おむつは負けじゃなくて尊厳を勝ち取るもの~介護の善意が折れない現場の作り方~

[ 介護現場の流儀 ]

はじめに…においは強いけど心はもっと強い(はず)

排泄の話って、何故か空気が急に真面目になりますよね。しかも、大人の排泄となると“真面目”を通り越して、なかったことにされがちです。けれど、現場にいる人は知っています。においは現実で、現実は誤魔化せない。だからこそ、そこに向き合う介護は、綺麗ごとだけでは成立しないということを。

赤ちゃんの排泄なら「我が子だしね」で頑張れる。でも大人の排泄臭に毎日向き合うのは、根っこに“人が人を想う気持ち”がないと続きません。これは精神論ではなく、仕事として続けるための前提条件です。体力も技術も必要だけれど、最後に残るのは「この人の生活を守りたい」という、静かな善意です。

ただ、善意は万能ではありません。むしろ、善意だけで回そうとすると、現場は燃え尽きます。頑張り屋ほど時間を超えてしまい、断れない人ほど抱え込み、気がつけば「誰も悪くないのに、みんながつらい」状態になっていく。ここが介護の怖いところです。利用者さんだって、わざと迷惑をかけたいわけじゃない。職員だって、冷たくしたいわけじゃない。それでも歯車が噛み合わないと、怒りや失望が生まれ、関係性が崩れ、最悪の場合は“事件”として外に出てしまうこともあります。

そこで本記事は、排泄ケアを単なる「処理」ではなく、「尊厳を立て直す瞬間」として捉え直します。高齢者さんの尊厳は、腫れもの扱いで守られるものではなく、日々のやり取りの中で育つものです。同時に、職員の善意も、根性で維持するものではなく、チームと仕組みで守るものです。つまり、ここで扱うのは「人対人」の温かさと、「チームとして続ける現実」を、ちゃんと両立させる話になります。

少しだけユーモアも混ぜます。だって、においと戦う仲間が真顔だけだと、心が先に倒れますからね。「笑って良いんだよ」という空気は、現場の酸素です。もちろん、笑いは相手を傷つけるためじゃなく、心を守るために使います。そこは丁寧に線引きしながら進めていきます。

読み終わる頃に、「排泄の失敗があっても、尊厳は折れない」「職員の善意は、減らすものじゃなく守るもの」そう思えるように。そして施設でも在宅でも共通して使える、“関係性の作り方”と“現場が折れない整え方”を、実感のある言葉でまとめていきます。

それでは第1章、いきましょう。善意の人ほど損をする、あの「やさしさ税」の話から始めます。

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第1章…善意だけじゃ続かない!~“やさしさ税”が職員を削る日~

介護の現場には、目には見えない税金があります。国が決めた税率でも、財布から引き落とされるわけでもないのに、確実に誰かの心と体から差し引かれていく。名前をつけるなら、そう、“やさしさ税”。しかもこれ、徴収係がいません。「徴収しまーす」と言ってくる人もいない。だから厄介なんです。気づいた時には、もう引かれている。

排泄ケアって、まさにこの“やさしさ税”が発生しやすい場所です。臭いがある、汚れがある、急ぎの対応になる、そして何より、本人の尊厳が揺れやすい。だから職員は自然に気を遣う。「恥をかかせたくない」「傷つけたくない」「早く整えてあげたい」。この気持ちは、仕事としての技術以前に、人としての反射です。反射だから速い。速いから尊い。だけど速いから、疲れる。

ここで問題が起きます。善意が強い人ほど、限界を越えてしまうんです。例えば訪問介護で、決まった時間の中で身体介護や生活援助を提供する世界。次の訪問がある、移動もある、記録もある。現実は「ここまで」が決まっている。でも、目の前の利用者さんの生活は「ここまで」で区切れない。排泄の失敗が起きた時に、「時間なので帰りますね」と言えるかどうか。言えない人ほど、やさしさ税を多めに納めてしまう。

