雪遊びの今昔図鑑~昭和の根性と令和の慎重さで笑う冬物語~
目次
はじめに…雪は白くて遊び方はカラフルに変わった
雪が降ると、空気が変わります。音が吸い込まれて、景色が明るくなって、いつもの道が「絵本のページ」みたいになる。大人になっても、あの白い世界を見ると、心のどこかが少しだけ浮かれるんですよね。……とはいえ、浮かれた結果どうなるかというと、昭和の人は雪に飛び込み、令和の人は天気アプリに飛び込みます。どっちも反射神経は抜群です。
今回の記事は、そんな「雪遊びの今昔」をユーモア多めで味わう読み物です。昔は雪が降ったら、子どもたちはだいたい武装しました。雪玉=弾。傘=盾。長靴=装甲。ランドセル=背中の防御板。あの頃の雪は、遊びというより小さな戦場で、何故か先生も親も「まあ、元気ならいいか」と見守っていました。帰宅後に待っているのは、濡れた靴下と、凍った指先と、そしてお母さんの一言。「あんた、どこで泳いできたの?」。雪の中で泳いだ記憶はないのに、何故か服は湖帰りなんですよね。
一方、今の雪遊びは、同じ雪でも空気が違います。手袋は二重、替えの靴下は3枚、着替え一式、カイロ、タオル、予備の予備。準備だけで小遠足です。しかも「濡れると冷える」「冷えると体調」「体調が崩れると大変」という現実が、ちゃんと頭に浮かぶ。昔は「風邪引くぞ」で済んでいたのが、今は「風邪引くと明日の予定が崩れる」までセットです。大人の事情が増えた分、雪遊びは“慎重に楽しむイベント”になってしまいました。雪だるまも、作る前にまず「どこで作る?」の会議が始まります。場所が決まる頃には、雪がちょっと溶けています。議事録を残す前に、雪が先に議事解散するようなもんです。
でもね、ここで言いたいのは「昔は良かった」「今はダメ」じゃありません。どっちも面白いし、どっちにも理由がある。そして、どっちにも“雪の楽しさ”はちゃんとあるんです。昔は体当たりで笑い、今は工夫で笑う。雪は白いままでも、遊び方はカラフルに変わっていく。だからこそ今、今昔を並べて眺めるだけで、冬はちょっと楽しくなります。
この先は、昭和の雪がどうやって子どもを勇者に変えていたのか、令和の雪がどうやって大人を準備マスターに変えているのか、そしてそのギャップの正体は何なのかを、笑いながら紐解いていきます。最後には、「雪遊びが難しい日でも、小さく楽しみを取り戻す」方法も用意しました。安心してください。今回の雪は、武器にもなりますが、ちゃんと平和にも使えます。
[広告]第1章…昭和の雪はだいたい武器~雪玉・そり・かまくら大作戦~
昭和の雪遊びをひと言で言うなら、「雪が降ったら、まず戦う」です。なぜ戦うのか。理由は簡単で、そこに雪があるから。雪が積もっているだけで、子どもは勝手に“部隊”になります。しかも編成が早い。誰が言い出したでもなく、気づけば二派に分かれ、足元はギュッギュッと踏み固められ、そこら中に小さな要塞が生まれていく。雪の日の校庭は、体育というより戦術演習。先生は見て見ぬふりの総司令官でした。
雪玉は、昭和では「丸めた雪」ではなく「弾」です。しかも弾は無限に補給されます。これが地味に怖い。雪玉の質にもこだわりが出ます。フワフワの粉雪は命中しても優しいけれど、握り過ぎると固くなる。固くなった雪玉は、もはや“冬の石”。ここでよく起きるのが、母の決め台詞です。「雪合戦はええけど、固いのは禁止!」。禁止と言われると、なぜか固いのが作りたくなる。雪って、不思議な心理テストみたいなところがあります。
