椅子がつらい離床はリハビリじゃない~特養と在宅で考える座る時間とお金の話~

[ 介護現場の流儀 ]

はじめに…椅子が痛いだけの離床が増えていないかを見つめ直す序章

介護の世界では、「ベッドに寝たままよりも、出来るだけ離床して座位や立位を取ることが大事です」と何度も聞かされます。座る、立つ、その姿勢を少しずつ長く保てるようにしていくことが、心臓の働きを高め、足先から頭のてっぺんまで血流を巡らせるれっきとした訓練になることも、理屈としてはよく知られています。

けれど現場をよく見ると、その「理想」がいつの間にか姿を変えていることがあります。ベッドから起こされて、取り敢えず車椅子や椅子に座らされる。そこからが本当はスタートのはずなのに、人手が足りないから、仕事に追われているからという理由で、寝かせてと訴えがあっても「ちょっと待ってね」と先送りされ、結果として長時間の座りっ放しになる。そんな光景は、特養でも在宅でも、決して珍しいものではありません。

しかも、その時、本人が座っているのは、決して「座り心地のいい相棒」ではなく、座面が固く、高さも合っていない、云わば「取り敢えず用のイス」であることが少なくありません。お尻を前にずらして、ずり落ちるような姿勢になり、腰を痛め、首が前に落ち、呼吸もしんどくなり、やっとの思いで「もう寝かせて」と訴える。そうしてようやくベッドに戻るまでの時間が、いつの間にか「頑張った離床時間」としてカウントされてしまう。これは果たして本当に、体にとって良い訓練と言えるのでしょうか。

一方で、世の中の椅子はものすごい勢いで進化しています。長時間座る人のために作られた事務用イスやゲーミングチェアは、背中や腰を支える構造や肘掛けの形、座面の角度まで細かく調整できるようになり、最先端の車椅子は座位から立位への変換、ストレッチャー形態への変形までこなせる時代になりました。その横で、介護施設の食堂には、昔ながらのシンプルな木製椅子が並び、座面の高さは数パターンだけ、クッション性も乏しいままという風景が、今も普通に広がっています。

さらに話を広げると、「何故そこにお金と知恵が回っていないのか」という疑問にもぶつかります。施設には、介護保険からの給付、利用者さんの一部負担金、食費や居住費、助成金や補助金など、複数の収入源があります。それでも現場の職員は最低人員ぎりぎりで働き、椅子や車椅子、姿勢保持用のクッションといった道具には、なかなか十分な投資がされないまま。福祉用具のレンタル制度も、在宅には用意されているのに、施設には正面からは届いていないのが現状です。

この状況は、行政だけ、現場だけを責めても解決しません。本来であれば、行政が仕組みとしてそこまで見抜き、点数や制度を通じて「椅子や福祉用具にきちんとお金を回すルート」を作るべきところかもしれません。それが難しいなら、外部の専門職や用具業者を積極的に巻き込み、入所時から高さ合わせやセッティングを標準にしてしまうという道もあるはずです。

本記事では、こうした現場の実感と疑問を出発点にして、①うまく座位が作れないと身体に何が起きるのか、②「ちょっと待ってね」が積み重なるグレーゾーンの現実、③最先端の椅子や車椅子とのギャップ、④制度とお金の流れを少し変えることで出来ること、という流れで、椅子と離床をめぐる世界を改めて見つめ直してみます。

椅子はただの家具ではなく、人の一日を支える「もう1つの足腰」です。椅子が変われば、離床の意味も変わり、介護の世界の当たり前も少しずつ変わっていくかもしれません。そんな願いも込めて、まずは「椅子が痛いだけの離床」がどこで生まれているのか、一緒に辿ってみましょう。

[広告]

第1章…お尻ずり落ちが教えてくれる座位作りに失敗した時の身体の崩れ方

ベッドから離床して椅子に座る。紙の上では、とても良い流れに見えます。臥位から座位へ、そして座位から立位へと移っていく過程は、心臓の働きを高め、足先から頭まで血液を巡らせる大事な訓練です。だからこそ、リハビリの場でも介護の場でも、「出来るだけベッドから起きて、座って過ごしましょう」という方針が当たり前のように語られてきました。

ところが、その「座る」という一歩目が上手く作れないと、身体はアッという間に崩れていきます。椅子に深く腰かけて、背もたれに体を預け、足裏がしっかり床につき、骨盤が立った姿勢を保てる人ばかりではありません。むしろ、介護が必要な方ほど、途中からお尻が前へ前へとずれていき、背もたれから腰が離れ、「くの字」に折れ曲がったような姿勢になってしまいがちです。