昔のエピソードとして、外国人就労者の方が、決まった時間を超えてまで一生懸命尽くして、事務所に戻ったら怒られて、じっと我慢した……という話がありましたよね。あの場面、本人の中では「困っている人を放っておけない」が自然だったはずです。やったことは立派。でも、組織の側から見れば「時間超過は次の訪問に影響する」「事故や責任の線引きが曖昧になる」「同じ支援を毎回求められてしまう」など、別の現実もある。つまり、善意と仕組みが衝突してしまう。

ここで大事なのは、善意を否定しないことです。善意は介護の燃料です。燃料がなくなった車は走れません。だけど、燃料をタンクごと燃やしたら、もっと走れません。だから「善意で頑張れ」は美談に見えて、実は事故の予告でもあります。善意は、守られないと枯れます。そして枯れた現場は、冷たくなるのではなく、むしろ危うくなる。余裕がなくなり、言葉が荒くなり、判断が雑になり、ミスが増える。誰も望んでいない方向へ、静かに流れていく。

じゃあ、どうすれば良いのか。答えは、善意を“個人の美徳”から“チームの資産”に戻すことです。個人が一人で背負うと折れます。だから、背負わない仕組みが必要になる。ここで誤解されがちなのが「仕組み=冷たい」というイメージです。でも本当は逆で、仕組みは善意を冷たくするためにあるんじゃない。善意を燃やし尽くさないための防火壁なんです。

例えば排泄の失敗が起きた時。職員が心の中で抱えるのは、臭いや汚れだけじゃありません。「またこの人は恥ずかしい思いをした」「自分の対応は良かったか」「次も起きたらどうしよう」「家族に何て言おう」「記録が追いつかない」「次の対応が詰まっている」。こういう“見えない荷物”が積み重なっていく。やさしさ税は、こうして静かに重くなる。

だからチームで出来る一番の支えは、「その場で一人にしない」ことです。ここで言う“一人”は人数の話だけではなく、心理的な話です。「あなたが悪い」と言わない、「あなたが抱えているものを見ている」と伝える。「交代して良い」「相談して良い」「5分離れて良い」。こういう許可があるだけで、善意は戻ってきます。逆に、許可がない現場では、善意は“自腹”になります。自腹が続けば、誰でも破産します。

施設でも在宅でも共通して言えるのは、善意は増やすものではなく、守って循環させるものだということです。善意が循環している現場は、職員が穏やかになります。穏やかになると、利用者さんも安心して「恥ずかしい」を言えるようになる。言えるようになると、失敗が減ることもある。失敗が減らなくても、失敗後の回復が早くなる。すると関係性が育つ。ここが、介護のすごいところです。たった1つの排泄ケアが、生活全体の安心に繋がっていく。

そして、ここでちょっとだけユーモアを入れます。排泄は臭い。でも、現場はもっと臭い……と言いたいところですが、それは違う。現場は臭いんじゃない。現場は“濃い”。人生が濃い。だからこそ、薄っぺらい根性論で回すと焦げる。濃い現場は、丁寧に煮込まないといけないんです。煮込むとは、善意を保つ火加減を、チームで調整するということ。強火で一気に仕上げたら、鍋が焦げる。焦げた鍋は、次の料理もまずくする。だから、火加減はチームで見る。これが大人の介護です。

第1章の結論はシンプルです。善意は介護の誇り。でも、善意を個人に丸投げすると、誇りごと折れてしまう。だからこそ、善意が折れないように、チームと仕組みで守る。それが結果として、高齢者さんの尊厳を守る近道にもなる。

次の第2章では、ここから一歩進めて、「尊厳って何?」を真正面から扱います。腫れもの扱いで守るのか、対等の中で育てるのか。ここを間違えると、善意も尊厳も、どっちも崩れます。続きを一緒に整えていきましょう。


第2章…高齢者の尊厳は“腫れもの扱い”じゃ育たない:対等の正体

尊厳って、言葉は立派なんですが、現場に置くと急にフワッとします。扱いが難しいから、つい「とにかく傷つけないように」「逆らわないように」「刺激しないように」と、無意識に“腫れもの扱い”になっていくことがあります。もちろん、配慮は必要です。だけど配慮が行き過ぎると、尊厳は守られるどころか、別の形で痩せていきます。

