介護職が本気でやらかして顔面蒼白~それでもあの日の失敗が今の優しさを作っている~

[ 介護現場の流儀 ]

はじめに…失敗は消えないけど現場の手触りになる

介護職のやらかしは、出来れば思い出したくありません。出来ることなら記憶の引き出しの奥にしまって、鍵までかけて、「この件につきましては本人も深~く反省しておりますので…」と心の中だけで記者会見を閉じたいところです。けれど、不思議なもので、今の自分の手つきや声掛けの土台になっているのは、教科書を読んだ日より、むしろ顔面蒼白になった日の方だったりします。

介護の現場には、試行錯誤では済ませたくない場面がたくさんあります。食事、入浴、排泄ケア(トイレやおむつ交換の支援)、移乗(ベッドや車いすへの移動介助)。どれも暮らしに欠かせないだけに、少しの油断や思い込みが、相手の痛みや不快さにそのまま繋がってしまいます。やってしまった側は謝るしかなく、空気はシン…、心の中では「いや、そこは止まって欲しかった私の手」と自分ツッコミまで始まるものです。

それでも、失敗には振り返ってみると妙な力があります。恥ずかしかったこと、申し訳なかったこと、背中が冷えたことは、後になって手順を変え、見方を変え、人への優しさを少し深くしてくれます。ひや汗が貯金になる不思議な世界です。出来れば貯めたくないのに、気づくと現場の基礎になっている、なんとも複雑な積み立て貯金なのです。

この記事では、介護職が本気でやらかしてしまった「あるある」を、笑い話だけにも、反省文だけにもせず、あの日の失敗がどう今の気づきに繋がっているのか、そんな目線で辿っていきます。読んでくださる方が、「分かる…」と肩をすくめつつ、「自分だけじゃなかった」と少し息をつけるような、そんな入口になれば嬉しいです。

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第1章…顔面蒼白の介護あるある~新人もベテランも通る道~

介護のやらかしは、新人だけの専売特許ではありません。むしろ、慣れて流れが見えるようになった頃ほど、「ここは分かっている」と手が先に動いてしまい、後から冷汗三斗になることがあります。現場は毎日続く暮らしの場です。食事介助(食べる動きを支えるケア)も、排泄ケア(トイレやおむつ交換の支援)も、移乗(ベッドや車いすへの移動介助)も、時計の針だけは遠慮なく進みます。その中で人は、ときどき見事にやらかします。ええ、出来れば見事ではあって欲しくないのですが。

記憶に残りやすいのは、やはり「思い込みで進んだ失敗」です。おやつの後、服についたものを見て「チョコかな」と受け止めた次の瞬間、顔の近くで現実を知る。あの一秒で、頭の中ののんびりした午後は消えます。排泄物は見慣れてくるもの、という顔をしていた自分に対して、「いや、慣れるのと油断するのは別件です」と言いたくなる場面です。介護の現場は、見た目だけで判断すると、たまに容赦がありません。

もう1つ、背筋が伸びるのは、手順を少し省いてしまった時です。入浴前後の着脱介助では、周囲を見ながら次々に動くことがあります。そんな中、靴下をいつもの勢いで引いたら、肥厚した爪がポロリと外れ、出血して場が凍る。謝罪、止血、沈黙。空気まで正座したような重さになります。あれは「気をつけましょう」で済む話ではなくて、指先の使い方1つで相手の痛みが変わると、身に沁みる場面です。靴下は布ですが、雑に扱うと小さな刃物みたいになることがある。そう知った日の手は、翌日から少しだけ慎重で優しくなります。

食事の場面にも、派手ではないけれど胸に残るやらかしがあります。うどんや蕎麦は、本来なら湯気と一緒に「美味しい」がやってくる食べ物です。ところが介護の順番や介助の都合で待ち時間が重なると、麺はしずかに、しかし確実に元気を失っていきます。伸びて、モッタリして、こちらの心までションボリする。口に運びながら「本来の輝きはこんなものでは…」と胸の中で謝るあの感じは、地味なのに忘れ難いものです。食事は栄養だけ入れば良い、では片付かない。そんな試行錯誤の入口は、こういう小さな申し訳なさの中にもあります。

移乗の介助でも、やらかしは起こります。勢いをつけるために声が大きくなり過ぎたり、ペア介助で呼吸が合わなかったり、肘掛けや体の位置が少しずれてヒヤッとしたり。やっている側は真剣でも、受ける側からしたら「今から荷物みたいに運ばれるのかな」「私、重いんだ…。迷惑なんだ…。」と感じていてもおかしくありません。こちらは「安全第一」のつもりでも、相手は声の大きさ1つで不安になります。介助は力だけでなく、空気も運んでいるのだと、後から分かることがあります。