そして昭和の雪遊びには「盾」があります。傘です。傘は本来、雨を防ぐ道具ですが、昭和の子どもにとって傘は防具です。広げれば盾、閉じれば槍、振り回せば危険物。今の目で見ると、いろいろ言いたくなりますが、当時は勢いが勝っていました。安全より物語。雪の日の子どもは、現実世界でRPGをしていたんですね。
そりは買わない、だいたい家にあるもので滑る
昭和のそりは、専用のそりだけじゃありません。むしろ専用そりを持っている子は少数派。主力は「段ボール」「米袋」「肥料袋」「発泡スチロール」「プラスチックのフタ」みたいな、“なぜそれを選んだ?”という生活用品でした。性能は当然、当たり外れがあります。滑るやつは神。滑らないやつはただの座布団。途中で破れるやつは、雪の上で突然人生がスローモーションになります。
でも面白いのは、滑れなくても遊びが成立してしまうところです。段ボールが湿ってくると、滑りは落ちる。そこで子どもは発明します。「勢いを増やすために助走を長くする」「坂を急にする」「誰かに押してもらう」。押す側は押す側で、最後には自分も滑りたくなる。こうして“押し係”が自然に交代し、何故か全員が笑っている。昭和の遊びは、効率は悪いのに満足度が高いんです。
かまくらは夢で完成前にだいたい崩れる
かまくら作りは、昭和の雪遊びの大ロマンです。雪の家。秘密基地。中でおやつを食べる計画まで立ちます。しかし、かまくらは人生と同じで、計画通りにはいきません。掘り進めるうちに薄くなる壁。突然の崩落。中にいた子の「うわぁ!」。外にいる子の「ごめん!」。そして全員が笑う。なぜ笑えるのか。命の危険がない範囲で、予想外が起きるからです。昭和の雪遊びは、こういう“予定外”を味方にするのが上手でした。
完成したかまくらがあると、そこはただちに「会議室」になります。何の会議かというと、だいたいくだらない会議です。「誰が隊長か」「今日の敵はどっちか」「中で何を食べるか」。食べ物の話が出ると、急に現実が入ります。「家にみかんある」「おばあちゃんが焼き芋くれた」。この時点で、雪遊びは戦争から平和へ移行します。雪が戦場でもあり、食卓でもある。これが冬の不思議です。
雪だるまは作品で誰かが必ず顔を怖くする
雪だるま作りも外せません。昭和の雪だるまは、基本的にデカい。何故、デカいのか。小さいと満足できないから。大きい雪玉を転がすと雪がくっつく。その仕組みが分かった瞬間、子どもは“力学の研究者”になります。坂道で転がして巨大化させた結果、重過ぎて持ち上がらず、首が乗らない。ここで登場するのが「雪だるまの首が取れて転がる事件」。毎年どこかで起きました。
顔作りも盛り上がります。石、木の枝、葉っぱ、炭、にんじん。素材は家の周りにあるもの。ところが誰かが欲張ると、雪だるまは突然ホラーになります。目が大き過ぎる。口が歯みたいになる。眉毛が太過ぎて怒っている。完成した瞬間に誰かが言います。「夜、見たら泣くわ」。そう言いながら、全員が写真を撮る。昭和の雪だるまは、可愛いだけじゃなく“味”が強いのが魅力です。
雪遊びの最後は、家での“追いイベント”が待っている
昭和の雪遊びは、外で終わりません。むしろ本番は家に帰ってからです。手袋は濡れて硬くなり、靴下は氷点下の海を泳いだみたいにビショビショ。玄関でバタバタ脱いで、ストーブ前に並べて乾かす。乾かしているつもりが焦げる。するとまた母の一言が飛ぶ。「あんたの靴下、今日で引退やな」。この瞬間、家族全員が冬を実感します。
つまり昭和の雪遊びは、「危ない・汚い・寒い」を全部抱えているのに、なぜか楽しい。いや、正確には、危ないからこそ面白いのではなく、“工夫と笑いに変える余地”が多かったから楽しいんです。雪が降ったら戦って、滑って、掘って、作って、最後に家で怒られて笑う。冬の一日が、一本の物語になっていました。