例えば、本人が何か言った時に、職員がいつも先回りして「はいはい大丈夫ですよ」と受け止め過ぎる。本人の言葉が少し乱暴でも「仕方ないですね」と笑って流してしまう。本人の不満が強くても「気を悪くしないように」と曖昧な返事だけで終わらせる。これ、短期的には平和に見えるんです。波風は立たない。空気も穏やか。ところが長期的には、本人の中に“誤解”が育ちやすくなります。「ここでは自分が何を言っても通る」「相手は逆らえない」「自分は特別扱いされるべきだ」。そうなってしまうと、本人の尊厳は一見高まったようで、実は不安定になります。尊厳って、周りが持ち上げてくれる台の上に乗せるものじゃなく、自分の足で立てるものだからです。

ここで「対等」の話が出てきます。ただ、対等と言うと「同じ立場で言い合う」みたいに誤解されやすい。介護は支援が必要な人と支援する人の関係です。体力も情報も権限も同じではありません。だから対等は「同じ扱い」ではなく、「同じ人間として扱う」という意味に近い。言い替えるなら、対等とは“上下をなくすこと”ではなく、“尊厳の差を作らないこと”です。

尊厳の差が出る瞬間って、案外シンプルです。利用者さんを「可哀相な存在」として扱った時、職員が「我慢する係」として扱われた時、この2つは同時に起きやすい。どちらも人間を役割に押し込めます。利用者さんは“弱者役”になり、職員は“受け止め役”になる。こうなると、生活は対話ではなく、演劇になります。役を演じ続けるのは疲れます。疲れたら、どこかで崩れます。崩れると、そこだけが切り取られて「大変な現場」と言われたりする。けれど本当は、崩れたところが問題なのではなく、崩れるまで積み上げた構造が問題です。

じゃあ、尊厳が育つ「対等な関係」とは何か。私はこういうイメージが良いと思っています。利用者さんは「生活の主役」、職員は「生活の共同制作スタッフ」。主役は主役らしく選び、決め、意見を言う。スタッフはスタッフらしく安全を整え、選択肢を出し、必要なら止める。舞台が崩れそうなら支える。つまり、主役を守るためにスタッフが無限に耐えるのではなく、舞台を守るために両者がルールを共有する。これが対等です。主役だけが自由に振る舞って舞台を壊したら、誰も幸せになりませんからね。

排泄の場面で考えると分かりやすいです。排泄は失敗しやすい。失敗すると恥ずかしい。恥ずかしいと人は防御します。防御の形は「謝る」「黙る」「笑って誤魔化す」「怒る」「命令する」など人それぞれ。ここで職員が“腫れもの扱い”として何でも飲み込むと、本人の防御が固定化します。「怒れば通る」「強い言い方をすれば自分を守れる」と学習してしまうことがある。本人にとってそれは、生きるための技です。でも、その技は孤独を増やす。周囲は距離を取りたくなるし、本人は「何故、皆が離れるのか」が分からない。結果として本人の尊厳は、守られているようで弱っていきます。

だから大事なのは、失敗そのものを責めないことと同時に、関係のルールを丁寧に守ることです。ここが“優しさの上級”です。例えば、言葉が荒く出た時に、真正面から叱るのではなく、淡々と境界線を引く。「その言い方だと受け取れません。落ち着いたら続けますね」。これは冷たさではなく、生活のルールです。ルールは人を縛るためじゃなく、人を守るためにあります。特に排泄ケアのように尊厳が揺れやすい場面では、ルールがあることで本人も安心できます。安心できると、防御が弱まります。防御が弱まると、「ごめんね」「恥ずかしかった」「次はこうしたい」が言えるようになる。ここから尊厳が育ちます。

