5月27日はドラゴンクエストの日~冒険心と尊厳を繋ぐ介護の新しい遊び方~

[ 介護現場の流儀 ]

はじめに…いくつになっても心の勇者は旅をやめない

5月27日。この日付を見るだけで、テレビの前に座り、コントローラーを握った手の感触まで甦る人がいるかもしれません。1986年5月27日に『ドラゴンクエスト』が世に出てから長い年月が流れましたが、町を探し、敵と戦い、少しずつ成長していく冒険のワクワクは、数字だけでは古くなりません。

ゲームの中では、右へ行くか左へ行くか、戦うか逃げるか、何を買うかまで自分で決めます。失敗して「そっちじゃなかったか!」とテレビに向かって小さくツッコミを入れる夜もありました。それでも試行錯誤を重ね、自分で選んだ先に新しい景色が現れる。その一喜一憂も含めて、遊んでいた本人にとっては大切な時間だったのでしょう。

ところが年齢を重ね、介護が必要になると、暮らしの中に「みんなと同じ」が少しずつ増えることがあります。体操も歌もレクリエーションも、善意で用意されたもの。それでも、歌いたくない人がいても良いし、静かに遊びたい人がいても良い。ゲームの世界で何度も自分の道を選んできた人なら、なおさら「今日はこれをしたい」という気持ちは消えていないはずです。

年齢を重ねても、「自分で選んで楽しむこと」は、その人らしく生きる大切な一部分です。ゲームは若者だけの遊びではなく、記憶を呼び起こしたり、考えたり、工夫したり、もう一度「やってみたい」と心を動かしたりする入口にもなれます。人生の途中で介助が必要になっても、心の中まで誰かに操作してもらう必要はありません。

剣も盾もいりません。必要なのは、本人が「ちょっとやってみようかな?」と思える選択肢と、その隣で「どうぞ」とコントローラーを渡してくれる人です。画面の向こうに広がる冒険は、昔の思い出だけではなく、今日から始められる楽しみにもなります。

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第1章…コントローラーを握った夜に育った「自分で選ぶ力」

初めて『ドラゴンクエスト』の世界へ足を踏み入れた時、頼れる仲間はまだいませんでした。城を出れば、そこから先は自分の判断です。どちらへ歩くのか、敵と戦うのか、危なくなったら町へ戻るのか。今なら攻略の情報を簡単に手に入れられますが、何も分からない世界を手探りで進む面白さには、独特の味がありました。

そして、最初はスライムだって油断できません。「こんな丸っこい相手に負けるのか」と思ったところで、容赦なく画面はこちらの未熟さを教えてくれます。薬草を買えばお金が減り、少し良い武器を見つければ今度は財布と相談。欲しい物はある、お金はない。妙に現実的です。けれど何度か戦う内にレベルが上がり、昨日は怖かった場所を少し先まで歩けるようになる。その一喜一憂がたまりませんでした。

面白かったのは、ゲームが正解を先に教えてくれなかったことです。行ってみたら行き止まりだった。買った武器より、もう少し我慢して次の町の武器を買えば良かった。敵に挑んだら見事に返り討ち。そんな失敗を重ねながら、「次はこうしよう」と自分で考えるようになります。試行錯誤を繰り返すうちに、画面の中の勇者だけでなく、遊んでいる側にも少しずつ経験が積み上がっていきました。

ラスボスを前にして提示される、とんでもなく魅力的な選択にも心を揺さぶられます。思わず選んでしまい、「えっ、そうなるの?」と固まった経験まで含めて忘れにくい。ゲームだからこそ失敗でき、失敗したからこそ次の選択を考える。その小さな積み重ねには、自分で決めた結果を自分で受け取る楽しさがありました。

冒険の面白さは、誰かに正解へ運んでもらうことではなく、自分で迷い、自分で選び、自分の一歩で景色を変えていくところにあります。

これはゲームの中だけの話でもありません。年齢を重ねても「自分で決めたい」という気持ちは残ります。今日は何を着るか、何を食べるか、どこへ行くか、何をして過ごすか。暮らしの選択肢が小さく見える日でも、自分で選べることにはちゃんと意味があります。

だからこそ、昔ゲームに夢中になった人にとって、コントローラーを握った記憶は単なる懐かしさではないのでしょう。あの頃、自分で考えて、自分で進み、失敗すれば作戦を変えて、それでも旅を続けた。その感覚は、何十年経っても心の奥に残っています。

