その言葉は誰のために?~こだわり?拘束?新語を巡る暮らしで豊かな日本語~

[ 介護現場の流儀 ]

はじめに…優しく響く言葉ほど少し立ち止まってみたくなった日

結論から言うと、耳障りの良い言葉ほど、ほんの半歩だけ立ち止まってみると安心です。優しく見える言葉、今時に見える名前、少しオシャレなカタカナ語。暮らしの中では便利で軽やかに見えるのに、フタを開けてみると、誰かの都合や商売の気配がそっと忍びこんでいることがあります。言葉は道具としてとても便利、されど油断大敵。口にしやすいからこそ、心の中では一度だけ首を傾げてみたいものです。

今回、採り上げた「こだわり」という言葉も、その1つです。こだわりの1品!みたいに褒め言葉のようにも聞こえますし、困った性格のレッテルのようにも使われます。朝の身支度で、いつもの順番を大切にしたい人に向かって「その人らしいですね」と言う日もあれば、「こだわりが強過ぎですね」と困った顔をされる日もある。同じ行いなのに、空気が変わるだけで、受け取られ方まで模様替えしてしまうのです。言葉ってとても器用ですね、と感心した直後に、いや器用過ぎませんか?と自分でツッコミたくなります。

しかも日本語は、平仮名、片仮名、漢字に記号まで揃った百花繚乱の世界です。美しく使えば、気持ちを細やかに届けられる。けれど、飾り方次第では、中身より先に雰囲気が歩き出すこともあります。通所介護がデイサービスになった途端、急に明るい看板がついたように感じたあの不思議。お店の新メニューかと思ったら、長年馴染みの味に少し盛り付けを足しただけでした、という日もあります。そこまで来ると、こちらも湯呑みを持ったまま「なるほど、見た目は大事」と頷くしかありません。

人を大切にする仕事ほど、言葉の選び方には人の姿が映ります。柔らかく包むための言葉もあれば、輪郭をぼかすための言葉もある。新しい呼び名が悪いわけではなく、古い言い回しが正しいとも限りません。気持ちよく聞こえるひと言の奥で、誰が楽になって、誰が説明される側に回っているのか。そんなところに目を向けると、毎日の会話も、制度の名前も、少しちがう景色で見えてきます。読んだ後に、言葉に振り回される回数がほんの少し減る。そんな小さな収穫が、今日の一ページになれば嬉しいです。

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第1章…こだわりとは誰が決めるのか?

結論は1つです。こだわりは、困った癖として片付けるより、その人らしさの置き場所として見た方が、暮らしも人間関係もずっと穏やかになります。

朝の支度には、その人だけの順番があります。顔を洗ってからお茶を飲みたい人もいれば、先に髪を整えると気持ちが落ち着く人もいます。お気に入りの服はこの並び、湯のみはいつもの棚の右側、化粧水はこの手順。外から見ると細かな習慣でも、本人にとっては一日の呼吸を整える大切な拍子です。十人十色とはよく言ったもので、同じ朝は1つとしてありません。

ところが、その習慣が急に「こだわり」と呼ばれる場面があります。周りがゆったりしている日は、「その人らしくて素敵ですね」と受け取られる。時間が押している日は、「ちょっとこだわりが強いですね」と眉が下がる。していることは同じなのに、空気が変わるだけで名前まで着替えてしまうのです。言葉って器用ですね、と感心しつつ、器用過ぎてこちらが置いていかれそうになります。

ここで見えてくるのは、行動そのものよりも、名付ける側の都合です。本人には安心の手順であり、長年続けてきた生活の型であり、気持ちを落ち着かせる知恵でもある。けれど、集団の流れや予定表に合わない瞬間だけ「こだわり」とレッテルの札がつく。この差は、表裏一体のようでいて、なかなか侮れません。柔らかい言葉に見えても、誰かの立場と視点でひっそり思惑が混ざる、向けられることがあるからです。

