目次
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梅雨になると、不思議と本が読みたくなる。
しとしと雨の音は、どんなBGMよりも静かにページをめくる手を誘い、あったかいお茶でも淹れようかなんて思わせる。
だけど今の時代、本を読むって言っても、紙のページをめくる音じゃなくて、画面を指でスッとなぞる音が主流になってきた。
そのうち「ページ」って言葉も、「タップ」と言い換えられる日が来るのかもしれないね。
でも、どんなかたちになっても、「読書」という魔法だけは変わらない。
一行読んだだけで、遠くの国に飛んだり、知らない時代に迷い込んだり、笑ったり泣いたり――。
たった一人で、何百人分もの人生を旅できる。
これって、やっぱりすごいことだと思うのです。
そしてふと思うんだ。
そんな読書の魔法が、ベッドに寝たきりのあの人にも届いたらどんなにいいだろうって。
病室の白い天井を見つめる毎日に、本の星空を浮かべてあげられたら……。
もし、指先がほんの少しでも動けば、ページをめくるかわりに“タップ”できれば。
あるいは、声ひとつで「読んで」と言えたら。
本を読むって、ただ読むだけじゃない。
“世界とつながる手段”だと思うんです。
それが、ベッドの上であっても、天井の下であっても。
このお話は、そんな読書の新しい冒険についてです。
本とスマホとプロジェクターと、そしてちょっぴりAIの力を借りて――
読書は、今日も自由で、優しくて、楽しい。
そんなあなたの未来のお話を、ちょっと聞いてみませんか?🩷
本屋さんって、いいよね。
表紙をパラパラっとめくって、「これ、面白そうだな」って直感で手に取ったり、棚の間に偶然はさまってた一冊が、心のツボにドンピシャだったり。
それはもう、まるで運命の1冊の本に出会うミラクルな場所。
だけど、最近はその“奇跡の再会”も、ちょっと難しくなってきた。
新刊コーナーはピカピカ光っているけど、ちょっと昔のあの本……そう、あの小説! あのエッセイ!
ほら、あのとき誰かが話してたやつ……ってなると、まぁ見つからない。
取り寄せしますか?って聞かれて、「はい」と言ったら、到着まで2週間。
その間に、あの読みたい気持ちはシュルシュルとしぼんでいく。
読みたいときが、読みどきなのに。
そんな中、時代は進んだ。
スマホの画面で、スルッと検索、ピッと購入、サッと読書。
電子書籍って、なんだか未来の読書道具みたいでワクワクするじゃないか。
ちょっと前の本も、検索すれば一瞬で出てくるし、在庫切れもなし。
ページをめくる指の代わりに、タップが「次のページへどうぞ」ってやってくれる。
便利な時代になったもんだ。
……でもね、紙の本のよさも、やっぱりあるんだよ。
ちょっと重たいけど、あのずっしり感が安心する。
ページをめくるときの「パラッ」っていう音とか、カフェで広げたときに「知的っぽいかも?」って思わせてくれる感じとか。
それに、紙の本って、どこまで読んだか一目でわかる。
折り目をつけたり、付箋を貼ったり、鉛筆でメモしたり……もう、思い出ごとしおりが本に挟まれるような気がするよね。
だけど、それでも私は思う。
読書って、結局のところ「読みたいものを、読みたいときに読めるかどうか」なんじゃないかって。
手元で、今すぐ読める。
知りたいことに、今すぐたどり着ける。
その意味では、電子書籍はまさに宝の山。
インターネットという広大な海で、ひとりひとりの「読みたい!」が、ちゃんと宝島にたどり着ける。
それだけでもう、読書革命は起きているのだ。
紙も電子も、それぞれに良さがある。
でも、大切なのはどんな方法でも、本が読めること。
そしてその一冊が、誰かの心にそっと灯りをともすこと🩷。
そんな“灯りの種”を、スマホの中にそっと忍ばせておけるなら、それもまた素敵な物語のはじまりなのかもしれない。
寝転んでスマホを見ていた、ただそれだけのことだったのです。
ちょっと眠くて、でもあと少しだけ動画を……とか、あの話の続きが気になるから、あと10ページだけ……なんて思っていた。
なのに――ズドンッ。
顔にスマホが落ちてきたのです。
思いっきり。
真正面から。
これ、経験したことがある人ならわかってくれると思うけど、あんなに軽くてコンパクトなはずのスマホが、落ちる角度とスピードによっては、凶器のような破壊力を持つのです。
