桜と呼ばれた馬肉の物語~猪は牡丹で鹿は紅葉と隠された春の秘密~

目次
はじめに…
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春が来ると、桜🌸が咲きます。
空を見上げれば花、花、花…どこもかしこも満開です。
けれど今回のお話は、ちょっぴり風変わりな“桜”について。
なんと――
馬肉は“桜肉”と呼ばれるんです。
え、花見でお団子じゃないの?って思いますよね。
でも、桜が咲いてるからって、馬が木の上でモグモグしてるわけではありません(笑)。
実は、猪は“牡丹”、鹿は“紅葉”なんて呼び方もあるんですよ。
なんだか高級な懐石料理のコースみたいですが、これはいわゆる隠語。
なぜこんな風に呼ばれていたのか?
なんで牛や豚には、そういうロマンチックな呼び名がないのか?
桜の季節にちなんで、ちょっと面白くて、ちょっと深い――そんな物語をのぞいてみませんか?
昔の人々の食べ物への思い、そして春の桜の下に隠された秘密に、そっと耳を傾けてみましょう。
第1章…桜の下に隠された獣たちの名前のひみつ
「馬肉って、桜って呼ばれるんだって」
そう聞くと、なんだか詩的で風流な気もするけれど、初耳の人はきっと「え?馬なの?花なの?どっちなの?」と首をかしげることでしょう。
じつはこの“桜肉”という呼び方、ただのオシャレネーミングじゃありません。
もっとこう…歴史の裏にひっそり咲いていた秘密があるんです。
馬肉だけじゃなく、猪は牡丹、鹿は紅葉。
まるで花のカタログか秋の散歩道のようですが、これ全部――お肉の隠語。
昔むかしのお話ですが、日本に仏教が伝わってきたのは、ざっくり1,300年ほど前のこと。
その頃の仏教はとっても厳しかったんです💜。
今みたいに「好きなときに、ゆるく心を整えましょう♪」なんておおらかなものではありません。
決まりごとはガチガチ、特に“殺生は禁止”というルールはバッチリ効いていました。
つまり、動物を食べるのはアウト。
完全にアウト。
特に神聖な牛なんて、言語道断のダメ絶対。
でも…でもですよ?
「いや、ダメって言われてもお腹はすくし…」
だってその頃の日本って、飢饉も多くて、食べ物に困ることばかりだったんですよ。
「食べるな」と言われても、目の前に猪がゴロゴロしてたら…そりゃあ…ちょっとねぇ…ねぇ?(苦笑)
で、どうしたかというと――
言い方を変えちゃったんですね。
馬は桜、猪は牡丹、鹿は紅葉。
まるで「これは食べ物じゃなくて、お花見なんですけど?何か問題でも?」という顔で(笑)。
春を愛でる言葉に変えてしまえば、役人だって咎めにくい。
花に文句を言う人はいませんから。
これは、庶民の知恵。
生きるための知恵。
法と宗教と空腹のはざまで、花びらのようにそっと咲いた言葉たちだったんです。
見た目の美しさに隠された、苦労と工夫の花――それが“桜肉”の正体なのでした。
第2章…スーパーに並ばないのは山とレース場にいるから?
さてさて、「桜肉」なんて可愛く呼ばれても、実際のところ――
馬肉って、スーパーのいつもの棚に並んでるでしょうか?
