいものに変わった。
「国際社会の目がある!」「裸は文明的ではない!」そんな声に押されて、混浴は次第に消えていった。
裸で風と笑い合う時代は、少しずつ過去のものになったのだ。
とはいえ、すべてが一夜にして変わったわけではない。
ひっそりと山あいに残る秘湯では、今でも昔ながらの混浴文化が生き続けている場所もある。
お湯を分け合い、空を仰ぎ、知らない者同士が湯気越しに心を交わす。
そんな風景は、今も細い川のせせらぎや、湯煙の向こうにそっと息づいている。
露天風呂とは、ただのレジャー施設じゃない🩷。
かつて人と自然とがもっと近かった時代、そのぬくもりを、湯気ごしに受け取るための、やさしいタイムカプセルなのかもしれない。
湯けむりの向こう、何が見える?なんて問いかけたら、きっと日本人は口々にこう答える。
「空!」とか「山!」とか、あるいは「雪!」とか、たまに「カモシカ!」なんて声も聞こえてきそうだ。
そう、日本の露天風呂は、自然と一緒に五感をひらく場所なのだ。
まず、湯に浸かった瞬間のあの幸福感。
体がじんわりと湯に溶けていくような気持ちよさに、思わず「はぁ〜」と声が漏れる。
温泉の成分が肌にふわっと絡みつき、さっきまで感じていた重力がどこかへ消える。
お湯の中はじんわり熱い。
でも、顔にあたる外の風はびっくりするくらい涼しい。
これが、露天風呂ならではの温度ギャップの妙だ。
冬場ともなれば、なおさらドラマチックだ。
熱いお湯に肩まで浸かりながら、外の空気はキリリと冷たくて、息を吐くたびに白い雲がもわっと広がる。
鼻の頭は真っ赤になっているのに、背中はぬくぬく。
頭はしゃきっとしているのに、体はとろける。
これが絶妙なバランスで、露天風呂ではめったにのぼせない。
しかも、上がったあとには、肌がまるで桃の皮をむいたみたいにすべすべになっていることがある。
温泉成分の力って、ほんとに侮れない。
お風呂上がりに、ふわっと温泉地特有の硫黄の香りが漂うのもまた一興だ。
まるで自然からもらった香水みたいに、肌にほんのり香りが宿る。
地元の売店に立ち寄れば、温泉卵がズラリと並んでいる。
湯けむりの中でじっくり茹でられた卵は、黄身がねっとりしていて、ほんのり温泉の香りがする。
これを頬張れば、口の中まで温泉旅行だ。
さらに、ときどき温泉によっては「飲泉」といって、温泉水をそのまま飲めるところもある。
鉄分のにおいがしたり、ちょっとしょっぱかったり、味は実に個性的だが、それもまた旅の醍醐味。
湯に浸かって、空を見上げて、肌で、香りで、味で、五感すべてで自然と一緒に遊ぶ。
それが日本の露天風呂の真骨頂なのだ。
露天風呂に浸かるということは、ただお湯に入るだけじゃない。
そこは、世界でいちばん贅沢な「自然との握手会」なのである。
ぬくもる体、ひんやりした頬、漂う湯けむり、味わう温泉卵──すべてをぜんぶ抱きしめたくなる、そんな五感パラダイスが、ここにある🩷。
温泉と聞くと、日本人なら「裸でドボン!」が当たり前と思いがちだ。
でも世界に目を向けると、それは少数派だったりする。
むしろ、地球の裏側では、「温泉に入るなら水着でポーズ!」が基本ルールだったりするから、面白い。
たとえばアイスランド。
あの青白く神秘的なブルーラグーンでは、みんな水着姿で温泉にぷかぷか浮かんでいる。
温泉といっても、まるで地熱を使った巨大プールのような景色だ。
ひんやり冷たい空気の中、湯けむりに包まれて、アイスランド人も観光客も、みんなでバチャバチャ楽しそう。
写真を撮るときなんて、まるでモデルの撮影会。
露天風呂で決めポーズ。
そんな光景が、ここでは日常なのだ。
ニュージーランドでは、ロトルア地方のポリネシアン・スパが有名だ。
ここでも水着着用はマスト。
しかも、ファミリープールから大人専用エリアまで、温泉ごとにスタイルが違う。
家族連れでわいわい、カップルでしっとり、みんな思い思いのリラックスタイムを楽しんでいる。
裸でドボン文化の日本人からすると、「え、こんなにオープンでいいの?」と目を丸くしてしまう光景だ。
フィンランドに至っては、さらに驚くべき温泉体験が待っている。
サウナでしっかり温まったあと、冷たい湖に飛び込むのだ。
夏ならまだしも、冬ともなると、湖面には分厚い氷。そこに穴を開けて、「ひゃっほー!」とダイブする。
あまりの寒さに、最初は誰もが叫び声を上げるけれど、これがクセになるらしい。
温めて冷やして、また温める。体と心をリセットする、大自然とのガチンコ勝負だ。
もちろん、アメリカでもホットスプリング文化は健在だ。
ロッキー山脈のふもとに点在する天然温泉では、登山帰りの人々が泥だらけの水着のまま、ドボンと浸かって疲れを癒している。
開放感たっぷり、隣のお兄さんと肩を並べて「今日の登山、キツかったね!」なんて話すのも、また乙なものだ。