お尻が前へ出てしまうのは、本人の「だらしなさ」ではなく、椅子と座り方が今の体に合っていないというサインです。座面が高過ぎて足が床につかない、座面が固くてお尻が痛い、背もたれの角度がきつ過ぎて押し出されるような感覚になる。そんな状態で長く座り続ければ、誰だって無意識に「少しでも楽な姿勢」を探して、お尻を前にずらし、腰を丸め、背中を滑らせていきます。

その結果どうなるか。腰は常に中途半端な位置で体を支えさせられ、痛みや怠さが増えます。背中は丸まり、首は前に落ち、顎が胸に近づくことで、呼吸が浅くなり、息苦しさを感じやすくなります。食事中であれば、飲み込みづらくなり、咽せや誤嚥のリスクが一気に高まります。見た目にはただ「ちょっと姿勢が悪い」程度に見えても、体の中ではかなり苦しい状態が続いているのです。

さらに時間が経てば、ずり落ちた位置から今度は本当に「落ちる」危険も出てきます。本人はしんどいから少しでも寄りかかりたい、休みたい、でも椅子はそれを受け止め切れていない。こうして、お尻から、横から、あるいは前のめりに床へずり落ち、尻もちをついたり、頭や腰をぶつけたりする場面が出てきます。骨折や大きな怪我に至った事例は書類として行政に報告されますが、「痛がったけど今日のところは大丈夫そう」と現場で処理されている転落やずり落ちは、その何倍もの数があるはずです。

もし、椅子からの転落やずり落ちを一件一件全て数え上げて、市町村ごとに集計したとしたらどうなるでしょう。転倒・骨折の統計だけでは見えてこない、もう1つの「椅子由来の危険度ランク」が浮かび上がるかもしれません。本当は、そうした数字を基にして、「椅子の種類」「座面の高さ」「姿勢保持の工夫」「個別調整の有無」を設備面から指導すべき施設が見えてくるはずです。実地指導でグルッとフロアを見て回るだけでも、「ここは明らかに座りにくそうだ」と感じる椅子は、専門職の目にはすぐに分かります。

しかし現実には、行政が集めているのは主に骨折や死亡など、一定以上の重さを持つ事故情報だけです。椅子からずり落ちて、今日は大事に至らなかったけれど、実は毎日のように繰り返されている「小さな崩れ」は、統計の外側に取りこぼされています。その結果、「椅子の作り」と「座位作りの失敗」が、1人の体にどれだけ負担を掛けているかが、仕組みの目からは見え難いままになってしまっているのです。

お尻を前に出して、ずり落ちるようにしか座れない人は、「だらしない」「姿勢が悪い」からそうしているのではありません。体の状態とイスの条件が合っていない中で、「今の自分にとって一番マシな姿勢」を、必死に探した結果としてそうなっているだけです。そして、その姿勢が続けば続くほど、腰も背中も首も疲れ果て、「もう寝かせて欲しい」と感じるのは、むしろ自然な反応だと言えるでしょう。

本来なら、座位は体を鍛え、日常生活を広げるための土台です。しかし、椅子と座り方が合っていないまま長時間座らされる時、それは訓練ではなく「我慢大会」に変わってしまいます。まずは、お尻ずり落ちという、いかにもありがちな姿勢の崩れから、「今の座位作りは本当に上手くいっているのか」「本人の体にとってどう感じられているのか」を見直してみることが、次の一歩に繋がるのかもしれません。


第2章…「ちょっと待ってね」の連続が生む~椅子の上で進むグレーな扱いと心の負担~

お尻がずり落ちてきて、腰も背中もしんどくなってきた時、多くの人は最初のうちは素直に訴えてくれます。「そろそろ横になりたいです」「ベッドに戻りたいです」「もう限界かも」。ところが、その声に対して現場から返ってくる言葉が、「はい、ちょっと待ってね」「今、他の人も対応しているからね」といったものばかりになってしまうと、状況は少しずつ別の色を帯びていきます。

もちろん、「ちょっと待ってね」自体が悪いわけではありません。人手が限られている中で、複数の方を同時に支えている職員にとって、その言葉は正直な精一杯の返事でもあります。すぐにベッドへ戻すことが難しい場面だってたくさんありますし、もう少し座っていてほしいという専門的な判断が含まれることもあります。本来なら、その場その場での小さな調整として受け止められるはずの言葉です。