牛や豚や鶏は、毎度ドーンと整列していて、「どれにしようか」なんて悩むほどですが、馬は…いませんねぇ。
猪も鹿も、幻のような存在。
ジビエコーナーの中に、ひょっこり顔を出すくらいのレアキャラです。
その理由をひとことで言えば、“安定していないから”。
牛や豚や鶏たちは、生まれたその日から立派に「食材になるぞ!」という使命を背負って、生産ルートも物流もピシッと整備されております。
一方、馬ときたら――
農耕馬として田畑を耕したり、戦国時代では突撃したり、現代では競馬で走ったり。
「人の暮らしを支えるパートナー」としての役割がとても強いのです。
だからといって、「走れなくなったから、じゃあスーパーへどうぞ~」なんてことはなく、大事に育てられた馬たちは、最後まで丁寧に扱われることが多いのです。
つまり、“流通ルートが限られている”。それがスーパーに並ばない一番の理由。
では、猪や鹿はどうかというと――
こちらは野山の住民です。山の恵みが乏しくなる冬には、人里に下りてきて畑を荒らし、「おいおい、そこはキャベツじゃなくて観葉植物だぞ!」なんて騒動になることも。
そうして駆除対象となった個体を、ジビエとしてお肉に活用する動きが出てきたわけです。
でもこれがまた、安定しない。
罠にかかりにくいし、雑食だから味もバラつくし、なかなか難しいのです。
あの猪突猛進、イメージ通りかと思いきや、実はとっても賢くて慎重派。
一筋縄じゃいきません。
しかも、猟をするには免許が要りますし、「ちょっと週末に猪狩ってくるわ〜」なんて気軽にできるものではなく、猟犬との信頼関係や熟練の技も必要不可欠。
つまり、誰でもできるようなことではないというわけです。
鹿も似たようなもの。
奈良公園で人懐っこく頭を下げるあの鹿たちを見ていると、「え?これ食べちゃっていいの…?」なんて思ってしまいますが、あれはもう観光業界のアイドル的存在。
もちろん、あの子たちがスーパーに並ぶなんてことはありません。
というわけで――
馬も猪も鹿も、それぞれに人間と深い関わりを持ちつつ、「はい、今日も出荷!」とはいかない事情があるんです。
花が咲くように簡単には出てこない。
でも、その背景には暮らしと自然、そして命の物語がしっかりと根を張っているのです🩷。
第3章…レバーは生でいける?いけない?進化した舌と倫理のはざまで
ここまで来ると、なんだか馬に猪に鹿に…すっかり“花のお肉トリオ”のことが好きになってきた気がしませんか?
でもちょっと待って。ここからは、ぐっとリアルな食卓事情のお話を少々。
「動物を食べるなんて、かわいそう…」
そんな声が聞こえてくるのも現代ならではですが、ちょっと視点を変えてみましょう。
人間って、基本的に他の命をいただかないと生きていけない生き物です。
草だろうが、魚だろうが、獣だろうが、命をいただいて今日も元気。
そこに“ありがたさ”を添えるのが、昔からの日本の文化なのです。
昔の人は、命をいただくことを“当たり前”にせず、“ありがたいこと”として受け止めていました。
それは、仏教の影響もあれば、飢えの記憶もあったでしょう。
生きるためには食べるしかない。でも、食べるには罪の意識がつきまとう。
そんなジレンマのなかで、人は「桜」とか「牡丹」とか「紅葉」と、やさしくて美しい言葉で包み込んできたんですね。なんだかちょっと泣けてきます。
それに比べると、現代はどうでしょう。
レバーは牛だと「生で食べたらダメ!」、でも馬なら「生でもオッケー」と言われることがあります。
これは食べてきたものや体質、そして安全基準の違いによるもの。
猪は雑食で寄生虫のリスクもあるから、しっかり火を通さないとダメとか…。
…うん、話がちょっと脱線気味ですね(笑)。
とにかく昔の人たちは、飢えと闘いながら、どうやって生き延びようかと日々奮闘していたわけで。
現代みたいに「今日は何を食べようかな~、お肉控えめにしようかな~」なんて、贅沢な悩みが言えるのは、ほんの数世代前の人たちが必死で繋いできてくれたからなんです。
それを思えば、桜肉だって、牡丹肉だって、紅葉肉だって、「食べる?どうする?おいしいけど…」なんて迷うことすら、ありがたいことかもしれません。
飽食の時代にいるからこそ、もう一度思い出したい🩷。
すべての食事には、命と、努力と、知恵と、祈りが詰まっているということを。
…と、ここまで書いたら、なんだかお腹がすいてきました。
桜の香り漂うこの季節、たまには「いただきます」の意味をかみしめながら、心に春風を吹かせてみるのも良いかもしれませんね。
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第4章…あの味をまた食べたい!桜・牡丹・紅葉が記憶をほどく日
施設の献立表をじっくり見てみても、出てきません。
桜肉、牡丹鍋、紅葉の味噌焼き…どこを探しても見当たりません。
「それはまぁ、流通がね」「アレルギー管理もあるし」「コストもねぇ」――
うん、事情はよくわかります。
でもね、ちょっと待って。
この味を、知っている人がいるんです。
それは戦後の物不足のなか、草鞋を履いて田畑を駆け回り、食べ物を自分の手で探してきたような時代を生きた人たち。
彼らが子育てしてきた中で、台所に上がったメニューの中に、桜肉のすき焼き風とか、猪肉の味噌煮なんてのも、きっとあったはず。
当時は、「お肉=なんでもごちそう」。
馬だろうが猪だろうが、食卓に並べば大歓声。
冷蔵庫だって今ほど立派じゃなかった時代、お味噌や酒粕で丁寧に下ごしらえして、時間をかけて煮込むのが愛情でした。
ところが今の献立ときたら、栄養バランス・アレルギー・保存管理・調理時間・コストの五重苦。
その結果、“食べたことのない食事”が並ぶことも珍しくないのです。
たしかに、体にはいい。
でも、心はどうだろう?
