ポンコツ復権~不完全な私たちが目指す未来にはきっと価値がある~
目次
はじめに…人はみんなどこか少しずつポンコツで出来ている
朝から眼鏡を探して、額にのせたまま家中をウロウロする。冷蔵庫を開けたのに何を取りに来たのか忘れて、しばらく無言で立ち尽くす。送ろうとした言葉を打ち直しているうちに、気持ちだけ先に疲れる。そんな日があると、「いやもう私、なかなかのポンコツぶりでは?」と自分に小さくツッコミたくなります。
けれど、胸を張って言いたいのです。ポンコツとは、誰か特定の人を見下すための札ではありません。人はみんな、得意と不得意を抱えた十人十色の不完全体です。段取り上手でも忘れ物はするし、優しい人でも言葉選びを外すし、しっかり者ほど一人で抱え込んで空回りすることもあります。ポンコツとは、じつは全員に少しずつ天から配られている“人間らしさ”の別名なのかもしれません。
そう考えると、「ちゃんとしていない自分」を責め続ける景色が、少しだけ変わって見えてきます。上手くいかないことがあるから、人は工夫する。手が足りない日があるから、誰かの優しさが届く。失敗があるから、次の一歩に知恵が宿る。試行錯誤の毎日は、みっともないようでいて、案外ちゃんと前に進んでいます。ピカピカの完成品ではなく、少し傷があって、少し笑えて、でもちゃんと動く。そんな生き方にこそ、愛嬌も味わいもありそうでしょう?
介護の世界は、そのことを毎日のように教えてくれます。完璧無欠の人だけで回る場所ではありません。利用者さんも、家族も、職員も、それぞれに得手不得手があり、気分にも波があり、昨日できたことが今日は難しい日もある。だからこそ、必要なのは「誰がポンコツか?」を決める目ではなく、「不完全なままでも、どうすれば一緒に進めるか?」を考える目だと思うのです。そこに愛情が入り、愛嬌が混ざり、最後に行動がついてくると、場の空気は驚くほど柔らかくなります。
ポンコツを恥として押し込めるより、少し笑って、少し受け入れて、少し工夫する。その積み重ねの先に、今より生きやすい未来が見えてきます。人は完成しているから尊いのではなく、未完成のまま誰かと支え合えるから尊いのかもしれません。右往左往しながらでも歩いていけるなら、その毎日はもう十分に価値があります。
[広告]第1章…6月3日の「ポンコツの日」が教えてくれること
6月3日には「ポンコツの日」という、耳にした瞬間に少し笑ってしまう記念日があります。名前だけ見ると、随分と思い切った日です。朝から寝癖が爆発していた人も、送信前の誤字に後から気づいて天を仰いだ人も、「今日は私の日かもしれない」と小さく手を挙げたくなるかもしれません。
この記念日の面白さは、失敗や不器用さを、ただの欠点として扱っていないところにあります。人は普通、出来ることを並べて褒められたがります。素早い、正確、気が利く、頼れる。そういう言葉は確かに嬉しいものです。けれど、愛される人の記憶には、少し抜けている場面も不思議と残ります。完璧な段取りより、うっかりの後に見せた照れ笑いの方が、長く心に残ることさえあります。そこには悲喜交々の毎日を、人間らしく照らす力があるのでしょう。
「ポンコツの日」が光って見えるのは、言葉の向きをひっくり返しているからです。普通なら、誰かを下に置くために使われやすい言葉を、笑いと親しみの方へ連れ戻している。そこが大事です。人を刺す道具になりやすい言葉でも、受け止め方と置き方次第で、場を柔らかくする合図になる。これはなかなか奥深い話です。名前は緩いのに、中身は案外と真面目。まるで、ふざけた顔をした哲学者みたいな記念日です。
考えてみれば、人が人に救われる瞬間は、無敵の人に出会った時ばかりではありません。むしろ、失敗したことがある人、上手くやれなかった夜を知っている人、右往左往しながらも朝になればまた動き出す人の方が、他人に優しくなれることがあります。「転んでもただでは起きぬ」という言葉は、ポンコツの逆転劇にけっこう似合います。転んだことがあるから、床の冷たさも、起き上がる大変さも、誰かの差し出す手のありがたさも分かるのです。
6月3日がただの珍しい記念日で終わらないのは、不完全さを笑い飛ばして終わりにしないからでもあります。失敗した。焦った。間違えた。ああもう穴があったら入りたい。そんな日でも、翌日にはまた予定表を開き、お茶を飲み、誰かに声をかけ、暮らしを回していく。その試行錯誤の繰り返しこそが、生きることの現場感なのだと思います。綺麗に仕上がったと己惚れる人より、少しガタつきながらも前へ進む人の方が、見ていて妙に応援したくなるものです。
記念日には、その社会の本音が滲みます。何を祝いたいのか?何を忘れたくないのか?何に救われたいのか?「ポンコツの日」が生まれた背景には、失敗しても人は終わらない、むしろそこから場が温かくなることもある、という感覚が流れている気がします。ちゃんとしなければと肩に力が入りやすい時代だからこそ、こんな記念日が1つあるだけで、息が少し楽になるのかもしれません。
第2章…「ポンコツ」という言葉は何故こんなにも刺さるのか?
