病院や施設でも「いつもの香り」で眠る~暮らしの記憶を連れていく安心術~

[ 介護現場の流儀 ]

はじめに…知らないベッドに「家の気配」を1つ

病院や施設で初めて迎える夜。ベッドは綺麗、室温も悪くない、看護師さんや職員さんも声をかけてくれる。それなのに、どうにも落ち着かない。「枕が違うからかな」と寝返りを打ってみても、まだ何かが違います。家では気にも留めなかった石けんや洗濯物、いつものクリーム、畳や家具の匂いまで消えているのです。

人は目や耳だけで暮らしているわけではありません。鼻も毎日、かなり真面目に働いています。ところが入院や入所となると、枕の高さやパジャマは気にしても「鼻の居場所」までは忘れがち。いや、鼻にも引っ越しの挨拶が必要なのか――と自分でツッコミたくなりますが、馴染みの香りが少しあるだけで、新しい場所に「いつもの自分」を感じられることがあります。

香りを持っていくことは、部屋を香らせることではなく、その人の暮らしの気配をそっと連れていくことです。

もちろん、自分が好きな香りなら何でも広げて良いわけではありません。個室と相部屋では事情が違い、隣の人には隣の人の心地良さがあります。目指したいのは香りの主張大会ではなく、さりげない相互尊重。タオルやハンカチ、普段使っている身近な物など、「自分の近くでだけ分かる」くらいの小さな工夫なら、穏やかな居場所作りに繋がることがあります。

知らない場所でも、どこかに「これ、家と同じだ」が見つかれば心は少しほどけます。そんな平穏無事な夜を支えるものは、高価な寝具ばかりとは限りません。鼻先に届く、ごく小さな懐かしさが眠る準備を手伝ってくれることもあるのです。

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第1章…眠れない夜は鼻も落ち着かない?~香りと安心の意外な関係~

入院した夜や施設へ移った初日、「疲れているはずなのに眠れない」ということがあります。照明が違う、廊下から聞こえる音も違う、ベッドの硬さも違う。時計を見るたびに「まだこんな時間?」となり、眠ろうと頑張るほど目が冴える。そんな四苦八苦の夜は、枕だけを犯人にすると少し見落とすものがあります。

自宅には、その人が長い時間をかけて慣れてきた匂いがあります。洗ったシーツやタオル、石けん、家具、畳、いつも使うクリームなど、普段はわざわざ意識しないものばかりです。ところが病院や施設へ移ると、それらが一度に消え、清潔なリネンや消毒に使われるものなど、知らない場所ならではの匂いに囲まれます。

人は「この部屋、いつもの匂いだな」と毎晩確認してから眠っているわけではありません。それでも鼻は黙々と勤務中です。本人より先に「いつもの家と違いますけど?」と気づいているのかもしれません。鼻、意外に仕事熱心です。

そんな時に役立つのが、自宅で使っていたタオルや普段から馴染んでいる身近な物です。顔を近づけた時に、ほんのり知っている匂いがする。それだけでも、知らないベッドの中に小さな「いつもの場所」が出来ます。愛用しているボディクリームやハンドクリームなども、施設や病院の決まりに合い、本人が心地よく使えるものなら選択肢になります。

眠りを助ける香りは、有名な香りより「この匂いなら落ち着く」と本人が感じられるものから考えたいものです。何か特別な香りを新しく用意するより、長く暮らしてきた時間の中から探す。その方が自然体で、その人らしい安心へ繋がりやすくなります。

病院や施設のベッドを、そっくり自宅と同じには出来ません。それでも、タオル1枚や馴染みの匂い1つなら連れていけることがあります。「知らない場所」だった夜に少しだけ家の気配が混ざれば、肩の力が抜けるキッカケになるかもしれません。眠る準備は、枕や布団だけでなく、鼻先から始まることもあるのです。


第2章…好きな香りほど小さく届ける~個室と相部屋のちょうど良い作法~

好きな香りに包まれると、気持ちが緩むことがあります。ところが病院や施設では、「好きだから使おう」で終われないのが少し難しいところです。個室なら自分の生活空間として工夫しやすくても、2人部屋や4人部屋では、カーテン1枚の向こうにも別の暮らしがあります。自分には落ち着く香りでも、隣の人には「うっ、今日は元気だな、この匂い……」となるかもしれません。香りの好みは、正に十人十色です。

