冬至が隠してきたもの~12月22日頃から小寒前日までの陽が戻る時間を辿る~
目次
はじめに…年末行事に埋もれてしまった冬至という節目を二十四節気と七十二候と旧暦の流れからもう一度すくい上げる
季節を読む時の“中心線”は、じつはその少し手前――12月22日頃にやってくる「冬至」でした。ここは一年で一番昼が短く、夜が長くなる日。つまり「陰が一番深くなる日」です。ところが不思議なことに、この日を過ぎると、太陽は少しずつ高く昇るようになり、日もだんだん長くなっていきます。一番暗いところで、既に明るくなる用意が始まっている。ここに冬至の面白さがあります。
二十四節気では、この冬至は一日だけの出来事ではなく、次の小寒が来る1月5日頃までの約15日間を指します。この間、七十二候では「乃東生(なつかれくさしょうず)」「麋角解(さわしかつのおつる)」「雪下出麦(ゆきわりてむぎのびる)」と、どれも“見えないところで春の準備が進んでいる”情景が並びます。外は寒さの底でも、地中や動物の体の中では春が息を吹き始めている――そういう眼差しで日付を追っていくと、冬至は単なる「ゆず湯の日」ではなくなります。
しかも、旧暦の頃は正月が立春(二月四日頃)と近かったため、「冬至で陽が戻る➡節分で邪を払う➡立春で年が立つ」という、綺麗な三段階で一年を考えることが出来ました。今の暦では1月1日が年の始まりに来てしまったので、この流れが途中で分断され、冬至の物語だけが少し見えにくくなっています。だからこそ、昔の考え方をいったん手元に呼び戻して、「12月22日頃から1月5日頃までをどう暮らすのが美しかったか」を辿り直すことには価値があります。
これから書いていくのは、そうした“隠れてしまった冬至”を、現代の暮らしにそっと繋ぎ直す試みです。二十四節気としての位置付け、七十二候が描く細やかな風景、そして都や江戸で行われた冬至周りの習わし。さらに、ゆず湯やかぼちゃだけではない、地域に残ったささやかな印も拾ってみます。年末の慌ただしさに飲み込まれる前に、「ここが本当の底で、ここから光が増える」という感覚を一度胸に置いてみてください。そうするだけで、十二月下旬からの時間が、少し温かく見えてきます。
[広告]第1章…二十四節気の冬至は一日ではなく15日続くというお話
12月22日頃と聞くと、多くの人は「その日が冬至」と考えます。暦の上でも多くの手帳でも、その一日に小さく「冬至」と書いてありますから当然です。ところが本来の二十四節気で言うところの「冬至」は、その一日を指すのではなく、次の節気である「小寒」がやって来る1月5日頃までの期間を丸ごと含んでいます。つまり、凡そ15日間のまとまった時間が「冬至」という名前のもとに置かれているわけです。ここを押さえておくと、このあとに続く七十二候の話もぐっと分かりやすくなります。
冬至という言葉には「冬の真っ只中」「冬の中央」という意味があり、二十四節気を一年の輪として見た時に、ここが陰の極点だと考えられてきました。日の出は遅く、日の入りは早く、寒さはこれからさらに深まるのに、太陽の高さだけはここを折り返し点にして少しずつ戻っていく。それが「陽が戻る」「一陽来復」という発想の根っこです。外側の季節感と、天体の動きが作る転換点とが、ここで少しズレるのです。
この「15日間まるごとが冬至です」という見方をすると、暮らしのリズムも変わってきます。例えば12月22日頃にゆず湯に入ってお終い、ではなく、「ここから1月5日頃までが、太陽が上がり始める静かな期間だな」と思いながら過ごすことが出来るようになります。ちょうどこの時期は年末の片付けや準備で何かと忙しないのですが、暦の方は「今こそ深いところで切り替わる時だよ」と告げている。人間の時間と、自然の時間が二重に流れている感じがして、そこに味わいが生まれます。