けれど、この「ちょっと待ってね」が一回二回ではなく、毎日のように、何度も何度も重なっていくとどうなるでしょうか。本人の側から見れば、「苦しい」「つらい」「横になりたい」という感覚が、そのたびに先送りされていくことになります。しばらく我慢しているうちに、痛みや疲労はじわじわと積み重なり、やがて「どうせすぐには戻してもらえない」という諦めに変わっていきます。

ここで厄介なのは、そうした状況が、書類の上では「適切な離床時間」「日中を椅子で過ごせた」という成果として記録されてしまいがちなことです。実際には、本人は何度も助けを求めていたのに、その声が忙しさの中で薄められ、カウントされるのは「どれだけ長く座らせていたか」という時間の数字ばかり。外から見れば立派なリハビリに見えるその時間が、本人にとっては、ただただしんどさに耐え続けた記憶として残ってしまうことがあります。

さらに言えば、「つらい」「戻りたい」と声に出してくれる方は、まだ恵まれているとも言えます。言葉で訴える力が残っている人、遠慮を少し脇に置いて職員に頼れる人、家族が傍で代弁してくれる人。そうした支えのある方たちの陰で、声をあげることさえ難しい人が少なからずいます。体力が落ちていて、訴えるだけで疲れてしまう方。迷惑を掛けまいとして、グッと我慢してしまう方。認知症の進行などで、「しんどい」という感覚を言葉に替え難くなっている方。こうした人たちは、心身の限界に近づいていても、黙って椅子の上で時間を過ごし続けてしまいます。

この状態を、法律上の意味での虐待と断定するのは簡単ではありません。職員も悪意でやっているわけではなく、むしろ「頑張って離床してもらおう」「座る時間を増やして元気になって欲しい」という思いを持っていることがほとんどでしょう。それでも結果として、本人の立場から見れば、「しんどいと訴えても、なかなか動いてもらえない」「痛いのに、座らされ続ける」という時間が日常化していく時、それは限りなくグレーに近い扱いであると言わざるを得ません。

「ちょっと待ってね」という一言は、現場の忙しさや人数不足を映す鏡でもあります。同時に、その言葉を口にした回数だけ、誰かのしんどさを先送りにしているという現実もまた、そこに含まれています。本来なら、「もう少しだけ頑張ろう」という声掛けと、「本当に限界だから戻ろうね」という判断はセットでなければなりません。ところが、椅子自体が痛みやずり落ちを招きやすいものであればあるほど、その見極めは難しくなり、気づいた時には「座らせておけば安心」という感覚だけが残ってしまいがちです。

「椅子の上で過ごす時間」は、本来、生活の拠点であり、コミュニケーションの場であり、体を鍛えるための舞台です。しかし、座るための条件が整っていないまま、人手不足の中で「起こしたら起こしっ放し」という運用が続く時、その時間は少しずつ性質を変えていきます。椅子の上で進んでいるのは、本当にその人のためのリハビリなのか、それとも静かに体力と気力を削っていく我慢比べなのか。1日の中で、何度「ちょっと待ってね」と口にし、どれだけ「そろそろ戻ろうか」と声を掛けられているのかを振り返ることが、グレーゾーンに足を踏み入れないための、最初の確認作業になるのかもしれません。


第3章…最先端の椅子と遅れた施設椅子~環境に合わせられない椅子たちと静かな搾取~

少し視線を外の世界に向けてみると、椅子という道具はとんでもない速さで進化しています。長時間パソコン作業をする人向けの事務用椅子は、人間工学という言葉とセットで語られ、背もたれのカーブ、腰を支えるランバーサポート、肘掛けの高さや角度、座面の前後スライドまで細かく調整できるものが当たり前になってきました。ゲーミングチェアに至っては、リクライニングしてそのまま少し眠れてしまうほどの作り込みで、「長く座っても壊れない体」を守るための工夫がぎっしりと詰め込まれています。

車椅子の世界でも同じような進化が起きています。一般的な自走式や介助式だけでなく、座位から立位へと変形してそのまま立位保持訓練に繋げられるモデル、ベッドとストレッチャーの中間のような形に変身できるモデルなど、「移動の道具」に留まらず「姿勢作りの道具」としての役割を果たそうとする試みが増えてきました。利用者さんの体格や筋力、麻痺の状態に応じて、背もたれや座面、フットサポートをモジュール式に組み合わせて調整できるタイプも少しずつ広がっています。