次の第2章では、その雪が令和になるとどう変わったかを見ていきます。令和の雪は戦場ではなく、イベントです。準備が増え、慎重さが増え、その分だけ別の面白さが増えています。雪が同じでも、遊び方は時代と共に進化しているんですよ。
第2章…令和の雪はだいたいイベント~準備8割・体験2割の現実~
令和の雪遊びは、昭和と同じ「雪だるま」「そり」「雪合戦」なのに、なぜか雰囲気が違います。雪は白いままなのに、空気がちょっと“きちんとしている”。そして一番違うのは、遊びが始まる前に、もう勝負がついていることです。何の勝負かというと、準備です。令和の雪遊びは、準備で半分終わります。いや、体感では8割終わります。
子どもが「雪で遊びたい!」と言った時、昭和なら「行ってこい!」で済んだところが、令和はまず確認が入ります。気温、風、雪質、園の方針、帰ってからの予定、着替えの在庫、乾燥機の空き、そして親の体力。最後の親の体力が、だいたい一番大事です。雪遊びは子どものイベントですが、運営は大人ですからね。
雪遊びの前に“装備会議”が始まる
令和の雪遊びは装備がすごいです。手袋は予備まである。靴下も替えがある。インナーは汗冷え対策。アウターは防水。帽子は耳まで守る。ここまで聞くと、雪山登山みたいですが、目的地は近所の公園だったりします。距離は短いのに装備は本格。雪の日の親は、だいたい隊長です。
ただ、令和の面白さはここからです。装備が整うと、子どもは“遊びの自由度”が上がります。濡れても冷えにくい。手が動く。転んでも痛みにくい。昭和は根性で耐えたところを、令和は技術で突破する。雪遊びの世界にも、文明の力がちゃんと届いているんです。
一方で、装備が完璧過ぎると別の問題が出ます。着せるのが大変。脱がせるのが大変。結果、子どもは言います。「もう遊んだ!」。親は心の中で叫びます。「まだ玄関!」。令和の雪遊びは、外へ出る前に燃え尽きることがあります。これが“準備8割”の落とし穴です。
雪を触らない雪遊びが増える…でもそれも立派な冬
令和の雪遊びが難しくなった理由として、よく言われるのが「汚れるのが嫌」「危ない」「冷える」「体調が心配」。確かにそれはあります。でも、ただの過保護とか、ただの怖がり、で片付けると現実を外します。今は大人の生活が昔より詰まりやすい。雪で濡れた服が増えると洗濯が増える。洗濯が増えると夜が削れる。夜が削れると明日の仕事が削れる。雪の冷たさは、現代のスケジュールに直撃するんです。
だから、雪を触らない形の「雪体験」が増えてきました。雪景色を見る。窓際で写真を撮る。足跡だけつける。雪だるまは作らずに、雪だるまを眺める。これ、昭和目線だと「遊んでない」になりそうですが、令和目線だと「今出来る範囲で冬を味わっている」。冬って、味わい方はいろいろです。触らない雪でも、ちゃんと季節は感じられます。
そして、写真文化があるのも令和の特徴です。雪だるまを作る前に撮る。作っている途中で撮る。完成して撮る。撤収前に撮る。気づくと“記録係”が1人います。だいたい親です。親のアルバムには、雪だるまよりも「子どものほっぺが赤い顔」が残ります。これ、実はすごく良い。雪遊びの本体は、作品じゃなくて体験の表情ですから。
令和の雪遊びは“短時間勝負”が上手い
昭和は、雪の日は半日遊ぶのが普通でした。令和は、短時間で切り上げるのが上手です。長くやると冷える、濡れる、疲れる。だから、短く区切って「今日はこれだけやった」で満足する。これ、悪いことではなく、むしろ賢いです。短時間でも満足できる工夫が増えているからです。