ラベンダーや柑橘系など、一般に親しまれている香りであっても、誰もが心地良く感じるとは限りません。香水が好きな人もいれば、ほぼ無臭の空間を好む人もいます。食事の匂いや消毒に使われるものなど、その場所に元々、存在する匂いもありますから、そこへさらに香りを重ねれば、本人にとっても落ち着かない空間になることがあります。

そこで大切にしたいのは、「部屋を香らせる」より「本人の近くにだけ届ける」という発想です。馴染みのあるタオルやハンカチを枕元に置く、普段から使っているクリームを手元で楽しむなど、香りの範囲を小さくすれば、自分の安心と周囲への気遣いを両立しやすくなります。アロマストーン(香りを染み込ませて楽しむ小さな芳香用具)のような物も考えられますが、病院や施設には持ち込みや使用について、それぞれ決まりがあります。まず職員さんへ確認してから使うくらいが、ちょうど良い距離感でしょう。

良い香りとは、部屋いっぱいに広がる香りではなく、必要な人のところへ静かに届く香りなのかもしれません。

これは少し面白い話でもあります。自宅なら「今日は柑橘系で爽やかに!」と気分よく始められても、相部屋で全力投球すると、隣のベッドまで勝手に爽やかになってしまいます。本人は満足、隣人は困惑。これでは本末転倒です。香りには姿が見えない分、「どこまで届いているか?」を少し想像する優しさが必要になります。

病院や施設では、起床や食事など生活の時間がある程度決められ、自宅ほど自由にはいかないこともあります。そんな毎日の中で、馴染みのタオルを手に取った瞬間だけ「ああ、これこれ」と感じられる。そこに生まれる小さな安心は、その人だけの領域です。大きく広げなくても、自分の半径数十センチに「私の暮らし」が戻ってくれば、それで十分なこともあります。

香りは、目に見えないからこそ扱い方1つで心地良さが変わります。自分らしさを守りながら、同じ場所で暮らす人の心地良さも守る。その控えめな使い方こそ、病院や施設という共同生活の中では、少し粋な香りの作法なのだと思います。

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第3章…香りは記憶の小さな住所~その人らしさを病室へ連れてくる~

石鹸の匂いを嗅いだ瞬間に、昔の家のお風呂場を思い出す。炊きたてのご飯の香りで、母や祖母の台所が浮かぶ。花の匂いから、誰かと歩いた季節を思い出す。香りには、時々、写真とは違う形で、その人が暮らしてきた時間を連れてくるような瞬間があります。何十年も忘れていたつもりの景色が、鼻先から「まだおりますけど…」と顔を出す。記憶というものは、なかなか律儀です。

病院や施設へ移ると、持っていける物には限りがあります。家具を丸ごと運び込むわけにもいきませんし、長年暮らした家の空気まで段ボール箱へ詰めることも出来ません。それでも、いつも使っていた石鹸やクリーム、好きだった花、家族の服に残る馴染みの匂いなど、その人の暮らしと結びついた小さなものなら、傍へ置けることがあります。

大切なのは、「一般的に落ち着く香り」を探すことだけではありません。同じラベンダーでも好きな人と苦手な人がいますし、高価な香りだから安心できるとも限りません。その人が長く親しんできたものは百人百様。少しくたびれたタオルの匂いのほうが、立派な芳香用品より「ああ、家だ」と感じられるなら、その人にとってはこちらが主役です。

香りが連れてくるのは、良い匂いそのものではなく、その人が生きてきた暮らしの手触りなのだと思います。

それは本人だけのものとも限りません。家族が「あ、この匂い、お父さんがよく使っていたな」と気づけば、そこから昔話が始まることがあります。職員にとっても、「この方はこういうものが好きだったんだ」と知る小さな入口になります。ベッドの上では見えにくくなった喜怒哀楽や生活歴が、1つの香りをキッカケに少し立体的になっていく。病院着を着ている「患者さん」、施設で暮らす「入居者さん」という姿だけではなく、その前からずっと続いている1人の人として見える時間です。

そこに、このテーマの面白さがあります。香りは部屋の雰囲気を変える飾りではなく、「私はこういう暮らしをしてきた」という目に見えない持ち物にもなります。住所は病院や施設へ変わっても、人生の住所録まで全部書き換える必要はありません。鼻が覚えている場所くらい、そのまま残しておいても良いでしょう。

見慣れない天井の下でも、フッと馴染みの匂いが届いて「ああ、これ好きだった」と表情がやわらぐ。そんな瞬間があれば、新しい環境の中にもその人らしい居場所が少しずつ育っていきます。香りは小さいけれど、そこから開く思い出の扉は、意外に大きいのです。