ところが、その最先端の世界と、特養や老健などの食堂に並ぶ椅子を比べてみると、まるで別の時代の道具ではないかと思うほどの差に気づかされます。食事やレクリエーションの場に置かれているのは、昔ながらの木製椅子、あるいはシンプルなパイプイスに近いものが多く、座面の高さは数パターンだけ、クッション性も控えめで、背もたれの角度や形状は「取り敢えず寄りかかれる」程度に留まっていることが少なくありません。1日の大半をそこで過ごす人の体に合わせるというより、「掃除しやすくて、壊れ難くて、たくさん並べやすい」ことの方が優先されているように見える場面もあります。

室内型の電動車椅子についても、課題はあります。重さがあり、ぶつかった時の衝撃も大きいため、他の利用者さんとの接触事故を考えて一律に持ち込み禁止とする施設もめずらしくありません。その判断には安全面からの理由も確かにありますが、同時に、本人の行動範囲を大きく制限することにも繋がっています。本来なら、「どのような条件やルールなら共存できるか」「どの時間帯や場所なら使いやすいか」といった環境調整の議論が必要なところで、「重いから危ない」という一言でまとめてしまうのは、もったいないと言わざるを得ません。

モジュールタイプの車椅子や椅子にしても、道具そのものは存在していても、施設側にそれを十分に使いこなす技量や時間がないがゆえに、宝の持ち腐れになっているケースがあります。本来なら、リハビリでしっかり座位をとる時の設定、食事をする時の設定、午後に少しウトウトする時の設定と、場面に応じてゲーミングチェアのように姿勢を切り替えられる可能性を持った用具が、日常の運用では「決められた形のまま固定された椅子」として扱われてしまうのです。環境に合わせて変化できるはずの道具が、環境に合わせてもらえないまま、ただそこに置かれている状態とも言えるでしょう。

その一方で、職員用の事務椅子や理事長室の椅子はどうでしょうか。もちろん、職員の健康も大切ですから、座り心地の良い椅子を使うこと自体が悪いわけではありません。長時間の事務作業や会議に耐えられる椅子が必要な場面もあります。しかし、利用者さんが固い座面と限られた高さの椅子で1日を過ごす横で、スタッフ用の椅子だけが最新のクッションやリクライニング機能を備えたモデルだったり、トップの執務室にだけフカフカの本革チェアが置かれていたりすると、「誰の体を一番に守ろうとしているのか」という問いはどうしても浮かんできます。

これを、声高に非難するだけの記事にしてしまうのは簡単です。ただ、現場の事情を考えれば、一脚数万円を超える椅子を利用者さんの人数分揃えるのは、現実的に厳しい場合も多いでしょう。共有で使う備品である以上、掃除や耐久性を優先せざるを得ない場面もありますし、限られた予算の中で、椅子以外にも優先度の高い設備が山ほどあるのも事実です。それでも、「一番弱っている体が、一番安い椅子に座らされている」という逆転現象には、どこかで一度立ち止まって向き合う必要があります。

本来あるべき姿を描くなら、利用者さんの椅子も、リハビリとリラクゼーションを切り替えられるゲーミングチェアのような発想で作られていて良いはずです。しっかり座位を保つ時には骨盤と背骨を支え、少し休みたい時には負担を軽くし、食事の時には前屈みになり過ぎない姿勢を助ける。そんな「環境に合わせて変身できる椅子」が、今の技術なら不可能とは言い切れないでしょう。それを現場で使いこなすためには、道具だけでなく、調整する専門職の目と手も必要になります。

静かに進んでいる搾取は、お金だけの話ではありません。最先端の技術や快適さが、元気な人や上の立場の人の方に先に降りてくる一方で、介護を必要とする人の椅子が「最低限座れる」レベルで止まってしまっている構図そのものが、見えにくい不公平を生み出しています。椅子という身近な道具を通して、そのギャップに気づくことが出来れば、「どこに技術と資源を回すべきか」という問いを、もう少し違う角度から投げかけられるかもしれません。


第4章…一人一脚フィッティングという発想~施設向け福祉用具レンタルと専門職導入の未来~

ここまで見てきたように、「取り敢えず起こして椅子に座らせる」だけでは、体は簡単に崩れていきます。本来めざしたいのは、誰かが適当に用意した椅子に「合わせてもらう」暮らしではなく、その人の体に椅子を「合わせにいく」暮らしです。いわば、一人一人に専用の一脚を用意するつもりで考える「一人一脚フィッティング」という発想が、出発点になります。