例えば、雪だるまを大きく作らない。ミニ雪だるまをいくつも作って「家族雪だるま」にする。そりは長く滑らない。3回滑ったら“勝ち逃げ”する。雪合戦はガチにしない。軽く投げて笑って終わる。昭和は“勝敗”が出がちでしたが、令和は“気分”が目的になりやすい。遊びのゴールが「楽しさ」そのものになっているんです。
雪が少ない地域の令和はそもそも“雪がレア”
もう1つ、今昔ギャップを作っているのが地域差です。昔は雪が当たり前だった地域でも、積もる回数が減ったり、積もってもすぐ溶けたりする年が出てきました。すると、雪遊びは「毎年の行事」ではなく「来たらやる特別イベント」になります。レアになると、準備も慎重になります。だって逃したら、次がいつ来るか分からないから。逆に言うと、雪がレアになった今だからこそ、1回の雪を大事にしたい気持ちも強くなるんですよね。
令和の雪遊びは、守りに入ったように見えて、実は工夫が増えています。技術で冷えを防ぎ、短時間で満足し、触れない雪でも季節を味わい、写真で体験を残す。昭和のように全力で転がる遊びは減ったかもしれないけれど、その代わり、今の暮らしに合う形で雪を楽しむ術が育っています。
次の第3章では、「じゃあ、この今昔ギャップは何が作っているの?」を、もっとはっきり言葉にしていきます。汚れや冷えだけじゃなく、大人の事情、安心の価値観、そして“責任”の感覚まで含めて、雪遊びの変化を笑いながらほどいていきましょう。
第3章…今昔ギャップの正体~汚れ・冷え・安全と“大人の事情”~
昭和の雪遊びと令和の雪遊びは、やっていることだけ見ればそんなに変わりません。雪玉を投げる、転がす、固める、滑る、作る。材料は同じで、舞台も同じで、雪はちゃんと白い。なのに空気が違う。ここで出てくるのが、「結局、何が変わったの?」という疑問です。
答えは、遊びの中身そのものよりも、遊びを取り巻く“周辺事情”が変わったからです。雪遊びは、雪だけで出来ていません。靴下、洗濯、体調、先生、親、予定、責任、地域のルール。雪の周りにあるもの全部が、昔より濃くなった。だから今昔のギャップは、雪じゃなくて「生活の厚み」によって生まれています。
汚れが増えたんじゃなくて汚れの“後処理”が重くなった
まず一番分かりやすいのは、汚れ問題です。雪遊びは汚れます。これは昔も今も同じ。じゃあ何が変わったのかというと、汚れの意味が変わりました。
昔の汚れは「子どもは汚れるもの」で終わりやすかった。洗濯が大変なのは大変でも、社会全体が今ほどギュウギュウに詰まっていなかった。ところが今は、汚れの後に来るものが重い。着替えをさせる時間、濡れた服の乾かし、洗濯物の量、乾燥、翌朝までに間に合うか。雪は白いのに、洗濯物は山になります。
しかも今は、家庭によって環境差が大きい。乾燥機がある家もあれば、部屋干しで頑張る家もある。共働きで夜が短い家もある。だから「汚れても良いよ」が言えるかどうかは、気持ちだけじゃなく生活の条件に左右される。ここを分かっていると、令和の親の慎重さは、責められるものじゃなく「現実に合わせた判断」だと見えてきます。
冷えの怖さが増えたんじゃない“体調を崩せない社会”が増えた
次に冷え。雪は冷たい。これも昔から同じです。でも今は「冷えるとヤバい」の理由が増えました。昔も風邪はひく。だけど今ほど「体調を崩せない」が前提じゃなかった。
今は、保育園や学校を休むと親の仕事が詰みやすい。仕事が詰むと家族の生活が詰みやすい。つまり、子どもの体調は家庭のスケジュールの中心に置かれています。だから雪遊びは、ただの遊びではなく“予定管理”の一部になる。ここで令和の雪遊びが短時間勝負になるのも納得です。短く楽しんで、冷え切る前に切り上げる。これは遊びを減らしているというより、遊びを成立させるための知恵なんです。