ある高齢者さんがぽつりと、「昔、親父が馬肉買ってきてさ、鍋やったんだよ。あれはうまかった…」と語った時、その目は遠い記憶の奥にきらりと光っていました。
食事って、味だけじゃなくて、思い出も添えてくれる大切な時間なんですよね。
だったら、ほんの一口でもいい。
ご家族と一緒の日とか、リクエスト献立の日とかに、“昔懐かしのジビエ風味”を特別メニューにしてみたらどうでしょう。
アセスメントで「食にまつわる思い出」を聞き出せれば、きっとその人の記憶の扉は、ふんわり開きはじめます。
「そういえば、あの時…」
そんなひとことから、会話が生まれ、笑顔が咲いて、食欲だって…バクハツです(笑)!🩷
桜肉は無理でも、代わりに見た目を工夫した似たメニューでもいいんです。
牡丹鍋は猪じゃなく豚肉で、紅葉焼きは鹿風の味付けで代用しても構いません。
大事なのは、“思い出の味を再現する気持ち”。
食べることは、生きること。
でも、思い出すことは、“その人らしく生きる”こと。
食事の場が、心のリハビリになるかもしれないなら、ちょっとくらい“花の名前を借りたお肉”のことを、思い出してもいいと思いませんか?
まとめ…桜肉と呼ばれたわけ!そして今に咲くご先祖の食の知恵
桜の話から始まった今回の旅――気づけば、桜肉に牡丹鍋、紅葉焼きと、ずいぶん花より団子な道を歩いてきたような気もします(笑)。
でも、こうして眺めてみると、「桜」「牡丹」「紅葉」なんて美しい名前の陰には、生きるための知恵と工夫、そして“いただきます”の深い意味がこっそり隠れていたんですね。
昔の人たちは、ただこっそり隠して食べていたわけじゃなく、きっと自然や命に対する尊敬の気持ちが、そうした呼び方を選ばせたのかもしれません。
そして今――
その味を懐かしむ人たちが、高齢者施設や病院で、今日も穏やかに暮らしています。
「もう一度、あの味が食べたい」なんて、胸の奥にしまい込まれている声が、実はほんのひと口で、ふわりとほどけてしまうかもしれません。
桜肉を見て桜の花を思い出し、牡丹鍋の香りに家族団らんを思い出し、紅葉のように鮮やかな味が、心の記憶を彩ることもあるでしょう。
食べ物には、栄養以上の力があるのです。
それは、思い出を運ぶ力であり、誰かと笑い合える時間を生み出す魔法。
だからこそ、好き嫌いよりも、「思い」を添えていただくことが大切なのかもしれません。
さて、今日のご飯は何にしましょう?
たまには、春の空気を感じながら、「昔の味」を思い出してみるのも、悪くないですよね。
花もいいけど、味もまた人生。
桜の季節に、ちょっとだけ“食の記憶”に花を咲かせてみませんか?🩷
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