5月5日はかずの子の日~プチプチ食感から始まる親子と命の物語~
はじめに…鯉のぼりの下で、かずの子をひとくち
5月5日。青空では鯉のぼりが元気よく泳ぎ、食卓には柏餅やちまきが並ぶ。子どもの健やかな成長を願う「こどもの日」として親しまれているが、この日は「かずの子の日」でもある。ニシンの卵であるかずの子は、たくさんの卵を持つことから子孫繁栄を願う縁起物として大切にされてきた。お正月のイメージが濃いので、5月に登場すると「君、まだいたの?」と少し驚くけれど、春の食卓で味わう意味もなかなか奥深い。
子どもの成長を祝う日に、親から子へ続いていく命を象徴する食べ物を味わう。そこへニシンを「二親」と重ねる語呂合わせまで加わると、5月5日は子どもだけを眺める日ではなく、育ててきた親、さらにその親へと視線を広げる日に見えてくる。家族の歴史は壮大な年表になっているわけではない。朝ご飯を作ったこと、熱を出した夜に眠れなかったこと、学校へ送り出したこと。そんな日常茶飯の積み重ねが、いつの間にか命のバトンを支えている。
子どもの成長を祝う日は、自分が誰かに育ててもらったことを思い出す日にも出来ます。 家族団欒の食卓で、かずの子をプチッと噛みながら「そういえば子どもの頃はどうだった?」と話してみる。それだけでも昔話が1つ転がり出し、無病息災を願う春の日が少し豊かになるはずだ。かずの子の小さな粒から始まって、親子、祖父母、そして未来へ。5月5日は、意外に長い家族の物語を味わえる日なのである。
[広告]第1章…かずの子の日は「子ども」から「二親」へ目を向ける日
5月5日の主役と聞けば、やはり子どもを思い浮かべる。鯉のぼりを見上げ、柏餅を頬張り、五月人形の前で写真を撮る。家族にとっては「こんなに大きくなったんだな」と成長を喜ぶ日だろう。その一方で、かずの子の日という見方を重ねると、視線が少しだけ後ろへ向く。かずの子は多くの卵を抱えることから、子孫繁栄や命の繋がりを感じさせる食べ物。そしてニシンを「二親」と重ねる言葉遊びには、父と母という存在まで思い出させる面白さがある。
子どもが小さい頃、親は実に忙しい。転びそうなら手を伸ばし、熱が出れば夜中でも体温計を握り、遠足の朝には「お弁当できた!」と達成感を味わった直後に水筒を忘れて玄関へ逆走する。愛情という言葉にすると立派だが、実際の子育ては喜怒哀楽を全部詰め込んだ生活そのものだ。そんな毎日が積み重なるうちに、子どもにとって親は空気のような存在になっていく。それは悪いことではない。安心して育ったからこそ、「いて当たり前」と感じられるのだから。
けれど年月が流れると、ある日ふと景色が変わる。昔はサッサと先を歩いていた父が少しゆっくりになり、何でも手早く片づけていた母が「ちょっと休もうかな」と腰を下ろす。そこで初めて、自分を見守ってきた人にも同じように時間が流れていたことに気づく。子どもの成長を喜ぶことと、育ててくれた人へ目を向けることは、同じ家族の時間の表と裏なのだ。
だから5月5日は、子どもに「ありがとうと言いなさい」と教える日でなくても良い。親自身が自分の親へ電話をしてみたり、「子どもの頃、私ってどんな子だった?」と聞いてみたりするだけで良い。話し始めれば、「あんたは寝なかった」「ご飯を全然食べなかった」「迷子になって大騒ぎした」と、忘れていた昔話が次々に出てくるかもしれない。親子三代が笑えれば、それもまた和気藹々。かずの子のプチプチより話が弾んだら、5月5日の食卓としては上出来である。
第2章…親から子へ渡るものは顔や名前だけじゃない
親子で並んだ写真を見ると、「目元がお母さんそっくり」「笑った口が父親と同じ」と言われることがある。本人は「いや、そこまで似てない」と抵抗していても、親戚のおばちゃんによる判定は妙に自信満々だったりする。けれど、親から子へ受け継がれるものは顔立ちや名字だけではない。箸の持ち方、玄関で靴を揃える癖、味噌汁の味、誰かが困っていたら自然に手を出す姿まで、有形無形の小さなものが暮らしの中を静かに渡っていく。