レベルが上がる音に喜んだ少年も少女も、やがて大人になり、さらに年齢を重ねます。それでも心の中の勇者まで引退届を出したとは限りません。「もう年だから」と周囲が先にエンディングを決めてしまうのは、少々気が早い話です。まだ行ったことのない町があるなら、旅は続いていて良いのです。


第2章…「みんなで楽しく」が苦しい日もある~集団レクと個性の距離~

午後のデイサービス。体操が終わり、お茶を飲んでいると、職員さんの明るい声と共にカラオケが始まります。懐かしい曲が流れ、楽しそうに歌う人もいる。それはそれで素敵な時間です。けれど、部屋にいる全員が同じ気持ちとは限りません。「歌いませんか?」とマイクを向けられ、笑顔で断ったのに、しばらくすると再びマイクがやって来る。心の中では「さっき断りましたよね」と小さくツッコミを入れながら、今度は視線までそっと逃がしたくなる人もいるでしょう。

歌うことが好きではない人もいます。他人の歌を長時間聴くことが苦手な人もいます。将棋をしたい人、本を読みたい人、静かに窓の外を眺めたい人、昔遊んだゲームなら少し触ってみたい人もいるでしょう。正に十人十色で、楽しみ方に共通の正解はありません。「みんなが楽しんでいるから」という言葉は便利ですが、その「みんな」の中に入りきれない気持ちも大切にしたいところです。

介護のレクリエーションが難しいのは、職員の善意だけでは解決しきれないところにあります。職員は場を明るくしたいし、孤立してほしくないから声をかけます。利用する側も、その気持ちが分かるからこそ断りにくい。すると参加しているように見えて、本人はただ時間が過ぎるのを待っている、というスレ違いが起こります。笑顔で座っているから楽しんでいる、と決めてしまうと、本音は静かにテーブルの下へ隠れてしまいます。

参加しない自由まで含めて選べることが、その人らしいレクリエーションの出発点です。「歌わないなら何もしなくて良い」ではなく、「歌わないなら何を楽しみたいだろう?」と考える。その発想があれば、集団活動と個別の楽しみは敵同士ではなくなります。カラオケを楽しむ人の隣で、別の人がパズルやゲームに夢中になっていても良い。同じ部屋にいながら違うことをしている風景だって、十分に穏やかな共同生活です。

介護でいう個別ケアは、1人だけ特別扱いすることではありません。その人の生活歴や好み、体調、出来ることに合わせて支援を考える姿勢です。大人数のデイサービスで全員に別々のプログラムを用意するのは現実的ではなくても、2つか3つの選択肢を示すことなら工夫できます。「今日は歌いますか?、それともこちらで何かしますか?」と聞くだけでも、受け取る側の気持ちはかなり違います。臨機応変とは、豪華な企画を次々と用意することではなく、目の前の人の反応を見て少し方向を変えられることなのかもしれません。

ゲームが好きだった人なら、昔の作品について話すだけでも表情が変わるかもしれません。実際に遊ぶなら、操作を全部代わりにしてしまうのではなく、本人が出来る部分を残すことも大切です。選択肢を読み上げてもらいながら自分で決める、ボタンを1つ押してみる、地図を見ながら進む方向を相談する。そんな小さな参加でも、「自分が動かしている」という感覚は残ります。

集団レクそのものが悪いわけではありません。みんなで歌って笑う時間が大好きな人には、大切な楽しみです。ただ、その輪の少し外側で静かに過ごしている人にも、その人だけの楽しみがあります。「参加させる」から「選んでもらう」へ視線を少し動かせば、同じデイルームの景色はもっと豊かになります。

勇者だって全員が同じ武器を持って旅をする必要はありません。剣を選ぶ人もいれば、杖が好きな人もいる。そして中には、「今日は宿屋で休ませてください」という日だってあるでしょう。それで冒険から脱落したことにはなりません。介護の場でも、そのくらい自由な選択肢があって良いのです。

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第3章…ゲームは暇つぶしじゃない~考えて選んで達成する喜び~

ゲームをしている姿を横から眺めていると、ただ画面を見ながらボタンを押しているだけに見えることがあります。けれど、遊んでいる本人の頭の中は意外と忙しいものです。「この道はさっき通ったな」「薬草はあと何個だったかな?」「この敵には今の装備で勝てるだろうか…」と考え、迷い、決める。小さな判断が次々と続いています。