さらに言えば、二十四節気は太陽の動きを正確に追う仕組みなので、新暦に切り替わっても大きなズレが生じにくいという特徴があります。だからこそ現代でも「冬至はだいたい12月22日頃」「小寒は1月5日頃」と、概ね同じ日にやって来ます。旧暦の頃の人々が見ていた空と、私たちが見ている空とが、この点でしっかり繋がっているわけです。ここに過去と現代を結ぶ入口があるので、この章では敢えて日付をはっきり記すことにしました。
一日だけの行事と思っていると、どうしても「ゆず湯をする日」ぐらいの印象で終わってしまいますが、15日間の節気として見れば、そこには年を締め括るための静けさや、次の年に光を渡していくための準備のようなものが見えてきます。これが分かっていると、次章で触れる七十二候――「乃東生」「麋角解」「雪下出麦」という、一見すると地味で目立たない三つの情景――が、じつはこの15日間の中を丁寧に説明してくれているのだと感じられるようになります。
第2章…七十二候に潜む地中で春が動き出す三つの情景
二十四節気としての冬至が15日ほど続くことが分かると、次に面白くなるのが七十二候です。七十二候は、その15日をさらに三つに割って「この頃、自然界ではこういうことが起きているはずですよ」と教えてくれる細やかな暦です。冬至の期間に当たるのは、だいたい次の三つです。
最初が12月22日頃~26日頃の「乃東生(なつかれくさしょうず)」。次が12月27日頃~31日頃の「麋角解(さわしかつのおつる)」。そして年をまたいで1月1日頃~5日頃の「雪下出麦(ゆきわりてむぎのびる)」です。どれも冬のど真ん中の情景なのに、視線の先にはもう春があります。外は寒さの底なのに、暦は「いや、下では動き始めているよ」と囁いている。このズレがなんとも味わい深いのです。
乃東生~枯れていたものが静かに立ち上がる時期~
「乃東」は夏になると枯れる薬草のことで、夏枯草(かごそう)のことだとされています。その夏枯草が、よりによって一年で一番暗いこの時期に、地面の下でそっと芽を動かし始める。12月22日頃といえば、私たちはクリスマスやお正月に向けた年末の予定に追われていますが、暦は「ここからは下向きではなく上向きになる」と示しているわけです。昔の人は、これを直接見ることは出来ませんでしたが、経験的に「この頃から地中のものは動き出す」と知っていたのでしょう。だからこそ、身を清めたり、ゆずを湯に浮かべたりして、身体の方も同じリズムに合わせることを大切にしたのだと考えられます。
麋角解~古いものをいったん落として新しくする合図~
12月27日頃から年の瀬にかけての「麋角解」は、大きな鹿の角が抜けるさまを表しています。角が抜けるというのは、いったん立派になったものを手放し、次の季節に向けてまた生やす準備をするということです。人間の暮らしでもこの時期は家を片付けたり、帳面を締めたり、要らないものを処分したりと、古いものを落としていく作業が増えますよね。自然界と生活とが同じ身振りをしているのが分かると、この候がグッと近く感じられます。冬至の考え方では「陰が極まれば陽に転ずる」と言いますが、その転換には必ず“いったん抜く”段階がある。麋角解はまさにその姿を見せてくれているのだと思って読むと、年末の整理がただの作業ではなくなります。
雪下出麦~見えないところで育った力が顔を出す~
3つめの1月1日頃~5日頃の「雪下出麦」は、雪の下で麦が伸びる、という意味です。ラーメンやパンになる麦の素ですよ。表面は冷たく閉ざされているのに、土の中ではちゃんと芽が伸びている。年が改まるこのタイミングでこの情景が置かれているのは、とても象徴的です。昔の暦では、ここから節分・立春へと向かって春の気配を増やしていきますから、「冬至を過ぎたら、後は出ていくだけだよ」という励ましにも見えます。現代の私たちに当てはめるなら、十二月で用意しておいたことが、年明けからジワジワと形になる――そんな流れに重ねても良いでしょう。