ここで、ちょっとだけ笑いを差し込みます。尊厳って、守ろう守ろうとすると、何故か皆の肩が上がっていきます。肩が上がると息が浅くなります。息が浅いと顔が怖くなります。顔が怖いと本人も怖くなります。結果、尊厳が逃げます。つまり尊厳は、追いかけるほど逃げる猫みたいなものです。だから、猫を呼ぶ時みたいに、少し距離をとって、落ち着いて、同じトーンで接する方が戻ってくる。現場で笑顔が大事と言われるのは、精神論じゃなくて“機能”なんですよね。

そして、施設でも在宅でも共通する肝があります。利用者さんの尊厳を立てるには、「出来ることは本人が担う」「難しいところは支援する」「危険は止める」という基本の線を、家族も職員も共有すること。これが共有されていないと、本人は混乱します。訪問では「家では自由なのに、支援者が来た途端に制限される」と感じることがある。施設では「ここは自分の家なのに、ルールを押し付けられる」と感じることがある。どちらも、本人が悪いわけではなく、ルールの説明が生活言語になっていないことが原因になりやすい。生活言語というのは、正論ではなく納得の言葉です。「あなたを縛るためじゃない。あなたが安心して暮らすために、みんなが困らないために、こうしている」。この温度がある説明ができると、関係はグッと整います。

第2章の結論はこうです。尊厳は腫れもの扱いでは育たない。対等とは、無理に同じにすることではなく、同じ人間として尊重し合い、生活のルールを共有すること。排泄の失敗が起きても、その人が“人として立ち直れる筋道”を用意しておくこと。そこに介護の真価があります。

次の第3章では、さらに踏み込んで、「当たり前でしょ!」の裏側にある感情を扱います。強い言葉の裏には、恥、怖さ、プライドが絡むことが多い。そこを読めるようになると、対等な関係は一気に作りやすくなります。続きを一緒に進めましょう。


第3章…『当たり前でしょ!』の裏側にある恥・怖さ・プライドの三重奏

排泄の失敗が起きた瞬間、空気がピタッと止まることがあります。本人も止まる、職員も止まる、そしてたまに時間まで止まった気がする。もちろん時間は止まりません。止まるのは心の方です。あの一瞬、本人の中では「人生の立ち位置」がグラッと揺れます。若い頃にバリバリ働いていた人も、家族を支えてきた人も、地域で顔役だった人も、たった1回の失敗で急に“助けられる側”に引き戻されたように感じることがある。だから、あの瞬間は排泄の問題だけじゃない。人生の問題なんです。

では本人は、その時に何を感じているのか。こちらが直接聞けない場合も多いし、聞けたとしても「別に平気だ」と言われることもあります。だけど、言葉っていつも本音を運んでくれるわけじゃありません。むしろ本音ほど、別の形に変身して出てきます。排泄の失敗の本音は、たいていこの三重奏になりやすい。恥、怖さ、プライド。しかもこの3つ、同時に鳴ります。しかも音量がバラバラです。だから周りから見ると「なんでそんな反応になるの?」に見えてしまう。

恥は分かりやすいですね。臭いがある、汚れがある、他者に見られる。これだけで人は小さくなります。問題は次の怖さです。怖さは「また起きるかもしれない」「臭っているかもしれない」「嫌われるかもしれない」「ここでの立場が下がるかもしれない」という未来への恐怖です。排泄の失敗は、過去の失敗というより、次の失敗の予告のように感じることがある。だから本人は焦る。焦ると、反射的に防御が出ます。

そしてプライド。これが曲者です。プライドは悪者扱いされがちですが、本当は人が生きるための背骨みたいなものです。背骨が折れたら立てません。だから人は、背骨を守ろうとして強くなります。排泄で背骨が揺れたら、言葉で背筋を伸ばそうとする。「当たり前でしょ!」「早くして!」「私は悪くない!」。こういう言葉は、相手を攻撃したいから出るだけではなく、自分の中の崩れを支えるために出ることがあります。つまり、“当たり前でしょ”は、偉そうな台詞ではなく、折れかけた背骨を支える添え木だったりするんです。