『ドラゴンクエスト』のようなRPG(物語の中で役割を担い、成長しながら進むゲーム)では、その積み重ねが特に分かりやすく表れます。敵に負けたらレベルを上げる。お金が足りなければ戦って貯める。新しい町へ着けば装備を見比べ、「今買うか、もう少し我慢するか」と悩む。ゲームなのに財布事情まで世知辛い。「勇者なのに金欠かい」とツッコミたくなりますが、そのやりくりまで含めて冒険です。

こうした遊びには、認知機能(考える・覚える・判断する働き)を使う場面がたくさんあります。ただし、ゲームをすれば何でも訓練になる、と決めつける必要はありません。大切なのは、本人が面白いと思い、自分から手を伸ばせることです。嫌々取り組む課題より、「もう少し進みたい」と夢中になれる時間の方が、その人の心を自然に動かしてくれることがあります。

そして、もう1つ見逃したくないのが達成感です。昨日は倒せなかった敵に勝てた。迷っていた洞窟から抜けられた。欲しかった武器をようやく買えた。こうした小さな成功が積み重なると、自己効力感(自分にも出来ると思える感覚)が育ちます。誰かから「上手ですね」と言われなくても、自分自身が「出来た」と分かる。そこにゲームならではの心地良さがあります。

ゲームの価値は勝つことだけではなく、自分で考えた一手が結果に繋がる喜びを何度でも味わえるところにあります。

介護が必要になった人の暮らしでは、安全や時間の都合から、周囲が先回りしてしまうことがあります。服を選ぶ前に準備され、移動先も決まり、日課も決まっている。もちろん必要な支援はありますが、何でも代わりに決めてもらう日々が続けば、「自分でやってみよう」という気持ちが出番を失ってしまうこともあります。

そんな暮らしの中にゲームが入ると、少し違う時間が生まれます。右へ進むか左へ進むかを本人が決める。戦うか逃げるかを考える。職員が横から全部教えるのではなく、「どうします?」と待ってみる。その数秒には、選択する人として扱われる時間があります。悪戦苦闘しながら辿り着いた答えなら、なおさら自分の成果として残るでしょう。

操作が難しい場合も、楽しみ方は1つではありません。文字を読むのが大変なら職員が読んでも良いし、細かな操作だけ手伝っても良い。それでも最後の「どちらを選ぶか?」を本人に残せば、冒険の主役は本人のままです。支援する人が主人公のコントローラーまで奪ってしまっては、流石に勇者も出番がありません。

「好きこそ物の上手なれ」と言います。好きなものなら、少しくらい難しくても工夫して続けたくなるものです。高齢になったから新しい遊びは無理、と決める必要もありませんし、昔好きだった遊びを卒業させる必要もありません。

ゲームの世界には、失敗しても作戦を変え、また挑戦できる余白があります。その自由さは、介護の中にも少し取り入れられるはずです。出来ることを全部用意するのではなく、本人が考える余地を残す。その小さな余白から、「もう1回やってみようかな」という気持ちが芽を出すことがあります。


第4章…介護職員は冒険の案内人になれる~世代を繋ぐ遊びの橋~

ゲームを介護の楽しみに加えようとすると、最初にぶつかりやすいのが「難しそう」「機械が苦手だから」「今までのレクリエーションで十分では?」という壁です。施設なら時間や人手、費用も考えなければなりません。忙しい午後にゲーム機を持ち出し、操作方法まで説明するとなれば、「いつものカラオケの方が早い」と感じるのも無理はないでしょう。介護職員には食事や排泄、記録、家族対応など多くの仕事があり、新しいことを1つ増やすだけでも負担になります。

けれど、ゲームを大がかりな新企画だと考える必要はありません。毎日何人も遊ばせる必要もなければ、高価な機器を一気に揃える必要もありません。「この人、昔ゲームが好きだったんだ」と分かった時に、一緒に画面を眺めてみる。興味を示したら少し触ってもらう。その程度の小さな入口からでも始められます。最初から完璧なイベントにしようとすると、準備する側までラスボス戦の顔になります。まずは小さく試すくらいがちょうど良いでしょう。

そこで頼もしい存在になるのが、ゲームに親しんできた介護職員です。家庭用ゲーム機やスマートフォンなどに触れてきた人なら、説明書を最初から最後まで読み込まなくても、凡その操作感覚を掴めることがあります。利用者さんがボタンの位置に迷った時にも、「これは決定ですよ」「こっちは戻るボタンです」と自然に寄り添える。遊び方を知っている人は、機械を操作する係ではなく、楽しさへの入口を作る案内人になれます。