この三つの候を並べてみると、冬至の15日間は「芽が動き出す➡古いものが抜ける➡育っていたものが顔を出す」という順番で進んでいることが分かります。つまり、ただ寒さに耐える期間ではなく、目には見えないけれども春へのスイッチが順番に入っていく期間なのです。ここを物語として知っておくと、「冬至=ゆず湯」という一行きりの説明では伝わらなかった手触りが出てきますし、12月22日頃から1月5日頃までの時間を“季節の中のひと続きの章”として感じてもらいやすいですよね。
第3章…旧暦が描いていた冬至から節分・立春への道筋
いま私たちは1月1日を「年の初め」としてお祝いしていますが、旧暦で一年を見ていた頃の人々は、もう少し“自然の折り目”に寄り添って時間を捉えていました。特に冬至から節分、そして2月4日頃の立春にかけての流れは、今よりもずっと一本の線として感じられていたはずです。簡単に言えば「冬至で陽が戻りはじめる➡節分で邪を払って道をあける➡立春で年が立つ」という三段階です。現代のカレンダーではこの間にお正月が差し込まれているので、こうした連続した物語が見えづらくなっているのですね。
旧暦では、冬至は「陰が極まって陽に転じる日」として大切にされました。ここで陽の気がこちら側に向き始めるので、中国でも日本でも「一陽来復」という言葉が使われます。夜の長さが頂点に達して、これ以上は長くならない――その天の動きを人の暮らしにも重ねて、「ここからは良い方へ返していこう」と考えたのです。この考え方が後にはお守りの形になって残り、冬至や大晦日、節分など“区切りの日”に授けられるようになりました。陰から陽へ、古い年から新しい年へ、という方向を改めて指し示す役目をしていたのでしょう。
さらに面白いのは、旧暦においては冬至そのものを大吉の日とみなすことがあり、とくに「朔旦冬至(さくたんとうじ)」と呼ばれる目出度い日がありました。これは旧暦の一日目である朔日と冬至がピタリと重なる滅多にない日で、太陽の節目と暦の始まりが同時にやって来ることから、宮中でも祝われたと伝えられています。こうした例からも、冬至を“年の底であり始まりでもある”特別な日と見ていたことがわかります。現代ではあまり耳にしない言葉ですが、暦の感覚を辿ると、自然と人の時間を揃えようとする丁寧さが感じられます。
では、その後になぜ節分が置かれるのかと言うと、冬至で方向を上向きに変えたものを、立春で完全に新しい年として迎えるために、途中で一度「邪気を払う」場を作る必要があったからです。冬が厳しい土地ほど、この“払う”行為は大事にされました。外の寒さとともに、家の中の澱みや、前の年の不運も一緒に追い出してしまう。節分の豆まきはその名残ですが、本来は「春を迎える直前の大掃除」に近い意味だったと考えると、冬至との繋がりが見えてきます。冬至で太陽の向きが変わっているのですから、人の側もこの辺りで身を軽くしておきたい、ということですね。
そして2月4日頃の立春。旧暦でここを年の起点にしていたのは、太陽の動きと季節の肌触りとが、ようやく「これから伸びていく」と同じ方向を向くからです。冬至で見えないところに芽が動き、節分で道を開け、立春で顔を出す――こう書くと、庭に植えた球根を手入れしながら春を待つようなリズムが感じられるのではないでしょうか。今の12月~1月の慌ただしさは、じつはこの静かなリズムを包み隠してしまっているだけなのかもしれません。