「ポンコツ」という言葉には、妙な力があります。軽そうに聞こえるのに、言われた側の胸にはけっこう残る。笑って流せる日もあれば、帰り道でジワっと効いてくる日もある。たった四文字なのに、なかなか油断できません。まるで小石くらいの大きさなのに、靴の中に入ると急に存在感を増すあれです。歩けなくはないけれど、地味に気になる。言葉も似たところがあります。
古い使い方では、壊れかけた車や機械、使い込まれて傷んだ物を指す俗語(くだけた言い方)として広がりました。そこから人にも向けられるようになり、「上手く回らない」「どこか抜けている」「頼りないところがある」といった意味合いを帯びていきます。物に向かって使う時は説明で済みますが、人に向かうと急に空気が変わる。そこがこの言葉のややこしさです。人に貼られた瞬間、「状態の話」だったはずの言葉が「価値の話」にすり替わりやすいのです。
しかも、「ポンコツ」には不思議な二面性があります。自分で「私ほんまポンコツやわ」と言うと、少し笑いを含んだ自虐になります。ところが、他人に「ポンコツだな」と投げると、親しみより侮りが前に出ることがある。同じ言葉でも、口にする人、受け取る人、その場の空気で温度が変わるのです。言葉とは便利な道具であると同時に、取っ手の向き1つで切れ味が変わる包丁みたいなものかもしれません。雑に扱うと、使った側まで痛い目を見ることがあります。
それでもこの言葉が消えないのは、私たちが「不完全さ」を上手く言い表す言葉を、どこかで求めているからでしょう。人は誰でも、綺麗に整った部分だけでは生きていません。約束は覚えていたのに財布を忘れる。やる気は満々なのに、会議の資料だけ逆さまに印刷する。気持ちは立派でも、行動が少し遅れる。**右往左往しながら今日を回している姿に、人は自分の影を見つけるのです。**それで「ポンコツ」という言葉が刺さる。図星だから痛いし、図星だから笑ってしまう。何とも人間くさい話です。
ただ、この言葉が広く使われるほど、気をつけたいことも増えます。不器用さを示すだけで済まず、その人の人格まで低く見積もる空気が混ざることがあるからです。そんな時、言葉は冗談の服を着た失礼になります。親しい間柄なら笑って済む場面もありますが、毎回それで済むわけではありません。元々の組織の上下関係や、関係が出来ていない相手や、既に自信を失っている人に向ければ、軽口どころか重石になります。言葉の選び方には、一刀両断の気持ち良さより、以心伝心を育てる慎重さの方が似合う日もあるのです。
では、「ポンコツ」という言葉は悪者なのかというと、そうとも言い切れません。大事なのは、この言葉を誰かを見下す札にするのか、それとも人間の不完全さを笑いと理解に変える入口にするのかです。前者ならただの乱暴なラベル、後者なら少し優しい鏡になります。自分にも他人にも万能ではないと認めると、会話は不思議と柔らかくなります。「出来て当然」から少し離れるだけで、人を責める勢いが弱まり、助ける動きが生まれやすくなるからです。
「ポンコツ」という言葉が刺さる理由は、欠点を突くからだけではありません。人が本当はみんな、不完全な自分をどこかで知っているからです。そして知っているのに、つい忘れたフリをしてしまう。そこへこの言葉がやって来ると、胸の奥の小さな現実に当たってしまう。だから痛い。けれど、その痛みをキッカケに「自分だけじゃない」と思えた時、言葉の色は少し変わります。傷になるだけの言葉だったものが、笑いながら立ち上がるための合図になることもあるのです。
[広告]第3章…世の中はじつはポンコツ同士の助け合いで回っている
駅の改札で鞄をゴソゴソ探している人を見ると、つい自分の昨日を思い出します。財布はある、鍵もある、飴ちゃんまで出てきたのに、肝心のカードが見つからない。ようやく見つかったと思ったら、今度は反対の手に持っていた。ああ、人はどうしてこうも見事に遠回り出来るのか。けれど、その場には大抵、少し待ってくれる人がいて、急かさず見守る駅員さんがいて、再挑戦できる改札機があります。世の中は、案外そういう細い優しさで出来ています。
職場でも同じです。添付を忘れて「送ります」と書いたメールを送ってしまう人。会議の予定をしっかり覚えていたのに、開始時刻だけ10分ズレていた人。申し送りのメモを取ったのに、自分の字が後で読めない人。笑ってはいけないのに、ちょっと笑ってしまう。けれど本当に大事なのは、失敗そのものより、その後に何が起きるかです。「大丈夫、今送ってください」で済む空気なのか、「何でこんなことも」と空気が凍るのかで、その場の疲れ方は随分と違います。世の中は、出来る人だけで回っているのではなく、上手くいかない瞬間を誰かが受け止めることで回っているのです。そもそも完璧に一人で出来る人なんて存在しないとも言えます。