一人一脚と言っても、特別な高級品を人数分買い揃えるという意味ではありません。重要なのは、体の状態を見て、「今のこの人にとって、どの高さがいいか」「どのクッションの硬さならお尻がもつか」「足裏がしっかり床につく位置はどこか」を、専門的な目で見てもらうことです。膝の角度が直角に近づくように座面の高さを決め、骨盤が立ちやすいように座面の奥行きを考え、必要なら背もたれや肘掛けの位置を微調整する。そんな地道な作業を通して初めて、その人にとっての「まともに座れる一脚」が姿を現します。

この時、本当に頼りになるのは、理論だけを知っている人ではなく、現場で体を見慣れている専門職です。理学療法士や作業療法士、福祉用具専門相談員といった人たちが、入所時から関わってくれれば、ベッドや車椅子だけでなく、食堂の椅子や居室で使う椅子まで含めて、初期設定をきちんと整えることが出来ます。いきなり完璧を目指す必要はありませんが、「何も考えずに座らせる」のと、「せめて最初の基準は合わせておく」のとでは、その後の暮らしの楽さがまるで違ってきます。

問題は、こうしたフィッティングの手間やコストが、今の仕組みの中では施設側の持ち出しになりやすい点です。在宅では福祉用具のレンタル制度が整っていて、専門職と業者が一緒に家へ訪問し、ベッドや手すり、車椅子などを選び、高さや位置を調整することが当たり前になりつつあります。ところが、施設に入った瞬間、その流れは一度途切れ、「施設が持っている備品の中から、取り敢えず合いそうなものを宛がう」方式に逆戻りしてしまうことが少なくありません。

もし、ここに一歩踏み込んだ仕組みを加えることが出来たらどうでしょうか。例えば、介護サービスの報酬の中で、ある割合を「施設向け福祉用具レンタル枠」として位置付ける方法があります。利用者一人一人について、椅子や車椅子、姿勢保持用のクッションなどをレンタルで導入して良い範囲を予め決めておけば、その中で専門職と用具業者が相談しながら最適な組み合わせを提案し、入所時に一緒に来訪して高さ合わせやセッティングを行う、という流れが作れます。

別のやり方として、施設向けに新たな「福祉用具管理」の加算を設定することも考えられます。その点数を算定する代わりに、施設は用具業者と正式な契約を結び、定期的な訪問による見直しや、状態変化に応じた用具の交換を行う義務を負う、という形です。体重が減ってお尻の肉付きが変わった時、麻痺が進んで座位保持が難しくなってきた時、立位訓練が進んで椅子からの立ち上がりが増えてきた時。そうした節目で、専門家が再び施設を訪れ、「今のこの人には、この一脚を、こう調整して使いましょう」と提案できるようになれば、座る時間はグッと安全で意味のあるものに変わっていきます。

行政がそこまで細かいところを見抜くのは難しいかもしれません。それなら、最初から外部の専門職と用具業者を制度の中に組み込んでしまえば良い、というのが1つの答えです。どの施設でも、入所のタイミングで「福祉用具の初期フィッティング」が当たり前に組み込まれていれば、椅子からのずり落ちや不自然な姿勢は、早い段階で減らしていくことが出来ます。現場の職員任せにせず、「見る目を持った人」を一緒に入れてしまうことで、負担の一部を外に逃がすことも出来るのです。

もちろん、こうした仕組みを導入すれば、経営側からの反発もあるでしょう。今まで備品としてまとめて買っていた椅子の領域に、専門職や業者が入り込んでくることへの抵抗もあるかもしれません。それでも、利用者さんの体のことを思えば、本来は最初に守られるべきは「一番弱っている人の座る場所」です。景気の良い椅子が並ぶのは理事長室や事務室だけではなく、食堂や居室こそであって欲しい。そのために制度とお金の流れを少し組み替え、専門職を正面から招き入れることは、決して無茶な要求ではないはずです。

一人一脚フィッティングという考え方は、夢物語ではありません。「この人に、この一脚を、こう調整して使ってもらう」という視点を持つだけでも、現場の見え方は変わります。用具業者やリハビリ職と手を組み、施設向けのレンタルや管理の仕組みを整えていくことが出来れば、椅子はようやく、「取り敢えず座らせるための家具」から、「その人の一日を支える相棒」へと、少しずつ姿を変えていくのではないでしょうか。

[広告]


