春はほろ苦いほど楽しい?~山菜で味わう旬と食卓の春~

[ 旬の食と暮らし ]

はじめに…ひと口のほろ苦さが「春が来たよ」と教えてくれる

春の食卓には、少し不思議なものが並びます。ふきのとう、わらび、ぜんまい。甘いわけでもなく、誰にでも食べやすい味でもないのに、あのほろ苦さを口にすると「ああ、春だなぁ」と感じるから面白いものです。冬の間は静かだった山から若い芽が顔を出し、それが食卓までやってくる。正に一陽来復、季節が動き始めたことを舌で知らせてくれる食べ物が山菜なのかもしれません。

子どもの頃には「なんで大人はこんな苦いものを喜んで食べるんだろう?」と思ったのに、いつの間にか自分も天ぷらを前にして「この苦味が良いんだよ」と言っている。……はい、しっかり大人側に入りました。山菜には味だけでなく、香りや色、昔食べた料理や誰かと出かけた山の記憶まで連れてくるところがあります。

山菜を味わうことは、春をお腹に入れるだけでなく、季節そのものを暮らしへ迎えることでもあります。家庭の食卓ではもちろん、高齢者施設でも、食べやすさに気を配った料理や春の話題を添えれば、小さな一皿から会話が膨らみます。今年の春は「苦いから苦手」で通り過ぎず、その向こうにある旬の面白さを少し覗いてみましょう。春はどうやら、甘い顔ばかりして近づいてくるわけではないようです。

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第1章…ふきのとう・わらび・ぜんまい~日本の春を食べる山菜図鑑~

まだ朝の空気には少し冷たさが残るのに、地面をよく見ると小さな緑が顔を出している。そんな春先の景色を、そのまま食卓へ連れてきたような存在が山菜です。畑で整然と育つ野菜とは少し違い、香りも苦味も食感もなかなか個性的。「私は春です」と静かに登場するというより、口に入れた瞬間に「春、来ました!」と名乗ってくる感じがあります。山菜の季節には、山も食卓も百花繚乱ならぬ“百菜繚乱”。少々言葉を盛りましたが、それくらい顔触れがにぎやかです。

その先頭を走るように現れるのが、ふきのとうです。淡い緑の蕾には独特の香りと苦味があり、天ぷらにすれば衣の香ばしさの奥から春らしい風味がフワッと立ちます。味噌と合わせる食べ方もあり、ご飯が進む一品になります。形も少し面白く、丸く閉じた姿を見ると「これは食べ物なのか?、それとも森の小さな置物なのか?」と一瞬迷いますが、食卓へ上がれば立派な春の味です。

少し季節が進むと、クルリと巻いたぜんまいや、スッと伸びたわらびも姿を見せます。煮物やお浸しにすると、それぞれの歯触りや香りが生きてきます。同じ「山菜」という名前でまとめられていても、ふきのとうの苦味と、わらびやぜんまいの食感では楽しみ方が随分と違います。山菜の面白さは、春という1つの季節の中に、いくつもの味と香りが隠れていることです。「山菜は苦いもの」とひと括りにしてしまうには、少々もったいない世界なのです。

さらに興味深いのは、同じ山菜でも土地によって食べ方が変わることです。保存のために塩漬けや干し物にしたり、その土地の調味料や香りを合わせたりと、春の短い旬を長く楽しむ知恵が育ってきました。採れる場所も料理も千差万別で、「うちではこう食べる」が立派な郷土の味になります。スーパーで山菜を見つけた時も、名前だけを見るより「この山菜は、どんな土地でどんな料理になってきたのだろう?」と想像すると、買い物かごの中がちょっとした春の社会科見学になります。

旬の食材は一年中並ぶ便利な食べ物とは少し違い、「今だから食べられる」という時間まで一緒に味わえます。桜が咲けば空を見上げ、山菜が並べば食卓を覗く。そんな小さな変化に気づける暮らしは、意外に贅沢です。春の山菜たちは、派手なご馳走ではなくても、そのひと皿だけで季節の扉をそっと開けてくれます。


第2章…海の向こうにも春の野草~世界の食卓を歩く旬の旅~

ふきのとうやわらびを食べながら「春の山菜って、いかにも日本らしいなぁ」と思っていると、海の向こうから「こちらも春の草を食べていますよ」と声が聞こえてきそうです。長い冬が終わり、柔らかな葉や新芽が姿を見せると、それを摘んで食卓へ運ぶ。国も料理も違うのに、人はどうやら春になると地面を見たくなるようです。