この章で一番伝えたいのは、新しい見方です。社会は完璧な人の集まりだから成り立っているのではありません。むしろ逆で、人が間違える、忘れる、焦る、勘違いする生き物だと知っているから、あちこちに工夫が置かれています。確認画面、注意書き、手すり、申し送り、チェック表、信号、リマインダー。あれは「出来ない人のための補助」ではなく、人間全体のための知恵です。試行錯誤の跡が、そのまま社会の優しさになっていると考えると、景色が少し変わって見えてきます。
家庭の中も、実によく出来た相互扶助です。朝の台所では、母が味噌汁を温めながら、子どもの水筒を忘れないよう声をかける。父は父で、立派に新聞を読みながらゴミの日を忘れる。祖父母は「若い人は忙しいからね」と言いながら、自分も眼鏡を冷蔵庫の近くで探していたりする。みんなそれぞれ、ちゃんとしている部分と抜けている部分が混ざっている。そこに少し笑いがあり、「まあいいか、次こそ気をつけよう」があり、誰かの手がスッと伸びる。その繰り返しで家は回ります。完璧な家族より、助ける順番が自然に回る家族の方が、案外しぶとくて穏やかです。
介護や医療の世界に近づくほど、この現実はもっとハッキリ見えてきます。人は体調でも気分でも能力でも、同じままではいられません。昨日は出来たことが今日は難しい。さっき理解できたことが、今は頭に入らない。そこへ「出来て当然」を持ち込むと、現場はすぐに苦しくなります。逆に、「人は揺れるものだ」と受け止めると、声掛けも、待ち方も、段取りも変わります。上手く回っている場ほど、誰かの弱さを責める前に、先回りの工夫が入っています。それは甘やかしではなく、現実に即した知恵です。
ポンコツという言葉を広げて考えると、恥ではなく設計図のようなものが見えてきます。人がうっかりするから、メモが生まれる。疲れるから、休憩が要る。一人では見落とすから、声を掛け合う。社会の仕組みも、人間関係のコツも、結局は「みんな少しずつ不完全」という土台の上に建っています。そう思うと、自分の抜けたところを見つけた時も、「終わった…」と肩を落とすより、「はいはい、今日も人間」と苦笑い出来るようになります。少し情けなくて、でも少し救われる。この感覚こそ、案外みんなに必要なのかもしれません。
第4章…不完全だらけの介護で育てたい愛嬌と愛情と行動
介護の現場には、綺麗ごとだけでは済まない毎日があります。時間は待ってくれないし、体調は急に変わるし、人の気持ちは機械のように一定ではありません。利用者さんも、家族も、職員も、それぞれに波があり、思い違いもあり、疲れもあります。朝は元気でも昼にはしんどい。昨日は笑っていたのに今日は不安そう。そういう千差万別の揺れの中で、人の暮らしを支えるのが介護です。
だから、介護の現場で本当に大事なのは、「誰がポンコツか」を決めることではありません。そんなことを始めたら、全員どこかで手が挙がってしまいます。記録は得意でも声掛けがぎこちない人もいる。気づきは鋭いのに段取りで迷う人もいる。利用者さんへの眼差しは柔らかいのに、自分の体調管理が後回しになる人もいる。自分で書いていて少し胸が痛いですが、だいたい私と現場のあるあるです。人はみんな、得意なところで支え、不得意なところで支えられています。
ただし、ここで大切な線引きがあります。愛嬌があることと、安全を甘く見ることは別です。うっかりの笑い話で済むこともあれば、仕組みで防がなければいけないこともあります。誤薬、転倒、誤嚥、見守り不足。こうした場面を「まあこの人らしいよね」で流してしまうと、優しさではなく放置になります。介護で育てたいのは、失敗をなかったことにする空気ではありません。失敗が起きた時に、責める前に見直す、黙る前に共有する、気づいた人から手を打つ、そんな臨機応変の力です。
ここで効いてくるのが、愛嬌と愛情と行動の3つです。愛嬌は、場を固めすぎない力です。失敗の後に変な意地を張らず、「済みません、やらかしました」と言える人には、空気を救う力があります。愛情は、その人を雑に切り捨てない力です。利用者さんにも同僚にも、「この人は今、何に困っているのか?」と目を向ける気持ちがあると、言葉の角が少し取れます。そして行動は、その2つを現実に変える力です。声を掛ける、記録に残す、配置を見直す、やり方を変える。介護の優しさは、気持ちだけで終わらず行動になって初めて届きます。