そして、現場側も同じです。保育園や施設では、体調変化が出ると対応が必要になる。人手が必要になる。記録も必要になる。だから冷えに慎重になる。雪の日はロマンですが、同時に“観察とケアが増える日”でもあります。
安全意識が増えたのは愛が増えたから…だけではない
安全にうるさくなった、と思われがちですが、これも背景があります。もちろん、子どもを守りたいという気持ちはある。だけどそれだけじゃなく、今は「何かあった時の視線」が昔より強い。何かが起きた時、説明が求められる。責任が問われる。ここが雪遊びを“イベント化”させます。つまり、自由に遊ぶより、想定内で楽しむ方が安心なんです。
ここで大事なのは、「安全=つまらない」ではないこと。安全に出来る範囲で面白くする工夫が、令和の強さです。防水ウェア、滑り難い靴、手袋、短時間の区切り、見守り。こういう工夫があるから、出来る人は昔より快適に遊べています。昭和の雪遊びが根性型なら、令和は設計型です。
雪が減った地域もある~だから雪遊びが“物語”になった~
今昔ギャップをさらに大きくしているのが、地域差です。雪が当たり前の地域なら、雪遊びも日常になりやすい。でも雪が少ない地域では、雪は“レア素材”です。レア素材は、使う前に慎重になる。大人も子どもも「失敗したくない」。だから余計にイベントっぽくなる。すると、雪で遊ぶ時間より、雪を見た瞬間の歓声と、写真を撮る時間が長くなる。雪の体験が「遊び」より「記念」になっていく。
これは、悪い変化ではありません。雪が珍しいなら、雪の価値は上がる。価値が上がれば、思い出として残りやすい。昔は当たり前過ぎて覚えていなかった雪の日が、今は1回の雪で心に残る。雪遊びの形は変わっても、雪が記憶になる力はむしろ強まっている面もあります。
そして介護現場では、雪が“世代を繋ぐ道具”になる
今の若い介護士や子どもは、雪遊びの体験が薄いことがある。だからこそ、雪の日はチャンスになります。体験が薄い側が「教えてください」と言える日。体験が濃い側が「語れる」日。高齢者が先生になれる日です。
雪の思い出を語ることは、昔の自慢話ではなく、役割の逆転でもあります。普段は支えられる側が、今日は場を導く側になる。これが、雪を“ただの景色”で終わらせない力になります。体験が薄い時代だからこそ、語りが濃くなる。皮肉みたいですが、ここが今の雪の面白さです。
今昔ギャップの正体は、雪そのものではなく「生活の条件」と「責任の感覚」の変化でした。だから、解決策も「昔に戻れ」ではなく、「今の条件で楽しめ」です。次の第4章では、まさにそこに行きます。時間がない、汚したくない、冷えが心配、雪が少ない。そんな令和の事情があっても、ちゃんと雪を楽しめる“小さな雪体験”を、短時間で大満足にする作戦を紹介します。雪は、量より、使い方です。
第4章…雪遊びを取り戻す~短時間で大満足の「小さな雪体験」~
ここまで読んで、「分かる、分かるけど、結局どうしたらいいの?」となった方へ。安心してください。雪遊びは、昭和のように全力で転がらなくても取り戻せます。令和の雪はイベント化した、準備が大変、汚れが増える、冷えると怖い。全部ほんと。でも、だからといって雪を“眺めるだけで終わる季節”にしてしまうのは、ちょっともったいないんです。
鍵はシンプルで、「量を減らして満足を増やす」。雪はたくさん触るほど楽しい、と思いがちですが、実は“少しだけ触る”方が喜びが濃くなります。味見の一口が美味しいみたいなやつです。雪も味見でいけます。食べる話ではありません。さすがに雪を食べると親の心拍数が上がりますからね。
「外でドカン」より「室内でチョン」~雪を持ち帰る作戦~