フランスの田舎では、春になると野生のハーブや食用花を摘み、その季節ならではの料理に取り入れる文化があります。ワイルドガーリックと呼ばれる野生のニンニクは、スープに入れたり刻んでサラダへ散らしたりして楽しまれています。森で摘んだ緑がその日の食卓へやってくる光景を想像すると、日本で山菜を持ち帰って天ぷらの支度をする姿と、どこか似ています。食卓の姿は異国情緒たっぷりなのに、やっていることには妙な親近感があります。

イタリアでは、春先に野生のアスパラガス「アスパラジーニ」が登場します。細く繊細な姿ながら野性的な香りを持ち、オリーブオイルでサッと炒めるようなシンプルな料理で味わわれます。日本なら山菜を見て「天ぷらにしようか?」と考え、イタリアなら「オリーブオイルでいこう!」となる。調理場は違っても、旬の素材をあまりいじり過ぎず、その香りを楽しもうとするところはよく似ています。世界の春料理を眺めていると、旬とは食材の名前ではなく、その土地の人が季節を迎える方法なのだと見えてきます。

さらに北へ向かうと、フィンランドやスウェーデンではネトル(西洋イラクサ)の若い葉が春の味として親しまれています。スープにしたり、パンケーキに使ったり、ピューレ状にしてパンと合わせたりするなど、食べ方も千姿万態です。名前だけ聞けば「イラクサを食べるの?」と少し身構えますが、日本人もわらびやぜんまいを丁寧に下拵えして食べているわけで、外国から見ればこちらも十分に不思議なのかもしれません。世界の食卓を覗くと、自分たちの「普通」がちょっと面白く見えてきます。

アジアへ目を向ければ、さらに距離が縮まります。中国では春の伝統行事で、ヨモギや春の野草を練り込んだ草餅のような食べ物が親しまれ、韓国でも春になると山野草を使ったナムルが食卓に登場します。香りのある草を摘み、手を加え、季節の味としていただく。その感覚には、日本の山菜料理と通じるものがあります。

「郷に入っては郷に従え」と言いますが、食文化の旅では、その土地の春をひと口いただいてみるのも楽しそうです。フランスにはフランスの春、北欧には北欧の春、アジアにはアジアの春がある。それでも根っこにあるのは、長い冬を越えて新しい季節を迎えた喜びです。十人十色ならぬ“十国十食”。皿の中身は違っても、「春が来たから、春を食べよう」という人の気持ちは、意外なほど世界共通なのかもしれません。

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第3章…苦味も食感もひと工夫~高齢者にも優しい山菜の食べ方~

春らしい香りを楽しめる山菜ですが、高齢者の食卓では「旬だから出せば喜ばれる」と単純にはいきません。わらびやぜんまいには独特の歯触りがあり、ふきのとうには苦味や香りがあります。噛む力や飲み込む力が弱くなっている方には、その個性そのものが食べにくさに繋がることもあります。折角の春の一皿が「噛み切れないなぁ」で終わってしまっては、料理する側もちょっと切ないところです。

そこで大切になるのが、山菜らしさを全部消してしまうのではなく、その人に合わせて食べやすい形へ近づけることです。ふきのとうなら、細かく刻んで軽く湯がき、甘めの味噌と合わせてふき味噌にすると、独特の苦味を和らげながら香りを残せます。白いご飯に少量添えるだけでも春らしさは十分。山盛りにして「旬です、どうぞ!」と迫る必要はありません。春も山菜も、押しが強過ぎると少々困ります。

わらびやぜんまいは、やわらかく煮てから細かくしたり、トロミのある餡と合わせたりすると口当たりを整えやすくなります。トロミは食べ物をまとまりやすくする工夫として使われますが、誰にでも同じ固さが合うわけではありません。食べる方の状態を見ながら臨機応変に調整してこそ、料理の工夫が生きてきます。山菜を出すことが目的ではなく、その人が気持ちよく味わえることが目的です。

そして忘れたくないのが、目で楽しむ春です。料理を細かくしたり、やわらかくしたりすると、どうしても見た目が単調になりやすくなります。そんな時は器の色や盛り付けを少し意識するだけでも雰囲気が変わります。淡い色の器に緑の山菜が載れば、それだけで食卓に春の景色が生まれます。施設の食事は毎日の大きな楽しみの1つだからこそ、食べやすさと季節感を両方あきらめない工夫が似合います。

食べやすくすることは、山菜の魅力を減らすことではなく、その人が春を楽しめる形へ仕立て直すことです。安全第一を土台にしながら、香りを少し残す、色を楽しむ、昔食べた味を思い出せるようにする。そうした小さな配慮が重なると、一皿の山菜が単なる副菜ではなく、季節を感じる時間へ変わっていきます。