ここで介護職の心が試されます。言葉だけを受け取ると腹が立つ。「なんでそんな言い方をされなきゃいけないの?」と感じるのは当然です。第1章で言った“やさしさ税”が溜まっていると、なおさら刺さります。でも、ここで一歩だけ踏みとどまって、「この言葉は何を守ろうとしているのか」と読めると、関係が壊れ難くなります。読むというのは、許すことではありません。読みつつ、境界線を引く。ここがプロの優しさです。

怒りは悪ではなく“恥のマスク”のことがある

排泄場面で怒りが出る人はいます。暴言っぽくなったり、命令口調になったり、妙に強気になったりする。これは「性格が悪い」と決めつけると一気に拗れます。怒りは、恥を隠すマスクになることがあるからです。恥ずかしいと言えない人ほど、怒りを先に出してしまう。怖いと言えない人ほど、強く言ってしまう。プライドが高い人ほど、弱い自分を見せたくなくて、強い演出に出る。これ、舞台で言うと強がりの演技です。本人の内側は震えているのに、外側だけ堂々として見せる。だからこそ、こちらが真正面から怒り返すと、舞台が崩れます。

ここで効くのは、怒りの内容に議論で勝たないことです。勝っても尊厳が壊れます。負けても職員が壊れます。じゃあどうするか。怒りの奥の“恥と怖さ”に、声の温度で寄り添いながら、言葉の境界線は淡々と引く。例えば「大丈夫、すぐ整えますね。今は急いでいるので、言い合いは後でにしましょう」。これ、対等の姿勢です。相手を子ども扱いしない。だから説教もしない。けれど、言葉の暴力は受け取らない。受け取らないことが、長期的には相手の尊厳も守ります。何故なら、暴言が通る世界は本人を孤独にするからです。

「お金を払ってるんだから」の本音は実は2種類ある

「お金払ってるし当たり前の場所と思うのかな」というところ。これ、現場では2種類に分かれやすいです。1つは本当にそう思っているタイプ。社会で長くお客様側だった人や、サービス業の受け手として生きてきた人に多い。もう1つは、本当は申し訳ないのに、それを見せたくなくて言ってしまうタイプ。こちらは防御としての言葉です。

前者の場合は、ルールの共有で整えられることがあります。「ここは生活の場で、職員もチームとして動く。出来ることは本人、難しいところは支援。安全や人を傷つける言動は止める」。この枠を丁寧に伝える。後者の場合は、言葉の奥を受け取る。「申し訳ないって思わなくて大丈夫ですよ。体の都合です。今は整えましょう」。この2つを見分けるのに、こちらが完璧である必要はありません。完璧に見分けるより、「どちらの可能性もある」と思って対応するだけで、職員側の心の摩耗が減ります。摩耗が減ると表情が柔らかくなる。表情が柔らかいと本人の防御も下がる。排泄の場面は、そういう小さな連鎖で変わります。

そして、ここでユーモアを1つ。排泄の失敗をした時、本人が急に立派な社長みたいになることがあります。「早くしなさい!」「段取りが悪い!」。心の中で思うわけです。「いや、ここは会議室じゃなくてトイレです」と。もちろん口には出しません。でもこの瞬間、本人は社長になっているのではなく、社長だった頃の自分を呼び出して、崩れそうな心を支えている。そう思うと、少しだけ見え方が変わる。笑いは相手を軽んじるためじゃなく、こちらの心を守り、相手の防御をほどくための技にもなります。

「申し訳ない」が強過ぎる人ほどこちらが“価値”を返す必要がある

逆に、ひたすら謝る人もいます。「ごめんなさい」「すみません」を繰り返して、目を合わせなくなる。これも危険信号です。謝ることで関係を保っている。でも内側では「自分は迷惑な存在だ」と思い始めていることがある。そうなると尊厳が折れます。尊厳が折れると意欲が落ちます。意欲が落ちると動けなくなります。動けないと失敗が増えます。失敗が増えるとさらに謝る。これ、悲しいループです。