まず王道の方法は、雪を少しだけ室内へ連れてくることです。バケツや大きめのボウルに、綺麗な新雪をほんの少し。ポイントは“ほんの少し”です。大量に持ち込むと、床が湖になります。湖になると、雪遊びが終わり、床拭き大会が始まります。主役が変わってしまうので、ここは慎重に。
室内に持ち込んだ雪は、触る、握る、丸める。たったこれだけで十分イベントになります。手が冷たい。すぐ溶ける。水になる。雪が「白い固体」から「透明な液体」に変わる瞬間を見られる。これは子どもにとっては科学ですし、大人にとっては不思議な癒やしです。雪は短命だからこそ、目の前で起きる変化が楽しいんです。
施設でも家庭でも同じで、雪を触る前に「おしぼり」「タオル」「受け皿」を用意しておくと安心です。ここで令和の準備力が活きます。準備が多いのは面倒だけど、準備があるから楽しめる。準備は敵じゃなくて味方です。
雪だるまは大きさじゃない~ミニ雪だるまの家族劇場~
昭和は巨大雪だるまでしたが、令和はミニで勝てます。小さい雪だるまをいくつも作ると、「作品」ではなく「物語」になります。家族雪だるま、職員雪だるま、園児雪だるま、兄弟雪だるま。表情をつけると、一気に会話が生まれます。
ここで重要なのは、顔の素材を“怖くしない”ことです。昭和の雪だるまは味が強過ぎて夜に泣けましたが、令和は泣かせない方向でいきましょう。小さな丸シールや、色付きの紙、ストローを短く切ったものなど、室内で安全に扱える素材なら、誰でも参加できます。雪を触りたくない人も「目を貼る係」「帽子を載せる係」で参加できる。これが“ちいさな雪体験”の良さです。
そしてミニ雪だるまは、溶けるのも早い。だからこそ「溶けるまでの短い時間」を楽しめます。雪だるまがだんだん小さくなる様子は、ちょっと切ないけど、何故か笑えます。人間も同じで、時間が有限だと愛おしくなるんですよね。雪だるまは人生を教えてくることがあります。静かに。
雪合戦は戦わない――“雪玉投げ”で平和にいく
雪合戦という言葉が出た瞬間、親や先生や職員の背筋が伸びることがあります。目に当たる、固い雪玉、興奮してエスカレート。分かります。だから令和は“雪合戦”ではなく、“雪玉投げ”に名前を変えます。名前が変わると、空気が変わります。不思議ですが本当です。
投げる相手を人にしないで、的にします。箱やバケツ、壁に貼った輪っか、机の上の紙コップ。これなら、雪玉は弾ではなくボールになります。昭和の戦場は、令和のスポーツへ。投げる距離も短く、雪玉はふわふわ。握り過ぎない。ここが大事。握り過ぎると急に昭和が戻ってきます。昭和は面白いけれど、目は守りたい。目は大事です。雪の方が負けます。
雪の日の主役は「外」じゃなく「窓辺」でも成立する
雪が降っていても、外に出られない日があります。道路が危ない、風が強い、体調が心配。そんな日は、窓辺をイベント会場にします。雪見カフェです。温かい飲み物、甘いおやつ、窓の外の白い景色。これだけで冬は完成します。
ここで1つ、場が一気にあったまる魔法の問い掛けがあります。「雪の日って、何の音がしますか?」です。雪の日は静か。車の音も遠くなる。足音が変わる。屋根から雪が落ちる音。昔は雪かきの音が朝に響いた。こういう“音の記憶”は、体験が薄い世代でも参加できます。雪で遊んだことがなくても、雪の音は感じられる。思い出がない人にも、今ここにある雪で“新しい記憶”が作れるんです。
雪遊びは「遊び」だけじゃなく「会話のタネ」になる
最後に、小さな雪体験が強い理由をもう1つ。雪は会話のスイッチになるからです。昔の話を引き出すだけじゃなく、「今の自分」の話も出てきます。「寒いのは苦手になったな」「昔は平気だったのに」「手袋ってありがたいね」。こういう言葉は、ただの雑談に見えて、実は日々の体調や好みを知るヒントになります。