新しい視点を1つ置くなら、介護の価値は「失敗しないこと」だけではなく、「失敗や揺れの後に立て直せること」にもあります。無欠の現場はありません。けれど、立て直しの早い現場、助けを呼びやすい現場、言い難いことを言える現場は、確実に育てることが出来ます。そこでは、ポンコツという言葉は人を下げる札ではなく、「人は不完全だから、仕組みと関係で守ろう」という合図に変わります。この変換が出来ると、現場は少ししなやかになります。
利用者さんに対しても同じです。出来ないことばかり数え始めると、介護は急に息苦しくなります。けれど、その人の残っている力、好きなこと、落ち着く順番、安心する声の調子を見つけると、景色は変わります。昨日より一口多く飲めた。今日は自分から手を伸ばした。表情が少し緩んだ。その小さな変化を拾える現場は、数字になり難いけれど確かな価値を持っています。派手ではなくても、そういう一歩が人の暮らしを支えています。
職員同士も同様です。「しっかりして」と言われ続けるより、「次どうしたら楽になるか一緒に考えよう」と言われる方が、人は育ちます。怒られた記憶だけが残る職場では、報告は遅れ、相談は減り、表面だけ取り繕う癖がつきます。逆に、未熟さを認めた上で工夫に変えていける職場では、学びが回り始めます。不完全であることは恥ではなく、成長の入口なのです。介護は人が人を支える仕事だからこそ、この入口を閉じない方が良いのだと思います。
ポンコツ復権という言葉は、ただ「出来なくてもいいよ」と甘く言うための旗ではありません。不完全なままでも人には価値がある、そして不完全だからこそ支え合いの技術が育つ、という宣言です。介護の現場で目指したいのは、失敗ゼロの張りつめた空気より、失敗を減らしながらも人が縮こまらない空気です。愛嬌でほどけ、愛情で見つめ、行動で守る。そこまで揃った時、介護の現場はただ忙しい場所ではなく、人が人らしくいられる場所へ少しずつ近づいていきます。
[広告]まとめ…誰もがポンコツだからこそ目指す未来は優しく光る
人は、完成してから生き始めるわけではありません。少し抜けていて、少し迷って、少し恥をかきながら、それでも朝になればまた暮らしを回していきます。忘れる日も、焦る日も、言い間違える日もある。けれど、そのたびに声をかけ合い、笑い合い、支え合いながら進んでいけるのなら、その毎日はもう十分に豊かです。
「ポンコツ」という言葉は、使い方を誤ると人を小さくしてしまいます。けれど見方を変えれば、それは誰かを切り捨てる札ではなく、人間の不完全さを思い出す合図にもなります。誰かだけが足りないのではなく、みんなそれぞれに凸凹がある。そこを認めた時、責める空気より、助ける動きが生まれやすくなります。ポンコツだから価値がないのではなく、ポンコツのまま未来を目指せるから人は尊いのです。
介護の現場では、そのことが特によく見えます。利用者さんにも、家族にも、職員にも、完璧ではない日があります。そんな一進一退の毎日を、愛嬌でほぐし、愛情で見つめ、行動で支えていく。その積み重ねが、安心できる空気を育てます。立派な言葉より、今日の一声。大きな理想より、今この場の一工夫。人を支える力は、案外そういう小さなところで育っていくのでしょう。
ポンコツ復権とは、失敗を開き直ることではありません。不完全な自分や他人を、見下しではなく理解の側へ連れ戻すことです。上手く出来ない日があっても、そこから学び直せる。迷う日があっても、誰かと一緒に立て直せる。そう信じられる場には、静かな希望があります。日進月歩でなくても構いません。半歩でも、にじり足でも、昨日より少し柔らかい眼差しを持てたなら、それは立派な前進です。
明日また、自分のどこかにポンコツな出来事を見つけるかもしれません。その時は、溜め息を1つついた後で、少しだけ笑ってみてください。人はみんな未完成。その未完成同士で手を取り合えるから、未来にはちゃんと価値があります。そう思える日が増えたら、暮らしも介護も、今よりもう少しだけ明るくなるはずです。
[ 広告 ]今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m
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