子どもの頃は、それが「受け継いだもの」だとは気づきにくい。春になれば家族で出掛ける、誕生日には決まった料理を作る、誰かが帰宅すれば「おかえり」と顔を向ける。そんな日常はあまりに普通で、特別な教科書も説明書もない。それでも大人になり、自分が家庭を持った時、気づけば親と同じ料理を作っていたり、自分の子どもに昔聞いた言葉をそのまま掛けていたりする。「あれ? 今の言い方、お母さんと同じだ」と自分で気づいた時は少々複雑だが、家族の記憶とはなかなか逃げ足が速くない。
かずの子のひと粒ひと粒が次の命へ続く可能性を抱えているように、親から子へ渡るものも、大きな財産ばかりではない。 受け継がれるものの多くは、教えられた記憶より、毎日の暮らしの中で見て覚えたものなのだ。「ありがとうを言う」「食べ物を粗末にしない」「家族が帰ってきたら少し安心する」。そんな何気ない作法や気持ちまで、以心伝心のように次の世代へ残っていく。
もちろん、親とまったく同じ生き方をする必要はない。受け取ったものの中から大切にしたい部分を残し、自分なりの工夫を足せばいい。昔ながらの煮物にチーズを足して家族会議が一瞬止まることだってあるだろう。それも新しい家の味になるかもしれない。命のバトンとは、同じものをそのまま運ぶ競技ではなく、受け取ったものへ自分の色を少し加えながら次へ渡していく営みなのだ。そう考えると、家族の歴史は古いアルバムの中だけではなく、今日の食卓や何気ないひと言の中でも続いている。
[広告]第3章…プチプチの小さな粒に詰まったかずの子の縁起と食卓の楽しみ
かずの子と聞くと、おせち料理の重箱を思い浮かべる人は多いだろう。黒豆、田作り、伊達巻の隣に収まり、「正月担当です」という顔をしている。ところが5月5日の食卓へ連れてくると、これが意外に新鮮だ。たくさんの卵が集まった姿には子孫繁栄の願いが重なり、子どもの成長を祝う日とも相性がいい。プチプチという独特の歯触りまで含めて、目でも耳でも口でも楽しめる縁起物なのである。
食べ方も、畏まる必要はない。醤油や味醂を使った味付けなら、かずの子らしい歯応えを素直に楽しめるし、昆布やスルメと合わせた松前漬けにすれば旨味が重なってご飯が進む。わさび漬けにすると、まろやかな味の後からツンと刺激が追い掛けてきて、「おお、来た来た!」と鼻の奥で存在を主張してくる。子どもと一緒なら辛味を無理に使わず、食べやすい味から楽しめば良い。食卓は修行場ではないので、眉間にシワを寄せてまで縁起を担ぐ必要はない。
そして面白いのは、かずの子が「たくさん食べればありがたい」という食材ではないことだろう。ほんの数切れでも、ひと口ごとにプチプチとした感触が残る。その小さな粒の集まりを眺めながら、「こんな小さな卵が集まっているんだね」と親子で話せば、それだけで食卓に1つ話題が生まれる。縁起物の美味しさは、味だけではなく、そこから家族の会話が始まるところにもあります。
5月は冬の重たい空気がほどけ、初夏へ向かって暮らしが動き始める頃でもある。季節の変わり目に、正月だけのものと思っていた食材を少し違う角度から味わってみるのも一興だろう。「かずの子って5月にも食べるんだ」と誰かが言えば、そこから由来の話が始まり、昔のおせちの思い出まで飛び出すかもしれない。家族が和気藹々と箸を伸ばし、一皿の中から季節と縁起と昔話が広がっていく。そんな食卓なら、かずの子も重箱の中で正月を待っているより、少し誇らしげに見える気がする。
第4章…いつか立場が入れ替わる日まで、親子で残したい時間