介護現場なら、雪が“役割の逆転”を起こしてくれます。体験が薄い若い職員が「教えてください」と言える。体験が濃い高齢者が先生になる。家庭でも同じで、親が「私、雪遊び得意じゃない」と言っていい。子どもは「じゃあ一緒にやろう」と言える。雪が、強い人弱い人を決めるんじゃなく、みんなを同じ輪に入れてくれる。これが雪の良いところです。
令和の雪遊びは、昭和のように突っ走らなくても勝てます。ちょっと触る、ちょっと作る、ちょっと投げる、ちょっと眺める。そしてちょっと語る。量を減らして満足を増やす。これで、雪は「危ないからやめよう」ではなく、「安全に出来る形で楽しもう」に変わります。
次はいよいよまとめです。雪は溶ける。でも、冬の笑いと会話は残る。その残り方が、今の時代に合った“雪遊びの答え”になっていきます。
[広告]まとめ…雪は溶けても笑いは残る~来年の冬が待ち遠しくなる話~
雪遊びの今昔を並べてみると、一番面白いのは「雪が変わった」のではなく「私たちの暮らしが変わった」というところでした。昭和の雪はだいたい武器で、子どもは雪を見るだけで戦士になりました。傘は盾、雪玉は弾、段ボールはそり。あの頃の雪の日は、遊びという名の冒険で、帰宅後に待っていたのはストーブ前の靴下と、母の一言でした。「あんた、どこで泳いできたの?」。泳いでないのに、何故か服は毎回びしょびしょ。雪の不思議です。
令和の雪は、同じ白さでも空気が違います。雪はだいたいイベントで、まず装備会議が始まる。手袋は予備がある。靴下も替えがある。防水も大事。準備が整ったら、短時間で楽しんで、冷えきる前に撤収。雪だるまより先に写真が撮られて、雪合戦より「雪玉投げ」が平和に成立する。昔のような全力は減ったかもしれないけれど、その代わりに“今の生活で続けられる形”が増えました。これは後退ではなく、進化なんだと思います。
そして今、一番大切なのはここです。雪遊びは「量」じゃなく「濃さ」で決まります。たくさん遊べなくても、少し触るだけで冬は始まる。室内にほんの少し雪を連れてくるだけで、手の冷たさに笑って、溶ける速さに驚いて、ミニ雪だるまが静かに縮んでいくのを眺めて、何故か心があったまる。雪って、冷たいのに、気持ちは温めてくるんですよね。ずるいです。
さらに、雪は会話のスイッチにもなります。高齢者にとっては、雪が思い出の扉を開ける。若い世代や子どもにとっては、雪が“これからの記憶”を作る材料になる。体験が薄い時代だからこそ、「教えてください」が言えるし、「昔はこうだった」が語れる。雪が降ると、世代が同じ窓辺に集まって、同じ白い景色を見ながら、違う物語を持ち寄れる。これが雪の日の一番のご馳走です。
雪は溶けます。これは止められません。だけど、雪の日に生まれた笑いと会話は、意外と長く残ります。だから来年の冬、もし雪が降ったら、思い出してください。昭和の戦士の心を少しだけ借りて、令和の準備力で安全に包んで、小さな雪体験を1つだけ作る。たったそれだけで、その雪の日は“ただ寒い日”ではなく、“家族や仲間の物語が増える日”になります。
雪の日は、外でドカンと遊べなくても大丈夫。室内でチョンと触れて、窓辺でニヤッと笑って、最後に「今日、冬になったね」と言えたら勝ちです。来年の冬が、ちょっと待ち遠しくなりますように。
今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
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