こうして振り返ると、介護のやらかしは、単なるドジではありません。急いだこと、慣れたこと、気を利かせたこと、そのどれもが少しずつずれて重なった結果です。新人もベテランも通る道とは、こういう意味なのだと思います。失敗した日はへこみます。帰り道の足取りも、雨が降っていないのに妙にモタモタします。それでも、その日の青ざめた記憶が、次に誰かへ触れる手をほんの少し丁寧にしてくれる。第1章の結論は、そこに尽きます。介護の基礎は、綺麗な成功談だけでは育たないのです。


第2章…やらかしの正体は不注意だけでは片付かない

介護の失敗を振り返る時、「ほんの少し、気をつけていれば良かった」と反省だけで終わらせたくなることがあります。自分で自分に判決を出すなら、その方が早いからです。けれど現場のやらかしは、大抵、一人の性格だけでは出来上がりません。急いでいた、流れが出来ていた、遠慮があった、言い出し難かった、みんな分かっているつもりだった。そういう小さな条件が重なって、最後に誰かの手元で形になることが多いのです。決して私だけが悪いという形ではないのです。

入浴介助の場面を思い出すと、そのことがよく分かります。着脱介助(服の着替えを支える介助)は、周りを見ながら手も動かし、声も掛け、転倒にも気を配る時間です。誰かが急かしたわけではなくても、空気そのものが「次へ、次へ」と背中を押してきます。そこへ肥厚爪のある足が入る。ほんの少し手順を省くと、靴下はただの布ではなくなります。あの場面は不注意というより、悪戦苦闘の現場で起きた「急ぎ過ぎの完成形」と言った方が近いのかもしれません。

移乗でも似たことが起こります。2人介助になると、「そこは分かってくれているはず」が増えます。声掛け、タイミング、車椅子の位置、身体の高さ。どれも大切なのに、空気は時々、存在しない以心伝心を求めてきます。いやいや、こちらは長年連れ添った漫才コンビではありません、と心の中で言いたくなるのですが、現場ではその一言が飲み込まれがちです。すると、言い難さがズレを育て、ズレがヒヤリ・ハット(事故の手前で気づく場面)を呼びます。失敗は手から起こるようでいて、実は空気から始まっていることも少なくありません。

食事の場面も同じです。伸びた麺が出てしまうのは、誰かが手を抜いたからではなく、順番と人手と介助の重なりが生む結果です。本当は熱いうちに出したい。美味しいままで食べて欲しい。その気持ちはちゃんとある?のに、現場は時々、理想より先に時計を見せてきます。介護は気持ちだけでは回らず、手順だけでも足りない。その間でみんなが踏ん張っているからこそ、申し訳なさが残るのだと思います。そうですよね?見て見ぬフリじゃないですよね?

ここで大事なのは、失敗の犯人探しより、失敗の育ち方を見ることです。アセスメント(状態を見立てること)と課題分析という言葉がありますが、利用者さんの状態だけでなく、現場の空気も見立てないと、同じことはまた起こります。「急がば回れ」ということわざは、介護の現場では妙に現実的です。ほんの数秒の確認、ひと言の相談、手順を揃える工夫。その小さな回り道が、後で大きな謝罪を減らしてくれます。

やらかしの正体は、手元のミスだけではありません。急ぎと慣れと沈黙が、静かに手を組んだ時、人は思ったより簡単に躓きます。反対に言えば、失敗を減らす方法も気合い一本ではなく、空気を変え、言葉を足し、流れを整えるところにあります。この章で置いておきたい視点はそこです。ミスをした人を責めるだけでは、現場はよくならない。失敗が育つ土を見つめた方が、次の一手はずっと優しくなります。

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第3章…謝った数だけ見えてくる~介護の基本と気遣い~

失敗の後に残るものは、反省だけではありません。本当に残るのは、手の置き方、目の配り方、声のトーンです。謝って終わりにした日は胸が重いままですが、謝ってから手順を変えた日は、少しだけ次に繋がります。介護の基礎は、立派な標語より、こういう小さな修正の積み重ねで育つのかもしれません。

靴下の着脱で痛い思いをさせてしまった人は、その日から布の扱いが変わります。ただ脱がすのではなく、広げる、緩める、引っ張らない。文字にすると短いのに、身に付くまでにはちゃんと理由があります。利用者さんの足は、服の延長ではなく、その人の生活そのものです。そこを雑に扱ったら、こちらの手際がよくても全く意味がありません。介護は臨機応変が大事、とよく言われますが、本当に必要なのは「その場で上手くやること」だけではなく、「その人の体に合わせてやり方を変えられること」なのだと思います。