介護の場では、この視点がとても大切になります。主体性(自分で決める力)という言葉がありますが、難しく聞こえても中身は案外、簡単なことです。今日はこの服を着たい。食事の前に手を拭きたい。髪を整えてから人に会いたい。その小さな選択の積み重ねが、暮らしの輪郭を作っています。本人らしさというのは、大きな夢や立派な目標だけで出来ているわけではありません。コップの持ち方、靴の置き方、鏡を見る時間、そんな日常茶飯時でこだわりの集まりです。

化粧もそうです。口紅をひくこと、眉を整えること、頬に少し色をのせること。それは見た目の飾りだけではなく、「今日の私はちゃんと私です」と自分に声を掛けるような時間になることがあります。周りがそれを「まだそんなことを…」と見るか、「大切にしてきた時間なのですね」と受け取るかで、空気はまるで変わります。鏡の前の数分は短いのに、尊厳(その人がその人として大切にされること)の話になると、ズシリと重みが出てきます。

もちろん、何でもそのままで良いという話ではありません。安全との折り合いが必要な場面が登場することもあります。ただ、最初の見方が「面倒なこだわり」になると、そこから先の会話は細くなりがちです。「この人は何を守りたいのだろう?」と受け止めると、周囲として打つ手は少し優しくなります。順番を守れたら落ち着くのか、道具が変わると不安なのか、いつもの声掛けがあると安心できるのか。答えは本人の暮らしの中にこそあります。

人はみんな、たくさんの自分だけの流儀を持っています。靴下の縫い目が気になって左右を入れ替える朝だってありますし、私はそこまで細かくないはず、と思いながらペンの向きだけは揃えてしまう日もあります。人のことは「こだわりだねぇ」と見え、自分のことは「いや、これは落ち着く段取りです」と言いたくなる辺り、なんとも人間らしいものです。

他人のこだわりを見い出した時に責めるより、その中にある安心や誇りを見つける。そこから始まる関わりは、少し温かいです。名前を付ける前に、その人の一日をそっと覗いてみる。たったそれだけで、困った癖に見えていたものが、大切な暮らしの形に見えてきます。言葉や行動を急がない優しさは、思っているより頼もしいのです。


第2章…拘束と拘縮~同じ「拘」が見せる別の顔~

同じ漢字が入っていても、受け取る重さがまるで違う。ここが、この章の一番大事なところです。今回採用した『こだわり』は漢字にすると拘りと書きます。活用した熟語もいろいろです。拘束は人が他人に行う制限として響き、拘縮は体に起こる変化として伝わる。見た目はそっくりでも、胸に届く意味、温度は別物です。同字異義という言葉を出したくなる場面ですが、日本語は本当に油断なりません。

介護や医療の現場で「身体拘束(体を動けないようにすること)」という語が出ると、空気はスッと冷めて引き締まります。本人が転倒しそう、点滴を抜いてしまいそう、命に関わる危険がある。そんな緊急時に検討される行為だからです。けれど、その厳しさは「安全のため」で片付くほど軽くありません。体の自由を狭めることは、そのまま気持ちの自由にも触れます。人権尊重という言葉が重く置かれるのは、そのひと言の裏に、本人の不安や怒りや寂しさが折り重なっているからです。

一方で「拘縮(関節が固くなり動き難くなること)」は、本人の体に起きる変化として扱われます。腕が伸びにくい、膝が曲がりにくい、指が強張る。昨日まで届いていた場所に手が届かない。ズボンを履くにも時間がかかる。そんな日常の小さな困り事が少しずつ増えていく。こちらは、誰かが押さえつける行為ではなく、体の中で進む変化です。同じ「拘」の字なのに、1つは外からの制限、もう1つは内からの変化。表裏一体に見えて、向いている方向や見ている方向にズレがあるのです。

この差を知ると、言葉の見え方が変わってきます。拘束は、支える側が使う時ほど慎重さが求められる語です。拘縮は、本人の暮らしや動作を支えるためにも丁寧に理解したい言葉です。前者は手続きや記録や説明責任と結びつきやすく、後者はケアやリハビリや予防と繋がりやすい。同じ漢字が入っているから似た仲間、で終わらせるには惜しいほど、役割が違います。