しかも、その橋渡し役には世代を繋げる面白さがあります。若い職員は新しいゲームを知っているかもしれません。中堅職員なら、昔の家庭用ゲームから今のスマートフォンまで幅広く触れていることもあるでしょう。そして高齢者の中にも、仕事や子育ての合間にゲームを楽しんできた人が少しずつ増えていきます。「高齢者だからゲームを知らない」と決めつける方が、これからは不自然になっていくでしょう。

大切なのは、職員が先生になり過ぎないことです。迷った瞬間に全部答えを教え、難しそうなら代わりに操作し、気づけば職員だけがゲームを進めている。これでは何のために始めたのか分からなくなります。「そこ、私がやるところだったんだけど」と勇者に怒られそうです。分からない時だけ助け、本人が考えている時には少し待つ。臨機応変に距離を変えることが、遊びを支援へ変える大切な感覚です。

介護職員の役割はゲームを上手に操作することではなく、本人がもう一度「自分でやってみたい」と思える場所まで一緒に歩くことです。

そのためには、施設側の柔軟さも欠かせません。「ゲームは子どもの遊び」「レクリエーションは全員同じ方が楽」という固定観念だけで選択肢を閉じてしまえば、職員に良いアイデアがあっても動かせません。現場から出た小さな提案を試し、合わなければ変える。試行錯誤が許される職場なら、新しい楽しみも育ちやすくなります。ゲームを知る世代の職員が、高齢者と新しい技術を繋ぐ橋渡し役になれる可能性があるのです。

介護の楽しみは、歌や体操だけで完成するものではありません。ゲームが好きな人にはゲームがあり、園芸が好きな人には土に触れる時間があり、何もしないで静かに過ごしたい人にはその自由がある。職員が持っている経験や趣味まで少し持ち寄れば、選択肢はもっと広がります。勇者に必要なのは、前を歩いて全部倒してくれる人ではありません。迷った時に地図を広げ、「どちらへ行きます?」と聞いてくれる仲間なのです。

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まとめ…人生のレベル上げに年齢制限はない~その人らしい旅は続く~

ゲームの電源を入れれば、画面の向こうにはまだ知らない道があります。若い頃には夢中で進んだ道も、年齢を重ねてから眺めれば、少し違った景色に見えるかもしれません。それでも、「次はどうしよう」「もう少し先まで行ってみたい」と思う気持ちは、何歳になっても消えるものではありません。『ドラゴンクエスト』で味わった冒険も、自分で考え、自分で選び、自分の力で少しずつ先へ進む楽しさに満ちていました。

介護が必要になると、生活の中には誰かの手を借りる場面が増えていきます。それは決して、本人の意思まで小さくなるということではありません。食べたいもの、着たい服、過ごしたい場所、やってみたい遊び。十人十色の好みがあり、「自分で決めたい」という気持ちも暮らしの中に残り続けます。

カラオケが好きな人には思い切り歌える時間があって良い。体操が好きな人には体を動かす楽しみがあって良い。そして、ゲームが好きだった人には、コントローラーを握る時間があって良いのです。全員を1つの楽しみ方へ集めなくても、それぞれが自分らしく過ごしている空間は十分ににぎやかです。

ゲームには、勝ち負けだけではない魅力があります。考えて、迷って、失敗して、作戦を変える。上手くいったら少し嬉しくなり、また次へ進みたくなる。そんな試行錯誤の中に、「自分が主人公である」という感覚があります。介護職員が必要なところだけ手を貸し、本人の選択を待つことができれば、その時間は単なる暇潰しではなくなります。

出来ないことが増えても、自分で選べることが残っている限り、その人の冒険は終わりません。

介護職員に求められるのも、誰かの人生を代わりに進めることではないのでしょう。道に迷った時には少し地図を広げ、操作に困った時には手を添え、それでも最後に進む方向は本人に選んでもらう。その伴走があれば、新しい技術も昔懐かしいゲームも、人と人を繋ぐ道具になります。ゲームと介護職員の関わりが、新しい楽しみへ向かう扉になり得るという希望があるのです。

人生には、思った通りに進めない日もあります。予定外の出来事に出会い、立ち止まることもあるでしょう。それでも七転八起、また自分なりの方法で歩き始めれば良い。昔テレビの前で勇者になった人も、今日初めてゲームに触れる人も、まだ見たことのない景色へ進む権利があります。

最後の冒険がいつになるのかなんて、誰にも分かりません。それならエンディングを急ぐより、「今日は何をしてみようか」と選べる毎日を育てたいものです。人生のレベル上げに年齢制限はありません。コントローラーを握る手の速さが少し変わっても、心の中の勇者は、今日もちゃんと旅を続けています。

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今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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