排泄ケアでも同じです。見た目で判断しない、臭いを甘く見ない、汚れを軽く扱わない。こうして文字に書いてしまえば当たり前なのに、現場ではその当たり前が、時々、足元から滑ります。排泄ケアは、ただ交換する作業ではありません。皮膚の状態、苦痛の出方、恥ずかしさ、体位のつらさ、後で過ごす時間まで含めたケアです。ここで育つのは、技術だけではなく一挙一動への想像力です。見え難い苦痛を先に思える人は、介助の手も言葉も少し柔らかくなります。

食事の場面から学ぶこともあります。伸びた麺の申し訳なさは、単なる「提供が遅れた話」ではありません。あれは、食べることが栄養補給だけではないと、胸の中に静かに刻まれる出来事です。湯気のあるうちに食べたい、温かいうちに味わいたい、その気持ちは誰もが普通に人生で感じる出来事です。介護の現場では、つい安全や順番に目が向きますが、美味しさや楽しみもまた食生活の一部です。アセスメント(状態を見ながら必要を考えること)と課題分析という言葉は、食事の温度や待ち時間にも向けて良いのだと、こういう場面が教えてくれます。

移乗の介助では、もっとはっきり分かります。力を入れることと、安心させることは同じではありません。大きな声で勢いをつければ動かしやすい時もありますが、受ける側が置いていかれたら、それは介助ではなく置き去りです。声掛け、目線、体の高さ、ペアとの呼吸。どれも基本中の基本なのに、忙しい日はこの「基本」が後ろへ下がります。すると現場はすぐに「あ、そこを省くのね」と試してくる。いや、試さなくて良いのですけれど、介護の現場にはそういうところが少しあります。

ここで大切なのは、失敗を自分の中だけで完結させないことです。インシデントレポート(事故の手前や失敗を記録するもの)は、叱られる紙ではなく、次の人のための置き手紙です。本来はそういう役目のはずです。けれど現実には、書いて終わり、謝って終わり、心の中だけで「もう二度とやらない」と誓って終わり、ということもあります。記録の数は数えても詳細を読み返す時間を持つことはとても少ない。すると学びは個人の胸にしまわれ、現場の共有財産にはなり難い。そこが少し惜しいところです。

介護の基本は、難しい理屈だけでは出来ていません。痛い思いをさせない、恥ずかしさを増やさない、待たせ過ぎない、怖がらせない。こう並べると、とても素朴です。けれど、その素朴なことを丁寧に守るには、失敗から逃げずに見直す力が必要になります。謝った数だけ見えてくるものがある、というのは、そういう意味です。上手く出来なかった日の記憶は苦いですが、その苦さがあるから、次の介助に少しだけ思いやりと気づきが増えます。介護の基礎は、手技だけでなく、申し訳なさを置き去りにしなかった人の中でだけ、ちゃんと育っていくのだと思います。


第4章…失敗した人ほど人に優しくなれる理由

不思議なものですが、現場で本気でやらかした人ほど、後で人に優しくなれることがあります。もちろん、失敗そのものはない方が良いに決まっています。出来るなら、みんな白衣のCMのように落ち着いて、髪も乱れず、記録も綺麗で、声掛けも完璧でいたいものです。けれど実際の介護は、そういう絵に描いたような一日より、七転八起の連続です。そこで一度でも「申し訳ない」を深く知った人は、次から人の焦りや戸惑いにも気づきやすくなります。

靴下の失敗をした人は、次に同じ場面を見た時、ほんの少し早く手が止まります。移乗でヒヤッとした人は、ペアの立ち位置や声の大きさに敏感になります。伸びた麺を出して胸が痛んだ人は、食事の順番や待ち時間に前より心を配るようになります。自分が失敗したから偉い、という話ではありません。むしろ逆で、自分にも抜けがあると知ったから、人の抜けにも少し親切になれるのです。ここが、失敗がただの黒歴史で終わらないところだと思います。

もう1つ大きいのは、失敗した人ほど「黙っている怖さ」を知ることです。現場には、言おうかどうしようか迷う瞬間があります。車椅子の位置、介助の手順、声掛けの調子、流れ作業になりそうな空気。あれ、少し気になる。でも今ここで言うのもなぁ…、と言葉を飲み込む。ペアの相手が上司だと猶更かも…。あるあるです。ところが、自分が過去に痛い思いをした人は、その一言を軽く見なくなります。リスクマネジメント(事故を防ぐ考え方)というと大きな仕組みに聞こえますが、現場では相手が上司であれ、正しいことは「そのやり方、ちょっと止めませんか」と言える空気も立派な中身になります。