ここで職員が出来るのは、罪悪感を消すことと同時に、本人の価値を戻すことです。「大丈夫ですよ」だけだと、本人の中で「迷惑だけど許されてる」に残りやすい。だから、「あなたのことを大切に思っている」「ここは一緒に整える場所」というメッセージを添えるのが効きます。例えば「今まで頑張ってきた体ですから、こういう日もありますよ。今日はさっぱりして、気持ちよく過ごしましょう」。こう言われると、謝るだけだった人が、少し顔を上げられることがあります。

第3章の結論はこうです。排泄の失敗の瞬間に出てくる強い言葉や態度は、単純な我儘ではなく、恥・怖さ・プライドが同時に鳴っているサインであることが多い。だから職員は、言葉に飲まれず、奥を読みつつ、境界線を淡々と引く。これが「対等な関係」を壊さずに保つコツです。そしてその姿勢は、利用者さんの尊厳だけでなく、職員自身の尊厳も守ります。

次の第4章では、ここまでの話を現場の実装に落としていきます。仕組みは冷たいのではなく、善意を守る盾だという話。施設でも在宅でも、チームとしてどう装備するか。最後に「今日の失敗が明日の信頼になる」までを、ちゃんと繋げます。


第4章…仕組みは冷たくない:善意を守る“チームの盾”を装備せよ

ここまで読んで、「結局、人の気持ちの話じゃないか」と思った方、半分正解です。介護は人の気持ちの仕事。でも、気持ちだけで回すと必ずどこかで破綻します。何故なら、排泄は感情で止まらないし、時間も待ってくれないし、勤務表は空気を読まないからです。よくある誤解が「仕組み=冷たい」「マニュアル=心がない」というものですが、私は逆だと思っています。仕組みは、心を失わないためにある。つまり、仕組みは冷たさではなく、善意の延命装置です。善意に寿命がある前提で作られているからこそ、現場は長く優しくいられる。

ただし、仕組みが上手く働かない現場もあります。仕組みが“盾”ではなく“鎖”になってしまう時です。鎖になると、「決まりだから」で現場が締めつけられ、頑張り屋だけが余分に抱え、最後に個人が責められて終わる。「善意で一生懸命な人間を、仕組みで蔑ろにするシステム」ですね。あれは、仕組みが悪いのではなく、仕組みの目的がズレています。本来は職員も利用者も守るための仕組みが、組織の都合を守るための仕組みに変質した時、現場は壊れます。

じゃあ、盾としての仕組みは何をするのか。大きく言えば、現場の“対等な関係”を守るために、3つの瞬間で職員を助けます。1つ目は、排泄の失敗が起きた「直後」。2つ目は、失敗が繰り返されて空気が重くなる「継続」。3つ目は、職員の心が折れそうになる「限界」。この3つの瞬間に、個人を1人にしない仕掛けがあるかどうかで、現場の温度は変わります。

失敗直後は“言葉の型”が職員と本人を同時に守る

排泄の失敗直後、本人の中では恥・怖さ・プライドが鳴っています。職員の中では焦り・段取り・時間・周囲の目が鳴っています。両者ともに余裕がありません。余裕がない時、人は自由に優しくなれない。だからこそ「型」が必要になります。ここで言う型は、感情を機械化するものではなく、感情を傷つけない道筋です。

例えば、まずは状況を落ち着かせる言葉。「大丈夫、すぐ整えますね」「今は急いで整えましょう。後でさっぱりしましょう」。次に、責任を本人から外す言葉。「しんどくはないですか?」「誰でもあります」。最後に、生活を取り戻す言葉。「終わったらお茶にしましょう」「着替えたら気持ち良いですよ」。この流れがあると、本人の恥が少し軽くなり、職員も迷い難くなります。迷いが減ると手が速くなる。手が速くなると本人の恥の時間が短くなる。恥の時間が短いと防御が出にくい。防御が出にくいと喧嘩になりにくい。つまり、言葉の型は関係性の防波堤です。

ここでユーモアも一匙。現場の段取りが良い職員さんは、排泄対応がまるで“レスキュー隊”みたいに見えることがあります。本人からすると「うわ、救助が来た」なんです。だから言葉も「救助のトーン」が効く。「ここは任せてください。安全に戻します」。これ、冗談みたいで真面目です。人は“守られている感覚”があると落ち着きます。落ち着くと、尊厳が戻ります。