第4章…食べるだけではもったいない~山菜が動かす思い出と春の会話~

食堂に山菜料理が運ばれてきた時、最初に聞こえる言葉は「美味しそう」だけとは限りません。「昔は山へ採りに行ったなぁ」「これは母がよく炊いてくれた」「わらびは灰でアクを抜いたんや」。そんなひと言が飛び出した瞬間、目の前にある小さな一皿は、何十年も前の春へ繋がる入口になります。山菜には、季節を知らせるだけでなく、人それぞれの暮らしの記憶を呼び起こす面白さがあります。食べ物が人と人を繋ぐキッカケになるのは、旬の料理ならではの魅力でしょう。

高齢者施設でも、山菜は料理として出して終わりにするには少々もったいない食材です。「これ、何だと思います?」「昔はどこで採りました?」「天ぷら派ですか?、煮物派ですか?」と話を向けるだけで、答えは十人十色です。同じわらびを見ても、山へ入った人、店で買った人、家族が料理してくれた人では思い出す景色が違います。職員が山菜博士になる必要もありません。むしろ「私は採ったことがないんです」と言った方が、「ほんなら教えちゃる」と先生役になってくださる方が現れるかもしれません。

そこが、施設で季節を楽しむ面白いところです。職員が何かを一方的に提供するだけではなく、高齢者さんが知っていることを話し、周りが聞き、その話からまた別の人の記憶が動き出す。「うちでは味噌和えやった」「いや、天ぷらやろ?」「私は苦いから逃げとった」。最後の方だけ山菜から全力で逃走していますが、それも立派な思い出です。好きだった話だけを求めないからこそ、会話は和気藹々と広がります。

さらに山菜の写真を見たり、香りを確かめたり、昔の調理方法を話したりすれば、食事の時間だけで終わらない春の楽しみ方もできます。本物を採りに山へ出かけることが難しい方でも、器の中の山菜を眺めながら自分の春を語ることは出来ます。施設の食卓は毎日繰り返されますが、そこへ旬が入ると「今日のご飯」が「今年の春の1日」に変わることがあります。料理の彩りや季節感が食事の楽しさに繋がるという点でも、山菜は小さいながらなかなか働き者です。

山菜のご馳走は、口で味わう部分だけではなく、その人の中から出てくる昔話まで含めて完成するのかもしれません。春の味を囲みながら「そんな食べ方があったんですね」と笑い、「昔は大変だったよ」と話を聞く。そんな一期一会の時間が生まれれば、小さなふきのとう1つでも立派な季節行事になります。山菜が運んでくる春は、お皿の上だけには収まらないようです。

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まとめ…ひと皿の山菜から春の楽しみは広がっていく

ふきのとうの香り、わらびの食感、ぜんまいを煮る台所の湯気。山菜は決して派手な食材ではありませんが、食卓に少しあるだけで季節の景色を連れてきてくれます。苦味まで含めて「春らしい」と感じられるのですから、人の味覚とはなかなか面白いものです。子どもの頃には避けていた一皿を、大人になってありがたそうに食べている自分に気づけば、それも春の恒例行事なのかもしれません。

日本だけでなく、世界の様々な土地でも、春に芽吹く野草や若い葉を食べる文化があります。料理法や食材の名前は違っても、暖かな季節を迎えた喜びを食卓で味わう気持ちはよく似ています。春夏秋冬を料理で感じる暮らしには、カレンダーを見るだけでは得られない豊かさがあります。

高齢者の食卓では、山菜の歯触りや苦味をそのまま押し通すのではなく、やわらかく煮たり、細かくしたり、その方に合った形へ整えることも大切です。そして料理を味わいながら昔の山菜採りや家の味を語れば、食事は思い出を囲む時間にもなります。旬を楽しむとは、珍しい物を食べることではなく、目の前の季節を自分なりの方法で受け取ることなのだと思います。

春の味覚を全部制覇しなくても構いません。ふきのとうをひと口食べる、店先のわらびを眺める、誰かに昔の山菜料理を聞いてみる。それくらいでも季節との距離はグッと近づきます。心機一転というほど気合いを入れなくても、小さな緑を食卓へ迎えるだけで暮らしの空気は少し変わります。

今年の春、山菜を見かけたら「苦そう」で通り過ぎる前に、ちょっとだけ足を止めてみてください。その小さな芽の向こうには、山の景色や世界の食文化、家族の記憶まで続いています。そして食べ終えた頃には、「春って、なかなか美味しいな」と思えていたら十分です。

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