優しさというと、どうしてもふんわりした言葉に見えます。けれど介護の現場で役に立つ優しさは、もう少し具体的です。急いでいる同僚に「ここは私が見るね」と割って入ること。記録が遅れている人に「ここは先に介助に行ってきて大丈夫」と声を掛けること。新人さんが右往左往していたら、「最初はみんなそうだよ」と笑い飛ばし過ぎず、でも重くもし過ぎず、次の一手を渡すこと。これは甘やかしではなく、現場を保つ知恵です。一日一善というほど立派でなくても、ひと声で空気が和らぐ日があります。

私はここに、介護の少し面白い真実があると思っています。失敗しない人が現場を支えるのではなく、失敗を放りっ放しにしなかった人だけが現場を育てられる、ということです。気づいてもスルー、そもそも気づかない人は、仕事をしていないか、成長の芽を掴めていないかです。逆に青ざめた記憶を持つ人は、利用者さんの痛みだけでなく、同僚の緊張にも気付きます。謝る側の苦しさを知っているので、責めるより先に整えようとする。ここに一長一短のような人の面白さがあります。完璧ではないからこそ見えるものがある、ということです。

もちろん、失敗した後に落ち込み過ぎる日もあります。帰宅してから急に場面が甦って、「あそこで手を止めていれば」と天井に向かって反省会が始まることもあります。しかも相手は天井なので、無口です。けれど、その反省会がただの自分いじめで終わらず、明日の手順や声掛けに変わったなら、それはもう立派な前進です。介護の成長は、拍手喝采のある場面より、こういう静かな修正の中で進むことが多いのかもしれません。

失敗した人ほど、人に優しくなれる理由は、綺麗ごとではありません。痛みを見た、申し訳なさを知った、言えなかった悔しさを覚えている。その記憶があるから、次に誰かが躓きそうな時、手も言葉も少し早く届きます。介護の現場で育つ優しさは、ふわふわした気分ではなく、失敗の跡から生まれる実用品なのです。そう思うと、あの日の顔面蒼白も、今の自分の中で少しだけ意味を持ち始めます。

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まとめ…あの日の冷や汗は明日の安心に繋がっている

介護職のやらかしは、出来れば少ない方が良いに決まっています。顔面蒼白になった記憶も、謝ってばかりいた場面も、出来ることならアルバムの表紙にはしたくありません。けれど現場の成長は、いつも拍手の中で育つわけではなく、紆余曲折の中で少しずつ形になっていきます。あの日の失敗が、今日の手の優しさに繋がっているなら、その記憶はただの黒歴史で終わりません。

介護の仕事は、食事、排泄、入浴、移乗と、暮らしの真ん中を支える仕事です。そこでは、ほんの少しの油断が相手の痛みになり、ほんの少しの気遣いが相手の安心になります。だからこそ失敗は苦いのですが、その苦さを飲み込んで終わりにせず、「次はこうする」に変えられた人は、確実に前へ進んでいます。立派なことを言えなくても、昨日より丁寧に触れられたなら、それはもう十分に価値のある前進です。

そしてもう1つ、今回の話で置いておきたいのは、失敗は個人の恥だけで終わらせなくて良い、ということです。自分が青ざめた経験は、次の誰かのヒヤリを減らす材料になります。言い難かったことを言葉にする。気づいたことを共有する。忙しい流れの中でも、少しだけ立ち止まる。そういう積み重ねが、現場の空気を静かに変えていきます。介護は、一人で完璧に背負う競技ではありません。

もちろん、反省会は急に始まります。帰宅してお茶を飲んだ瞬間に、「いや、あそこは手を止める場面だったよな…」と脳内会議が開かれることもあります。しかも司会も参加者も自分だけなので、なかなか閉会しません。それでも、その会議が自分を責めるだけで終わらず、明日の介助を少し整える時間になったなら、もう、それだけで十分なのです。将来に反映されていきます。人は一喜一憂しながら育つものですし、介護職もきっと同じです。

失敗したことがある人は、ダメな人ではありません。失敗を見つめ直した人は、これからの介護現場に必要で少し優しくなれた人です。利用者さんにも、同僚にも、そしていつかの不器用だった自分にも。この記事が、「ああ、自分だけではなかった」と肩の力をゆるめる時間になり、明日の現場でほんの少し手を丁寧にする切っ掛けになれたなら、とても嬉しく思います。

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今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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