継続場面では“個人の頑張り”を「チームの約束」に変える

排泄の問題が継続すると、現場は摩耗します。本人もつらいし、職員もつらい。ここで個人の頑張りに頼ると、最初は何とかなる。でも、何とかなる期間には限界があります。だから継続場面では、個人の努力をチームの約束に変えます。約束というのは、誰か一人が背負うのではなく、全員が同じ方向を向くということです。

例えば「この方の排泄は、急いで整えることが最優先。説得は後回し」「言葉が荒い時は議論しない。淡々と境界線を引く」「対応は一人で抱えない。交代は恥ではない」。こういう共通理解があると、利用者さんも“揺さぶっても崩れない”と感じます。すると不思議なことに、揺さぶりが減ることがあります。人は、壁が柔らかいと叩き続けてしまうけれど、壁が静かに硬いと諦められることがあるからです。ここでも大事なのは、硬さが冷たさではないこと。硬さは安全です。安全は尊厳の土台になります。

施設でも在宅でも共通するのは、支援が属人的になるほどしんどくなるということです。あの職員さんだと優しいから甘える、この支援者だと厳しいから言うことを聞く。これが積み重なると、本人も混乱しますし、職員間の不公平感も増えます。だからチームの約束は、本人のためでもあり、職員のためでもある。対等な関係を守るために、チームとして線を揃える。これが盾としての仕組みです。

限界の前に“退避”を正当化する文化が必要

善意は、折れる前に助けないといけません。折れてからでは遅い。排泄対応で一番危険なのは、職員が「もう無理」を言えない空気です。言えないと、心の中で怒りが育ちます。怒りが育つと、表情に出ます。表情に出ると本人の防御が出ます。防御が出ると喧嘩になります。喧嘩になると、どちらも傷つきます。そして外に出た時、弱い立場が守られ、職員が孤立しやすい。ここまで見えているのに、現場で防げないことがある。それは、退避が「逃げ」だと見なされてしまうからです。

でも退避は逃げじゃありません。安全確保です。介護は格闘技ではなく、生活の共同制作です。制作スタッフが倒れたら、舞台が止まります。だから「交代する」「数分離れる」「二人体制にする」「上の人を呼ぶ」が、堂々と出来る文化が必要です。ここで管理側がすべきことは、精神論で支えることではなく、退避を正当化する言葉を与えることです。「交代はプロの判断」「安全のために必要」「一人で抱えないのが正しい」。こう言ってもらえるだけで、現場は救われます。

理事長や管理者が前に立つべき瞬間はここに全部繋がっている

「何故、トップが前に立たないのか」。この答えも、実は第4章に繋がっています。トップが前に立つのは、事件が起きた後だけではありません。本当は、事件が起きないように、現場が折れないように、善意が守られるように、日頃から“言葉と資源”を出すのが役割です。現場が苦しいのに、トップが沈黙する。すると現場は「守られていない」と感じます。守られていない現場は、善意が減ります。善意が減ると余裕が減ります。余裕が減るとトラブルが増えます。トラブルが増えると、結局トップが苦しくなる。つまり、トップが前に立たないことは、長期的には組織にとっても損です。ここは、いち現場だけの話ではなく、組織の循環の話です。

第4章の結論はこうです。仕組みは冷たいものではなく、善意を守る盾であるべき。そして盾は、職員を縛る鎖ではなく、職員を守る道具として設計される必要がある。言葉の型、チームの約束、退避の正当化。これが揃うと、排泄の失敗が起きても、関係性は壊れ難くなります。利用者さんの尊厳も、職員の尊厳も、同じ土台に立てるようになります。

次はいよいよまとめです。排泄の失敗は、生活の終わりではなく、信頼を積み上げる入口にもなり得る。漏れても、関係は漏らさない。そのための最後の締めを、一緒に書き上げましょう。

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まとめ…今日の失敗は明日の信頼:漏れても、関係は漏らさない