世界の温泉は、基本的に「リゾート」「アクティビティ」「社交場」の三拍子がそろっている。
裸で一人しみじみ、ではない。
みんなでわいわい、温泉を楽しみ尽くすのだ。
湯上がりには、ビール片手にバーベキュー、なんていうパターンも珍しくない。
温泉は、浸かるだけじゃない。
飲んで、食べて、踊って、人生を丸ごと味わう舞台装置なのだ。
国が違えば、湯けむりの向こうに見える風景も違う。
でも、共通しているのは、「お湯の中にいると、みんなちょっとだけ幸せになる」ということ。
それは、きっと世界共通のひとときだ。
水着でも、裸でも、青空の下で、湯けむりにまみれているとき、人はきっと、何か大事なものを思い出しているのかもしれない🩷。
温泉といえば、はるばる旅に出るもの。
そんな常識が、近頃ひっそりと揺らぎ始めている。
なにしろ、タンクに温泉をぎゅっと詰め込んで、家まで持ってきてくれる時代なのだ。
玄関先にトラックが横付けされ、ホースがぴゅーっと伸びて、自宅の風呂場に本物の温泉が注がれる。
この光景、初めて見るとほぼ衝撃だ。
温泉地の恵みをぎゅうっと運んでくるのだから、お湯の力は本物だ。
成分も香りも、まるでそのまま温泉地にいるような気分になる。
お湯を沸かす音に耳をすませながら、ふと考える。
これがもし江戸時代にあったなら、きっと殿様たちは大喜びで「風呂入り放題じゃ!」と叫んだに違いない。
現代ではそれを、一般市民がこっそり満喫できるのだから、なんともいい時代になったものである。
この温泉宅配、今や個人宅だけではない。
病院や高齢者施設にもじわじわと広がりつつある。
毎日ではないけれど、年に数回でも温泉デーがやってくると、入居者さんたちの顔がパッと明るくなるという。
足腰が弱くなっても、遠出が難しくなっても、湯けむりに包まれるあの幸せだけは、届けてあげたい。
そんな願いが、タンクの中にぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
もちろん課題もないわけではない。
運搬コスト、お湯の温度管理、施設設備との相性──いろいろ細かい問題はある。
だけど、だからといって「やらない」理由にはならない。
だって、温泉に浸かって心がふわっとほどけたときの、あの何とも言えない表情を、一度でも見てしまったら、もう無視できない。
しかも最近では、温泉宅配に合わせて「温泉たまご作り体験」や、「地元銘菓プレゼント」なんていう、楽しいオプションまで登場している。
湯上がりにあたたかいタオルを肩にかけ、手にはつるんとした温泉卵。
まるで一泊二日の温泉旅行から帰ってきたかのような気分になれる。
温泉は、地元に眠る小さな宝物。
それを届けるという発想は、もしかすると未来の温泉文化を支える、大きな力になるかもしれない。
タンクに乗せて運ぶのは、ただのお湯じゃない。
きっと、心と体を丸ごと温める、湯けむりの贈り物だ🩷。
湯けむりの向こうに広がる景色は、決して一つじゃない。
かつて裸で風と語り合っていた日本人たちがいて、今もお湯と外気の絶妙な温度差に心をほどく旅人がいる。
世界を見渡せば、アイスランドの青い温泉プールでポーズを決める人たちもいれば、ニュージーランドで家族とにっこり笑い合う人たちもいる。
フィンランドではサウナのあとに凍った湖に飛び込み、アメリカでは山登りの疲れを泥だらけの温泉で洗い流す。
どこでも、人は湯気に包まれると、ほんの少しだけ、幸せになるらしい。
露天風呂は、地球がくれた大きな手ざわりだ。
湯に浸かりながら空を見上げ、ひんやりした風を頬に受ける。
その瞬間、体だけじゃなく、心の中のごちゃごちゃまでもが、ふわりとほどけていく。
お湯に温められた皮膚と、冷たい風に撫でられた頬が同時に存在する感覚。
それはまるで、「あたたかさ」と「さみしさ」を同時に抱えながら、それでも前に進んでいく私たちそのものだ。
タンクに乗ってやってくる温泉も、山あいにひっそり湧く秘湯も、ブルーラグーンの青い水面も、みんな違って、みんなすてきだ。
遠い昔に推古天皇が湯に浸かった日も、信玄の兵たちが傷を癒した日も、今日タンクから流れ出す一滴も、ぜんぶ同じ湯気でつながっている。
湯けむりは時空を超える。
けれどそれは大げさな話じゃなく、湯に浸かってただ「いいお湯だなぁ」と思う、そのたったひとつの感覚に、ぎゅっと詰まっている。
6月26日、露天風呂の日🩷。
今日くらい、湯気の向こうに思いを馳せてみたっていい。
温泉の湯けむりはきっと、地球のやさしい手ざわり。
手を伸ばせば、世界中のどこかの湯けむりと、そっとつながることだってできるかもしれない。
裸足で一歩、湯気の向こうへ。
ほら、もう、空がこんなに広がっている。
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