現場の会話でも、この差が見えていると優しさが増します。「動かないようにしておきましょう」は拘束の気配を帯びやすい。「動きやすくするにはどうしましょう」は拘縮への支えに近づきやすい。ほんの数語なのに、向いている先が変わるのです。言葉って、白衣やエプロンより先に空気を着替えさせるものかもしれません。そこまで周囲に影響して働くくらいなら、朝礼にも出て欲しいくらいの働きです。

さらに大切なのは、拘縮があるからといって、その人らしさまで縮むわけではないということです。腕が上がり難くても、オシャレをしたい気持ちは残ります。指が動かし難くても、湯呑みはいつもの柄が落ち着くことがあります。歩幅が小さくなっても、玄関で靴を揃える所作にその人らしさが宿ることもある。身体機能(体を動かす力)は変わっても、心の輪郭までは簡単に消えません。

ここに、支える側の腕の見せどころがあります。拘縮をただの不便で終わらせず、暮らしの工夫へ繋げる。拘束を安易な近道にせず、最後まで他の道を探る。試行錯誤の積み重ねは地味ですが、その地味さが人を守ることがあります。派手な答えではなくても、タオルの置き方1つ、声掛けの順番1つで、動きやすさも安心感も少し変わります。

同じ「拘」という字を見つめていると、日本語のややこしさに軽くため息も出ます。けれど、そのややこしさを深く知ることは、誰かを雑に見ないための知恵にもなります。拘束には慎重さを、拘縮には理解と支えを。その線引きが見えてくると、漢字の中に埋もれていた人の姿が、スッと前に出てきます。言葉を正しく知ることは、冷たい作業ではなく、温かな関わりの入口になるのです。

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第3章…通所介護がデイサービスになった時

え?こだわりの話からデイサービス?と思った方。ここまではこだわりと言葉と印象の話でしたね。次はデイサービスを例に言葉の深堀をしてみましょう。もちろん、こだわりにも関連してきます。

結論から先に置くと、名前が変わると印象が変わり、印象が変わると中身の見え方まで変わります。言葉は看板であり、入口であり、時には衣装でもあります。着替えが上手な分、見た目が先に歩き出すこともある。そこを見落とさないことが、日々の暮らしではなかなか大事です。

「通所介護(施設へ通って受ける介護サービス)」という言葉には、少し固めの空気があります。漢字で画数も多いですもん。字面は真面目で、制服のボタンを上まできっちり留めたような印象です。その代わり、何をする場所かは一目瞭然で見えやすい。通って、介護を受ける。読みながら内容が浮かぶので、説明力はなかなかのものです。

一方で「デイサービス」と聞くと、グッと軽やかになります。口に出しやすく、家族の会話にも入りやすい。初めて聞く人にも、昼間に利用する場所なのかな、と雰囲気が伝わります。親しみやすさではこちらに軍配が上がるかもしれません。漢字が続くと肩が凝る、という気持ちもよく分かります。書類を開いた瞬間に眠気が来る日だってありますし、そこは人間です。

ただ、名前が柔らかくなると、中身まで柔らかく見えやすくなってしまうのが悩ましいところです。通所介護と書けば制度の輪郭が見えますが、デイサービスになると、少し広くてふんわりした響きになります。気軽で親切、でも輪郭は薄め。ちょうど、野菜たっぷり定食が「グリーンプレートランチ」になったような感じです。急にカフェの風が吹きますが、出てくるのはちゃんとご飯です。いや、ご飯は大事なのですが、看板の印象はやはり侮れません。

名前の変化には一長一短があります。口にしやすいことは、とても大切です。家族が相談しやすくなったり、利用への壁が下がったりすることもあります。職員同士の会話でも、短く通じる呼び方は便利です。忙しい現場では、その便利さが救いになる場面もあるでしょう。息を合わせるには、言いやすさも立派な力です。