現代のカレンダーで暮らしている私たちでも、この旧暦の三段階を意識して見ることは出来ます。12月22日頃の冬至で「ここが底だ」と心に印を付ける。一月上旬からの寒さの中で、少しずつ日が延びていることを確認する。二月初めの節分には、家の中の物を整理して呼吸を整える。そして立春で「ここから一年を始めます」と改めて言葉にする。これだけでも、冬の時間が一本の物語として通りやすくなりますし、昔の人が見ていた季節の段差が現代にも生きてきます。これが、かつてあったのに表舞台から下がってしまった冬至の文化を、今の暦にそっと結び直すやり方の1つです。
第4章…現代の十二月行事と混ざって見えなくなった冬至文化を拾い直す
十二月の後半は、どうしても行事がギュッと詰まります。12月22日頃に冬至が来て、そのすぐ後にクリスマス、片付けをしている間に仕事納め、年越しの買い出し、大晦日、そして1月1日の年始。賑やかで楽しいのですが、この賑やかさの中に、元々、冬至に託されていた静かな願いごとや細やかな作法がスッポリ隠れてしまいました。この章では、その中に埋もれてしまったものを1つずつ拾って、今の暮らしにもう一度載せてみます。
ゆず湯だけが残った背景を辿る
冬至と聞いて一番思い浮かびやすいのは、やはりゆず湯です。香りがよくて、体も温まるので続けやすい。しかも「融通が効く」「厄を落とす」といった言葉と結びつけやすく、家庭でも取り入れやすい行いでした。反対に、手間の掛かる物や材料が限られるものは、年末の忙しさに押されてだんだん省略されていったのでしょう。結果として「冬至=ゆず湯」という図が残りやすくなったわけです。
けれど、ゆず湯は本来「身を清めて、新しく巡ってきた陽の気を迎える」という役目を持っていました。つまりこれは12月22日頃の一回切りで終わらせるよりも、冬至から小寒に入るまでの静かな期間の入口として行う方が、暦の話とピタリと合います。忙しさに飲まれてしまったら、翌日の夜にしてもいい。大切なのは「ここでいったん落として、ここから上向きにする」という意識を置くことです。
かぼちゃや冬至の七種が伝えていたもの
「冬至にかぼちゃを食べる」という習慣もよく知られています。江戸時代には保存がきく野菜として重宝され、寒い時季に栄養があるものを食べるという現実的な意味もありました。さらに「なんきん」と読むことで「ん」のつく食べ物を重ねる「運盛り」の考え方とも繋がります。地域によっては、れんこん・にんじん・ぎんなん・きんかん・かんてん・うんどんなどを合わせて「冬至の七種」と呼び、音で縁起を寄せ集めるようにして食卓を整えました。こうした遊び心のある養生法は、クリスマス料理やおせち料理のような華やかな膳が前に出るようになってから、表に出にくくなったものの1つです。
今の暮らしに戻すなら、12月22日頃の夕飯を「ちょっと和寄りで、音のいいものを集めた献立」にしてみるだけでも雰囲気が出ます。かぼちゃの煮物に小さなれんこんの炒め物、赤いにんじんの味噌汁など、家にあるもので十分です。年末のご馳走とは別に「これは冬至のものだよ」と器を分けておくと、季節の線がはっきりします。
こんにゃくや小豆を使ったおなかの清め
各地に残る冬至の食べ物を見ていくと、こんにゃくや小豆を使う例が出てきます。こんにゃくは「砂おろし」と言われるように、体の中をすっきりさせる食材として重宝されましたし、小豆はその赤い色から邪をはね返す力があると考えられてきました。冬至に食べる小豆粥やかぼちゃ小豆は、そのまま一月の小豆粥や小正月の行事食にも繋がっていくので、じつは年越しの台所仕事ととても相性が良いのです。今のカレンダーだとどうしても「クリスマスで洋風➡おせちで和風」という大きな波で捉えがちですが、その手前に一度「体を整える食」を挟むことで、12月22日頃からの暦の流れが体にも入ってきます。
お守りや家の中の小さなおまじない