子どもの頃、横断歩道では親に手を引かれ、熱を出せば額に手を当ててもらい、重たい荷物があれば「持つよ」と先に取ってもらった。そんな親子も、ずっと同じ立ち位置ではいられない。やがて歩く速さが逆転し、病院へ付き添う側が変わり、高い棚の物を取る役目まで交代する日が来る。親が子を見守ってきたように、いつか子が親を気に掛ける側へ回る。その変化も、命のバトンが続いている姿の1つなのだろう。
ただし、「今度は私が全部してあげる」と急に張り切ると、親の方が戸惑ってしまうこともある。昨日まで自分で買い物へ行っていた人に、「危ないから座っていて」と何でも取り上げれば、心配する側は安心しても、支えられる側は少々面白くない。親子の役割が変わり始めても、親は親であり、1人の生活者でもある。相手の出来ることまで奪わず、困ったところへそっと手を添える。その距離感には臨機応変が似合う。
「親の心子知らず」ということわざがあるけれど、大人になってからようやく見える親心もある。自分が子を送り出す立場になって、「帰りが遅いと、こんなに気になるのか」と知ることもあるだろう。反対に、年を重ねた親から「そんなに毎日電話しなくても大丈夫」と言われ、自分の心配性にも気づかされる。親子とは不思議なもので、どちらかが完全に守る側になるのではなく、年齢を重ねても互いに気遣いながら暮らしていく。その往復があるからこそ、家族の関係は一方通行にならない。
だから、将来のことばかり心配して今日を重たくする必要もない。元気なうちに一緒にご飯を食べる、昔住んでいた町の話を聞く、写真を見ながら「この時のお父さん若いなあ」と笑う。それだけでも十分な一期一会になる。記念写真のような大きな思い出より、「あの日、かずの子を食べながら妙な昔話で笑ったな」という何気ない場面の方が、後になって鮮明に甦ることもある。
親を大切にするとは、未来のために何か特別なことを始めるだけでなく、元気な今日を一緒に楽しむことでもあります。いつか手を差し伸べる日が来るとしても、それまでは親子で笑い、食べ、話し、時には意見がぶつかっても良い。「もう、それ何回聞いたよ」と言いながら、結局また最後まで聞いてしまう。そんな日常が続いているうちは、命のバトンもなかなか賑やかである。
[広告]まとめ…いつか立場が入れ替わる日まで、親子で残したい時間
5月5日と聞けば、空を泳ぐ鯉のぼりや、子どもの笑い声が似合う。そこへ「かずの子の日」という小さな入口を加えてみると、景色はもう少し広くなる。子どもの成長を喜ぶだけでなく、自分を育ててくれた親、その親を育てた祖父母へと、家族の時間を遡って考えられるからだ。かずの子が子孫繁栄や命の繋がりを感じさせる食べ物であることも、そんな5月5日にどこかしっくりくる。
命のバトンと聞くと少し壮大だけれど、実際に受け継がれていくものはもっと生活臭たっぷりである。家の味、朝の挨拶、季節の行事、叱られた時の言葉、家族みんなが知っている妙な昔話。「その話、もう何回目?」と笑いながら聞いていた話まで、いつの間にか自分が次の世代へ語っていたりする。家族の伝統とは、立派な巻物に記されるものばかりではないらしい。
そして親子の時間には、いつか少しずつ役割が変わる時が来る。それを先回りして寂しがるより、元気な今日を一緒に味わっておきたい。食卓を囲み、「昔はどうだった?」と尋ね、思い出話に花が咲けば、それだけで十分に笑門来福のひと時になる。未来へ残るのは豪華な行事より、そんな何気ない団欒なのかもしれない。
命のバトンは遠い未来へ渡すものではなく、今日誰かと笑った瞬間にも、ちゃんと次へ進んでいます。5月5日には子どもの成長を祝いながら、親にも少し目を向けてみる。そして食卓にかずの子があれば、プチプチとひと口。そこから家族の昔話が始まったなら、この日の祝い方としては十分である。
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