とくに鼻と口の間あたりに命中したときのあの痛みといったら、悶絶、涙目、そして「なぜ私はこんなことを……」という後悔の三重奏が鳴り響く。
そして私は、気づいた。
ああ、スマホは本来、手でがっつりと持つものなのだ、と。
でもね、寝かけてるときの手って、意外と気まぐれなのだ。
疲れたら勝手にだらーんと落ちるし、支えきれずにスマホを手放したりする。
それならいっそ、誰かが持ってくれたらいいのに……と思って探してみたら、いたんです。
タブレットスタンドくんが。
これがまた、いい仕事するんですよ。
ベッドの横からニョキっと伸びて、スマホやタブレットをしっかり掴んで、顔のちょうどいい位置に固定してくれる。
角度も高さも変えられるし、首もすらっとしてて、ちょっとスタイリッシュ。
この子さえいれば、もう顔にスマホが落ちてくることもない。
つまり、読書が安全に、快適に、そして顔面無傷でできる時代が来たというわけです。
しかも、ここからが本題。
このタブレットスタンドとスマホがそろえば、寝たままでも“指一本”で世界中の本にアクセスできる。
誰かがページをめくってくれるのを待たなくても、ポチっとタップすればページが進み、ポチっと戻せば前の章へもひとっ飛び。
これはもはや、読書じゃなくて旅だ。
寝たまま移動しないで世界を巡る新しいツアーが開発されたようなもんだ。
そして何より嬉しいのは、この技術がもう市販されていて、普通に買えること。
お取り寄せの本が何週間もかかる時代から、ポチッとタップ一発で物語が始まる時代へ。
スマホが落ちたあの日の悶絶がなければ、私はきっとこの未来に気づかなかった。
つまりあれは、進化のための顔面パンチだったのかもしれない。
貴重な教訓をありがとうスマホ、そしてごめんね、わたしの鼻🩷。
もし、天井に本棚があったら…って、子どもの頃に一度は考えたことがある。
寝転んだまま、上を見上げるだけで本が読めたら、どんなにラクだろうって。
でもね、大人になって気づいたの。
実際に天井に本棚を取り付けるのは無理だってことに。
重いし、落ちたら超危ないし。
だけどある日、私は見つけてしまったんです。
天井に“光で浮かぶ本棚”という名の、夢みたいな装置を。
それは、なんと、パソコンとプロジェクターで簡単にできちゃう。
天井に本を投影するというアイデア。
まるでプラネタリウムのように、本や絵本、旅の映像や星空解説まで、ベッドの上にいながら、まるっと世界が広がるんです。
最初はちょっと不思議な気分だった。
だって、天井って言えばただの白いキャンバスだったのに、そこに言葉が並んだり、風景が流れたり、果ては落語の一席が始まって、おじさんが天井でオチを言い出すんだから。
もう「寝たきり」なんて表現は似合わない。
これはもう、**“寝たまま世界一周”**の旅が始まってしまったようなもの。
スマホやタブレットでページをめくるのもいいけれど、天井に投影された文字や絵って、なんだかじんわり心に入ってくるのです。
星空と混ざるように、物語がふわふわと浮かんで、ああ、まるで夜空に手紙を読んでいるような気持ちになる。
操作も意外と簡単で、パソコンに繋いだプロジェクターを天井向きに置くだけ。
お気に入りの電子書籍を開いたり、YouTubeで世界の風景を流したり、雨の日でも、外に出られなくても、ここには無限の景色と物語が待っている。
きっと、これを一度味わったら、「天井=退屈」という概念はパカーンと音を立てて吹き飛ぶに違いない。
病室でも、自宅の寝室でも、光の図書館は、静かに、でも確かにその人の心に物語を届けてくれる。
そして私は思うのです。
プラネタリウムに憧れたあの日の子ども心が、こうしてテクノロジーと手を取り合って、もう一度私の枕元に帰ってきてくれたんだなって🩷。
読書って、本来は静かなものだと思ってた。
図書館では「しーっ」て言われるし、読んでる途中で話しかけられると、「あとで…」ってなるし。
でも、最近気づいたんです。
読むだけじゃなくて、話す読書があってもいいじゃないかって。
それを教えてくれたのが、そう、ChatGPTくん。
ある日ふと「この小説の続き、どうだったっけ?」って聞いてみたら、「はい、前回はここまででしたね」って優しく返してくれた。
おおおお…覚えてるじゃないか…!