けれど、言いやすさがそのまま分かりやすさになるとは限りません。そこに少しだけ注意が必要です。新しい呼び名が広がると、制度の仕組み、役割、対象になる人、費用の考え方など、肝心な部分が後ろへ下がることがあります。耳に心地良い名前ほど、説明を省略しやすいのです。言葉が親切そうな顔をしている分、こちらもつい「何となく分かった気」になってしまう。これがなかなかの曲者なところです。

さらに、カタカナ語には雰囲気を連れてくる力があります。新しそう、オシャレそう、今時っぽい。百花繚乱のように並ぶ横文字の中では、少し真面目な日本語が古く見えてしまうこともあります。けれど、古いか新しいかと、中身が誠実かどうかは別の話です。名前を着替えた後に、説明が増えたのか、減ったのか。利用する人に優しくなったのか、商売のように売る側が語りやすくなっただけなのか。その辺りで見えてくる景色は随分と変わります。

介護の言葉には、本来、人の暮らしを支える温度があります。食べる、歩く、眠る、通う、会う。どれも生活の真ん中にある動きです。そこへカタカナが入ること自体が悪いわけではありません。むしろ、親しみやすさが助けになることも多い。大切なのは、名前の衣替えで何が見えやすくなり、何が見え難くなったかを静かに見ることです。

もし迷ったら、難しい理屈は抜きにして、2つだけ問い掛けてみると役に立ちます。その呼び名は、利用する人にとって分かりやすいだろうか?その呼び名は、説明する側に都合が良過ぎないだろうか?たったそれだけで、言葉の化粧はかなり見えてきます。

通所介護がデイサービスになる時、失ってはいけないのは漢字そのものではありません。失いたくないのは、暮らしを支える言葉の説明力です。柔らかな呼び名に包まれていても、中身がきちんと見えるなら、それは良い着替えです。見た目だけが先に歩き、中身が遠のくなら、そこは少し立ち止まりたい。言葉の服選びも、人を大切にする仕事のうちなのだと思います。


第4章…新語とカタカナ語の奥にある財布と都合

結論から言うと、新しい言葉が増えること自体は悪くありません。ただ、その言葉が何を見せ、何を隠し、誰の懐を温めるのかまで見ておくと、暮らしの景色は随分と変わります。耳に心地よい呼び名ほど、玉石混交。ふんわりした音の奥に、しっかり値札がブラ下がっていることもあるのです。

店先でも、制度の名前でも、説明会の紙でも、この現象はよく起こります。今まであったものに新しい名前がつくと、急に立派に見える。少し古びた棚に布をかけ、照明を当てたら別の商品に見える、あの感じです。中身はほぼ同じでも、呼び名が変わるだけで「新登場」の顔が出来る。人間、見た目に弱い生き物ですよね、と言いたいところですが、私も新しいパッケージにはつい目が行くので、そこは静かにお茶を飲むことにします。

カタカナ語には、空気を着替えさせる力があります。ブランディング(見せ方の設計)、リニューアル(見た目を新しくすること)、アップデート(新しく整えること)。こう並ぶと、何やら時代の先を歩いているように聞こえます。けれど、日本語で置き直してみると、見せ方を整えました、中身を少し直しました、新しくしました、という話だったりします。その差が悪いわけではありません。問題は、呼び名の軽やかさに引っぱられて、中身まで立派になった気がして思い込まされてしまうことです。

商売の世界では、これはかなり便利な手法です。古く見えるものは売り難い。難しそうに見えるものは近寄りにくい。そこで名前を変える。響きを整える。雰囲気を明るくする。すると、手に取りやすくなる。これは工夫ですし、知恵でもあります。けれど、工夫が過ぎると、説明より演出が前に出ます。すると、利用する人が知りたい大事なところ、値段、内容、責任の所在、向いている人と向いていない人、そんな肝心な部分が舞台の袖へ下がりやすい。華やかな幕の後ろで、主役が迷子になるわけです。

こういう場面で思い出したいのが、「馬鹿と鋏は使いよう」というあの言葉です。少し辛口ですが、なかなか味があります。新語もカタカナ語も、使いよう次第。分かりやすくするために使えば頼もしい道具です。誤魔化すために使えば、なかなかの詐欺…もとい曲者になります。言葉そのものが悪さをするのではなく、どう使われたかで顔付きが変わる。そこが、日本語の手強くて、かつ面白いところです。