まとめ…椅子から見えてくる見えない虐待と仕組みごと変えていくための小さな提案

ここまで、椅子と離床を巡る話を、いくつかの角度から見てきました。ベッドから起きて座ること、座位から立位へと繋いでいくこと自体は、本来とても大切な取り組みです。心臓の働きを高め、足先から頭まで血流を巡らせることは、どんな人にとっても生きていく力を支える土台になります。それでも、上手く座位が作れないまま「取り敢えず座らせておく」状態が続く時、その時間は訓練ではなく、静かな我慢の時間に変わってしまいます。

お尻を前にずらしてずり落ちていく姿勢は、だらしなさの証拠ではありません。椅子と体が合っていない中で、「今の自分にとって、一番マシな姿勢」を必死に探した結果です。座面が高過ぎて足が床につかない、固くてお尻が痛い、背もたれが押し出すような角度になっている。そうした条件が重なると、腰や背中、首はアッという間につらくなり、「もう寝かせて欲しい」と願うのは自然な流れです。それでも現場では、「起こしておいた時間」の方が評価され、椅子からのずり落ちや小さな転落は、数字にも記録にも残りにくいままです。

そこに重なってくるのが、「ちょっと待ってね」という一言の重さでした。忙しい中での精一杯の返事であり、誰かを責めるための言葉ではありません。それでも、その言葉が1日の中で何度も何度も積み重なっていく時、「しんどい」「戻りたい」という声は、少しずつ優先度を下げられ、本人の中には諦めが育っていきます。声を出せる人はまだ良く、声を出せない人ほど、椅子の上での長い時間を黙って耐えることになります。その姿は、法律上の虐待とは呼ばれなくても、かすかに境界線を踏み越えたグレーな状態と感じられても不思議ではありません。

外の世界に目を向ければ、事務用椅子やゲーミングチェア、モジュール型の車椅子など、座る道具はどんどん進化しています。ところが、特養や老健の食堂に並ぶ椅子は、いまも「取り敢えず座れる」レベルで止まっているところが多く、一番弱っている体が、一番素朴な椅子に長時間座らされているという逆転が起きています。その横で、職員の事務椅子や理事長室の椅子だけが立派に整っている風景を見ると、「技術と快適さは、誰の方へ先に降りていっているのか」という問いを投げ掛けたくなります。

だからこそ、必要になるのが「一人一脚フィッティング」という発想でした。その人の身長や体重、筋力、麻痺の有無に応じて、座面の高さや奥行き、背もたれや肘掛け、クッションの硬さを調整する。リハビリ職や福祉用具専門相談員、用具業者といった専門職が、入所時から関わって高さ合わせを行い、状態が変わるたびに再調整していく。こうした仕組みが当たり前になれば、「取り敢えずこの椅子に座ってください」という世界から、「あなたの体に合わせて、この一脚を一緒に作っていきましょう」という世界へと、少しずつ方向を変えることが出来ます。

そのためには、現場だけに頑張りを求めるのでは足りません。在宅で当たり前になっている福祉用具のレンタルやフィッティングの仕組みを、施設にも届くように制度を整え、保険で支払われる点数の中に、施設向けの福祉用具レンタルや管理の枠を設ける工夫が必要になります。行政が細部まで見抜くことが難しいなら、最初から外部の専門職を制度の中に組み込み、「椅子や車椅子を含めた環境作り」もサービスの一部と位置付けてしまう方が、むしろ近道かもしれません。

椅子は、ただの家具ではありません。そこに座る人の時間を、どんな質のものにするかを決める、静かな舞台装置です。お尻ずり落ちや「ちょっと待ってね」の連鎖、最先端の椅子とのギャップ、一人一脚フィッティングという発想、そして施設向け福祉用具レンタルという提案。これらは全て、「弱ってきた体の側に、どれだけ本気で寄り添えるか」という問いに繋がっています。

今日から出来ることは、大きな制度改革ばかりではありません。目の前の一脚を見直し、「この高さで本当に足は床についているか」「この椅子に、どれだけ長く座らせて大丈夫か」「しんどそうな表情をしていないか」と、ほんの少し立ち止まって眺めてみること。それだけでも、椅子から始まる見えない虐待に気づく切っ掛けになります。椅子が変われば、離床の意味も変わります。そして離床の意味が変われば、介護の風景も、ゆっくりではあっても、確かに変わっていくはずです。

今日も閲覧ありがとうございましたm(__)m


[ 応援リンク ]


人気ブログランキングでフォロー

福彩心 - にほんブログ村

[ ゲーム ]

作者のitch.io(作品一覧)


[ 広告 ]
  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。