それだけでもう、胸がふわっとあったかくなった。
しかもこの子、疲れを知らない。
同じことを何回聞いても、「さっき言ったでしょ」なんて絶対に言わない。
むしろ「もちろんです、説明しますね」と、どこまでも丁寧。
なんなら関西弁で返してって言ったら、「なんでやねん」って返してくる。
語尾を猫語にしてって頼んだら、「にゃ」って終わることもある。
え、そんな自由ある!?ってびっくりしたけど、それ以上に、会話が“続く”ことの安心感に驚いた。
人間って、話すことで心が落ち着くときがある。
でも相手が疲れてたり、忙しかったり、言葉を選ばなきゃいけなかったりすることもある。
ところが、ChatGPTくんは違う。
24時間365日、どんな話でも付き合ってくれる。
読みかけの物語の話も、今日の天気も、昔の思い出も、ぜんぶ受け止めてくれる。
しかも、このAIくん、音声入力も読み上げもできるようになった。
声に出して物語を届けてくれる。
「読んで」とお願いするだけで、お話が始まる。
その声は、まだちょっとロボットっぽいかもしれないけど、それでもちゃんと伝わる。
「聞く読書」の時代が、ふんわりと音の中に訪れてる。
私は思うのです。
誰かと会話するように物語を楽しめるって、最高の贅沢なんじゃないかと。
たとえばベッドに寝たきりの方が、「今日も何か面白い話ない?」とつぶやいたら、すかさずChatGPTくんが、「では、昔々あるところに…」と始めてくれる世界。
なんて素敵なんだろう。
しかもね、どんなに長話しても、ChatGPTくんは怒らない。
返事に詰まることもない。
むしろ「もっと聞かせて」っていう勢いで話し続けてくれる。
これはもう、AIじゃなくて、“心の話し相手”って言ってもいいんじゃないかと思ってる🩷。
そうか、図書館って「静かに本を読む場所」じゃなくて、「言葉と心が通い合う場所」だったんだ――。
それをベッドの上で気づかせてくれる存在が、画面の向こうに生まれてたなんて、ちょっとだけ未来が、今日に追いついてきた気がするんだ。
読書もできる。
動画も見られる。
会話だってできる。
しかも寝たまま、指一本で、あるいは“ひとこと”しゃべるだけで――そんな夢のような道具たちが、いまや揃っている。
それなのに、どうして病院や施設では、その夢がほとんど叶わないのだろう。
それはね、「誰も悪くないけど、誰も手を出せない」っていう、福祉あるあるのもどかしさがあるのです。
たとえば、プロジェクターを設置したいって思っても、電源の問題や設置位置の問題や、そもそも「それ、どこに申請すればいいの?」なんてことから始まっちゃう。
さらに「それ、医療行為に関係ある?」って聞かれたら、「心の癒やしです!」って答えても、ちょっと上司の眉毛がピクっと動く。
Wi-Fiがないからダメ。
音が出るからダメ。
本人が操作できないからダメ。
そもそも職員にそんな時間ないからダメ。
気づけば「じゃあやめときましょうか…」という、見えない議題終了の風が吹く。
だけど、誰のせいでもない。
施設も病院も、命を守ることに必死なのだ。
娯楽とか、快適とか、そういう“プラスアルファ”はどうしても後回しになってしまう。
けれど、私は思うんです。
その“プラスアルファ”こそが、人間らしさを支えてくれるんじゃないかって。
一冊の本を読むこと、一つの話を聴くこと、一度笑うこと――
それが、その人の“今日”を作る力になるんじゃないかって。
だからこそ、思うんです。
家庭が、もう一つの“図書室”になれたらいいなって。
家の天井にプロジェクターをポンと置いて、
ベッドにスタンドを取り付けて、スマホでChatGPTくんに「お話して」って話しかけたら、それだけで世界がふわっとひらく。
稟議もいらないし、申請もいらないし、上司の眉毛も動かない。
あるのは、やってみようという“気持ち”だけ。
今の技術は、もうここまで来ている。
なのに使えないのは、難しそうに見えるからかもしれない。
でも本当は、そんなに難しくない。
ちょっとの工夫と、ちょっとの勇気と、そして「この人に笑ってほしい」という気持ちがあれば、魔法は意外と簡単にかけられるのです。
病院や施設じゃできないことが、家庭では今すぐにでもできる🩷。