介護や医療の周りでも、新しい呼び名が増えるたびに、親しみやすさと分かり難さが隣り合います。柔らかな名前で相談しやすくなることは、もちろんあります。気後れせずに話しかけられるのは、とても大きい。けれど、その優しさが、説明の省略まで連れてきてしまうと少し困ります。利用する人や家族が知りたいのは、響きの美しさだけではありません。何をしてくれるのか、どこまで支えてくれるのか、どんな負担があるのか。暮らしに直結する話は、きちんと地面に足が着いていて欲しいところなのです。

見抜くコツは、意外と難しくありません。新しい言葉に出会ったら、胸の中でそっと日本語に変換して戻してみる。すると、輪郭が見えてきます。何を新しくしたのか。名前だけなのか、中身まで変わったのか。誰が嬉しい気持ちにさせられるのか。誰が分かり難くなるのか。そのひと呼吸があるだけで、百花繚乱のカタカナ行列にも飲み込まれ難くなります。全部を疑う必要はなくて、全部をそのまま信じなくても良い。その中間辺りが、ちょうど心地よい立ち位置です。

新語は、時代の風を運ぶことがあります。カタカナ語は、入口の敷居を下げることがあります。そこにはたしかに良さがあります。その上で、名前の新しさより中身の誠実さを見たい。耳障りの良さより、暮らしへの役立ち方を知りたい。そう考えられるようになると、言葉に振り回される回数は少し減ります。新しい札がついていても、落ち着いて中身を見られる人は、なかなか粋なものです。

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まとめ…言葉の化粧を見抜いてその人らしさを守る

言葉は、ただの飾りではありません。人を励ますこともあれば、そっと押し込めることもあります。やわらかな呼び名が安心を運ぶ日もあれば、耳障りの良さが中身を見え難くする日もあります。だからこそ、言葉に出会った時は、その響きだけでなく、誰の気持ちを明るくし、誰の輪郭を誤魔化しているのかを見てみたいものです。それだけで景色は随分と変わります。

「こだわり」と呼ばれたものの中には、その人が長く守ってきた暮らしの型があります。「拘束」という重い語の傍には、人の自由や尊厳(その人がその人として大切にされること)があります。「拘縮」という静かな語の中には、体の変化と、それでも続いていく毎日があります。1つの字を追いかけてみるだけでも、いろんな意味に派生した歴史と未来、言葉の奥には大切に守るべき人の生活がギュっと詰まっているのだと気づかされます。

新しい言葉やカタカナ語も、全部が悪いわけではありません。親しみやすくなったり、相談しやすくなったり、今の暮らしに合う形で役立つこともあります。ただ、看板が立派でも中身まで立派とは限らない。そこを静かに見つめる目は、日常の中でかなり頼もしい力になります。明鏡止水のように落ち着いて眺めると、言葉の化粧の下にある素顔が見えてきます。

人を大切にすることは、立派な言葉をたくさん並べることではなく、その人が大切にしているものを雑に扱わないことなのかもしれません。好きな順番、好きな道具、好きな呼び名。そんな小さなものを軽く見ない眼差しが、結局は一番暮らしを明るくします。言葉を疑うためではなく、言葉に振り回され過ぎないために、ほんの半歩だけ立ち止まる。そんな心掛けがあれば、日々の会話も、制度の名前も、広告の文句も、少し優しく見えてきます。

難しい世の中だなあと感じる日でも、救いはちゃんとあります。言葉を選ぶ力は、誰かを傷つける力にもなりますが、誰かを守る力にもなります。ならば、こちらは後者を育てていきたいところです。用心深く、それでいて窮屈になり過ぎず、軽やかに。暮らしの中で言葉を味方につけられたら、それはなかなか気持ちの良い未来への道標となります。今日は少しだけ、耳に入る言葉の見え方が変わった。そんな小さな変化が、明日の会話を柔らかくしてくれるはずです。

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今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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