第4章…看取りの時間にも「いつもの人」を~香りで守る尊厳と家族の記憶~

病院や施設で過ごす時間が長くなると、家族が「何かしてあげたい」と思いながらも、出来ることの少なさに戸惑う場面があります。食べることが難しくなり、会話も少なくなり、ただベッドの傍で手を握る時間が増えていく。そんな静かな時間だからこそ、特別な演出より、その人が長く親しんできたものを傍に置くという考え方があります。

好きだった花、いつも使っていた石鹸、馴染みのあるクリーム、家族の服に残る生活の匂い。大切なのは「落ち着くと評判の香りを用意しなければ」と肩に力を入れることではありません。家族が顔を見合わせて「あの人、何の匂いが好きだったっけ?」と考えてみるだけでも、その人の日常が少しずつ戻ってきます。「お父さん、整髪料はずっと同じだったよね」「お母さんはあの花が好きだった」。看取りの場なのに、何故か昔の洗面所や庭の話で会話が弾む。そんな小さな脱線も、その人らしい時間の一部です。

最期まで大切にしたいのは、綺麗な旅立ちを演出することではなく、「この人は、この人のままだった」と感じられる時間です。

もちろん、香りを使うこと自体が目的になってはいけません。体調によっては匂いを不快に感じることもありますし、病院や施設には使用できる物について決まりがあります。本人の表情や反応を見ながら、家族や職員と相談し、無理をしない。それくらいの臨機応変さがちょうど良いのでしょう。香りがなくても穏やかなら、それで十分です。「今日は何としてもラベンダーを!」と香り担当大臣になる必要はありません。

そして、馴染みの香りは残される家族にとっても記憶の入口になることがあります。後になって同じ石鹸や花の匂いに出会い、「あの部屋で一緒にいたな」と思い出す。悲しみだけではなく、その人と過ごした長い暮らしまで一緒に浮かんでくるなら、香りは小さな一期一会を未来へ残してくれます。香りによって、その場がただ悲しいだけではなく、その人らしさを感じる時間になることもあるのでしょう。

看取りは、何か立派なことを成し遂げる時間ではありません。手を握る、名前を呼ぶ、好きだった話をする。そして、その人が安心できるものをそっと近くに置く。病室や施設の一室に、いつもの暮らしがほんの少し戻ってくるなら、それも十分に優しい見送り方なのだと思います。

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まとめ…香りは部屋を飾るより、暮らしを連れてくる

病院や施設で眠る夜は、ベッドや枕だけが変わるわけではありません。聞こえる音、目に入る景色、時間の流れ、そして鼻に届く匂いまで、それまでの暮らしとは違います。自宅では意識もしなかった石鹸やタオル、クリームなどの馴染みある匂いが消えた時、人は思っている以上に「知らない場所へ来た」と感じることがあるのでしょう。

そんな時、部屋いっぱいを良い香りにする必要はありません。本人のそばに、いつものタオルや使い慣れた物が1つある。それだけでも「自分の暮らしは全部なくなったわけではない」と感じられることがあります。相部屋なら周囲へ配慮し、体調や施設の決まりにも合わせる。香りは主役になろうとせず、少し控えめなくらいが円満具足です。

安心できる香りとは、誰かが選んだ立派な香りではなく、その人の「いつも」に帰れる香りなのだと思います。

そして、その「いつも」は眠るためだけのものではありません。家族との思い出を呼び戻したり、職員がその人の暮らしを知る入口になったり、看取りの時間に「この人らしいね」と静かに笑えるキッカケになることもあります。香り1つから昔の台所や庭、洗面所まで話が飛んでいくのですから、人間の記憶はなかなか縦横無尽です。

「案ずるより産むが易し」といいます。何か大がかりなことを用意しなくても、まずは本人が昔から好きだった匂いや、いつも身近にあった物を家族で思い出してみる。それだけなら今日からでも始められます。香りが合わなければ無理に使わなくても構いません。大切なのは、良い匂いを足すことではなく、その人が安心できる暮らしの欠片を残すことです。

知らない天井の下でも、「これ、家と同じだ」と思える瞬間が1つある。その小さな安心が、夜を少し穏やかにし、新しい場所を少しずつ自分の居場所へ変えていくのかもしれません。香りは目には見えませんが、その人らしい暮らしをそっと運ぶ、小さな手荷物になってくれるのです。

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