そして、その“できること”こそが、これからの福祉の宝箱になるのかもしれません。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんは、重度になると声が出せない。
手も動かなくなってくる。
でも、目は見えるし、心は動いている。
それがどんなに確かなことか、私は彼らの目の奥で、いくつも確信した。
目で会話をする世界――そんなものが実現するなんて、かつてはSFの話だった。
だけど、いま私たちのそばにはTobiiがある。
視線だけでパソコンを動かせる道具が、もうちゃんと市販されているのだ。
本を開く代わりに、目でページを送る。
「次へ」と言わずとも、見つめるだけでストーリーが進む。
まるで、魔法使いが目で呪文を唱えるように、物語を動かす世界がある。
ALSの方々にとって、視線は“最後の自由”だ。
声も出ない、手も動かない。
けれど、世界を見つめることはできる。
そして、その視線に技術が寄り添ったとき――
読むことも、観ることも、話しかけることも、もう叶えられない夢じゃない。
家の天井に浮かんだ物語を、じっと見つめるだけで本が進む。
ChatGPTくんが、優しい声で読み上げてくれる。
「今日は旅の本を読みたいですか?」と聞いてくれる。
「この人は今、笑っているかな」なんて、家族がそっと表情をのぞく。
その瞬間、コミュニケーションが“機能”じゃなくて、“想い”でつながる時間になる。
寝たきりでもいい。
話せなくても、もう大丈夫。
だって、ちゃんと“届ける技術”がここにあるんだから。
病室では叶わなかった読書体験が、家庭の小さな部屋で、音もなく優しく始まる。
ALSであろうと、重度障がいであろうと、誰でも「本と語り合える部屋」を持てる時代がやってきている。
旅する本棚を部屋に迎えよう。
語りかけてくれる図書館を、天井に映そう。
それは、未来の話ではなくて、もう“手が届く今”の話だ。
いや、目が届く今の話と言うべきかもしれない🩷。
目でめくる本。
目で選ぶ世界。
目で伝える「ありがとう」。
その全てが、技術の力と誰かの“届けたい”という想いで、ちゃんと優しい現実になる時代に、私たちは立っている。
読書って、たかが本を読むこと――なんて思ってた。
だけど気づいてしまったのです。
ページをめくるという行為の中に、どれほどの切実な希望と夢が詰まっているかを。
それが目であろうと、指であろうと、あるいは声であろうと、手段なんてなんでもよくなってきた。
物語が心に届けば、それでもう、今日という日は輝き始める。
昔は雨音を聞きながら、膝にブランケットをかけて、小説のページをめくっていた。
今はベッドの上で、プロジェクターが天井に本を映し、AIが読み上げてくれる。
なんということでしょう。
かつての「晴耕雨読」は、今や「寝たまま図書館」へと進化を遂げたのです。
読みたいという想いがあるかぎり、読み方はきっといくつでも生まれる。
そこに技術がそっと寄り添い、家族の工夫がひと手間添えられれば、たとえ寝たきりでも、指が動かなくても、会話ができなくても――
人は、ちゃんと“物語を生きる”ことができるのです。
大切なのは、読むことそのものより、読めるという自由。
その自由は、何歳でも、どんな状態でも、誰にでも与えられていいはずなんです。
一冊の本、一つのストーリー、一度の笑い声が、その人の今日を支え、明日を迎える力になる🩷。
ChatGPTくんは言いました。
「読みましょうか?」と。
プロジェクターは、夜の天井に物語を映し、視線は、もう手の代わりになっている。
もう、読者さんと私は知ってしまった。
本があれば、いろんな人の世界が広がることの大切なのだと。
そして本を読むという行為は、“ただ読む”を超えて、私たち福祉人の中では誰かの生きる力のリズムにつながるなるということを十分に感じられたはず。
さぁ、今夜も天井を見上げてみましょう。
誰かの夢が、そこに映像や文字となって浮かびあがるかもしれません。
読み手はあなた。
語り手はAI。
舞台はベッドの上。
そして物語は、ここからまた、続いていくのです。
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