排泄の失敗は、誰にとっても出来れば触れたくない出来事です。本人は恥ずかしい。職員は気を遣う。家族は胸が痛い。においも汚れも現実だし、時間も待ってくれない。だから排泄の場面は、介護の中でもいちばん“人間の弱さ”が露出する場所になります。けれど、ここで弱さが見えるのは悪いことではありません。弱さが見える場所ほど、支え方の質がそのまま「尊厳」になります。つまり排泄は、尊厳のテストではなく、尊厳を建て直す工事現場です。

第1章で触れたように、介護は善意で成り立つ部分が大きい。赤ちゃん相手なら自然に出る優しさも、大人の排泄となると社会が目をそらしがちで、現場だけが真正面から受け止める。だからこそ介護職は立派です。だけど立派さに甘えて「善意で頑張れ」とやると、善意は枯れます。善意は才能ではなく資源です。資源は守られないと消耗します。守るためには、個人の根性ではなく、チームの支えが必要になります。

第2章では、尊厳は“腫れもの扱い”で守られるものではない、と確認しました。対等とは、同じ対応をすることではなく、同じ人間として尊重し合い、生活のルールを共有することです。利用者さんは生活の主役で、職員は共同制作スタッフ。主役の尊厳を守るためにスタッフが無限に耐えるのではなく、舞台を守るために両者が安心できる線を引く。これは厳しさではなく、共同生活の優しさです。

第3章では、「当たり前でしょ!」のような強い言葉の裏には、恥・怖さ・プライドが同時に鳴っていることがある、と見てきました。怒りや命令口調は、相手を支配したいだけでなく、崩れかけた自分を支える防御になっている場合があります。だからこそ職員は、言葉に飲み込まれず、奥を読みつつ、境界線は淡々と引く。許すのではなく、受け取り方を整える。ここが、対等な関係を壊さないコツでした。

そして第4章。仕組みは冷たいものではなく、善意を守る盾です。言葉の型、チームの約束、退避を正当化する文化。これがある現場は、排泄の失敗が起きても、誰か一人に背負わせずに済む。逆にこれがない現場では、優しい人ほど抱え込み、燃え尽き、最後に個人が責められやすくなる。だから仕組みは、職員を縛る鎖ではなく、職員も利用者も守る道具として設計されなければいけません。

ここまでの話を、施設でも在宅でも共通する言葉にすると、たぶんこうなります。排泄の失敗は、生活の終わりではない。関係性が終わるサインでもない。むしろ、関係性が本物になる入り口になることがある。失敗の直後に「大丈夫、すぐ整えますね」と言ってもらえた経験は、本人の中で「ここは安心できる場所だ」という記憶になります。安心は次の行動を作ります。次の行動が整うと、失敗が減ることもある。減らなくても、立ち直りが早くなる。立ち直りが早い人は、尊厳を失い難い。これが、排泄ケアが“処理”ではなく“尊厳の回復”だという理由です。

最後に、少しだけ笑いの話もしておきます。排泄ケアって、現場の人間にとっては「人生の濃度」が高過ぎる場面です。においも濃いし、感情も濃いし、たまに言葉も濃い。濃過ぎると目が沁みます。だから、真面目な顔だけで全部を受け止めると、心が先に涙目になります。笑いは軽んじるためではなく、続けるための酸素です。尊厳を守る人ほど、適度に笑えている。これは不思議だけど、現場ではよくある真実です。

介護職は、誰かの失敗を拾い上げて、その人が人として立ち直る道を作る仕事です。利用者さんからも組織からも責められっ放しでは、続けられません。だからチームで守る。仕組みで守る。言葉で守る。そして、守られた善意が次の支援を生み、支援が尊厳を支え、尊厳がまた関係性を育てる。この循環が作れた時、介護は“きつい仕事”のままでは終わらず、“誇れる仕事”として根を張ります。

漏れても、関係は漏らさない。今日の失敗は、明日の信頼になる。そう信じられる現場は、強いです。強い現場は、優しいです。優しい現場は、続きます。続くから、救える日が増えます。ここが、介護の本当のやりがいだと思います。

今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


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