江戸の町で人気を集めた一陽来復のお守りのように、冬至から貼ったり飾ったりするものは本来いくつかありました。家の要の方角に置いて家運を上向きにする、柚子を家の下に置いて火難を防ぐ、南天の枝を門口に挿して「難を転ずる」に掛けるといったものです。こうした小さなまじないは、年末の大掃除やしめ縄飾りにスペースを譲る形で薄れてしまいましたが、実質的には同じ願いを向けています。「ここから良い方へ向かいたい」「家の中を守りたい」という願いを、冬至のタイミングに先に置いてしまう考え方です。
現代でもこれは応用できます。大掃除をする前に、冬至の日だけは窓辺に柚子を一つ置いておく。年越しの注連飾りとは別に、南天や柚子を使った小さな飾りをテーブルに出しておく。それだけで「今日は冬至の家にした」という意識が家族の中に芽生えます。年末の行事に押し出されてしまった古い作法を、あえて一枚手前に戻して並べるイメージです。
こうして見ていくと、冬至にまつわる文化は決して派手ではありませんが、どれも「いったん落として、上向きにする」「体も家も軽くする」「言葉や音で縁起を引き寄せる」といった、年末にこそ欲しい要素を静かに集めています。12月22日頃から1月5日頃までを、年末年始の賑やかさと同じ棚に置くのではなく、半歩だけ奥にある“冬の間”として扱ってみる。そうすることで、旧暦が描いていた冬至の姿が再び輪郭を取り戻し、他の行事とも自然に並べやすくなります。
[広告]まとめ…冬至を年のプロローグとしてよみがえらせるために
ここまで見てきたように、12月22日頃にやって来る冬至は、「ゆず湯の日」として一日だけ扱ってしまうには惜しいほど、たくさんの意味を抱えた節目でした。二十四節気では1月5日頃まで続く15日間の名前であり、七十二候では「乃東生」「麋角解」「雪下出麦」と、どれも見えない場所で春が動き始める様子が並びます。外の景色はまだ真冬なのに、暦の上ではもう陽が戻る方向へ進んでいる――この二重構造が冬至の面白さであり、優しさでもあります。
旧暦が生きていた頃の人々は、この時間をさらに長い線で見ていました。冬至で陽の気がこちらに向き始める。節分で邪を払って道を空ける。2月4日頃の立春で、ようやく年が立つ。こう考えると、冬至は「春を迎えるための初動」にあたる静かな地点だと分かります。現代の私たちは1月1日を先に祝ってしまうので、この初動がどうしても陰に隠れます。けれど、暦の側から太陽の高さを見ていくと、やはり物事は冬至から上向いていく。ここを思い出しておくだけで、年末の慌ただしさの底に一筋の静けさが通ります。
また、年末の行事に押されて見えなくなった食べ物やおまじないにも、冬至らしい役目がありました。かぼちゃや「ん」のつく野菜を集めること、こんにゃくや小豆で体を整えること、柚子を湯に浮かべて身を清めること。どれも「ここで一度落として、ここから良くなっていく」という同じ方向を向いています。華やかなクリスマスディナーやおせち料理と並べると地味に見えますが、季節の筋を通してくれるのはむしろこちらの方です。12月22日頃の食卓にそっと添えておくだけでも、記事で描いた“冬の中の春支度”が生活に染み込みます。
最後にもう一度だけ強調しておくと、冬至は「最も暗い日に、光が戻り始める」瞬間です。だからこそ、年末の片付けや一年の振り返り、家を守るための小さな願いごとと一緒に置くと、時間の流れがとても自然になります。12月22日頃から1月5日頃までを、ただの忙しい年末として過ごすのではなく、「古い物を抜き、新しい陽を迎えるための帯」として意識してみる。すると、二十四節気や七十二候の細やかな呼吸が現在の暮らしに戻ってきて、昔と今の間がフッと近づきます。そういう柔らかな繋がりを、この冬に残しておきたいところです。
今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
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